源氏物語7…行幸巻 ・ 藤袴巻 ・ 真木柱 ・ 梅枝巻 ・ 藤裏葉巻

 <行幸巻>

第29回 行幸巻・帝の風姿。玉鬘の心動く

★行幸巻の内容
 1 光源氏、紫上の意見、内大臣の性格など考慮し、玉鬘の処置を思案する
 2 十二月。大原野行幸あり。光源氏を除く貴顕全員参加の盛儀。見物人ひきもきらず
 3 玉鬘、見物に出る。帝の美しさに驚嘆。実父内大臣の印象は「最高の普通人」。兵部卿、髭黒を見るも落胆するばかり。光源氏の勧める宮支えに心動く
 4 大原野、鷹狩り現場から、帝から不参加の光源氏に雉一枝届く。帝と光源氏の贈答あり
 5 翌日、光源氏、玉鬘の許を訪れ、宮仕えの意思を問う
 6 玉鬘の返事を紫上とともに見る。後宮の現状分析。光源氏、玉鬘に宮仕えをさらに勧める
 7 二月に玉鬘の裳着を予定する。この機会に、内大臣に実情を告知する決意を固める
 8 内大臣に、腰結役を依頼。内大臣、大宮の病気のため辞退する
 9 光源氏、三条宮へ。大宮の病気見舞い。行列の盛儀行幸に劣らず
10 光源氏、大宮の語らい
11 大宮に、内大臣との対面を願う。大宮、夕霧雲居雁問題と憶測する。光源氏、禊論を展開する。
12 光源氏、大宮に玉鬘のことを打ち明け、尚侍就任の予定を語る
13 内大臣、光源氏来訪を知り、接待の手配をしているところに、大宮からの文が届く。
14 内大臣、雲居雁問題かと推測。三条宮に来る。大勢の君達をひきつれた威風堂々振り
15 光源氏、内大臣久方ぶりの歓談。光源氏、翼賛の功を言う。内大臣、我が意を得る
16 光源氏、玉鬘を打ち明ける。雨夜品定めの昔がよみがえる。大宮、亡き葵上を思って泣く。光源氏、夕霧雲居雁問題をもち出さず
17 光源氏、三条宮を辞去する
18 内大臣の思い。光源氏の意思を尊重することとする
19 二月十六日。裳着と決定。事情を玉鬘に説明。玉鬘、喜び光源氏に感謝
20 夕霧にも真相を語る。夕霧、痴れ痴れしい思いをもつも、まめまめしく振る舞う
21 裳着当日。大宮よりお祝いの御櫛箱が届く。文を見た光源氏の微苦笑
22 中宮や御方々の贈物。裳、唐衣、装束、御髪上げの具、薫物、扇など
23 末摘花より祝いの品々届く。光源氏赤面す。唐衣の歌を見て、光源氏、愚弄的唐衣歌を返す
24 内大臣、腰結い役をつとめる。玉鬘に歌を贈る。返歌は光源氏が代詠する
25 今後の対処を言う光源氏。内大臣、感謝しきり
26 兵部卿、光源氏をせきたてる。光源氏、尚侍を優先させると言明
27 内大臣、夢の意味を知る。弘徽殿女御には事実を伝える
28 玉鬘の真相、徐々に広まる。これを聞き知った近江君、女御の前で柏木と弁に不満をぶつける。柏木と弁、アマテラス論で茶化す
29 内大臣、近江君を具弄する

★大原野への行幸
 作者が大原野を選んだのは大原野神社が藤原氏の氏神であること。したがって、玉鬘の本来の所属を白日の下にさらす心理的効果を考えてのことであろうかと思われる。その意味では、玉鬘巻で、石清水八幡宮ではなく、興福寺の末寺である長谷寺を選んだ手法の再現だという見方もできよう。なお、この行幸は、『河海抄』や『花鳥余情』に引用されてわずかに伝わる『吏部王記』の記事を下敷きにして構成されている。延長六年十二月五日の醍醐天皇大原野行幸である。ちなみに『吏部王記』の作者は、醍醐天皇の皇子・重明親王。重明親王は、末摘花の父・常陸宮のモデルと目される人である。

★世の常ならざる世界
 西の対の姫君も立ち出でたまへり。そこばくいどみ尽くしたまへる人の御容貌ありさまを見たまふに、帝の、赤色の御衣奉りてうるはしう動きなき御かたはら目に、なずらひきこゆべき人なし。わが父大臣を、人知れず目をつけたてまつりたまへど、きらきらしうものきよげに盛りにはものしたまへど、限りありかし。いと人にすぐれたるただ人と見えて、御輿の中よりほかに、目移るべくもあらず。まして、容貌ありや、をかしやなど、若き御達の消えかへり心移す中少将、何くれの殿上人やうの人は、何にもあらず消えわたれるは、さらにたぐひなうおはしますなりけり。源氏の大臣の御顔ざまは、別物とも見えたまはぬを、思ひなしのいますこしいつかしう、かたじけなくめでたきなり。さは、かかるたぐひはおはしがたかりけり。あてなる人は、みなものきよげにけはひことなべいものとのみ、大臣、中将などの御にほひに目馴れたまへるを、出で消えどものかたはなるにやあらむ、同じ目鼻とも見えず、口惜しうぞ圧されたるや。兵部卿宮もおはす。右大将の、さばかり重りかによしめくも、今日の装ひいとなまめきて、やなぐひなど負ひて仕うまつりたまへり。色黒く
鬚がちに見えて、いと心づきなし。いかでかはつくろひたてたる顔の色あひには似たらむ、いとわりなきことを、若き御心地には見おとしたまうてけり。大臣の君の思しよりてのたまふことを、いかがはあらむ、宮仕は心にもあらで見苦しきありさまにやと思ひつつみたまふを、馴れ馴れしき筋などをばもて離れて、おほかたに仕うまつり御覧ぜられんは、をかしうもありなむかしとぞ思ひよりたまうける。

★不気味な草子地
 大原野行幸の終りに付けられた草子地に注目したい。
「そのころほひ聞きしことの、そばそば思ひ出でらるるは、ひがごとにやあらむ」。
こういう草子地は不気味である。この作者が物語っている時点で、光源氏は存在していない可能性が高い。ならば、なおさらに光源氏の世界が「世の常ならざる世界」なのだという玉鬘の認識が、作者の認識とかさなろう。さても、この作者は、全てを知って書いているのであり、ゆきあたりばったりに物語っているのではないことを、この言葉は示唆している。こう言われると、読者も、そう思って読まざるをえない。さらに言えば、昔のことは覚束ないが、最近のことは自信があるという意思の表示と読めば、源氏物語の後半の迫力は、この時自ずと醸成されてゆくことになる。こういう草子地が源氏物語を構造化し強化するのである。

