源氏物語4…澪標巻 ・ 蓬生巻 ・ 関屋巻 ・ 絵合巻 ・ 松風巻

 <澪標巻>

第14回 澪標巻・住の江は遥かに遠い眺め

★澪標巻の内容
 1 光源氏、桐壺院の滅罪のための法華八講を十月に催す
 2 朱雀帝満足。光源氏との関係良好。目も回復する。
 3 退位間近。朱雀帝と朧月夜の会話。朧月夜の反省
 4 二月。東宮元服。十一歳。光源氏と瓜二つ
 5 二月二十余日。冷泉帝即位。承香殿女御腹の皇子、東宮に。光源氏、内大臣に就任
 6 致仕の左大臣、摂政太政大臣に復権。六十三歳。宰相中将、権中納言に。四君腹の姫君十二歳、入内の予定。高砂の君、元服。藤原一族の隆盛ぶりを光源氏うらやむ
 7 夕霧、童殿上
 8 光源氏、二条院のみ。外歩きせず。桐壺院の遺産・東院を改築する
 9 三月十六日、明石姫君誕生
10 光源氏、宿曜の予言を思い出す。姫君を迎える準備。東院の完成を急がす
11 姫君の乳母に宮内卿兼宰相の娘を選定。母は桐壺院に仕えた宣旨
12 乳母を訪問。昔を懐かしみ贈答
13 めのと出発。入道の喜び。明石女君の歌
14 光源氏、紫上に女君誕生の件を語る。紫上、愛敬ある嫉妬
15 五月五日。五十日の祝い。光源氏、使者を派遣。上京を促す。乳母の様子
16 明石女君よりの返事届く。紫上の嫉妬。光源氏の慰め
17 五月雨の頃。花散里を訪問する
18 筑紫五節、光源氏を待つ人生を選択。光源氏、彼女東院に迎えようと思う
19 朧月夜、光源氏に距離を置く
20 朱雀院、のどかな暮らし。東宮女御、宮中梨壷との関係良好
21 藤壷、準太上天皇となる。思うままの世。弘徽殿大后の無念。光源氏、気づかう
22 光源氏、兵部卿を冷遇。ここ数年来の世を憚る態度への返報。藤壷の不満
23 八月。権中納言の娘、入内。兵部卿の娘も入内を志すが光源氏応援せず
24 秋、光源氏、願はたしの住吉詣で
25 同時に、明石女君も住吉詣でる。光源氏一行の盛儀に、「身の程」を嘆く。右近将監、良清の姿を認め、光源氏の牛車を遠望する。祓いをするために難波に移る
26 惟光と光源氏の贈答。惟光、明石女君のことを告げる
27 光源氏、難波で御祓い。惟光わ遣わし、明石女君に文をやる
28 明石女君、「みおつくし」の返歌
29 道中の逍遥。光源氏、遊びに心ゆかず
30 帰京もそこそこに明石に文をやり、上京を促す
31 伊勢斎宮交替。六条御息所、帰京。華やかな日々を回復するが、急病を患い出家する
32 光源氏、御息所を見舞う
33 御息所、光源氏に娘を託す。厳重な遺言。光源氏、前斎宮を養女とする決意を固める
34 その七八日後、御息所逝去
35 光源氏の弔問。その後も、見舞いしきり。雪みぞれの日、歌の贈答
36 光源氏、前斎宮の入内を計画する
37 朱雀院より、入内の思し召しあり
38 光源氏、藤壷に入内計画を打ち明ける。藤壷了承、光源氏に助言する
39 紫上に打ち明ける。紫上、喜び入内の準備をする
40 藤壷、兵部卿の娘入内を心配する。弘徽殿卿の娘も同年令。大人しい前斎宮は必要な人材だと思う

★ 政治の季節の到来
光源氏の復権。令外の官・内大臣の位置で振るう闇的権力。政権交代。実子・冷泉帝の即位。十一歳。東宮は三歳にすぎない。過去の人・致仕の左大臣の担ぎだし、摂政太政大臣就任も、六十三歳。周辺はみな飾りにすぎない。パートナー藤壷は准太上天皇となっている。文句あるかといわんばかりの光源氏圧倒的専権図。生殺与奪の権にはじかれた人々の代表が紫上の父・兵部卿。その向こうに描かれぬ八宮がいるという構図。弘徽殿大后への気味の悪い配置は周到な保険だろう。光源氏のしたたかな政治力にもっと注目しよう。

★光源氏の変質を知る朧月夜
善良な朱雀院への回帰。光源氏を手放しで礼賛する朱雀院は過去の朧月夜と考えると分かりやすい。朧月夜は、光源氏の変化を感知し、「二心なき」愛の人・朱雀院を発見。朱雀院に傾斜して行く。朧月夜の心は、退場する朱雀院へのはなむけだけだろえか。大事なものを光源氏が捨てた。それに気づかぬ読者たちへの作者からの警告の意味合いの方が強いのではないか。

★宿曜の予言の開示は過去を変更する
御子三人、帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし。
桐壺巻、光源氏は天皇になる人だという高麗相人や宿曜の見立てがあった。この内容を承知していたのは桐壺帝のみで、光源氏本人が知っていたかどうかは定かではない。藤壷懐妊時、夢占いに「おぼしもかけぬ筋のこと」を告げられたということが若紫巻に記してあった。その具体的内容が、これであって、いまここでようやく披露されたわけである。読者は知らないが、光源氏はこの事実を知っていた。したがって、光源氏の須磨行きは、決して自暴自棄の行為ではなく、ある程度成算を見込んだ政治的行為であつたのだということになる。ということは、夢を信じた明石入道の若い日の行為と、光源氏の先般の行為とは選ぶところがないということになる。明石入道の歓迎振り感激振りがいまさらながら思い起こされよう。かくして、光源氏の須磨・明石は合理化され、屈辱的逃亡のイメージはたちまち払拭され、須磨・明石は「名誉の負傷」に格上げとなる。須磨・明石は、決して光源氏の人生の汚点などではない。

★明石姫君は后になる人
これからの物語は、「后」という結果にたどりつく道程。「いかにして后になるか」「后とはいかなるものなのか」というテーマの教育小説だと観念するとよい。ここから、藤裏葉巻まで、語られるすべてが最高の女子教育に収斂する構造になっていると思って読むと、源氏物語の遠近法をあやまたずにすむと思う。ちなみにいえば、明石姫君の教育の具体例は、澪標巻から藤裏葉巻まで、ほとんど省略されている。

