源氏物語3…葵巻 ・ 賢木巻 ・ 花散里 ・ 須磨巻 ・ 明石巻

 <葵巻>

第9回 葵巻・物の怪御息所、葵上を殺す

★葵巻の内容
 1 政権交代。桐壷帝の退位。冷泉帝の即位。光源氏と藤壷の皇子東宮就任
 2 桐壷院の悠々自適。藤壷。東宮後見を光源氏に託す
 3 六条御息所腹の前坊の姫君。伊勢斎宮となる。御息所、伊勢行きを決断
 4 朝顔姫君の人生選択
 5 葵上、懐妊
 6 弘徽殿大后腹の女三宮、賀茂斎院ト定
 7 新斎院、御禊の日。特別の宣旨で行列に大将光源氏参加。圧倒的な人気となる。(朱雀帝が勅命)
 8 葵上(車20台)、見物に出る。六条御息所(車2台)と所争いとなる。葵上一行の乱暴。御息所、榻(とう)を折られ奥に押し退けられる。屈辱の歌
 9 光源氏の随身は異例。殿上人の右近蔵人将監がつとめる
10 観衆のどよめき。喜悦の様子
11 朝顔、桟敷から父式部卿とともに見る。
12 車争いの事情を知らされた光源氏の思い
13 祭当日。葵上と見物に出る。髪削ぎ。千尋の祈り(葵上は歌を詠まない)
14 所を譲る源内侍。和歌の贈答
15 六条御息所の悩み
16 葵上に執念の物の怪がつく
17 御息所、他所へ養生。光源氏見舞う。朝の別れ。夕べの文。恋路の贈答
18 葵上の物の怪。六条御息所の生霊。父大臣の死霊の噂
19 御息所、自らの生霊確認。夢を見る
20 秋、斎宮、宮中便所に。九月に野々宮へ移行の予定。御息所病臥。光源氏の見舞い
21 葵上の物の怪出現。光源氏に語り歌を詠む。光源氏、物の怪の正体が御息所であると知る
22 葵上、男子出産
23 御息所、心の底の無念
24 葵上方の喜び
25 光源氏、宮中へ。葵上、最期のまなざし
26 秋の司召し。留守中、葵上、物の怪のために蘇生を期するも空しく、急死。鳥野辺で火葬。八月二十余日の有明の頃
27 左大臣邸に帰った光源氏の悲しみ。道心を抱く。大宮の悲嘆
28 御息所より弔問の歌が届く。光源氏の返歌
29 御息所、光源氏の心底を知り、半生を思うことしきり。光源氏の未練心も消えず
30 光源氏、四十九日間左大臣邸に籠もって服喪。頭中将との語らい。源内侍の事、末摘花の件
31 衣更え。楚王の夢に葵上を偲ぶ光源氏と頭中将
32 大宮となでしこの贈答
33 朝顔と時雨の贈答
34 中納言の君との名残。あてきのことなど
35 光源氏、左大臣邸退去
36 大宮への挨拶
37 左大臣、光源氏に桐壷院への伝言を託す
38 女房三十人の見送り
39 光源氏去りし後の左大臣、大宮の悲しみ。女房たちの思い
40 桐壺院ヘ挨拶。院、食事を振る舞う
41 藤壷中宮へ挨拶。王命婦応対
42 光源氏、二条院に帰る。二条院の華やかさ。光源氏衣更
43 紫との対面。藤壷に似てきたことを喜ぶ
44 中将の君に足をもませ、自室で大殿籠もる
45 翌朝、若君に消息。返事が届く
46 光源氏、紫、新枕
47 紫の不機嫌。光源氏の慰め
48 亥の子餅、参る。惟光を呼び、明日にせよと命じる。惟光、事態を了解し、里で自ら作る
49 紫の近まさり
50 三日夜。惟光、餅を香壷の箱にいれて献上。翌朝これを知った小納言の感激
51 葵上の悲しみにかこつけて、光源氏紫に没頭
52 朧月夜をめぐる思惑。右大臣の思い。光源氏の決意
53 紫の機嫌直らず。光源氏、裳着にかこつけ父兵部卿に告げることを思う
54 新年。光源氏参賀。桐壺院、内裏、東宮をまわり、左大臣邸へ行く
55 東宮に似た若君・夕霧の様子
56 光源氏、大宮と贈答

★流れの中で理解すると
物語の主人公・葵上の確率のために。巨大な障害物の除去。葵上、六条御息所、朝顔。光源氏に相応しい女たちを駆遂する。藤壷も朧月夜もこの流れのなかの人。

★嵯峨王朝。大陸文化全盛時代。禅譲の思想が体現されていた。
系図を揚げてみよう。ゴシック体は天皇。カッコは、即位しなかった東宮。高丘、恒貞は廃退士。保明は病死。

桓武ー平城ー高丘(廃退士)
         阿呆ー在原業平
    嵯峨仁明文徳清和ー陽成
        光孝宇多醍醐ー保明
                     朱雀
                     村上
    淳和ー恒貞(廃退士)
    良峯安世ー宗貞(僧正遍昭)

★六条御息所の人生
この巻で得られる六条御息所の情報。前坊(前の皇太子)の妻。前坊は桐壺帝と仲のよい兄弟。新斎宮の母。父は大臣。すでに故人。現在は光源氏の愛人である。が不調。光源氏は彼女の愛執をもてあまし気味である。彼女はまた当代随一の風雅の人で、彼女の周辺は常に文化の香りが高い。彼女を、光源氏の母方の、政治的残存勢力なのだと考えると、源氏物語理解が深まると思うが如何。光源氏よ、貴方は何も分かっていない。貴方は葵を愛してはいけない。私を愛すべきなのだ。これは、夕顔を取り殺した物の怪の声と一致すると思わぬか。

★朝顔の選択
父は現役の式部卿。六条御息所の苦悩を見るにつけ、恋の泥沼に身をおかぬ人生を選択している。光源氏とは距離を保った親密関係を維持し、これは生涯変わることはない。

★葵上の人生
本来、朱雀帝の后となるべき女。これは彼女の出生時、両家の暗黙の約束事項であった。なのに、四年後に生れた光源氏の添臥となったのが間違いの始まり。左大臣、および大宮の盲目的光源氏贔屓が仇となった。子の心、親知らず。彼女の心の底には人生的後悔未練があって、光源氏との生活に全面的に没入できなかったのだと推測してよいかもしれない。しかし、近時、右大臣方の光源氏取り込め策に対して、彼女は動いたのではないか。妊娠もそうだし、身重の身で斎院の禊見物に出たのも、そだと考えると面白かろう。

★伊勢神宮、斎宮
伊勢神宮創設については、天武天皇東征との関連で考えるべきかもしれない。斎宮制度が確立したのは天武帝の時代からである。天皇に代わって皇祖天照大神に仕える最高の巫女が伊勢斎宮(斎王)。天皇即位毎に任命される。未婚の内親王が原則だが、適任者のない場合、親王の娘、女王から選ばれる。この巻の斎王はそれである。選ばれると、大内裏のなかの適所に設けられる初斎院で約一年間精進潔斎をする。ついで、宮城外の敵地に設けられる野々宮で約一年間精進潔斎の日々を過すことになる。なお、野々宮は、平安時代からは嵯峨野の現在の地に固定された。この巻においては、初斎院の期間が短縮され、野々宮に移行したあたりを念頭に、六条御息所親子を作者は描写している。さて、三年目の九月、斎宮は宮中に赴き、天皇に別れを告げて、伊勢に行く。随員数百人。これが有名な「郡行」である。詳細は次巻で。