★遅い裳着
 玉鬘の裳着。彼女はこの時二十三歳。ずいぶんと遅い裳着である。明石姫君の場合は十一歳、女三宮は十三歳である。この年齢設定は、玉鬘の数奇な運命を読者に再確認させるものであろう。なお、二十三歳という年齢は、二条后・藤原高子が清和天皇に嫁した年齢と同じ。これについて、作者の胸のうちに何か含むところはないか、冒頭の大原野行幸ともからんで、ややありそうな気がする。

★尚侍
 光源氏の大宮への説明。ここで初めて、玉鬘の尚侍就任が明らかになる。尚侍は、後宮の内侍司の長官。定員は二名。すでに朧月夜が任命され、現在もその任にあると思われるので、他一名の欠員がいちおうあったわけである。光源氏の苦心のほどがしのばれる。もっとも、本文によれば「尚侍、宮仕へする人なくては」云々とあって、朧月夜はねこの時点で、もはやその任を果たしていない様子である。彼女は、二代に仕えたから、歴史上の事例に従って、引退同然の名目尚侍となり、悠々自適の日々を送っているものと想像されよう。尚侍の条件が記されている。「家高う、人のおぼえ軽からで、家のいとなみたてたらぬ人」。家庭にわずらはされぬ人。光源氏は玉鬘をそうしたいと思っているのである。彼はこうして、かって秋好中宮をそうしたように、玉鬘を自分の世界に抑留しようとしている。

★二人の対面
 大臣も、めづらしき御対面に昔のこと思し出でられて、よそよそにてこそ、はかなきことにつけて、いどましき御心も添ふべかめれ、さし向かひきこえたまひては、、かたみにいとあはれなることの数々思し出でつつ、例の隔てなく、昔今のことども、年ごろの御物語に日暮れゆく。御土器などすすめまゐりたまふ。「さぶらはではあしかりぬべかりけるを、召しなきに憚りて。うけたまはり過ぐしてましかば、御勘事や添はしまし」と申したまふに、「勘当はこなたざまになむ。勘事と思ふこと多くはべる」など、気色ばみたまふに、このことにやと思せば、わづらはしうて、かしこまりたるさまにてものしたまふ。「昔より、公私のことにつけて、心の隔てなく、大小のこと聞こえうけたまはり、羽翼を並ぶるやうにて、朝廷の御後見をも仕うまつるとなむ思うたまへしを、末の世となりて、その上思ひたまへし本意なきやうなることうちまじりはべれど、内々の私事にこそは。おほかたの心ざしは、さらに移ろふことなくなむ。何ともなくて積もりはべる年齢にそへて、いにしへのことなん恋しかりけるを、対面賜ることもいとまれにのみはべれば、事限りありて、よだけき御ふるまひとは思ひたまへながら、親しきほどには、その御勢ひをもひきしじめたまひてこそは、とぶらひものしたまはめとなむ、恨めしきをりをりはべる」と聞こえたまへば、「いにしへはげに面馴れて、あやしくたいだいしきまで馴れさぶらひ、心に隔つることなく御覧ぜられしを、朝廷に仕うまつりし際は、羽翼を並べたる数にも思ひはべらで、うれしき御かへりみをこそ、はかばかしからぬ身にてかかる位に及びはべりて、朝廷に仕うまつりはべることにそへても、思うたまへ知らぬにははべらぬを、齢の積もりには、げにおのづからうちゆるぶことのみなむ多くはべりける」など、かしこまり申したまふ。そのついでにほのめかし出でたまひてけり。

★翼賛の功
 『史記』留侯世家によれば、太子を羽や翼となって守ったのは四人の老人。鬚も眉も真っ白で、年齢は八十を超えていた。守った太子は、呂大后の太子。高祖・劉邦が、それに変えて太子としようとしたのが愛妃・戚夫人の子・如意である。この羽翼の計を仕切ったのが留侯、つまり張良である。『源氏物語』と『史記』を比較するに、善玉悪玉が逆にずらされているところが面白い。紫式部は、茶目っ気たっぷりに、これをわざとやっているものと想像される。皆さん、分かるかしら。という式部の声が聞こえるような気がしないか。我々としても、若き日の内大臣が、須磨に沈淪光源氏を見舞って辞去する場面。あの時彼が歌った歌を思い出し、ここを読む必要がある。
    たづがなき雲居にひとりねをぞ泣くつばさ並べし友を恋つつ

★夕霧の困惑
 光源氏は玉鬘に事情を話す。玉鬘が感謝する。ついで、夕霧に玉鬘の真相を打ち明ける。ここで、ようやく野分巻で目撃した風景を夕霧は納得することになる。「思ひ寄らざりけることよ、しれじれしきここちす」。だったら、雲居雁より玉
鬘のほうがよかったのに、と夕霧は思う。が、そういう思いは「あるまじう、ねじけたるべきほどなりけりと、思ひ返す」夕霧を、作者は「ありがたきまめまめし」さだと評す。しかしながら、夕霧の、誠実で純な心はこうして光源氏によって裏切られ傷つけられてゆく。大人になる道程であろう。彼が、その「まめまめしさ」を捨てる日が来ても、それは誰も咎められまい。しかし、源氏物語は、夕霧の「ありがたきまめまめしさ」で、これまでもこれからも相当に救われていることは事実である。特に、紫上の保全に関しては、夕霧の功績以外のなにものでもなかろう。

★末摘花と近江君
 世間の付き合いを絶対欠かさぬ義理堅い性格の末摘花が、よせばいいのに玉鬘の裳着にお祝いの品を贈る。添えられていた歌「わが身こそうらみられけれ唐衣君が袂に馴れずと思へば」は、大宮の歌と同様、縁語掛け詞を駆使した古臭さに特徴が認められる。好きな「唐衣」をしっかり使用しているところが、可愛い。そう思いつつも、光源氏は「唐衣また唐衣唐衣かへすがへすも唐衣なる」と返歌し末摘花を愚弄する。酷い仕打ちではないか。近江君を馬鹿にする内大臣とどこが違うのだ。が、これは、玉鬘のイメージの中にあった近江君を、末摘花に取り込むための、いわば儀式ではないか。近江君は、末摘花と対になる人物なのであって、玉鬘と比べられる人物では絶対ない。この事実をあらためて確認するという点が重要。常夏巻を思い出してほしい。弘徽殿女御・中納言・近江君の関係が、この巻の、玉鬘・光源氏・末摘花の関係と相似するように、意識的に構成されている。これまで近江君の位置にあった玉鬘は、この巻の末摘花の力によって、弘徽殿女御の位置に据え直されているのである。かくして、玉鬘は、その人品をたちまちにして確立する。切れ味鋭い展開といえよう。

★日本古代神話の影
 近江君をからかう時に発した「堅き厳も沫雪になしたまうつべき御けしき」という弁少将の言葉や、柏木の「天の岩門さし籠もりたまひなむや、めやすく」という言葉に着目しよう。日本古代神話は、平安貴族の日常的風景として使用されていたものと知れる。ならば、海彦・山彦の話も同じレベルにあったものと想像されてよい。明石一族の物語の受容を考えるうえで、これは参考になろう。