★劫という時間
乳母に託した光源氏から明石女への手紙。
いつしかも袖うちかけむをとめ子が世を経て撫づる岩のおひさき
一刻も早く手元に引き取り養育したいという意思を先ず述べ、この姫君の長寿をことほいでいる。
光源氏は鶴亀や千代に八千代にという一般的発想など問題にしていない。何と「劫(カルパ)」を持ち出している。これは信じられぬ時間単位。天女が百年(三年ともいう)に一度降りてきて、八キロ四方の巨大な岩をその羽衣で一こすりする。これをくりかえし、結果その巨岩が磨滅してしまうまでの時間が、一劫(カルパ)。これを持ち出し、空前絶後の明石姫君の重要性を、作者は表現しているのである。「子持ちの君」の感激、推して知るべしであろう。彼女の返歌は。
ひとりして撫づるは袖のほどなきに覆ふばかりの蔭をしぞ待つ
無条件降伏、であろう。

★住吉のすれ違い
秋。住吉への願果たしの場。現在の光源氏の栄耀栄華の実体を、白日のもと、満天下に示す意味がある。「世の中ゆすりて、上達部、殿上人、われもわれもとつかうまつりたまふ」という盛儀である。たまたま同じ日、住吉に参詣した明石の御方は、この光源氏の威勢に驚嘆。いまさらながら「数ならぬ身」の程を知り、その落差に愕然とする。これによって必然不可避的に招来した自尊心の崩壊が、明石姫君を紫上の養女として差し出す近未来の決断の支持基盤となる。都の頂点に立つ男と、「田舎の人」とは、愛のレベルでは水平であっても、社会的レベルにおいては、提灯と釣鐘。いまさらながらに、この落差を作者は読者に見せつけ確認しているのである。明石の女の人生は、この落差懸崖を這い登る人生であるということも。

★光源氏のイメージは源融
住吉詣での場で作者が「河原の大臣の御例」を持ち出し光源氏のイメージを融にダブらせる。こうしておくと、以後の展開がだいぶ楽になることは確か。源氏最大の栄華の具現者。六条院造営への布石。池は海。都の籠宮は明石姫君の住所。嵯峨別業。棲霞館。宇治山荘は後の平等院。以後の源氏物語の舞台は融の舞台の上の踊り。融は天皇になりたくて果たせず、天皇のような生活で憂さを晴らした。今、光源氏が融の見果てぬ夢を見る、という構図であろう。
みちのくのしのぶもじずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

★澪標とは
百人一首にある有名な元良親王の歌。
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思う
宇多天皇の妃・美女の誉れ高い京極御息所との不倫が露顕し、やぶれっかぶれになった親王の歌。後撰集巻第十三恋五にある歌。澪標は命がけの恋を連想させる言葉である。こでは、身分の落差もものかわ、この恋遂げずにおくものか、という光源氏の強い決意表明として去ろうとする明石女に対する絶対愛の基調音として、この歌が背景に流されている。女よ嘆くな。お前は、大丈夫なのだ。

★そして六条御息所
政権交代で斎宮も代わる。一緒に帰京してきた六条御息所の態度は、朧月夜に似ている。光源氏もまた、「わが心ながら知りがたく」、愛をおしすすめる自身がない。関心はむしろ斎宮の方に移っているように見える。六条御息所はもはや過去の人である。伊勢の別れの月日が、このような作用をしたのである。彼女はまもなく病の床に就き、ためらうことなく出家。見舞いに来た光源氏に厳しい遺言を残して、あっけなく死ぬ。どうしてこんなに事務的にとんとんと作者は処置したのか。恐らく、六条御息所に似、彼女の政治的夢を実現することになる明石女の登場で、彼女の存在する意味が一挙に失われたためだと解釈すべきであろう。

★初めと終りの額縁
前斎宮の入内をめぐって、光源氏と藤壷とが額を寄せあって相談する場面。朱雀院の純愛は注意深く排除され、二人は入内を押し進める。これが、光源氏の須磨・明石の帰結なのである。冒頭の法華八講とこの場面でもって、この巻は巨大な額縁を嵌められた絵となる。政治という額縁である。

 <蓬生巻>

第15回 蓬生巻・光源氏より末摘花の愚直

★蓬生の内容
 1 光源氏の須磨明石時代。忘れられた人々
 2 末摘花の場合
 3 荒廃する常陸宮邸
 4 受領への売却話あり。拒否。宮ゆかりの家具調度も売らず
 5 兄の禅師の君、荒廃を気にせず
 6 築地くずれ、牛飼童勝手に牧場として利用
 7 九月。野分で廊崩壊。盗賊憐れんで入らず。残った寝殿で暮らす。
 8 末摘花、世を慎み、世間との交際を絶つ。古い物語。歌などでわずかに心をなぐさめる
 9 乳母子、侍従、受領の北の方に身を落とした末摘花の叔母のもとに通う。叔母の同情と憎まれ口
10 叔母、末摘花を娘の使用人とする魂胆。末摘花、叔母の誘いに応ぜず
11 叔母の夫、大弐に就任。末摘花を連れて行こうとする。末摘花応ぜず
12 光源氏帰京。末摘花のことを失念し思い出さない。末摘花嘆きの日々を送る
13 叔母、再び誘う。侍従、大弐の甥と恋仲になり同道する決意を固め、末摘花を誘う。末摘花、光源氏を信じて待つ道を選ぶ
14 冬。光源氏法華八講。参加した兄の阿闍梨の報告。光源氏は仏菩薩の変化の身。絶望的になる末摘花
15 叔母の来訪。叔母の親切ごかしの口舌。末摘花、ここで朽ちる決意を言う
16 叔母、侍従を伴うことを言う
17 侍従との別れ。末摘花、自らの髪でつくった鬘と薫衣香一壷を餞別に与える。玉鬘の贈答。侍従去る。老婆の嘆き
18 十一月。越の白山状態の末摘花邸
19 光源氏、紫上に夢中。末摘花を思い出すも訪れず
20 四月。光源氏、花散里の許に行く
21 森のような末摘花邸を通りかかる。光源氏、思い出し、惟光に消息せよと命ず
22 末摘花、昼寝の夢に父宮を見、歌を詠む
23 惟光、末摘花の所在を確認し、光源氏に報告
24 光源氏、邸内に入る。惟光が露を払って先導する
25 末摘花、叔母からもらった衣を着て待つ。煤けた几帳はそのまま
26 再会した光源氏の優しい言葉
27 光源氏、辞去。末摘花との贈答
28 荒廃した邸内と変わらぬ雅。光源氏深く反省する
29 賀茂祭の頃。光源氏、末摘花邸を応急修理。援助を厚くし、近々二条東院に移る準備をするよう伝える
30 光源氏と末摘花の宿縁
31 離散した女房達帰還。常陸宮邸、光源氏の力で復旧する
32 二年後、末摘花二条東院に移る。敬意をもって遇される
33 叔母大弐北の方の驚き。侍従の後悔