★賀茂斎院、葵祭
賀茂祭は四月の酉の日に行われる。この日、賀茂社の御簾をはじめとし、家々や牛車、冠をも葵で飾ったところから俗に「葵祭」と呼ばれる。斎院(斎王)の資格および仕事は、伊勢斎宮とほぼ同じ。斎院の居所は紫野にあった。斎王が紫野の斎院を出、一条大路を経て賀茂下社へ。次いで賀茂上社へと行く。その行列の華美を尽くした壮麗さは比類ないものであった。平安時代、祭といえばこの午の日か酉の日に、斎王は賀茂川原に出、禊を行う。この行列も見もので、大勢の見物人で賑わった。この巻の車争いは、この日の出来事である。大殿(葵上)には、御もののけいたう起こりて、いみじうわづらひ給ふ。この御いきすだま、故父おとどの御霊など言ものありと聞き給ふにつけて、思しつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに人をあしかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなるたましひは、さもやあらむと思し知らるることもあり。年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、はかなきことのをりに、人の思ひ消ち、無きものにもてなすさまなりし御禊の後、一ふしに思し浮かれにし心静まりがたう思さるるけにや、すこしうちまどろみたまふ夢には、かの姫君と思しき人のいときよらにてある所に行きて、とかくひきまさぐり現にも似ず、猛くいかきひたぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと度重なりにけり。あな心憂や、げに身を棄ててや往にけむと、うつし心ならずおぼえたまふをりをりもあれば、さならぬことだに、人の御ためには、よさまのことをしも言ひ出でぬ世なれば、ましてこれはいとよう言ひなしつべきたよりなりと思すに、いと名立たしう、「ひたすら世に亡くなりて後に恨み残すは世の常のことなり、それだに人の上にては、罪深うゆゆしきを、現のわが身ながらさる疎ましきことを言ひつけらるる、宿世のうきこと。すべてつれなき人にいかで心もかけきこえじ」と思し返せど、「思ふもものを」なり。

★葵上の死。楚王の夢
『文選』宋玉「高唐賦」
昔者楚襄王、与宋玉遊於雲之台。望高唐之観、其上独有雲気。卒兮直上、忽兮改容。須臾之間、変化無窮。王問玉曰、此何気也。玉対曰、所謂朝雲也。王曰、何謂朝雲。玉曰、昔者先王嘗遊高唐、怠而昼寝。夢見一婦人、曰、妾巫山之女也。為高唐之客。聞君遊高唐、願薦枕席。王因幸之。去而辞曰、妾在巫山の陽、高丘之阻。旦為朝雲、暮為行雨。朝朝暮暮、陽台之下。旦朝視是如言。故為立廟、号曰朝雲。
「雨となり雲とやなりにけん、いまは知らず」。頭中将の面前で光源氏は、葵上を、楚王が高唐で出逢った神女(天女)に譬えた。これは最大級の賛辞で、葵上ももって瞑すべき言葉である。頭中将の感激も推して知るべきである。彼が、二心ない友情を誓った瞬間であろう。しかしながら、父左大臣と彼の光源氏に対する思い、そして息子である柏木の行為は、三代かけて藤原氏の衰亡をまねくことになる。

★紫上新枕
葵上の喪が明けて、光源氏は紫上と結婚する。若紫から、およそ五年。ようやく光源氏の妻の座に作者は紫を置いたことになる。桐壺・帚木・空蝉・夕顔・若紫・末摘花・紅葉賀・花宴、そして葵。これら巻々に登場した様々な女性たちのそれぞれの挫折。彼女たちの見果てぬ夢と希望を載せた女の人生が、ここに始まるわけである。しかし、この結婚、親の兵部卿にも知らされず、しかも裳着より前という異常さ。極めて私的な結合である。この結婚は、紫のコンプレックスとなって後に尾を引きそうである。

 <賢木巻>

第10回 賢木巻・別れと屈辱、暗黒の日々

★賢木巻の内容
 1 六条御息所、伊勢下向を決意する。
 2 九月七日、源氏、野々宮へ。御息所との別れ。
 3 御息所と歌を読み交わし、一夜を共にする。
 4 暁の別れ。
 5 御息所の嘆き。
 6 九月十六日。斎宮、桂川で御祓い。
 7 光源氏、斎宮と贈答。
 8 御息所、斎宮に付き添い参内。御息所の履歴。
 9 御息所、斎宮とともに伊勢に下る。光源氏の歌。関のあなたよりの返歌。
10 十月。桐壺院危篤。帝の見舞い。帝への遺言。
11 東宮の見舞い。光源氏同道。
12 十二月二十日。四十九日。女御、御息所たちの退下。
13 藤壷、三条の宮へ。光源氏の参上、贈答。
14 新年。除目の頃、二条院の寂寥
15 二月。朧月夜、尚侍就任。弘徽殿に住む。なお、光源氏への思い止まず。弘徽殿大后の復讐心。
16 左大臣の失意。
17 源氏、左大臣邸を度々訪れる。
18 紫上の幸せ。
19 朝顔、賀茂斎院に就任。
20 朱雀帝、祖父、右大臣と母・大后に圧せられ、意のままにならず。
21 源氏、朧月夜と細殿で再びの密会。
22 帰るところ、承香殿女御の兄・藤少将に見つかる。
23 藤壷の思い。
24 藤壷へ近付く。藤壷の拒否。藤壷発病。光源氏、帰りそびれ塗籠に隠れる。暮方、藤壷回復。
25 源氏、再び迫る。藤壺の拒否。源氏、嘆きつつ帰る。
26 源氏悲嘆。自邸に籠もる。
27 藤壷、戚夫人を思う。
28 出家を決意した藤壷、東宮との会話。
29 源氏、雲林院に二三日籠もる。紫上と贈答する。
30 源氏、朝顔斎院とも贈答。
31 源氏、天台六十巻を読む。名残を惜しみつつ二条院へ帰る。
32 紫上と語り、藤壺に土産の紅葉を贈る。
33 九月二十日。源氏、藤壷の迎えに参内。帝と語る。朧月夜の一件を容認。斎宮の話、野々宮の別れを語る。東宮の話題など。
34 東宮への道中。大后の兄・藤大納言の子である頭の弁と出会う。弁、光源氏を風刺する。「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」
35 藤壷、光源氏、懐旧の贈答。宮中から自邸へ。
36 初時雨の頃。朧月夜より文が届く。光源氏、紙を選んで返事。
37 十一月上旬。桐壺院の一周忌。藤壷との贈答。
38 十二月十余日。藤壷、法華八講を行う。第一日は先代のため、第二日は母后のため、第三日は桐壺院のため。第三日は自分自身のために催し、出家を宣言し、実行する。
39 悲嘆の源氏、藤壷と語る。
40 藤壷出家後の光源氏の思い。東宮を譲る決意。恋慕の諦め。
41 新年。淋しい三条宮に、光源氏来る。浦島の贈答。
42 藤壷、源氏方の人々、昇進できず。
43 左大臣、致仕する。世の嘆き。
44 三位中将、いよいよ源氏に親しむ。
45 夏の雨の日。二条院で、左右に分かれた韻塞。三位中将負け、二日後に盛大な負けわざ。中将の次郎君、高砂を歌う。八、九歳。光源氏、御衣をぬいで与える。光源氏の自負。「文王の子武王の弟」
46 朧月夜、瘧病で里へ。光源氏と夜な夜な対面。
47 雷鳴の暁。光源氏帰れず。見舞いに来た右大臣に発見される。
48 右大臣、事情を大后に語る。大后怒り。報復を企てる。