 <藤袴巻>

第30回 藤袴巻・夕霧の藤袴は、十日の菊 

★藤袴巻の内容
 1 玉鬘、尚侍となり、出仕のむつかしさを思う。中宮のこと、女御のこと。光源氏との未来をも思い、独り煩悶する
 2 玉鬘、大宮の服喪の夕霧、光源氏の消息の使いで来訪。御簾越し几帳添えた対面
 3 人払いをした夕霧、玉鬘と直接語る。出仕のこと、大宮除服、御祓いのこと
 4 夕霧、蘭(藤袴)を差し入れ、想いのたけを玉鬘に告白。攻守所を変えた柏木のことを引き合いに出す。玉鬘、身を引く
 5 夕霧、光源氏の許に。夕霧、率直に玉鬘問題を論ずる。光源氏、玉鬘の来歴を虚構を交えて語る。髭黒に言及。兵部卿のこと、帝のことを語る
 6 夕霧、世間の噂や内大臣の思念を語り、光源氏の老獪な玉鬘領有戦略を言う。光源氏、案に落ちる愚を知る
 7 玉鬘の出仕十月と決定。求婚者たち焦る。夕霧無理押しせず
 8 柏木、父内大臣の使いで来訪する。玉鬘、宰相君を取り次ぎとして対面。柏木、不満
 9 柏木と玉鬘、「妹背山」の贈答。過去を省みる。月光の中を帰って行く柏木の艶姿
10 髭黒の運動は内大臣が中心。内大臣了承しつつ、光源氏の意思に配慮する
11 髭黒の紹介。東宮女御の兄弟。光源氏内大臣につぐ実力者。三十三歳。北の方は、紫上の姉。夫婦生活不調。別れたく思っている。玉鬘求愛の取り次ぎは「弁の御許」
12 九月。いよいよ焦る求婚者たちの手紙、陸続と来る。髭黒大将、兵部卿の宮。式部卿宮の左兵衛督など。玉鬘、兵部卿にのみ返事を書く
13 光源氏内大臣の判定。玉鬘は、女の手本

★玉鬘の煩悶
 尚侍の御宮仕へのことを、誰も誰もそそのかしたまふを、いかならむ、親と思ひきこゆる人の御心だに、うちとくまじき世なりければ、ましてさやうのまじらひにつけて、心よりほかに便なきこともあらば、中宮も女御も、かたがたにつけて心おきたまはば、はしたなからむに、わが身はかくはかなきさまにて、いづかたにも深く思ひとどめられたてまつるほどもなく、浅きおぼえにて、ただならず思ひ言ひ、いかで人笑へなるさまに見聞きなさむと、うけひたまふ人々も多く、とかくにつけて、やすからぬことのみありぬべきを、ものおぼし知るまじきほどにしあらねば、さまざまに思ほし乱れ、人知れずもの嘆かし。さりとて、かるありさまもあしきことはなけれど、この大臣の御心ばへの、むつかしく心づきなきも、いかなるついでにかは、もて離れて、人のおしはかるべかめる筋を、心きよくもあり果つべき、まことの父大臣も、この殿のおぼさむところを憚りたまひて、うけばりてとり放ち、けざやぎたまふべきことにもあらねば、なほとてもかくても見苦しう、かけかけしきありさまにて、心をなやまし、人にもて騒がるべき身なめりと、なかなかこの親尋ねきこえたまひてのつは、ことに憚りたまふけしきもなき大臣の君の御もてなしを取り加へつつ、人知れずなむ嘆かしかりつる。思ふことを、まほならずとも、片端にてもうちかすめつべき女親もおはせず、いづかたもいづかたもいとはづかしげに、いとうるはしき御さまどもには、何ごとをかは、さなむかくなむとも聞こえ分きたまはむ、世の人に似ぬ身のありさまをうちながめつつ、夕暮の空あはれなるけしきを、端近くて見出だしたまへるさま、いとをかし。

★藤袴
 「蘭の花」は[藤袴」のことである。今の蘭は「蘭花」、藤袴は「蘭草」のこと。花の季節はもちろん秋で、八月の花である。蘭の花、つまり藤袴を贈って意中を示す夕霧。『古今集』によれば、藤袴のイメージは、「香り」と「誰の袴か」ということである。ここは、貫之の「宿りせし人の形見かふじばかまわすられがたき香ににほひつつ」を利用して、「わすられがたき」君のイメージをこめたものと思われる。忘れられない人・夕顔の娘にふさわしい設定であろう。藤袴の点出は、野分巻にあった「忘るる間なく忘られぬ君」を響かせた心憎い演出である。

★夕霧の無念
 夕霧の追及のしつこさは、ほとんど詰問の様相を呈する。まず、「年ごろかくてはぐくみきこえたまひける御心ざうを、ひがざまにこそ人は申すなれ」と切り出し、光源氏の「女は三に従ふもの」といういなしにもめげることなく、「うちうちにも、やむごとなきこれかれ、年ごろ経てものしたまへば、えその筋の人数にはものしたまはで、捨てがてらにかく譲りつけ、おほぞうの宮仕への筋に領ぜむとおぼしおきつる、いとかしこくかどあることなりとなむ、よろこび申されけると、たしかに人の語り申しはべりしな」と切り込んでいる。これは、真相を打ち明けられての帰り道、内大臣が想像した事柄を、実に正確に言葉としたものである。「捨てがてらにかく譲りつけ」の部分は、夕霧のはかない玉鬘願望がにじんでいるて微苦笑ものだけれども。光源氏は夕霧の追及を軽く笑ってやりすごすけれども、「かく人のおしはかる、案に落つることもあらましかば、いとくちをしくねじけたらまし、かの大臣に、いかで、かく心きよきさまを知らせたてまつらむ」という心境になっている。内大臣によって、光源氏の戦略は完璧に見破られているということを、夕霧は光源氏に知らしめたわけであるから、彼の反抗は、一つの効果をもたらしたことになろう。光源氏と玉鬘、そして夕霧と玉鬘との結婚もありえない。「案に落ちる」ことになるからである。これは、内大臣および夕霧の、光源氏に対する優勢勝ちであろう。もっとも、夕霧の方は、このカマかけ発言でもって、玉鬘との結婚は完全に消滅したのだから、苦々しい勝利であろうけれども。

★三従の道
 光源氏が夕霧に言った。三従の道は、婦人の徳操。幼い時には父に従い、嫁しては夫に従う。老いた時は子に従う。周公旦の作と伝えられる『儀礼(ぎらい)』にある文言である。原文を示せば、婦人有三従之儀、 無専用之道。 故未嫁従父、 既嫁従夫、 夫死従子。もし、玉鬘が髭黒と結婚すれば、結果的に光源氏の言説は正しいという事になる。玉鬘が父内大臣に従ったことになるからである。はたしてどうなるか。この厳かな儒教徳目を紫式部本人が信じていたかどうかは分からない。