★縦の並び
若紫・紅葉賀の両巻と時間を同じくし、その裏側に位置した末摘花巻の手法が再現されている。この巻の表側は澪標巻。同時の裏側から光源氏の栄耀栄華を透かしてみようというのがこの巻の目的。何せ主役が末摘花。奇麗事は徹底して排除され、身も蓋もない『今昔物語』的現実暴露の物語が予想される。

★人情の自然
羽振りがよくなると集まり、悪くなると散ってゆく女房階級の現金さ。彼女たちにも生活がある。背に腹は変えられないということか。貧乏暮らしに慣れていた者が、一旦普通の暮らしを経験すると、再度の貧乏には「いと堪へがたく思ひ嘆く」ことになる。これも人情の自然である。「女ばらの命堪へぬもありて」は残酷なお笑い。

★父に殉ずる宮家の女
困窮した貴族のところに、えげつない現実が襲ってくる。家を買いたいという成金受領。名工の作品を欲しがる悪徳骨董蒐集家。末摘花が頑として拒否し、家と調度にこだわったのは、ここで過ごし、これを見よと残してくれた父・常陸宮の「御本意」のためである。父に殉ずる女。この巻の末摘花は、遠い宇治八宮の娘・大君の祖形で、ある。ちなみに、その八宮はこのころが全盛時代。弘徽殿大后によって東宮擁立が画策されていた頃。末摘花は、父の意思を守って幸せになる女、という点で大君とは違う。その意味では、父の意思を継ぐ女である明石の女との関連を、ここはおさえておく必要があろう。そうすると、末摘花の存在が、明石の女の突出を抑制する効果を狙っていることも理解されよう。

★叔母のおためごかし
「世におちぶれて受領の北の方になりたまへる」。最高貴族が落ちぶれて受領風情の男と結婚している。常陸宮家では、これを「面伏せにおぼした」。宮家の恥。この叔母は、自分の意思でもって下賎な受領階級の男の許に走ったという設定である。明石入道の人生選択と一脈通じるものがあることに注意しよう。が、彼女には、明石入道のように再挙を期するなどという気はさらさらなく、色と欲に生きる反貴族的人物で、行い正しい末摘花や浮き世離れした仏道の人・禅師君の対極に位置する女である。しかし、彼女の選んだ男が、九州の事実上の支配者である大弐に出世しているところを見ると、以外に彼女、男と時代を見る目があった女であることも事実であろう。が、高級貴族の娘が受領の妻になる。これが、いかに面目を失墜することか。後宮に入ることが予定されていた空蝉が、伊予の介の妻となっている屈辱が、いまさらながら理解される。その空蝉が、次の巻で登場してくるのも、心理的な流れに沿った処置といえよう。

★叔母の言葉と現状認識
 故宮おはせし時、おのれをば面伏せなりとおぼし捨てたりしかば、うとうとしきやうになりそめしかど、年ごろも何か。やむごとなきさまにおぼしあがり、大将殿などおはしまし通ふ御宿世のほどをかたじけなく思ひたまへられしかばなむ、むつびきこえさせむも憚ること多くて過ぐしはべるを、世の中のかく定めもなかりければ、数ならぬ身は、なかなか心やすくはべるものなりけり。及びなく見たてまつりし御ありさまのいと悲しく心苦しきを、近きほどはおこたるをりものどかに頼もしくなむはべりけるを、かくはるかにまかりなむとすれば、うしろめたくあはれになむおぼえたまふ。
(このまま朽ちる決意を聞いて)
 げにしかなむおぼさるれど生ける身を捨てて、かくむくつけき住ひするたぐひはべらずやあらむ。大将殿の造り磨きたまはむにこそは、引きかへ玉の台にもなりかへらめとは、頼もしうははべれど、ただ今は式部卿の宮の御女よりほかに心わけたまふかたもなかなり。昔よりすきずきしき御心にて、なほざりに通ひたまひける所々、皆おぼし離れにたなり。まして、かうものはかなきさまにて藪原に過ぐしたまへる人をば、心きよくわれを頼みたまへるありさまと尋ねきこえたまふこと、いとかたくなむあるべき
(末摘花も納得し泣く)

★侍従との別れ
侍従は大弐の甥との恋におち、行く恋人と止まる主人の板挟みとなる。末摘花に北九州行きを勧めて果たせず、結局、恋を選んで西下する。末摘花は光源氏と父の家を選択したわけである。叔母の言葉で光源氏への信頼感が揺らいでしまった今、侍従との別れは切ない。末摘花は乳母、つまり侍従の母の遺言をもちだしている。「まま」の遺言を破ってお前は行くのか。この「まま」という乳母の呼称がひどく印象に残る。これは、ほとんど今の「かあちゃん」に相当する語なのではあるまいか。浮舟巻に、乳母を「まま」と呼んでいる例がある。源氏物語における遺言の重さを侍従は知らない。おそらく彼女の未来はロクなことはないだろう。と読者は思うかもしれない。

★鬘
平安時代の女性は、抜け毛も大事に取っておいたことが分かる。鬘にするためである。これで末摘花は「九尺余」の鬘を作っていたらしい。これを去りゆく侍従の餞に与えたのである。王朝女性の誇り、長い黒髪は一部鬘であったのである。

★末摘花の歌
(侍従へ)
絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら思ひのほかにかけ離れぬる
(夢に故宮を見て)
亡き人を恋ふる袂ひまなきに荒れたる軒のしづくさへ添ふ
(泊まらぬ光源氏へ)
年を経て待つしるしなきわが宿を花のたよりに過ぎぬばかりか
末摘花巻で歌が詠めなかった彼女も、苦労と学修で、上手い歌を詠んでいる。この巻の末摘花は、喜劇役者ではない。彼女は立派な一人の女、それも尊敬に値する女性として花散里と同列に遇されている。

★残酷な省略
「霜月」十一月、越の白山みたいな末摘花の庭の様を簡単に書き、四月まで省略している。冬が過ぎ、春がすぎても、光源氏は訪れなかったわけである。残酷な省略というべきだろう。時が末摘花に止めをさしてしまいそうな展開。なお、この時期に政権交替がおこなわれる。冷泉帝の即位、光源氏の内大臣就任。致仕の左大臣が摂政太政大臣となる。澪標巻で見た通り。政権の中枢にいる光源氏は多忙を極めた時期であるから、彼にも少しは同情すべきであろう。光源氏は、全く末摘花のことを思い出さなかったわけではない。「その人はまだ世にやおはすらむ」と、ふと思う折もあったのだが、そのうちにと思っているうちに時が経っていったのである。忙しい男が作りがちな、自ずからの罪、不義理である。したがって、経済的援助も忘れたままであったと知れる。酷い話だが、よくありそうな話ではないか。しかし、無意識の罪は、かくも残酷な結果を生む。末摘花の場合は、偶然によって結果的に救われるからまだよい。筑紫の五節など、この無意識の罪が現実のものとなる。