★紫上本位主義によってこの巻を解釈すると
紫上の確立のために。六条御息所の除去。藤壷と朝顔の駆逐。一方は出家、一方は神域の人へ。朧月夜の破滅。そして誰もいなくなり、紫上は、幸せになる。しかし、これは他力による仮の幸せ。自力による真の幸せは、これからが正念場。光源氏が陥りつつある暗黒は、紫上の幸せを軽く呑み込む。

★おや同伴で下った斎宮の初例
円融天皇の天延五年(九七七)。規子。同伴した母は徽子。徽子は、歌人としても有名な斎宮女御、その人である。六条御息所には斎宮女御の面影があるはずだか、実際には娘の斎宮、後の秋好中宮に面影がずらされている。さて、徽子の家系を述べれば、父は醍醐天皇皇子・重明。母は藤原忠平の娘。斎宮の後、村上天皇女御。規子内親王を生む。同腹の兄弟に源邦正がいる。末摘花で述べた「青常」とは彼のことである。なお、重明親王の著作に『吏部王記』があり、源氏物語にしばしば引用されることも、この際、注意をしよう。

★六条御息所の経歴
父大臣の限りなき筋におぼし心ざして、いつきたてまつりたまひしありさま変わりて、末の世に内裏を見たまふにも、もののみ尽きせずあはれにおぼさる。十六にて故宮に参りたまひて、二十にて後れたてまつりたまふ。三十にてぞ、今日また九重を見たまひける。
   そのかみを今日はかけじと忍ぶれど心のうちにものぞ悲しき
斎宮は十四にぞなりたまひける。この経歴は不可解である。源氏物語の年期に照らせば、元皇太子と彼女は結婚したことになる。辞めた皇太子の妻を「御息所」と呼ぶかどうか、疑問である。死後、前坊が天皇位を追号されたなら分かるけれども。そうなると前坊は早良親王のようなイメージとなるが、そこまで源氏物語から読み取ることは不可能である。
それにしても、この経歴は、これまでの六条御息所観を根底からひっくり返すものである。源氏物語の「そのかみ」については、なお慎重に問いなおしをする必要を感じる。
なお、朧に見える「前坊の悲劇」は、これから予想される東宮の陥る運命の予告機能として読み取るのが、この時期の決定的に正しい源氏読みである。

★桐壺帝の崩御。遺言は、光源氏を菅原道真のイメージとする
桐壺帝に「宇多の帝の誡」をすでに言及。この巻の桐壺院の遺言「はべりつる世に変らず、大小のことをも隔てず、何事も御後見とおぼせ」は、醍醐帝に対し、菅原道真重用を説いた宇多院の戒に相当する。であるから、この時、光源氏のイメージは、明らかに道真。ならば、以後の光源氏の運命は、左遷、僻地での憤死、ということになる。これも、予告機能。作者は着々と須磨・明石の仕事をしている。

★朝顔姫君、賀茂斎院となる
朝顔は、神域の人となる。逢わずに愛する彼女の処世にふさわしい処置ではないか。光源氏が文通をやめていないのは問題。右大臣方の、光源氏追いおとしの格好の材料になりそう。ともかくこれで朝顔は斎院に封印され、一旦、退場ということになる。彼女が本格的に語られるのは、桐壺巻から数えて二十番目にある朝顔巻である。作者の我慢強さも凄い。

★光源氏が藤壷に迫った二日間は恋慕の終焉
若紫巻以来の場面。光源氏の執念と、藤壷の堅い決意の場面でもある。久し振りで藤壷を見た光源氏が「紫に似ている」と思ったところ、藤壺から紫への流れが決定的になった実感がある。藤壺もここらが退場の潮時。さて、かきくどく光源氏の言葉のなかに「さすがにいみじと」藤壷が思うことがあったと書いてある。光源氏はいったい何を語ったのか。東宮のことか。藤壷が命をかけて光源氏に誓った言葉などをもちだしたのか。

★藤壷の危機「戚夫人の見けむ目」
藤壷は「戚夫人」の故事を思っている。「戚夫人の見けむ目」のようにならずとも、このまま推移すれば「かならず人笑へなることはありぬべき身」だという認識である。この時、中国のすざまじい復讐劇のイメージが、藤壷の近々の出家、当今の処世の正しさを浮彫する。ちなみに、高祖の死後、呂大后が戚夫人におこなった事例を述べれば。まず、戚夫人が生み、高祖が太子にしたくてしかたなかった趙王如意を酖毒で殺す。戚夫人に対しては、手足を切断、眼球をくり抜く。耳は熏べて聾にし、陰薬を飲ませて唖にした。便所にたたきこみ人豚と名付けて、人のよい呂大后の子・考恵王に見せた。王はショックで病気になったという。『史記』呂后本紀にある話である。

★藤壷、東宮へ。別れの対面
「御覧ぜで久しからむほどに、容貌の異ざまにうたてげに変わりてはべらば、いかがおぼさるべき」と聞こえたまへば、御顔をうちまもりたまひて、「式部がやうにや。いかでか、さはなりたまはむ」と、笑みてのたまふ。いふかひなくあはれにて、「それは、老いてはべれば醜きぞ。さはらで、髪はそれより短くて、黒き衣などを着て、夜居の僧のやうになりはべらむとすれば、見たてまつらむこともいとど久しかるべきぞ」とて、泣きたまへば、まめだちて、「久しうおはせぬは恋しきものを」とて、涙の落つれば、はづかしとおぼして、さすがに背きたまへる。御髪はゆらゆらときよらにて、まみのなつかしげににほひたまへるさま、おとなびたまふままに、ただかの御顔を脱ぎすべたまへり。御歯のすこし朽ちて、口の内黒みて、笑みたまへる、かをりうつくしきは、女にて見たてまつらまほしうきよらなり。

★雲林院
もと淳和天皇の離宮。仁明天皇に最も愛された皇子・常康親王が出家してここに住んだ。親王はこの離宮を寺とし、天皇崩御後同じく出家した良岑宗貞、後の僧正遍昭に託した(『三代実録』)。遍昭の子・素性法師もここに住んでいる。「故母御息所の御兄の律師の籠もりたまへる坊」と本文にある。兄の律師には、遍昭や素性の面影がある。遍昭は桓武天皇の二世。こういう設定は、光源氏の母方も源氏なのだということを、こで暗示しようとしているのかもしれない。なお、廃太子で有名な恒貞親王は淳和天皇の皇子である。雲林院のイメージは、かなりの拡がりを見せ、前坊廃太子までゆきつきそうなのは気のせいか。嵯峨天皇の院政時代、この淳和天皇の頃までは、源氏全盛時代でもあった。