★妹背山
 妹背山ふかき道をば尋ねずて緒絶えの橋にふみまどひける
よと恨むるも、人やりならず。
まどひける道をば知らで妹背山たどたどしくぞ誰もふみ見し
(取次ぎの宰相君)「いづかたのゆゑとなむ、わりなきまで、おほかたの世を憚らせたまふめれば、え聞こえさせたまはぬになむ。おのづからかくのみもはべらじ」と聞こゆるも、さることなれば、「よし、長居しはべらむもすさまじきほどなり。やうやう労積りてこそは、恪勤をも」とて立ちたまふ。月隈なくさし上がりて、空のけしきも艶なるに、いとあてやかにきよげなる容貌して、御直衣の姿、好ましうはなやかにて、いとをかし。宰相の中将のけはひありさまには、え並びたまはねど、これもをかしかめるは、いかでかかる御仲らひなりけむと、若き人々は、例の、さるまじきこともとりたててめであへり。

★王朝風見鶏・髭黒
 髭黒情報。東宮女御のはらから。当時、光源氏内大臣に次ぐ第三位の実力者。年齢は三十二か三。北方は、紫上の姉。つまり、式部卿の大君。彼女は髭黒より三つか四つ年上の妻である。が、しかし、「人柄やいかがおはしけむ、嫗とつけて心にも入れず、いかでそむきなむと思へり」といった状態にある。どうやらこの夫婦、末期症状にあるらしい。しかし、この巻の系図をつらつらと眺めると、感慨なきにしもあらずである。髭黒は、若い日、右大臣派、つまり弘徽殿大后方に属していた。今、内大臣方と昵懇である。これが第一の転向。そして今、彼が志している玉鬘との結婚は、光源氏方への彼の第二の転向を意味する。髭黒の政治的目的は、東宮保全。このために、彼はあらゆる政治的手だてをつくしているものと考えられる。東宮には、近々、明石姫君の入内が決定的であってみれば、彼の第二の転向は必然必死の様相を帯びる。前巻で、光源氏と内大臣の翼賛の功が語られていたから、髭黒の行為は強い説得力をもつはずである。また、式部卿の立場に目を転ずれば、彼の政治的立場は、今上冷泉帝の伯父、東宮の伯父の義父、実力者光源氏の義父でもあって、磐石である。中君は、女御である。その昔、長女・大君を弘徽殿大后派の髭黒、しかも年下の男と結婚させたということは、政治の匂いがする。実際彼は光源氏の須磨明石時代、娘である紫上に冷たかった。反光源氏側に身を置いていたのである。あるいは、この大君の結婚が。次の巻で展開される玉鬘の結婚的状況で執り行われたとすれば、大君にとっては本来後宮入りすべき夢の破れた結婚であったかもしれない。大君がもののけと化した理由も、なんとなくうなずける。結婚以後、夫を恨み続ける妻。葵上の拡大版だという理解も可能だろう。賢木巻に「嫡腹の限りなくとおぼすは、はかばかしうもえあらぬに」と大君について記してあった。とにもかくにも、この結婚で、以後の、光源氏と式部卿家との微妙な関係は、このことを無視しては理解できないであろう。

 <真木柱巻>

第31回 真木柱巻・玉鬘の結婚。火取飛ぶ

★真木柱巻の内容
 1 髭黒、玉鬘との結婚に成功。その美しさに感激。光源氏、心ならずも追認し立派に世話をする。
 2 光源氏、はやる髭黒に助言。内大臣、安堵し、光源氏に感謝する
 3 世間の噂しきり。帝、無念ながらも宮仕えを望む
 4 十一月。諸事多し。女官ら決済を求めて、六条院に出入り盛ん。髭黒、玉鬘の許に入り浸る。兵部卿の無念、兵衛督、妹君の件もあり面目失墜。恋に無縁な髭黒のにわか風流振りのおかしさ
 5 玉鬘、光源氏や兵部卿への恥ずかしさに塞ぐ。光源氏、面目を立てつつも未練心にさいなまれる
 6 髭黒のいない昼、光源氏玉鬘の許を尋ねる。「わたり川」の贈答。光源氏、烏滸な自己を語りつつ、玉鬘をまめやかに諭し宮仕えを勧める
 7 髭黒、一旦の宮使えを承知し、それを機会に自邸に引き取る目論見。自邸の修理を急ぐ
 8 髭黒、軽々しく振る舞うなと北の方を説得する。光源氏のこと、紫上のことに言及。玉鬘を引き取る件を終日語る。北の方、父の思いを語りつつ、素直に振る舞う。
10 その夜、雪降る。玉鬘の許に赴こうとする。見送る北の方、突然、起き上がり髭黒の背後から、火取りをあびせかける。物の怪の仕業に、灰だらけの髭黒、その夜行けず
11 物の怪調伏の僧、北の方を打ち引き回す。髭黒、玉鬘に消息。玉鬘からの返事なし
12 翌日夕刻、髭黒あらためて玉鬘の許へ。召人・木工君と贈答。この日以後、髭黒、北の方に寄りつかず。子供たちは可愛がる。十二三の女君。男君二人
13 「人笑へ」を恐れた式部卿宮、北の方を迎えに来る。女房たちとの別れ。子供に処世の注意を語る北の方
14 姫君、髭黒の帰りを待つも叶わず。真木柱に別れの歌を挟んで母とともに去る
15 迎える式部卿宮。母北の方、光源氏を罵倒する。宮たしなめる
16 髭黒、事態を聞き、玉鬘に事情を説明し、辞去する
17 一旦帰邸。真木柱の歌に涙する。宮邸に赴くも、けんもほろろの扱いを受ける。十歳と八歳の男君を連れて帰る。以後、髭黒宮邸を訪れず
18 事態の推移に紫上困惑する。光源氏、なぐさめる
19 新年。髭黒、玉鬘の出仕を決意する。男踏歌の催しを機会に、承香殿の東面を局として出仕
20 冷泉帝の後宮の有様。秋好中宮、弘徽殿女御、宮女御、左大臣の女御、東宮女御(髭黒妹・梨壷)中納言の更衣、宰相の更衣、尚侍(玉鬘)
21 男踏歌、玉鬘の局で水駅。華やかな宮中の交わりに玉鬘の心動く
22 髭黒焦り、玉鬘を早々に退出させようとするが、玉鬘応ぜず
23 兵部卿からの文が届く
24 帝、局に来訪。歌の贈答。恨みがましい帝に玉鬘困惑する
25 髭黒さらに焦る。玉鬘も今度は承知する。父大臣も奔走し退出が許される
26 帝、無念の思い深し。玉鬘と別れの贈答をする
27 髭黒、口実をもうけて、六条院ではなく自邸に玉鬘を連れて行く
28 髭黒、安堵し玉鬘に夢中
29 二月。忘れられぬ光源氏、思い出の部屋から、玉鬘に春雨の歌を贈る
30 右近、手紙を玉鬘に見せる。玉鬘泣く。「うたかた人」の歌を返す
31 返事を見た光源氏、思い胸に満ち、琴をひき「鴛鴦」を歌う
32 帝からも忍び忍びに文あり。玉鬘、気を許した返事せず。やはり、忘れられないのは光源氏のこと
33 三月。光源氏、玉鬘の部屋に渡り、藤、山吹を見て恋情止みがたく、玉鬘に文をやる
34 見た髭黒、玉鬘に代って返歌する。光源氏苦笑する
35 髭黒、北の方の経済的面倒見は不変。真木柱、父に依然として会わせてもらえず。弟たちから玉鬘の話を聞き、羨む
36 十一月。玉鬘出産。柏木、帝の子でないことを残念がる。玉鬘の出仕はもうない模様である
37 近江君、夕霧を見つけ言い寄る。夕霧、軽く受け流す