★光源氏の優しい言葉
 入りたまひて、「年ごろの隔てにも、心ばかりは変わらずなん思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨めしさに、今まで試みきこえつるを、杉ならぬ木立のしるさにえ過ぎでなむ負けきこえにける」とて、帷子をすこしかきやりたまへれば、例の、いとつつましげに、とみにも答へきこえたまはず。かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思ひおこしてぞほのかに聞こえ出でたまひける。「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれもおろかならず。また変わらぬ心ならひに、人の御心の中もたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどをいかが思す。年ごろの怠り、はた、なべての世に思しゆるすらむ。今より後の御心にかなはざらむなん、言ひしに違う罪も負ふべき」など、さしも思されぬことも、情々しう聞こえなしたまふことどもあめり。

★変わらぬ心
光源氏は自分の「変わらぬ心ならひ」を言う。変わらぬのは、光源氏の方ではなく、末摘花の方であること、もはや言うまでもない。光源氏は、この巻で末摘花によって相対化されているのだ。しかし、「都に変わりにけることの多かりけるも、さまざまあはれになむ」と認識する光源氏には、「変わらぬ心」の人・末摘花の価値は痛いほど理解できたものと推察される。このあたりで、読者は、不変不動の人・末摘花の強調が、光源氏の政治姿勢を炙りだす効果をねらったものだということに気づくはずである。政治的転向者に対する光源氏の姿勢は甘くはないのではないかと。

★復活劇
おしなべたる世の常の人をば目とどめ耳たてたまはず」という光源氏が、人並みとはとても思えない末摘花の、こうした破格の待遇は、どういう光源氏の心から発したものなのか。語り手も思案投げ首で「これも昔の契りなめりかし」という古風な解釈でもって投げ出している。後は読者次第ということか。昔の契りの「昔」を、前世というのではなく、常陸宮が現役であった時代のことだと仮定すると、末摘花の構想がみえてくるのではないか。これも、明石一族の話と同様、昔の勢力の復活劇なのだ。

★巻末の口上
「今すこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたう、うるさく、もの憂ければなむ。今またもついであらむをりに、思い出でてなむ聞こゆべきとぞ」という語り手の口上は、まったく帚木三帖の語り手と同じである。本編とはだいぶ発想の違う下品で露骨な話をしてやったわい、といったところであろう。この「問はず語り」という語は惟光の応対に出た「侍従が叔母の少将といひはべりし、老人」を思わせ、この巻は、彼女が語っているのではないかと想像させる語句である。

 <関屋巻>

第16回 関屋巻・空蝉の夢は清水のように

★関屋巻本文
 伊予介といひしは、故院崩れさせたまひてまたの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居もはるかに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へきこゆべきよすがだになく、筑波嶺の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて年月重なりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ常陸は上りれる。
関入る日しも、この殿、石山に御願はたしに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守などいひし子ども、迎へに来たる人々、この殿かく詣でたまふべしと告げければ、道のほど騒がしかりなむものぞとて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、ところせうゆるぎ来るに、日たけぬ。打出の浜来るほどに、「殿は粟田山越えた、まひぬ」とて、御前の人々、道も避りあへず来こみぬれば、関山にみな下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかきおろし、木隠れにゐかしこまりて過ぐしたてまつる。車などかたへは後らかし、前に立てなどしたれど、なほ類ひろく見ゆ。車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども漏り出でて見えたる、田舎びずよしありて、斎宮の御下り何ぞやうのをりの物見車思し出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、みな目とどめたり。
 九月晦日なれば、紅葉のいろいろこきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋よりさとはづれおろしたまひて、出でたる旅姿どもの、いろいろの襖のつきづきしき縫物、括り染のさまもさる方にをかしう見ゆ。御車は簾おろしたまひて、かの昔の小君、今は衛門佐なるを召し寄せて、「今日の御関迎へは、え思ひ棄てたまはじ」などのたまふ。御心の中いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とり返してものあはれなり。
   行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかしと思ふに、いとかひなし。
 石山より出でたまふ御迎へに衛門佐参れり。一日まかり過ぎしかしこまりなど申す。昔、童にていと睦ましうらうたきものにしたまひしかば、かうぶりなど得しまで、この御徳に隠れたりしを、おぼえぬ世の騒ぎありしころ、ものの聞こえに憚りて常陸に下りしをぞ、すこし心おきて年ごろは思しけれど、色にも出だしたまはず、昔のやうにこそあらねど、なほ親しき家人の中には数へたまひけり。紀伊守といひしも、今は河内守にぞなりにける、その弟の右近将監解けて御供に下りしをぞ、とりわきてなし出でたまひければ、それにぞ誰も思ひ知りて、などてすこしも世に従ふ心をつかひこけんなど思ひ出でける。
 佐召し寄せて御消息あり。今は思し忘れぬべきことを、心長くもおはするかなと思ひゐたり。「一日は契り知られしを、さは思し知りけむや。
   わくらばに行きあふみちを頼みしもなほかひなしやしほならぬ海
関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」とあり。
「年ごろのと絶えもうひうひしくなりにけれど、心にはいつとなく、ただ今の心地するならひになむ。すきずきしう、いとど憎まれむや」とてたまへれば、かたじけなくて持て行きて、「なほ聞こえたまへ。昔にはすこし思し退くことあらむと思ひたまふるに、同じやうなる御心のなつかしさなむいとどありがたき。すさびごとぞ用なきことと思へど、えこそすくよかに聞こえかへさね。女にては負けきこえたまへらむに、罪ゆるされぬべし」など言ふ。今はましていと恥づかしう、よろづのことうひうひしき心地すれど、めづらしきにやえ忍ばれざりけむ、
   あふさかの関やいかなる関なれば繁きなげきの中をわくらん
「夢のやうになむ」と聞こえたり。あはれもつらさも忘れぬふしと思しおかれたる人なれば、をりをりはなほのたまひ動かしけり。
 かかるほどに、この常陸守、老の積もりにや、なやましくのみして、もの心細かりければ、子どもに、ただこの君の御事をのみ言ひおきて、「よろづのこと、ただこの御心にのみまかせて、ありつる世に変らで仕うまつれ」とのみ明け暮れ言ひけり。女君、心憂き宿世ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれまどふべきにかあらんと思ひ嘆きたまふを見るに、「命の限りあるものなれば、惜しみとどむべき方もなし。いかでか、この人の御ために残しおく魂もがな。わが子どもの心も知らぬを」とうしろめたう悲しきことに言ひ思へど、心にえとどめぬものにて、亡せぬ。
 しばしこそ、さのたまひしものをなど情づくれど、うはべこそあれ、つらきこと多かり。とあるもかかるも世の道理なれば、身ひとつのうきことにて嘆き明かし暮らす。ただこの河内守のみぞ、昔よりすき心ありてすこし情がりける。「あはれにのたまひおきし、数ならずとも、思し疎までのたまはせよ」など追従し寄りて、いとあさましき心の見えければ、うき宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはてはめづらしきことどもを聞き添ふるかなと人知れず思ひ知りて、人にさなむとも知らせで尼になりにけり。ある人々、いふかひなしと思ひ嘆く。守もいとつらう、「おのれを厭ひたまふほどに、残りの御齢は多くものしたまふらむ、いかでか過ぐしたまふべき」などぞ。あいなのさかしらやなどぞはべるめる。