★頭弁の諷諫「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」
光源氏と出合った「大宮の御兄の藤大納言の子の、頭の弁」の、光源氏をはばかるところのない態度。前の承香殿の兄・藤少将といい、いずれも藤原氏である。後宮も一挙に藤原弘徽殿大后色に染まっていることが推量される。弁の言葉、「白虹日を貫けり、太子畏ぢたり」は、強烈な政治的台詞である。白虹は武器、日は帝の象徴。白虹が日を貫くは、帝が殺され革命が成功することを意味する。また、有名な『史記』荊軻伝や『戦国策』にある。「布衣の怒り」を引用して、光源氏に刺客・荊軻のイメージを計画し、失敗。滅亡した燕の太子丹の故事をふまえて、お前の計略は失敗するぞと言っているのである。この言葉は、現在の光源氏周辺の動静を政権側がこう認識していることの表示である。反乱分子をそのまま泳がしておく権力者はいない。で、光源氏の周辺は、にわかに暗雲がたちこめ、風雲急を告げる趣が成立する。

★藤壷の決断「我が身をなきになしても、東宮の御代をたひらかにおはしまさば」
法華八講の最終日、藤壷が出家する。この法華八講は、第一日目が先帝のため、第二日目が母后のため、第三日目桐壺院のために催された。最終日は自分自身のためであるが、その目的意識は、東宮のためであろう。東宮の安泰を祈る日々を藤壷は選択した。藤壺の行為を目の当たりにした光源氏は、近々藤壷が中宮位を返上することを予想し、藤壷への恋情がありうべからざることを認識。東宮保全への道に、向かうことになる。以後、二人は政治的同志ということになる。藤壷が光源氏を変えたのだ。これが藤壷の政治でなくて何か。

★韻塞の負けわざ。三位中将の次郎君高砂を歌う
長男柏木を出さずに、わざわざ後の紅梅大納言・次郎をだしていることに注意。柏木と次郎は同腹。母は弘徽殿大后の妹・四の君。柏木は母方の血を引き、次郎は父方の血を引くと考えておくと良い。次郎はこの日、光源氏の御衣をもらっている。彼はこの思い出に生き、遠く紅梅の巻で「あれは光源氏」を語って、宇治十帖全体を覆うのである。

★雷の朝、密会の発覚。光源氏、進退極まる
この時期の光源氏は反抗的である。朧月夜との夜な夜なの密会も、露顕を前提とした挑発にみえなくもない。光源氏に、現状を打破する戦略が何かあるのであろうか。と思って読みたくなる箇所。

 <花散里巻>

第11回 花散里巻・時鳥鳴いて、橘は香る

★花散る里巻の内容
 1 光源氏の現状
 2 麗景殿女御の紹介
 3 その妹、三の君(花散里)の紹介
 4 五月雨の晴れ間。花散里を訪れる
 5 途中、中川の宿。和琴を弾く昔の女に消息
 6 女の返歌。かかわりたくない態度
 7 光源氏、通過。筑紫の五節をふと思う
 8 静かなたたずまいの花散里邸。先ず、麗景殿女御に挨拶。時鳥と橘の贈答
 9 西面の花散里の許に
10 光源氏の愛の姿勢。変わった人と変わらぬ人

★新人の多出
光源氏。惟光。中川の女。筑紫の五節。麗景殿の女御(花散里)。光源氏と惟光以外は全て新人。巨星去って、淋しさの増した光源氏周辺の補充が必要であったか。見送る女としての花散里。紫上の補強。

★中川の女
中川の宿といえば空蝉。そして中川に住んでいた紫式部のイメージ。光源氏との関わりを避けようとする中川の女。現実の人々の、光源氏に対するこの時期の態度を象徴するか。物分かりのよい光源氏の態度も、なんだかうら悲しい。

★付いて来た時鳥
中川の宿で鳴いていた時鳥が、光源氏の後に付いてきて花散里で鳴く。というなんでもない描写が、この巻を解く糸口になる。時鳥「死出の田長」。この世とあの世を往還する鳥である。ならば、中川宿がこの世で、花散里はあの世。異界ではないのか。そう思って読めという作者のサインかもしれぬ。
    生み奉りたる皇子の亡くなりての又の年、時鳥を聞きて                      伊勢
死出の山越えて来つらむ時鳥恋しき人の上語らなむ               (拾遺和歌集 巻第二十 哀傷)  

★静かなたたずまい
疾風怒濤の須磨巻の前風景。光源氏が一番身をかがめた瞬間。嵐の前の静けさ

★母なる環境
桐壺後宮の人・麗景殿女御は、光源氏を頼って生きている。これより判断するに、彼女は、当時苛められた桐壺更衣の唯一の味方であったのではないか。母の名残。故郷感覚がこの巻の基調としてある。

★麗景殿女御のひととなり

その妹・花散里は、弘徽殿大后の妹・朧月夜に比せられる。が、性格は余程違う。静かな六条御息所といったらいいか。光源氏を受け入れ、騒がない。この巻の主役のはずの彼女の場面、彼女の描写は極めて少ない。ここは、麗景殿女御の性格が花散里だと思って読めばよい。
女御の御けはひ、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうたげなり。すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりけれど、むつましうなつかしきかたにはおぼしたりしものを

★橘の香り(1)昔の人の匂い

橘の香をなつかしみ時鳥花散里をたづねてぞとふ
いにしへの忘れがたきなぐさめには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、まぎるることも、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語りもかきくづすべき人少なうなりゆくをまして、つれづれもまぎれなくおぼさるらむ
父と母の時代の物語。今や忘れ去られようとしている物語は、源氏物語が始まる前の物語。それを聞こうとする光源氏。須磨巻で左大臣から。明石巻で明石入道から「昔語り」を聞く。復活の使命に目覚める時がいよいよ近付いた印象が強い。
                                                                よみ人しらず五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする                       (古今和歌集巻第三 夏歌)

★橘の香り(2)常世の国
日本書紀垂仁天皇紀末に、常世国に派遣された田道間守(たじまもり)が苦節十年を経て、常世国の「非時(ときじく)の香菓(かくのみ)」つまり橘を持って帰った話がある。常世国とは「神仙(ひじり)の秘区(かくれたるくに)」だと日本書紀同条に説明されている。花散里の世界が、橘の香る所であるということは、常世の国イメージである。このことは、ここに時鳥が飛んでいることと矛盾しない。なお、田中長三郎によれば、田道間守の招来した橘は不老長寿の秘薬。今の橙であったらしい。すでに垂仁天皇は没していて、田道間守は墓前に捧げるほかなかったのだけれども、この橘は、気候風土の似ている紀伊国に移植された。有田ミカンのルーツだといわれる。

★橘の香り(3)竜宮の門
中国唐代の伝奇小説『柳毅伝』(李朝威作)によれば、中国最大の湖・洞庭湖には籠宮がある。湖畔に橘の巨木がある。柳毅は、帯でその巨木を叩いて竜宮に入る。すなわち、橘は竜宮の門なのだ。ちなみに、源氏物語は、すでに若紫巻によって、明石の海に海龍王国のイメージが与えている。そしてそのイメージは紅葉賀巻の青海波によって護持継承されていることはすでに述べた。この流れからいって、光源氏の須磨・明石下向の直前に位置するこの巻に、橘のイメージをもってきたということは、これから光源氏が赴くことになる海龍王国・明石への入口としての機能を、この巻に与えているということになる。花散里は、異界・須磨明石への出発ゲートだ。と考えると面白い。