★侵入場面の省略
髭黒侵入の場面を省略したは、若菜巻で柏木侵入の場面を濃密に描くための用意であろう。夕顔に踏み込んだ場面を省略した手法の再現である。あの時も、空蝉の場面とのバランスが考慮されていたことを想起すべきである。

★寺の験
「心浅き人のためにぞ、寺の験もあらはれける」。皮肉っぽいが名言。世の中はえてしてそういうもの。信心深くない者に御利益がある。石山寺の観音様は、にわか信者と思われる髭黒に効験があったのである。

★真木柱巻、夕霧巻。そして若菜巻という遠近法
既婚者髭黒が、未婚の処女・玉鬘と結婚することによって引き起こされた家庭劇を詳細に描くのが、この巻の眼目である。これは、先にも触れたように、遠く夕霧巻の家庭劇と対照する如く構想されているのであるけれども、我々は、その二つの家庭劇のド真ん中に位置する若菜巻もまた、中年男光源氏の、新しい結婚によって引き起こされた巨大な家庭劇であるということを忘れてはいけない。この真木柱巻の悲劇の主人公が、紫上の姉であるという事実が、若菜巻の悲劇の座に紫上を据えるための用意であることを読者に告げる作用をしよう。このあたり、作意が露骨であって、源氏物語的ではない。作者に余裕がないためだろうか。それとも、誰でも楽しめるホームドラマの宿命だろうか。

★「わたり川」の贈答
大将のおはせぬ昼つ方渡りたまへり。女君、あゆしうなやましげにのみもてないたまひて、すくよかなるをりもなくしほれたまへるを、かく渡りたまへれば、すこし起き上がりたまひて、殿も、用意ことに、すこしけけしきさまにもてないたまひて、おほかたのことどもなど聞こえたまふ。すくよかなる世の常の人にならひては、まして言ふ方なき御けはひありさまを見知りたまふにも、思ひのほかなる身の置き所なく恥づかしきにも、涙ぞこぼれける。やうやう、こまやかなる御物語になりて、近き御脇息に寄りかかりて、すこしのぞきつつ聞こえたまふ。いとをかしげに面痩せたまへるさまの、見まほしう、らうたいことの添ひたまへるにつけても、よそに見放つも、あまりなる心のすさびぞかしとくちをし。
「おりたちて汲みはみねども渡り川のせとはた契らざりしを思ひのほかなりや」とて、鼻うちかみたまふけはひ、なつかしうあはれなり。女は顔を隠して、
    みつせ川わたらぬさきにいかでなほ涙のみをの泡と消えなん
「心幼の御消え所や。さても、かの瀬は避き道なかなるを、御手の先ばかりは、引き助けきこえてんや」とほほ笑みたまひて、「まめやかには、思し知ることもあらむかし。世になきしれじれしさも、またうしろやすさも、この世にたぐひなきほどを、さりともとなん頼もしき」と聞こえたまふを、いとわりなう聞き苦しと思いたれば、いとほしうて、のたまひ紛らはしつつ…

★世の常の人
玉鬘の胸のうちでは、光源氏の世界はかけがえのないものとして定位している。「すくよかなる世の常の人にならひては、まして言ふかたなき御けはひありさまを見知りたまふにも」。髭黒の世界は「世の常の人」の世界だというのである。玉鬘は、その「世の常の人」の世界に墜落し、間違いなく「世の常の人」となった。もう光源氏の世界には戻れない。しかしだ。考えてみるに、髭黒は、当時において第三位の男であった。その男の世界が「世の常の人」の世界だというのだから「世の常でない人」の世界は、ほとんど光源氏の世界のみである、というに等しい。光源氏の世界の意味を考える時、この玉鬘の立言は重要な意味をもってこよう。なお、この「世の常の人」という発想は、遠く宇治十帖の中君の発想でもあって、その時再度問題となるのであるけれども、これは、その先触れである。光源氏の世界が崩壊したら、みな「世の常の人」になる危うさを作者は書こうとしている。これも、若菜への用意であろう。「世の常でない人」の物語が源氏物語なのだということを、作者が初めて明かした瞬間が、ここである。この発想で作者は最後まで源氏物語を押してゆくような気がする。

★物の怪の行動
「いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥し」ている北方が、「にわかに起き上がりて」髭黒に「火取り」を浴びせかける場面は壮絶である。「大きなる籠の下」にあった火取りをわざわざ「取りよせて」という小さな描写もリアルである。たまたま側にあった火取りをとって浴びせかけたのではないのである。物怪の覚めた行為である。静から動へ。舞台は一挙に狂乱の修羅場と化し、なにもかもぶち壊す。ここは、もののけの圧倒的な力を示して余すところがない。しかし、このもののけは、一体何者なのか。「例の御もののけの、人にうとませむとするわざ」。髭黒に北方を疎ませようと仕掛ける人物。北方を不幸に陥れようと図る人物とは誰か。葵上に最後まで取りついて離れなかった六条御息所とその父の発想を考慮し、この巻の継子いじめ風の展開をも勘定にいれて、このもののけが、紫上の実母であるという想定は、捨てがたい魅力であると思うが、いかがなものであろうか。「夜中」もののけにつかれた北方は「呼ばひののしり」、「夜一夜」加持の僧に「打たれ引かれ」て「泣きまどひ明か」す。ものぐるおしくもリアルな場面である。もののけ調伏の実態が伺われる場面である。

★木工君の怜悧な「物の怪」解釈
「ひとりゐてこがるる胸の苦しきに思ひあまれる炎とぞ見し
名残なき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにやは」と、口おほひてゐたる、まみ、いといたし。

★真木柱、別れの歌
常に寄りゐたまふ東面の柱を、人にゆづるここちしたまふもあはれにて、姫君、檜皮色の紙の重ね、ただいささかに書きて、柱の乾われたるはざまに、笄の先して押し入れたまふ。
    今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな
えも書きやらで泣きたまふ。