★逢坂の関
      逢坂の関に庵室を作りては住み侍りけるに、行きかふ人を見て、               蝉丸
   これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬもあふさかの関
                                  (後撰和歌集巻第十五雑一)
      少将に侍りける時、駒迎えにまかりて                                大弐高遠
   逢坂の関の岩角踏みならし山立ち出づる桐原の駒
                                  (拾遺和歌集巻第三秋) 
      延喜御時月次御屏風に                                         貫之

   逢坂の関に影見えて今や引くらん望月の駒
                                  (拾遺和歌集巻第三秋)
     上の男ども、所の名を探りて歌たてまつり侍りけれに、逢坂の関の恋をよませたまひける   白河天皇

   逢坂の名をもたのまじ恋すれば関の清水に袖もぬれけり
                                  (後拾遺和歌集巻第十一恋一)

★それぞれの出世
伊予介から常陸介は、上国から大国への出世。紀伊守から河内守も、上国から大国へと出世している。伊予介父子は、光源氏の暗黒時代に、時の権力に取り入ったことを意味する。光源氏派から反光源氏派への転向である。昔、あれほど光源氏に可愛がられた小君(今の衛門佐)も同じ、光源氏を裏切ったのだ。受領階級の悲しい性だが、光源氏全盛時代が開始する今、彼らに未来は無い。行く人と来る人。日の出の勢いの光源氏と落日の常陸一族。その中に光源氏への愛を失わぬ空蝉がいるという構図である。空蝉の心、光源氏に届くやいなや。

★変わらぬ心。右近将監の存在
彼が、伊予介の子、紀伊守・小君と兄弟だったとは。須磨明石に身を捨てて同道した彼の変わらぬ心は、特筆物で、他の連中の情けない転向ぶりを際立たせている。

★二心ない愛。常盤介の心中
光源氏側ではなく、常盤介側に立って、常陸介の生きざまを眺めると、別の見地が成立する。光源氏に対する伊予介の背信行為は、死んでも魂を残しておきたいという空蝉に対する彼の絶対愛から出た行為である。光源氏に殉じて経済的に破綻することは、空蝉のために断固避けねばならない。それよりも何よりも、彼は光源氏の魔手から空蝉を護ることこそ自分の使命だと考えていたのではないか。彼は、光源氏と空蝉の一件を先刻承知していたにちがいない。伊予介は、己の出世のために、命懸けで愛している妻・空蝉を人身御供とする、そういう人生を断然拒否したのである。老いの一徹。彼は光源氏を見限り、弘徽殿大后方に転向した。そう考えておくべきではないか。

★藤壷の影は帚木の面目
夫の死後、義理の息子・河内守に言い寄られて出家する空蝉。空蝉は、最後に再度藤壷のイメージをちらつかせてスッといなくなる。帚木の原理は健在である。そして、読者の意識を藤壷に戻して、次の巻に係げている。どうやら藤壷退場の時も迫っているのではと感じた読者も少なくないのではないか。作者は、藤壷にもう一花咲かせて、そうする。

★その後の空蝉
初音巻によれば、空蝉は光源氏に引き取られ、二条東院で、末摘花とともに生涯を過す。「絶えぬ清水」の空蝉は、その心を光源氏に認められ小さな幸せでもって、人生を全うさせられる。もって瞑すべきというべきか。

★空蝉のまとめ
当初、彼女は桐壷帝後宮に入る予定の高貴な女性であった。が、父の死で、この計画は破綻する。その後、運命は暗転し、老いた伊予介の後妻となって受領階級に身を落とす。夫からは二心なく愛されていたのだけれども、彼女としては無念の結婚生活であった。そんなある日、光源氏が方違をし、中川にあった伊予介の息子・紀伊守の家にやって来る。たまたま隣の部屋に寝ていた彼女は、彼女に興味のあった光源氏に踏み込まれ、一夜の契りを結ぶことになる。夢のような光源氏、娘時代に逢いたかった光源氏ではあったが、間違いはその一夜のもで、その後の彼女は強靭な意志力を発揮して伊予介の妻としての人生を選択し、弟の小君を手なずけ案内役としてやってくる光源氏を拒み続けた。二度目の時は、渡殿の女房たちのなかに紛れてやりすごしたし、三度目の来訪時は、光源氏の接近を察知するや、まとっていた衣をそのまま身体ひとつで抜け出し、虎口を脱す。さすがの光源氏も残された衣を手に諦めるほかなかったのである。その後、光源氏は夕顔に没頭するところとなり、空蝉も夫の任地・伊予にゆくことになって、二人はいつしか疎遠となる。彼女の夫・伊予介であるが、最初は光源氏の走狗的存在であった。世の中が変わり、反光源氏の弘徽殿大后の時代になるや、大后派に寝返り、常陸介という破格の出世をとげている。空蝉も当然、その夫とともに東国に赴いた。さらに三たび世が変わり、須磨・明石に沈倫していた光源氏が復活、世はあげての光源氏時代となる。石山寺に豪勢な御礼参りをする光源氏と、任を終え東国から帰京する常陸介一行が、逢坂関で運命的に出合い、光源氏にたいする空蝉の慕情は、当地の関の清水のように今も尽きせぬものであったが、もはや昔は帰らない。それからまもなくして老夫が死ぬ。と、かねてより空蝉に気があった義理の息子・河内守(昔の紀伊守)が言い寄ってきた。彼女はこれを嫌い出家する。その後の彼女は二条東院にひきとられ、彼の庇護のもと、仏道三昧の安穏な日々をおくる。彼女の思いが光源氏に届いたものと考えられる。