★橘の香り(4)二心なき志
『楚辞』に収められた屈原作「九章」の八に「橘頌」がある。「深固難徒、更壹志兮」(根は深く固くして移し難く、その上その志は専一で動かない)。「非時の香菓」(時を定めず、四季に存在する)橘は、光源氏への志を変えない女・花散里に相応しい木なのである。時流に抗し得ない中川の女とは違うのだ。しかし、『楚辞』をあまり意識すると、光源氏のイメージが屈原となる。そうなると、汨羅に身を投じて死ぬ運命の予告となるから、このイメージは期待されていないと考えるべきか。もっとも、これは、学のある読者をひやひやさせるに充分なイメージである。

★光源氏が花散里を訪れた場面
西面には、わざとなく忍びやかにうちふるまひたまひてのぞきたまへるも、めずらしきに添へて、世に目なれぬ御さまなれば、つらさも忘れぬべし。何やかやと、例の、なつかしくかたらひたまふも、おぼさぬことにあらざるべし。かりにも見たまふ限りは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしとおぼさるるはなければにや、憎げなく、われも人も情をかはしつつ過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変るも、ことわりの世のさがと思ひなしたまふ。ありつる垣根も、さやうにて、ありさま変わりたるあたりなりけり。

★筑紫の五節
彼女も、花散里同様、初登場。名前からして、五節時代に光源氏と浮名を流した女と想像される。とすると、光源氏のイメージは良峯宗貞(僧正遍昭)に重なろう。 
   五節舞姫を見て、よめる
               良峯宗貞
 天つかぜ雲の通ひ路ふきとぢよをとめの姿しばしとどめむ
宗貞と想像すると、黙って出家。ということになる。しかし、この筑紫五節の哀切きわまりない生涯は、特筆大書すべき事項だと思う。筑紫からの帰途、彼女は光源氏を須磨に見舞い、以後京都で光源氏を待ち光源氏一筋に生きる。復活した光源氏は、政務多忙でいつしか彼女のことを忘れてしまう。彼女は縁談には見向きもせず、ひたすら光源氏の来迎を待った。時は流れ流れて、二十五年。紫上に先立たれた光源氏は、尾羽うち枯らし茫然自失の一年を送る。幻巻。光源氏が姿を見せる最後の巻である。十一月、五節の時が来る。ふと、その昔を思い出す。思い出してどうこうしたのではない。ただ思い出しただけだ。この頃、あの可愛かった筑紫の五節がどうなっていたか。作者は黙して語らない。『古事記』下巻、雄略天皇の姿にある「弘田部の赤猪子」の、これは源氏物語版といえようか。

<須磨巻>

第12回 逃走は、栄光への脱出か

★須磨巻の内容
 1 光源氏、須磨へ下ることを決意
 2 紫上、花散里、藤壷の思い
 3 三月二十日余りの日、出発
 4 出発前二三日の出来事。左大臣邸訪問。喜ぶ夕霧。左大臣、三位中将との語らい。中納言との一夜。大宮との贈答。
 5 二条院に帰る。紫上との語らい。式部卿家の冷淡。帥宮、三位中将の来訪。光源氏、紫上と鏡の贈答歌
 6 花散里邸、夜の訪問。花散里と月影の贈答。白氏文集と琴を持参。後事は全て紫上に託す。
 7 朧月夜への手紙。返事届く
 8 暮れ方、北山へ。藤壷邸に立ち寄る。東宮保全の誓い。「見しはなくあるは悲しき」の歌の贈答。
 9 下賀茂社。馬の口を取る右近将監の歌
10 北山、桐壺院の墓に祈る。朝、帰る。
11 東宮に消息。王命婦の返事
12 世の人々、光源氏をを惜しみつつ、なにも出来ず
13 当日、紫上との別れ。早朝に出発
14 船に追い風。大江殿を経、申の刻に須磨到着
15 須磨の住居の様子
16 五月雨の頃、京へ手紙を出す。紫上、藤壷、朧月夜、左大臣邸。
17 京の紫上。僧都の祈り
18 藤壷の思いと返歌。朧月夜の返歌
19 紫上の返事と光源氏の思い
20 伊勢の御息所より美しい手紙四五枚届く。光源氏の返事
21 花散里よりの返事。光源氏、家の修理を命ず
22 七月。朧月夜尚侍として出仕。朱雀帝との語らい。光源氏のこと、東宮のこと
23 八月十五夜。須磨の秋風。光源氏、良清、惟光、右近、雁の連歌
24 往時を偲ぶ光源氏。「恩賜の御衣今ここにあり」と誦す
25 大弐の帰京。途中須磨に立ち寄り、息子の筑前守を派遣して光源氏に挨拶。娘の五節君、光源氏と贈答
26 都。東宮の悲しみと藤壷の不安
27 弘徽殿大后の一喝で、都人からの便り途絶える
28 紫上、家中の信頼を集める
29 須磨の生活のわびしさ。柴の煙の訪い
30 冬。王昭君を思う、「霜の後の夢」。道真を思う「ただ是西にゆくなり」
31 明石入道、良清を呼ぶ。良清応ぜず
32 明石入道、光源氏は娘と結婚するために来たのだと妻に語る。反対する妻に、光源氏は我一族と言う
33 娘の思い。高い自意識と冷厳な現実意識。将来の出家あるいは入水を思う。入道は、住吉の霊験に期待をつなぐ
34 新年。二月二十日あまり。花宴を回想する
35 三位中将、須磨を訪問。一夜語り明かして帰る。光源氏、黒駒と笛を贈る。「つばさ並べし友を恋つつ」、三位中将帰京
36 三月上旬、巳の日、陰陽師を呼び須磨海岸で祓えをする。光源氏の歌、雷鳴とどろく凄まじい暴風雨を呼ぶところとなる
37 光源氏、竜王の召す夢を見る

★須磨の地政学
須磨は西の、都から一番遠い近畿。スミの地。光源氏の須磨行きは、都からの逃亡ではなく、無実の男の最大の謹慎イメージを醸す。その昔、妻子を伴い播磨国に走った明石入道とは、ここが決定的に違う。しかも、須磨は光源氏の荘園。彼は国家機関にょって幽閉されているわけではない。あくまでも自発的な退去。他日を期しているのは、券を持って播磨に赴いた入道とは違う。なお、同道した光源氏の側近・良清は、播磨守の子息。明石には、母方の親族である明石入道も控えている。光源氏は、後ろに強い勢力を張って、近畿の果ての自分の領地に身を置いていることに注意したい。

★須磨といえば在原行平 
   田村の御時に、事に当たりて、津国の須磨と言ふ所に籠もり侍りけるに、宮のうちに侍りける人に、遣はしける
わくらばに問ふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつ侘ぶと答えよ
                                     古今和歌集巻第十八雑歌下

★流刑
遠流(おんる)、中流(ちゅうる)、近流(こんる)。『延喜式(律令の本)』によれば、流刑地は以下の如く。遠流は、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐。中流は、諏訪・伊予。近流は、越前・安芸。基本的にいって、流刑とは罪人を京外に放逐することである。光源氏が畿内の須磨わ選んだということは、罪人ではないという政治的メッセージである。