★母北の方、光源氏を罵倒する
宮には待ちとり、いみじう思したり。母北の方泣き騒ぎたまひて、「太政大臣をめでたきよすがと思ひきこえたまへれど、いかばかりの昔の仇敵にかおはしけむとこそ思ほゆれ。女御をも、事にふれはしたなくもてなしたまひしかど、それは、御仲の恨みとけざりしほど、思ひ知れとにこそはありけめと思しのたまひ、世の人も言ひなししだに、なほさやはあるべき、人ひとりを思ひかしづきたまはんゆゑは、ほとりまでもにほふ例こそあれと心得ざりしを、ましてかく末に、すずろなる継子かしづきをして、おのれ古したまへるいとほしみに、実法なる人のゆるぎ所あるまじきをとて取り寄せもてかしづきたまふは、いかがつらからぬ」
と言ひつづけののしりたまへば、宮は、「あな聞きにくや。世に難つけられたまはぬ大臣を、口にまかせてなおとしめたまひそ。賢き人は、おもうひおき、かかる報いもがなと思ふことこそはものせられけめ。さ思はるるわが身の不幸なるにこそはあらめ。つれなうて、みなかの沈みたまひし世の報いは、浮かべ沈め、いと賢くこそは思ひわたいたまふめれ。おのれ一人をば、さるべきゆかりと思ひてこそは、一年も、さる世の響きに、家よりあまることどももありしか。それをこの生の面目にてやみぬべきなめり」とのたまふに、いよいよ腹立ちて、まがまがしきことなどを言ひ散らしたまふ。この大北の方ぞさがな者なりける。

★光源氏、玉鬘の相思相愛
二月。春雨そぼふる頃、光源氏は玉鬘の部屋を訪れ、過ぎた日を恋しく思い、手紙を出す。このあたり二条后を失った業平そのままではないか。春やあらぬ。これも、帝同様、後の祭り。「好いたる人は、心からやすかるまじきわざなりけり、今は何につけてか心を乱らまし、似げなき恋のつまなりや」という反省の言もむなしいかぎり。まもなく起こる女三宮事件は、玉鬘の夢よもう一度ということか。そういう意味からも、玉鬘は女三宮事件への繋ぎであることが分かろう。さて、光源氏と玉鬘の贈答に、それぞれの自己認識がある。光源氏は「ふるさと人」、玉鬘は「うたかた人」。言いえて妙である。光源氏の認識のなかに、老いの認識が潜んでいることに注目したい。しかし、玉鬘と光源氏は、この贈答を通して、相互の愛を確認している。玉鬘は、光源氏に許された女となったことを知ったものと思われる。光源氏の手紙を見た時、玉鬘は「うち泣」いた。玉鬘からの返事をもらった光源氏は「引き広げて、玉水のこぼるる」ように泣きたい気分であった。まさに相思相愛。源氏物語風に言えば「もろ恋」である。事が落着し、玉鬘の心に残ったものは、帝ではなく光源氏であった。帝からその後も忍び忍びに消息があったが、彼女は返事に及んでいない。「なほかのありがたかりし御心おきてを、かたがたにつけて思ひしみたまへる御事ぞ、忘られざりける」。光源氏のせめてもの救い。彼は、依然としてこの物語の主人公なのである。光源氏にとっては誠に不本意ではあろうが。

★近江君、夕霧に言い寄る
まことや、かの内の大殿の御むすめの、尚侍のぞみし君も、さるものの癖なれば、色めかしうさまよふ心さへ添ひて、もてわずらひたまふ。女御も、つひにあはあはしきことこの君ぞひき出でんと、ともすれば御胸つぶしたまへど、大臣の、「今はなまじらひそ」と制しのたまふをだに聞き入れず、まじらひ出でてものしたまふ。いかなるをりにかありけむ、殿上人あまた、おぼえことなるかぎり、この女御の御方に参りて、物の音など調べ、なつかしきほどの拍子うち加へて遊ぶ。秋の夕のただならぬに、宰相中将も寄りおはして、例ならず乱れてものなどのたまふを、人々めづらしがりて、女房「なほ人よりことにも」とめづるに、この近江の君、人々の中を押し分けて出でゐたまふ。「あなうたてや。こはなぞ」と引き入るれど、いとさがなげににらみて張りゐたれば、わづらはしくて、「奥なきことやのたまひ出でん」とつきかはすに、この世に目馴れぬまめ人をしも、近江の君「これぞな、これぞな」とめでて、ささめき騒ぐ声いとしるし。人々いと苦しと思ふに、声いとさはやかにて、
「おきつ舟よるべなみ路にただよはば棹さしよらむとまり教へよ棚無し小舟漕ぎかへり、同じ人をや。あなわるや」と言ふを、いとあやしう、この御方には、かう用意なきこと聞こえぬものをと思ひまはすに、この聞く人なりけりとをかしうて

    よるべなみ風のさわがす舟人も
     思はぬかたに磯づたひせず
とて、はしたなかめりとや。

 <梅枝巻>

第32回 梅枝巻・明石姫君の嫁入り道具は

★梅枝巻の内容
 1 明石姫君の裳着の準備。東宮の元服も、二月の予定
 2 正月つごもり。大弐、舶来の香などを光源氏に献上する。二条院の蔵を開け、桐壷時代初期のものと比較。往時のものの優秀さを確認する。
 3 今と昔の香を、御方々に配り、二種調合を依頼。薫香合せの準備に入る。光源氏は仁明天皇の黒方と侍従。紫上は本康親王直伝の秘法を用意する。
 4 二月十日。小雨。裳着の祝いのため兵部卿来訪。その時、朝顔前斎院より文と香が届く。兵部卿ゆかしがる。光源氏、歌を返す
 5 光源氏、裳着の腰結い役を秋好中宮とすることを兵部卿に語る
 6 夕刻。兵部卿を判者として薫物合せを行なうこととなる
 7 朝顔は「黒方」。光源氏は「侍従」。紫上は「梅花」など三種。花散里は「荷葉」。明石御方は源公忠の百歩の法に着想を得た「薫衣香」。判者困惑勝敗決せず
 8 月出る。管絃の遊びに移行。兵部卿琵琶、光源氏箏の琴、柏木和琴、夕霧横笛。弁少将、「梅枝」を謡う。盃を巡らせ歌を詠む
 9 明け方、兵部卿宮帰る。贈物、歌の贈答あり。他の公達も、散会する
10 明石姫君の裳着。戌の刻、中宮の里殿で挙行。紫上、中宮と対面。子の刻に着裳。明石御方、この場に呼ばれず
11 東宮元服。二月二十余日。他の遠慮に配慮して、明石姫君の入内四月に延期。左大臣の三君入内。麗景殿へ
12 明石姫君の御殿は、昔の淑景舎。つまり桐壷とする。光源氏、輿入れの準備に没頭
13 草子を選ぶ。仮名全盛時代を自覚する光源氏、当代の名手を論じる。六条御息所が随一。藤壷、朧月夜。朝顔と紫上を評価する
14 光源氏、自ら草子を書き写す。兵部卿や夕霧、兵衛督、柏木などにも依頼する。公達競う
15 光源氏、歌など選び、筆の尻をくわえなどして思案しつつ書く 
16 兵部卿来訪、依頼の草子を持参する。光源氏、その出来ばえに驚く。自らの草子も披露。唐の紙に草。高麗の紙に仮名。日本の紙屋紙に乱れたる草の仮名を自在に書いてある。兵部卿脱帽する
17 他の公達の作品も披露。宮、夕霧の葦手の見事さに感嘆
18 光源氏、巻子本わ取り出す。兵部卿、御子の侍従を遣って自邸より、嵯峨天皇宸筆の古万葉集四巻及び醍醐天皇宸筆『古今集』を持参させる。光源氏驚嘆。兵部卿、これを光源氏に贈呈。光源氏、侍従に唐本と高麗笛を贈る
19 光源氏、広く世に仮名書きの名手を求め、書かせ箱に保存。例の須磨日記は、時期尚早と判断し取り出さず(若菜巻で出す)
20 内大臣、この盛儀をよそに聞きつつ、雲居雁の現状を後悔する。情勢の好転にも夕霧動ぜず。中納言昇進まで我慢の決意堅し。
21 業をにやした光源氏、右大臣や中務宮家との縁談を勧めるも、夕霧返事せず
22 光源氏、夕霧に教訓する。結婚について、その対処のしかたをこまごまと語る
23 夕霧から心のこもった便り絶えず。
24 内大臣、夕霧の縁談情報を耳にする。雲居雁の前で、これを愚痴る
25 雲居雁からの返事に、夕霧首を傾ける