 <絵合巻>

第17回 絵合巻・恫喝・須磨忘るべからず

★この巻の内容
 1 前斎宮の入内。藤壷の肝入りとし、光源氏表に立たず。
 2 朱雀院より、わざとがましい贈り物来る。歌あり
 3 光源氏、朱雀院の純情に同情
 4 前斎宮の返歌
 5 光源氏の思念。政略結婚のこと
 6 入内。大人びた女御と幼い帝。光源氏をはばかりつつも同世代の弘徽殿女御への親近感あり。権中納言の辛い思い。
 7 朱雀院の無念。光源氏来訪、朱雀院の思いをあらためて知る
 8 女御のふるまいの上品さ。光源氏いまだ顔を見る機会を得ず
 9 寵愛を分け合うふた所。兵部卿娘、入内延期。他日を期す
10 帝絵を好む。絵の上手い斎宮女御に心惹かれる。権大納言対抗し、絵を弘徽殿に集める。物語絵、月次の絵を蒐集、秘めて見せず。光源氏苦笑
11 光源氏、古体の絵を献上。長恨歌絵や王昭君絵はその内容から除外
12 須磨の絵日記を取り出し、紫上とともに見て懐旧。中宮に見せる意思あり。気にかかる明石の女
13 三月十日頃。権中納言の贅を尽くさせた巻子本
14 梅壷女御、古典。弘徽殿女御は現代の物語絵を用意
15 藤壷中宮御前の絵合
16 竹取物語と宇津保物語の対決
17 伊勢物語と正三位の対決「業平が名を朽たすべき」
18 光源氏参内。展覧歌合を提案
19 新作禁ずるも権大納言フライング
20 朱雀院から、梅壷女御のもとに絵がとどく。中に斎宮下向の時の大極殿の有様を描かせたものがある。昔を忘れぬ二人の贈答
21 朱雀院の絵、朧月夜の絵、弘徽殿方にもとどく
22 展覧歌合の盛儀。光源氏、権大納言参加。帥宮判者。殿上人は後涼殿の簀子
23 古体の梅壷方、新体の弘徽殿方互角の勝負
24 藤壷中宮も参加。光源氏、判者に助言などする。決しかねて夜に及ぶ
25 最後に光源氏の「須磨の巻」が出る。万座感動これに尽きる。左梅壷方の勝利
26 夜明け方近くの竟宴。光源氏と帥宮の清談。光源氏の学問才芸の実体
27 三月二十余日。有明月出る。和琴を権中納言、箏を帥宮、光源氏は琴、琵琶は少将の命婦で、あさぼらけの合奏
28 須磨絵は中宮の許に。帝の満足。権中納言の不安
29 盛りの世。初例の始まり
30 光源氏の出家意識。山里に御堂を造営。末の君たちの気がかり

★斎宮女御のこと
醍醐天皇皇子、三品式部卿重明親王の娘。徽子女王。母は貞信公藤原忠平の娘、寛子936年斎宮卜定。八歳945年、母の喪で退下。948年入内。翌年村上天皇女御となる。二十一歳。天皇より三歳年上である。承香殿女御歌合を主催。975年、娘の規子内親王が斎宮に卜定。伊勢に同行している。985年卒。五十七歳。歌人。斎宮女御と呼ばれる。
     さらでだにあやしきほどの夕暮に荻吹く風の音ぞ聞こゆる
は、女御時代の歌

★天徳内裏歌合
村上天皇の天徳四年(960)三月三十日、本邦初の天覧の歌合が挙行されている。いわゆる「天徳内裏歌合」である。十二の題にそれぞれ左右の歌人があらかじめ詠んだ歌を提出、講師が読み上げ、判者(左大臣藤原実頼)が勝敗を決する。番数は二十。十六番からは四番連続で「恋」の題で争われている。その最後の勝負が有名な壬生忠見と平兼盛の歌。
     恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思いそめしか      (左 忠見)
     忍ぶれど色にでにけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで         (右 兼盛)
勝負の判定は判者の能力をこえ、天皇の意思によって右勝ちと決した。忠見はこれを苦にして死んだという伝説が生れている。なお、この日の記録は、村上天皇の「御記」、蔵人の記録「殿上日記」、および女房による記録「仮名日記」三種が残り、その日の詳細を知ることが出来る。絵合巻は、この天徳内裏歌合を参孝にしつつ構成されている。

★竹取物語の発想
物語の出き来はじめの親なる竹取物語の翁に于津保の俊蔭を合はせて争う。「なよ竹の世々に古りにむること、をかしきふしもなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契りたかく、神世のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」と言うふ

★業平が名をや朽たすべき
次に伊勢物語に、正三位を合はせて、また定めやらず。これも右はおもしろくにぎははしく、内裏わたりよりうちはじめ近き世のありさまを描きたるは、をかしう見どころまさる。平内侍、「伊勢の海のふかき心をたどらずてふりにし跡と波や消つべき世の常のあだごとのひきつくろひ飾れるにおされて、業平が名をや朽すべき」と争ひかねたり。
右の典侍、
雲のうへに思ひのぼれる心には千ひろの底もはるかにぞ見る
藤壷「兵衛の大君の心高さはげに棄てがたけれど、在五中将(在原業平)の名をばえ朽さじ」とのたまはせて、宮、
見るめこそうらふりぬらめ年へにし伊勢をの海人の名をや沈めむ
かやうの女言にて乱りがはしく争ふに、一巻に言の葉を尽くしてえも言ひやらず。ただ、あさはかなる若人どもは死にかへりゆかしがれど、上のも、宮のも片はしをだにえ見ず、いといたう秘めさせたまふ。

★絵師の逸話
『源氏物語』以前における、平安時代の有名な絵師について述べれば。文徳天皇の頃の百済川成。彼は迷い子になった従者を似顔絵で捜させたり、飛騨の匠とその技を競ったりしている。宇多・醍醐時代の巨勢金岡。彼が描いた馬は夜々草を食いに田に出たという。村上天皇の頃、純友の首の絵をかいて天覧に供した掃守在上。一条天皇時代には、地獄変の絵をかいて命を縮めた巨勢広高。なかなか絵の盛んな時世であった。粟田関白・藤原道兼も、障子の絵に諸国の名所を描かせ、絵物語を描かせ、かつ蒐集していた。この巻の権中納言を髣髴させる話だ。