★藤壷になった光源氏
この巻の光源氏は、花散里の低回イメージを払拭し、断固たる政治家に変貌した印象が強い。藤壺になった光源氏、といったらよいか。「惜しげなき身はなきになしても、宮の御世だに、ことなくおはしませば」。二人は別れの場で一心同体となる。この光源氏の決断、行動を最終的に支えているものは、若紫巻で得た、思いもかけぬ内容を持つ夢解の言葉である。「その中に違ひめありて、つつしませたまふべきことなむはべる」。その具体的内容は澪標巻で明かされるが、ただいまのところ光源氏しか知らないことだ。

★東宮への別れの消息
明けはつるほどに帰りたまひて、東宮にも御消息聞こえたまふ。王命婦を御かはりとてさぶにはせたまへば、その局にとて、「今日なん都離れはべる。また参りはべらずなりぬるなん。あまたの愁へにまさりて思うたまへられはべる。よろづ推しはかりて啓したまへ。
    いつかまた春のみやこの花を見ん時うしなへる山がつにして
桜の散りすきたる枝につけたまへり。「かくなん」と御覧ぜさすれば、幼き御心地にも、まめだちておはします。「御返りいかがものしはべらむ」と啓すれば、「しばし見ぬだにも恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」とのたまはす。ものはかなの御返りやとあはれに見たてまつる。あぢきなきことに御心をくだきたまひし昔のこと、をりをりの御ありさま思ひつづけらるるにも、もの思ひなくて我も人も過ぐいたまひつべかりけ世を、心と思し嘆きけるを、悔しう、わが心ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。御返りは「さらに聞こえさせやりはべらず。御前には啓しはべりぬ。心細げに思しめしたる御気色もいみじくなむ」と、そこはかとなく、心の乱れけるなるべし。
    咲きてとく散るはうけれどゆく春は花の都を立ちかへりみよ
時しはれば」と聞こえて、なごりもあはれなる物語をしつつ、一宮の内忍びて泣きあへり
この東宮を、六条御息所の「前坊」にするな。というのがこのあたりの源氏物語のテーマである。「前坊」設定の意味も、このあたりで明らかなものとなる。須磨に御息所からの手紙が届くという場面も、前坊理解の呼び水効果がある。

★須磨にワープした光源氏
夜明け前の出発。申の時に到着。およそ十二時間の行程。京都から須磨までJRで約八十数キロ。歩くと二三日かかるのが自然。昼夜兼行の義経軍が丹波路を通って一ノ谷で有名な逆落としをやったのは、京都出発の三日後。光源氏は船旅。しかも追い風。でも、当時の綱を曳く航行法では無理。ここは、疾風迅雷の須磨巻にふさわしい設定と考えたい。

★恩賜の御衣は今ここにあり 
須磨の秋の描写は、日本文学史上屈指の名文。長すぎるので、後半を引用してみる。
 
 月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五やなりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋しく、所どころながめたまふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。「二千里外故人心」と誦じたまへる。例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧やへだつる」とのたまはせしほどいはむ方なく恋しく、をりをりのこと思ひ出たまふに、よよと泣かれたまふ。「夜更けはべりぬ」と聞こゆれど、なほ入りたまはず。
   見るほどそしばしなぐさむめぐりあはん月の都は遥かなれども
 その夜、上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さまの、院に似たてまつりたまへりしも恋しく思ひ出できこえたまひて、「恩賜の御衣今ここにあり」と誦じつつ入りたまひぬ。御衣はまこと身をはなたず、かたはらに置きたまへり。
   うしとのみひとへにものは思ほへでひだりみぎにもぬるる袖かな

光源氏を菅原道真と一体化する効果。無実の強調。もし道真がかの地で死なず、復活したならば、どのような政治をしただろうかという歴史上のイフを今後の源氏物語上で実現する。この本文の次に描かれている、娘の多い大弐の帰還場面もなにやら道真的ではないか。道真には二十三人の子がいたが、男子は四人のみ。

★明石入道の確信

光源氏がここに来たのは娘と結婚するためである。「思ふ心ことなり。さる心したまへ」。入道の確信犯的強引さは北山僧都と一脈通じると思わぬか。「ついでして、ここにもおはしまさせむ」。二人は光源氏に対して強引に振る舞ってもよい立場にある。親族だから、である。実際、明石入道と光源氏の母・桐壷更衣は従姉妹だということがここで明らかになる。入道の父は大臣。更衣の父は按察大納言。明石入道の方が本家筋ではないか。夕顔が死んだ某院は、入道の家なのではないか。

★貴種流離の思想
罪にあたることは、唐土にもわが朝廷にも、かく世に優れ、何ごとも人に異なりぬる人の、かならずあることなり。
明石入道の断案。この伝でゆくと、光源氏の須磨・明石は光源氏の値打ちをさらに上げる「名誉の負傷」という位置取りとなりそう。

★誇り高き明石の女
このむすめすぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げにやむごとなき人に劣るまじかりける。身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、高き人は我を何の数にも思さじ、ほどにつけたる世をばさらに見じ、命長くて、思ふ人々におくれなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむなどぞ思ひける。父君、ところせく思ひかしづきて、年に二たび住吉に詣でさせけり。神の御しるしを、人知れず頼み思ひける。
明石の女の心の底は海のように深い。現実認識も冷徹である。若菜巻で危機に瀕した紫上が「我より上の人やある」という胸の内を披瀝したが、おそらくは彼女も、自意識は紫上に相当するのではないか。空蝉をさらに強化した性格設定である。

★友情の極み。三位中将の来訪
昔の頭中将は今の三位中将。「事の聞こえありて罪に当たるともいかがはせむ」。万離を排して彼は光源氏を見舞った。帚木以来続いてきた二人の友情の仕上げである。感激した光源氏は黒駒と「いみじき笛」を贈っている。横笛巻の笛は、この笛かもしれない。
翌朝の別れに際して彼の歌った歌、
    たづがなき雲居にひとりねをぞ泣くつばさ並べし友を恋ひつつ
は、故事「翼賛の功」をふまえ、都で一人、東宮を守る決意が込められていて、光源氏を感激させたことと思う。行幸巻で、光源氏はこれを持ち出し、内大臣となった三位中将を感激させている。

★黒駒の含意
光源氏が帰る宰相中将に「黒駒」を贈った時の台詞「風にあたりては、嘶(いば)えぬべければ」は、『文選』巻二十九に載っている「古詩十九首」の冒頭の「行行重行行」の詩編にある「胡馬依北風」をふまえたものである。しかし、これは、この一句でもって、この巻のテーマがこの詩のテーマと共鳴するものであるとするサインとみるべきではあるまいか。詩のテーマは、愛する夫と「生きながら別離」することになった女の嘆き、である。光源氏と紫上との「死に別れより生き別れ」のやる瀬なさを語るのも、この巻のテーマ。その基調音として、この『文選』の詩句が使用されていると考えるべきであろう。

★三月上巳の祓い
今の雛祭りの祖型。陰陽師を呼び、御祓いをさせている。「舟にことごとしき人形のせて流す」とある。等身大くらいの人形が使われたらしい。いかにも大海原の地にふさわしい豪胆な流し雛である。陰陽師はいかがわしいものが多く、地方にいくと、型どおりの御祓いをするの珍しかったらしい。ここも、その例か。陰陽師は、源氏物語にはあまり登場しない。そのうさんくささが、「怪力乱神を語らず」という姿勢の作者に嫌われたためだろう。