★昔の物のほうがよい
大弐のもたらした舶来の香を見た光源氏が、薫香は昔のものがよいと思い、二条院の蔵をあけて、唐のものをとりだした。これは、恐らく母の時代あるいは祖父の時代のものであろう。祖父の時代は大陸文化の時代であったことは、すでに繰り返し述べた。さて、薫香ばかりでなく、錦も綾も、桐壷時代の初期に高麗人が献上したものの方がよいと光源氏は認識している。これは、光源氏のレトロ趣味をいっているのではなくて、作者の歴史文化認識の反映であろう。藤原道真が言ったように、唐の文化は確実に衰微している。『源氏物語』に即して言えば、『源氏物語』の時代より、『源氏物語』以前の時代のほうが薫香も衣裳調度も優れているということだ。光源氏の時代の蘇生をめざしたものである。

★八条式部卿・本康親王
本康親王は仁明天皇の第五子。文徳・光孝両帝と兄弟である。二十年以上兵部卿をつとめ、光孝天皇即位の年、式部卿となり皇族の事実上のトップとなっている。藤原基経と協力して、陽成天皇即位後の難渋した後継天皇選びに功があったのではないかと推測される。その後一品に叙せられているから親王の権威は宇多天皇時代も揺るぎないものであっただろう。没年は醍醐天皇の延喜元年十二月。年齢は未詳だが、『古今和歌集』巻第七に、貫之と素性法師が親王の七十賀のために詠んだ屏風歌があるから、長寿の親王であったことは間違いない。ただ、親王の第二子である希世は延長八年、清涼殿で震死してい。基経の子・時平とともにあって、菅原道真を追放したためであろう。おそらく、本康親王は、基経・時平の藤原勢力の側にあって、反道真派であったはずである。こうみていくと、源氏物語における、紫上の父・式部卿の面影に近似していると考えられるが、いかが。

★朝顔の登場
朝顔の久し振りの登場。彼女の登場は、この薫香の場に権威をもたらす作用をすると考えられる。また、彼女がかって光源氏の正妻となる場面も考えられた女性であることに思いをいたすと、近づく女三宮事件への繋ぎ、布石とも据えることができるかもしれない。朝顔の自己認識「散りにし枝」は、朝顔巻からの連続性がある。とはいえ、彼女の存在が、玉鬘なきあとの、光源氏世界の唯一の色気となっているのは、まぎれようのない事実である。玉鬘なき後、この「残んの色香」に頼るとは、さしもの光源氏の世界も、黄昏の感なきにしもあらずである。近々登場予定の女三宮は是非とも必要なキャスティングということかもしれない。

★薫香と人柄
「黒方」=朝顔前齋院。
「侍従」=光源氏。
「梅花」=紫上。
「荷葉」=花散里。
「薫衣香」(百歩の方)=明石御方。
参加者それぞれの調合した薫香は、性格そのままである。
朝顔前齋院「心にくくしづやか」、光源氏「すぐれてなまめかしうなつかしき」、紫上「はなやかに今めかしう、すこしはやき心しらひを添へて、めづらしき薫り加はれり」、花散里「あはれになつかし」明石御方「世に似ずなまめかしさを取り集めたる心おきてすぐれたり」。

★桐壷の保存
姫君の入内予定は四月。注目されるのは、明石姫君の入内後の居場所が「昔の御宿直所、淑景舎」であるということ。かっての桐壷更衣の居場所がそのまま光源氏の宿直所として保存さけていた。そこに今度は姫君が入る。ということは、明石姫君が桐壷更衣の正当な後継者であるという、これは宣言であろう。考えてみれば、この明石姫君の物語は、生き残った桐壺族が、三代かけて復活するという物語なのであるから、当然といえば当然の処置である。この居場所、東宮が即位後も継続されるかどうかに注意を払う必要がある。即位後、明石中宮が弘徽殿な藤壷なりに移行せず、桐壷に拘り続けたなら、この宣言は本物となる。以後、気をつけて見守る必要がある。さても、紫上が桐壷更衣の「里の夢(二条院ー紫上の母の里)」を継ぎ、この明石姫君が「宮中の夢」を実現する。これが源氏物語なのである。

★仮名全盛時代
「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなん、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、ひろき心ゆたかならず、一筋に通ひてなんありける。妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づる人々ありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりし中に、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことにおぼえしはや。さてあるまじき御名も立てきこえしぞかし。悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡き御影にも見なほしたまふらん。宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらん」と、うちささめきて聞こえたまふ。「故入道の宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞ少なかりし。院の尚侍こと今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前齋院と、ここにとこそは書きたまはめ」とゆるしきこえたまへば、「この数にはまばゆくや」と聞こえたまへば、源氏「いたうな過ぐしたまひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそまじるめれ」とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせたまふ。「兵部卿宮、左衛門督などにものせん。みづから一具は書くべし。気色ばみいますがりとも、え書きならべじや」と、我ぼめをしたまふ。
(中略)
 例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。花盛り過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言どもなど思ひすましたまひて、御心のゆくかぎり、草のもただのも、女手も、いみじう書きつくしたまふ。御前に人繁からず。女房二三人ばかり、墨などすらせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやなど選り出でたまふに、口惜しからぬかぎりさぶらふ。御簾あけわたして、脇息の上に草子うち置き、端近くうち乱れて、筆のしりくはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。