★光源氏の回想と帥宮(そちのみや)の批評
夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、御土器などまゐるついでに、音の御物語ども出で来て、源氏「いはけなきほどより、学問に心を入れてはべりしに、すこしも才などつきぬべくや御覧じけむ、院ののたまはせしやう、才学といふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命、幸ひと並びぬるはいと難きものになん。品高く生まれ、さらでも人に劣るまじきほどにて、あながちにこの道な深く習ひそと諫めさせたまひて、本才のかたがたのもの教へさせたまひしに、拙きこともなく、またとりたててこのことと心得ることもはべらざりき。絵描くことのみなむ、あやしく、はかなきものから、いかにしてかは心ゆくばかり描きてみるべきと思ふをりをりはべりしを、おぼえぬ山がつになりて、四方の海の深き心を見しに、さらに思ひよらぬ隈なくいたられにしかど、筆のゆく限りありて、心よりは事ゆかずなむ思うたまへられしを、ついでなくて御覧ぜさすべきならねば、かうすきずきしきやうなる、後の聞こえやあらむ」と、親王に申したまへば、帥宮「何の才も、心より放ちて習ふべきわざならねど、道々に物の師あり、まねびどころあらむは、事の深さ浅さは知らねど、おのづからうつさむに跡ありぬべし。筆とる道と碁打つこととぞ、あやしう魂のほど見ゆるを、深き労なく見ゆるおれ者も、さるべきにて描き打つたぐひも出で来れど、家の子の中には、なほ人に抜けぬる人の、何ごとをも好み得けるとぞ見えたる。院の御前にて、親王たち、内親王、いづれかはさまざまとりどりの才ならはさせたまはざりけむ。その中にも、とりたてたる御心に入れて伝へうけとらせたまへるかひありて、文才をばさるものにていはず、さらぬことの中には、琴弾かせたまふことなん一の才にて、次には横笛、琵琶、箏の琴をなむ次々に習ひたまへると、上も思しのたまはせき。世の人しか思ひきこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふあだ事とこそ思ひたまへかし、いとかうまさなきまで、いにしへの墨書きの上手ども跡をくらうなしつべかめるは、かへりてけしからぬわざなり」と、うち乱れて聞こえたまひて、酔泣きにや、院の御事聞こえ出でて、みなうちしほたれたまひぬ。

★光源氏の政治ショー
須磨の絵を最後の最後に提出し、接戦に決着をつけた光源氏。予定の行動で、しかも予想通りの結果を得る。この絵合の企画および演出は、完全に光源氏である。須磨の具体的な映像をもちだし、全貴族に光源氏体験をさせる。帝は当然として権中納言、帥宮、そして藤壷以外の貴族たち、なかんずく後涼殿に控える「殿上人」は、いずれも皆、今やまさしく転向者であるのだから、須磨は彼らにとって死んでも触れられたくない過去の傷である。それを、一番派手な場所に持ち込み、全員に突きつけた光源氏のこの行為は、政治的効果抜群であったと思われる。源氏物語の踏み絵。「須磨、忘るべからず」。光源氏は心の底で、転向者を決して許してはいないのだ。朱雀院への態度はその象徴だ。と、参加者はもちろん、読者をも震え上がらせる効果が、この行為にはある。これは、蓬生・関屋の流れからの自然な帰結である。

★須磨・明石の強調
このあたりの源氏物語の流れをさらに大きく眺めれば、この巻が明石御方と姫君が上洛する前奏曲としての意味・機能があることに気づくはずた。絶対的に強調される「須磨忘るべからず」の発想は、この絢乱豪華な巻を、次の松風巻で描かれる明石姫君登場のための前座となしてしまうのだ。このあたりで、明石一族に賭ける作者の心意気の底知れなさを、読者はそろそろある種の恐怖感をもって気付くべきなのである。

★嵯峨野釈迦堂の意味(光源氏出家の用意)
986年  三国伝来の釈迦像大宰府へ
987年  釈迦像入京。大極殿に安置。毎日一斗の白米を供養される。
988年  チョウ然弟子渡宋
990年  弟子帰朝
某年   釈迦像下げ渡される。チョウ然、源融の嵯峨野別業・棲霞観の跡地に「小堂」建立、阿弥陀像を安置する。
1008年 源氏物語成立
1016年 チョウ然死亡。紫式部もこの頃死亡
後、弟子の盛算が清涼寺を建立。天竺の霊鷲山、震旦の五台山の土を入れた基檀の上に釈迦堂を作る。
光源氏は、チョウ然が釈迦を安置した場所に嵯峨御堂を造っている。紫式部は、自らの源氏物語という虚構のなかで、光源氏に清涼寺を建てさせたのだと考えると面白い。光源氏は釈迦という式部の秘かなメッセージを感じないか。

 <松風巻> 

第18回 松風巻・夜光珠、嵯峨野を照らす

★この巻の内容
 1 二条東院完成。花散里西対に移住。東対は明石用。北対はその他大勢のために
 2 明石君に上京を勧める。明石の逡巡と悩み
 3 明石入道、大堰別邸に一旦移すことを決意。宿守を呼んで語らう
 4 宿守の陳情を認める。別邸の修復始まる。
 5 入道、完成したのち光源氏に報告。惟光を派遣。海岸の風情がある由
 6 光源氏の嵯峨御堂もこの頃完成。大覚寺の南。滝殿あり
 7 光源氏の迎え来る。去りがたき明石。尼君の思い
 8 秋。明石を立つ。「夜光りけむ玉」。入道の述懐
 9 やつした船旅。予定の日に大堰到着。尼君、昔を思い出す。光源氏、すぐには来れず
10 明石御方、形見の琴を弾く。松風の響き
11 光源氏、紫上に断って、大堰へ。紫上「斧の柄」を言う
12 夕刻到着。明石御方、若君との再会。乳母とも
13 翌日、光源氏、遣り水の手入れ。見る尼君(明石の母)の喜び
14 光源氏、尼君と語る。親王の昔語り。尼君の感激
15 光源氏、嵯峨御堂に渡る。普賢講、阿弥陀、釈迦念仏三昧の用意をして、月明かりの頃大堰に帰る
16 光源氏、明石御方、琴の合奏。光源氏、若君の処置を思う
17 三日目、帰京の予定。早朝、殿上人たち大勢が迎えに来る。乳母、姫君を抱いて見送り。明石御方、うながされて見送り。光源氏のものものしい風姿
18 靫負尉、旧知の女房と語る。ほどほどの恋
19 桂殿に移行。終日遊宴。月の頃、管弦の遊び
20 勅使来る。帝と光源氏の贈答。勅使への引き出物、大堰に命ずる。人々、懐旧の歌あり
21 四日目の早朝、二条院へ帰る。光源氏、紫上を慰める。明石御方への文。女房たち憎む
22 光源氏、宮中へ。宿直のよていを変更し二条院へ帰る。明石御方からの返書届く。紫上に見せる。ついでに、姫君を養女とする提案。紫上心動く
23 大堰へは、御堂の念仏がてら月二度の逢瀬のみ