★無実の叫びと天の呼応
須磨の海岸に出た光源氏が、
    八百よろづ神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ
とやったら、一天にわかにかき曇り、すざまじい暴風雨となった。ということだから、やはり光源氏は「犯せる罪」があるのだと天が認め怒ったのだ、と一応は考えられる。が、はたしてそうだろうか。解釈が近代的すぎないか。光源氏の暴風雨解釈が注目される。「自分は、海の中の龍王に惚れられたのだ」。夕顔の死の時もそうだったが、この呑気な解釈は、しかし重要である。若紫巻で紫上より先に語られていた「海龍王のいつき娘」のことを思い出そう。光源氏は、今まさに、海龍王国のすぐそばに来ているのである。彼が龍王の恋着を考えたとしても決して不自然ではない。さらにいえば、花散里巻で注意したごとく、このあたりの展開が唐代小説『柳毅伝』を意識したものとすると、この暴風雨は、罪無き光源氏に対して、かかる運命におとしいれた者たちに対する「銭塘王の怒りだ」という解釈も十分成り立つのである。

 <明石巻>

 第13回 竜宮力を蓄積し復活する

★明石巻の内容
 1 風雨止まず。光源氏の悩みは深い。
 2 紫上の使者、ずぶ濡れになって来る。京都も同様の事情判明。
 3 光源氏、住吉に祈る。竜王にも。雷、廊に落ち炎上。居所を移す。
 4 風雨止む。
 5 光源氏まどろむ。夢に桐壺院出現。須磨を去るよう指示する。
 6 光源氏、明石入道の申し出を受諾。明石に移る。
 7 明石の様子。入道の豪壮な住まい。
 8 落ち着いた光源氏、京に手紙を出す。
 9 紫上への返事を入念に書く。
10 明石入道、娘のことを語る。光源氏を動かすに至らず。
11 入道60歳。昔語りで光源氏をなぐさめる。
12 入道夫婦の嘆き。明石女、身の程を知る。
13 四月。入道衣更えの世話をする
14 夕月夜。淡路島を眺める。琴を弾く。曲目は「広陵」
15 入道感激して来る。自らも琵琶を弾き、光源氏に箏の琴を勧める
16 光源氏と入道、琴を論じる
17 入道の昔語り。一族の歴史を語り、娘のことを語る。光源氏の心動く
18 光源氏、娘に文を遣る。入道、娘に代わって返事をする
19 二度目の文。直筆の返事を得る
20 文通はじまるも進展せず
21 都の情勢。風雲急を告げる。三月十三日。帝、桐壺院の夢を見る。叱責を受け、眼を病む。太政大臣死去。弘徽殿大后も病気になる。帝、光源氏召還の意思を表明。大后強く諫める。
22 秋。召されても行かぬ娘の深い思い。親の心配
23 八月十三日。入道の手引。光源氏、岡辺の家に馬で行く。
24 贈答。六条御息所の印象。新枕。「近まさりする」明石君
25 他聞をはばかり、時々の逢瀬
26 光源氏、紫上に文。明石君の件を告白。紫上より、さりげなく鋭い返事が届く。光源氏、明石君を訪れなくなる
27 明石君の嘆き。されど、嘆きをおもてに出さず
28 光源氏、紫上と対話形式の絵を描く
29 紫上も絵を描く。日記風にまとめる
30 新年。帝の病気好転せず。承香殿女御御腹の親王二歳。帝、東宮に譲位を決断。光源氏赦免決定
31 七月二十余日。帝の病気、さらに重く。再度、光源氏に帰京の宣旨を発す
32 光源氏の思い。入道の思い
33 この頃ね夜離れなし。明石君、六月ごろより懐妊。近付く別れに、光源氏と明石君、思いは尽きず
34 八月。京より迎え来る。供人の喜び。良清の思い
35 二日前。光源氏と明石君の「藻塩焼くけむり」の贈答。ついで別れの合奏。光源氏琴、明石君箏の琴。光源氏、琴を形見に残す
36 別れの朝。「浦波」の贈答
37 入道の餞別。嘆き尽きせず
38 残された明石。みな入道を恨む。入道惚けるほどの嘆き
39 光源氏、難波で祓い。住吉に使者を派遣。急ぎ帰洛。
40 二条院に到着。紫上と対面。明石君のことを告げる
41 光源氏、権大納言に昇進
42 八月十五夜。帝との対面。蛭の子の贈答
43 桐壺院法華八講の準備。東宮、藤壷との対面
44 明石君への文。筑紫五節からの文あり。花散里へは未だ行かず

★雷は天の怒り
雷は天の怒り。君子はいずまいを正す。というのが、雷にたいする古代中国の発想。『論語』(郷党篇)、『礼記』(玉藻篇)。
日本の例。「時の政違ひ緋乖きて、民の情愁へ怨めり。天地譴わ告げて鬼神異を見す」(『続日本紀』聖武天皇 神亀四年二月)。

★住吉明神
「迹を垂れたまふ神」。本地垂迹説の初期的形態を見るべきか。住吉神は、本来異国の神(あるいは仏)で、日本に垂迹した神なのだ、と解釈可能。『日本書紀』巻九によれば、住吉の神は、もともと「日向国の橘小門の水底に」いた神である。竜宮神という発想だろう。神功皇后をして新羅征伐に誘導。参戦勝利の後、一旦「穴戸の山田邑」に垂迹。その後、忍熊王の反乱鎮圧のため進撃していた皇后の船が「務古水門」で進まなくなった時、「大津の渟中倉の長峡」つまり住吉の地に垂迹。船の進撃を達成した。これで分かるように、住吉神はもともと住吉にいた神ではない。「表筒男・中筒男・底筒男」の三神の総称が住吉明神の実体。後、これに神功皇后本人が加わり、四神の総称ということになる。「往来ふ船を看さむ」という航海の神である。本来の地「橘小門の水底」という発想からして、海龍王国という「常世」異界から来た神という位置づけなのではないか。これは、源氏物語明石の発想の基盤となっていると考えられる。

★桐壺院の霊
院はどこから来たのか。「海に入り、渚に上がり」より判断して、洋上はるかな島より来たと思われる。楊貴妃のいた蓬莱島か、観音の普陀落浄土などを考えておくとよいかもしれない。古墳のイメージも参孝になるか。

★入道の「国を助くる」思い
「人の朝廷にも、夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを」という明石入道の言葉に注目。現在の政府の正統性を疑う発想であろう。今の国体は間違っている。だからこれを救援せねばならない。光源氏を中心とした政府の樹立が、正しい国体のありようである。という発想ではないか。古くはヤマトタケルの発想、近くは天武に対する天智、と考えておくとよいか。これは、平安王朝樹立の発想でもある。

★桃花源詩並記
晉太元中、武陵人捕魚爲業。縁渓行、忘路之遠近。忽逢桃花林。夾岸敷百歩、中無雑樹。芳草鮮美。落英繽紛。漁人甚異之。復前行、欲窮其林。林盡水源、便得一山。山有小口。髣髴若有光。便舎船従口入。初極狭、纔通人。復行數十歩、豁然開朗。土地平曠、屋舎儼然。有良田美池桑竹之屬。阡陌交通、鶏犬相聞。其中往來種作、男女衣著、悉如外人。黄髪垂髫、並怡然自楽。見漁人、乃大驚、問所従來。具答之。便要還家、設酒殺鶏作食。村中聞有此人、咸來問訊。自云、先世避奏時亂、率妻子邑人、來此絶境、不復出 。遂與外人間隔。問今是何世。乃不知有漢、無論魏晉。此人一一爲具言所聞、皆 怨。餘人各復延至其家、皆出酒食。停數日、辭去。此中人語云、不足爲外人道也。既出、得其船、便扶向路、處處誌之。及郡下、詣太守、説如此。太守即遺人隨其往、尋向所誌。遂迷不復得路。南陽劉子驥、高尚士也。聞之欣然規往。未果、尋病終。後遂無問津者。

★明石とは。播磨国の文化
竜宮の秘宝・夜光る珠。光る真珠を持つ巨大な鮑が、その昔、明石の海底にいた。仏教の西の聖地。性空上人の書写山。明石海峡は近畿への入口。西の富の集積する所。

★明石入道
「行いさらぼひて」とある。明石入道は痩せた人である。われわれはでっぷりと肥えた印象をもちがちであるが、本文を重視すべきである。年齢は、六十そこそこ。光源氏とは一世代違うように設定されている。父は大臣。光源氏の母・桐壺更衣とは従兄妹。したがって、入道と光源氏の母とは同世代、同族。住吉信仰十八年。彼は二度にわたって「さしも聞き置きたまはぬ世の古事ども」を光源氏に語った。二度目の時は、更に踏み込み「すべてまねぶべくもあらぬことども」、「ひがごと」としか思えないようなことどもを語っている。その具体的内容を作者は明かさない。しかし、おおよそは察せられよう。花散里巻の麗景殿女御の話、須磨巻の左大臣の話。これらの話の延長線上の話だ。桐壺一族の栄光と悲惨。母をめぐる政治状況。本人の都落ちといった、生々しい体験譚。光源氏をして、本来ありうべからざる明石の女との結婚に踏み切らせたものは、この明石入道の昔語りであった、と考えたい。この結婚は、受領階級の夢でもなんでもなく、光源氏にとっての一族復活の、やらねばならぬ政治であったのだ、と考えるべき時である。

★明石君の第一印象
「伊勢の御息所にいとようおぼえたり」。六条御息所に雰囲気が似ていたのは単なる偶然か。偶然として読むと浅くなるのではないか。こう読んだらどうだろう。六条御息所は、そもそもこの明石一族と血縁関係にある人である。御息所の父・大臣は、その昔、明石入道の父・大臣とともに、前坊を擁した政争の中心勢力であった。が、武運つたなく一敗地にまみれ、敗残の運命を甘受した。彼女は、その巨大な過去の数少ない残存者の一人である。そして、敗北の日から時はむなしく流れ、明石に去った入道以上の、過酷な運命を、彼女は都で味わう。廃太子となった前坊との虚しい結婚、そして早々の死別。その後、激しく愛することになった光源氏にも見捨てられて、いま伊勢の地にある。という読みである。この第一印象はそういう読みにわれわれ読者を誘導するサインではないか。明石の女の人生は、六条御息所の見果てぬ夢を見る人生でもあるのだ、という読みである。次の巻で、御息所が死ぬのも、もっともな話ではないか。

★明石君の忍従の始まり
明石君に関する光源氏の紫上への最初の告白は『伊勢物語』の武蔵鐙である。紫上から「おいらかなるものから、ただならずかすめたまへる」返事が来て、この言葉が光源氏をして明石の女への途絶えを発生せしめる。紫上の実力。光源氏は、遠い都の女の掌中にある。明石の女は彼女の当初の予想通り、妊娠でもしなければ、ゆきずりの旅の女でしかないのである。「女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身を投げつべきここちする」。海龍王国の后になることが、冗談でなくなったわけである。明石の女の、忍従の日々はここに始まる。しかし、事態が彼女の予想どおりの展開となっても、明石の女は「憎からぬさまに見えたてまつる」という態度を持した。彼女は並の女性ではない。可愛く嫉妬する紫上と比較すると彼女の強さがよく理解出来ると思う。

★光源氏の絵。紫上の日記
光源氏と紫上。明石と京都、それぞれ場所は違っていても、絵日記をかくという行為を同時にしている。「いかでか空に通ふ御心ならむ」という記事があるが、二人は明石と京都という時空を超えて、テレパシーで結ばれている。光源氏の絵日記は、紫上の返事を聞く形態。紫上への手紙の形式をとったものである。愛と懺悔の記録という色彩が濃い。一方、紫上は、通常の日記で、身の上を記す。自己の魂との対話録。レベルは紫上の方が高そうである。光源氏は、帰るやいなや紫上にこれを提示しそうだが、紫上は恐らく生涯これを光源氏に見せることはあるまい。この源氏物語そのものが、紫上の日記なのだという読みが重要であろう。

★光源氏の赦免
七月二十余日、再度の光源氏召還宣旨。それ以前に「ゆるされたまふべき定め出で来ぬ」とあるから、これは第二回目の宣旨である。第一回目の宣旨は、不確定な要素が強く、光源氏も対応に苦慮していたのかもしれない。朱雀帝が、ついに母大后の反対を押し切る。承香殿女御腹に皇子が生れたこと。もののけによる母大后の病気。自らの眼疾の深刻化。太政大臣の死去による政権の弱体化。以上が主たる理由だが、やはり、父帝の遺言を履行するというのが第一である。源氏物語における遺言の重みに注目。

★別れの合奏
都への出発を明後日にひかえた日。光源氏が琴(きん)、明石の女が箏の琴を合奏する。源氏物語の名場面の一つ。明石の女は「先大王の御てに通」うと噂された腕を、今日のこの日まで、光源氏に見せなかった。顔を見せなかったと同様、彼女のたしなみぶかさであろう。明石入道が、箏の琴を御簾の中に差し入れるという演出も哀切きわまりない。藤壷以上の名手だという光源氏の感想も、明石の女の格上げ、最大級の愛の表現になっている。明石の女が「心やましきほどに弾きさし」たのもいい。光源氏が自分の琴を「また掻き合はするまでの形見に」と、明石の許に残してゆくのは、もっといい。「なほざりに頼め置くめる一ことを尽きせぬ音にやかけてしのばむ」という明石の女の歌には、彼女の忍ぶ思いが過不足無く表現されて、「この音違はぬさきにかならずあひ見む」という光源氏の言葉を引き出している。さても二人の、約束の合奏は、いつ実現することになるか。

★法華八講は、須磨・明石の枠組み
帰京後、光源氏が最初に手がけた行事が、桐壺院のための法華八講。彼の復活は、まったくもって桐壺院の霊力であったのであり、これに感謝の意を表するということ。これはまた、遺言の重みを満天下に示すという政治的効果を狙ったものでもあろう。さらには、源氏物語の内部の論理に即せば、これは、賢木巻の藤壷出家のための法華八講と対をなす構想であろう。須磨・明石の受難の時を経て、ようやくここに光源氏が藤壷の意識のレベルに立ちあがったということである。ひれ以後、光源氏と藤壷とは政治のパートナーとなる。以後の源氏物語は、これまでの源氏物語とは異質の物語になることが予測される。