★兼明親王
醍醐天皇第十六皇子。七歳の時、賜姓源氏。971年左大臣。975年嵯峨に別荘。亀山神に水を祈請、清水湧出。977年、関白藤原兼道の、弟、兼家憎悪のとばっちりで、左大臣を罷免され親王に戻され、中務卿とされた。前中書王・小倉親王の名はこれによる。当時最高の漢詩人で、中国にあれば『文選』に選ばれたであろうと唐の人に言われたという名作『菟裘賦(ときゅうのふ)』は、この時の屈辱を歌ったものである。晩年は嵯峨山荘に移り自適の日々をすごした。後世、太田道灌説話で有名になる七重八重花の山吹歌は、元々は親王の実話である。紹介すると、
 小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり。心もえでまかりすぎて又の日、山吹の心えざりしよしいひおこせて侍りける、返りにいひつかはしける。
                                                   中務卿兼明親王
      ななへやへ花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき   (後拾遺集巻第十九雑五)
親王の生没年代は、914〜987。                                                

★公任の歌
 大学寺に人々あまたまかりけるに、古き滝を詠み侍りける
                                                 右衛門督公任
 滝の糸は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ        (拾遺集巻第八雑上)

★夜光る玉
明石入道が明石姫君のことを「夜光りけむ玉」と表現したのは面白い。夜光る玉は、籠宮にある秘宝中の秘宝だということを知ってここを読むと、明石入道の世界が神仙界のイメージとなる。この操作は、明石のイメージアップ作戦の一環である。こうすると、明石姫君の育ちの悪さなど吹っ飛んでしまう。彼女は籠宮という神仙界から来た異界の人で、不可能を可能にする存在なのだ。夜光る玉については、既に述べた「柳毅伝」などを参照すると理解が容易になろう。明石と玉との関係についていえば、『日本書紀』充恭天皇十四年秋の条に明石の海から霊験あらたかな真珠を得た話がある。明石の構想の核として、この話が作者の胸中にあったのではないかと推察したい。

★入道の述懐
「世の中を棄てはじめしに、かかる他の国に思ひ下りはべりしことも、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもやと思ひたまへたちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかば、さらに都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、貧しき家の蓬葎どものありさまあらたむることもなきものから、公私にをこがましき名を弘めて、親の御亡き影を辱めむことのいみじさになむ、やがて世を棄てつる門出なりけりと人にも知られにしを、その方につけては、よう思ひ放ちてけりと思ひはべるに、君のやうやうおとなびたまひもの思ほし知るべきにそへては、などかう口惜しき世界にて錦を隠しきこゆらんと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりはべりしままに、仏神を頼みきこえて、さりともかうつたなき身にひかれて山がつの庵にはじまりたまはじと思ふ心ひとつを頼みはべりしに、思ひよりがたくてうれしきことどもを見たてまちりそめても、なかなか身のほどをとざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむもいとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心まどひはしづめがたけれど、この身は長く世を棄てし心はべり、君たちは世を照らしたまふべき光しるければ、しばしかかる山がつの心を乱りたまふばかりの御契りこそはありけめ、天に生まるる人の、あやしき三つの途に帰るらむ一時に思ひなずらへて、今日長く別れたてまつりぬ。命尽きぬと聞こしめすとも、後のこと思しいとなむな。避らぬ別れに御心動かしたまふな」と言ひ放つものから、「煙ともならむ夕まで、若君の御事をなむ、六時の勤めにもなほ心きたなくうちまぜはべりぬべき」とて、これにぞうちひそみぬる。

★斧の柄が朽ちる
光源氏が二三日大堰に行ってくると告げたときの紫上の言葉「斧の柄も朽ちさへあらためたまはむほどや、待ち遠に」は、晋の王質の故事をふまえている。『枕草子』には供人などが主人の長尻を嘆く場面で使っている事例がある。当時は誰でも知っている故事であったと見える。ちなみに、八代集から二例引用しておく。
  筑紫に侍りける時に、まかり通ひつつ、碁打ちける人のもとに、京に帰りまうできて、遣はしける
                                          紀友則
 ふる里は見しごともあらず斧の柄のくちし所ぞ恋しかりける    (古今集巻第十八 雑歌下)
           題知らず
                                          よみ人知らず
 なげ木こる人入る山の斧の柄のほとほとしくもなりにける哉    (拾遺集巻第十四 恋四)    

★今ひとたびの
 亭子院、大井河に御幸ありて、行幸もありぬべき所也と仰せ給ふに、事の由奏せんと申して
                                          小一条太政大臣
 小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびの行幸待たなん     (拾遺集巻第十七 雑秋)

★姫君を紫上の養女にする
その夜は内裏にもさぶらひたまふべけれど、とけざりつる御気色とりに、夜更けぬれどまかでたまひぬ。ありつる御返り持て参れり。えひき隠したまはで御覧す。ことに憎かるべき節も見えねば、「これ破り隠したまへ。むつかしや。かかるものの散らむも、今はつきなきほどになりにけり」とて、御脇息に寄りゐたまひて、御心の中には、いとあはれに恋しう思しやらるれば、灯をうちながめて、ことにものものたまはず。文は広ごりながらあれど、女君見たまはぬやうなるを、「せめて見隠したまふ御眼尻こそわずらはしけれ」とてうち笑みたまへる、さし寄りたまひて、「まことは、らうたげなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを、さりとてものめかさむほども憚り多かるに、思ひなむわづらひぬる。同じ心に思ひめぐらして、御心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。ここにてはぐくみたまひてんや。蛭の子が齢にもなりにけるを。罪なきさまなるも、思ひ棄てがたうこそ。いはけなげなる下つかたも紛らはさむなど思ふをも、めざましと思さずはひき結ひたまへかし」と聞こえたまふ。「思はずにのみとりなしたまふ御心の隔てを、せめて見知らずうらなくやはとてこそ。いはけなからん御心には、いとようかなひぬべくなん。いかにうつくしきほどに」とて、すこしうち笑みたまひぬ。児をわりなうらうたきものにしたまふ御心なれば、得て抱きかしづかばやと思す。

★蛭の子が齢
明石姫君の年齢「蛭の児が齢」で、三歳。思えば、光源氏は三歳で母を失った。姫君は、三歳で、新しい母に出会う。これも、作者の計算の内であろう。紫上の思い「児をわりなうらうたきものにしたまふ御心なれば、得て、抱きかしづかばやとおぼす」とあるから、明石姫君は、そのほうが幸せになるのではないか。読者を安心させる展開の予告である。「蛭の児」の話をここで持ち出した意味は、もっと考えておかなければいけないかもしれない。古代神話。伊邪那岐、伊邪那美の国生み伝説に、われわれの思念を導くからである。両神がおりたったオノコロ島。最初は失敗。次に正しく生んだのが淡路島。つまり、明石のあたりから、日本は生成してゆく。このイメージが、明石姫君の登場のための前奏曲としていかされているのではないか。源氏物語は皇室起源物語の側面が強い。