★嵯峨天皇宸筆『古万葉集』と醍醐天皇宸筆『古今集』
「嵯峨の帝の、古万葉集を選び書かせたまへる四巻」。『万葉集』アンソロジーが存在した。これを嵯峨天皇がやった、ということは、平城帝と嵯峨天皇との敵対関係から考えると想像しにくい。あるいは、追悼の意味があるのか。はたまた、古今集序文に書かれている万葉集平城天皇集成説を紫式部が信じていなかったのか。延喜の帝・醍醐天皇の直筆になる『古今集』。これも豪華な巻物に仕立てられている。紫式部は、これも知っていたのであろうか。これまで、桐壷帝のイメージと、延喜・醍醐帝のイメージがだぶっていたのだが、この条文で、それが完全に切れた印象が強い。物語が、物語の制約から自由になったと捉える必要がある。源氏物語の歴史離れである。もっとも、こうやっておかぬと、これから書くとんでもない出来事を歴史上で特定されてしまう。で、こういう処置が必要であったということではないか。ともかく、嵯峨帝直筆の古万葉集(抄物)、醍醐帝直筆の古今和歌集。蛍兵部卿によって保管されていた二つの国宝が、この日、光源氏の手に帰したわけである。光源氏や夕霧の草子を見た兵部卿が、これでしか対抗できぬと思い、息子の侍従にわざわざ取りにゆかせ、光源氏に贈ったのだ。が、これは、若紫巻北山の場で聖徳太子の宝物が光源氏の頭領であるという儀式として、捉えなおしておくべきものであろうかと思う。

★須磨の日記
須磨の絵については、すでに絵合巻で劇的に提示されたものであったが、日記のほうは、この期に及んでもまだ光源氏は取り出さない。「今すこし世をおぼし知りなむに」と考えたのである。見せる時期を選んで見せなければ効果は期待できない。明石姫君教育への周到な配慮は一貫している。このことは、この場面が、まだまだ小さな場面なのだという作者からのメッセージとして了解する必要があろう。この時、嵯峨天皇の『古万葉集』と醍醐天皇の『古今集』は、豪華な前座となるのみ。なお、あの時同時に書いていた紫上の日記については、ここでは何も言及していない。もっとも、光源氏は、紫上日記のことを紫上からまだ何も聞かされていないらしい。底意を感じる。

★光源氏の結婚論
「かやうのことは、かしこき御教へにだに従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜまうけれど、今思ひあはするには、かの御教へこそ長き例にはありけれ。つれづれとものすれば、思ふところあるにやと世人も推しはかるらんを、宿世の引く方にて、なほなほしきことにありありてなびく、いとしりびに人わろきことぞや。いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りあるものから、すきずきしき心使はるな。いはけなくより宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、ところせく、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむとつつみしだに、なほすきずきしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。位浅く何となき身のほど、うちとけ、心のままなるふるまひなどものせらるるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなきとき、女のことにてなむ、賢き人、昔も乱るる例ありける。さるまじきことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふなむ、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつ見ん人の、わが心にかなはず、忍ばむこと難きふしありとも、なほ思ひ返さん心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて世の中かたほにありとも、人柄心苦しうなどあらむ人をば、それを片かどに寄せても見たまへ。わがため、つひによかるべき心ぞ、深うあるべき」など、のどやかにつれづれなるをりは、かかる心づかひをのみ教へたまふ。

 <藤裏葉巻>

第33回 藤裏葉巻・六条院に行幸。大団円

★この巻の粗筋
 1 夕霧と雲居雁の「もろ恋」。夕霧のもどかしさ、雲居雁の不安
 2 内大臣、情勢に抗せず遂に負ける決断をする
 3 三月二十日。大宮三回忌。夕霧参加する
 4 帰り方、雨模様。内大臣、夕霧をとらえ恨み言を言う。夕霧困惑する
 5 四月上旬。内大臣、藤の花宴をする。夕霧を招待。使いとして柏木を派遣
 6 夕霧、光源氏と相談。光源氏、内大臣の心を見抜き、参加を勧める。
 7 夕霧、着飾って到来。内大臣、正装で迎える。北の方や女房たちに夕霧を誉める。夕霧には藤の花のめでたさを言う。
 8 七日。内大臣、夕霧、和解の宴。内大臣、歌で夕霧に結婚を許可。夕霧感激の歌。柏木、祝福の歌を詠む。弁の少将、「葦垣」を歌う
 9 その夜、柏木の導きで、夕霧、雲居雁の許に。二人の結婚生活ここに始まる
10 夕霧と雲居雁「川口」の贈答
11 夕霧の後朝の文。内大臣見て誉める。使いの晴れやかさ
12 朝、やってきた夕霧に、教訓する光源氏。内大臣の性格も教示する
13 八日、六条院の灌仏会
14 夕霧と雲居雁の結婚生活順調。内大臣の満足。北の方側の嫉妬。実母・按察使大納言北の方、喜ぶ
15 明石姫君入内、四月二十日過ぎと決定
16 賀茂祭。当日の暁方、紫上、御形詣で。ことそいでも車二十の盛儀
17 紫上、帰途そのまま桟敷で祭見物。六条院御方々の女房たち結集し威勢をみせつける。光源氏、昔の車争いの日を思い出し、感激にふけり紫上と語らう
18 近衛司の使者は柏木。内侍の使いに惟光の娘・藤典侍。夕霧、出発の所に歌を届ける。典侍返歌する
19 明石姫君入内に際し、紫上、世話役を実母に譲る決意を固め、光源氏に告げる。そう考えていた光源氏喜ぶ。明石母祖母の喜び無常
20 明石姫君入内。三日間、紫上母として付き添う。紫上に子の無き事を、本人、光源氏、夕霧痛恨する
21 交代の夜。紫上、明石御方と初めて対面する。明石、感動しつつ、身の程を思う
22 明石御方、九年振りに姫君と対面。住吉の霊験おろかならず。
23 東宮、明石をお気に召す。明石女御方の女房充実。一気に華やぐ
24 光源氏、懸案全て満了。後顧の憂い無し。出家を思う。
25 光源氏、来年四十賀。帝以下準備を急ぐ
26 秋、光源氏、准太上天皇となる。帝、これでも不満
27 内大臣、太政大臣。夕霧中納言となる。内大臣の満足
28 喜びに訪れた夕霧、大輔の乳母と贈答。溜飲を下げる
29 夕霧、三条の大宮邸を修理して雲居雁と暮らし始める
30 太政大臣、三条邸を訪れる。大宮を思う。宰相の乳母、得意然として歌を詠み、太政大臣に贈る
31 十月二十余日、冷泉帝、朱雀院うちそろい六条院行幸。
32 巳刻馬場殿到着。未刻過ぎに南の寝殿に移行。錦の敷物。軟障。東池で道中の輿に鵜飼。壁を崩し中門を開き、中宮の里殿の紅葉を見せる演出をする。
33 宣旨あり。光源氏の座を、二帝と並べる
34 太政大臣調理をつとめる。舞楽始まり、太政大臣の童、美しく舞う。帝、御衣を賜う。光源氏、菊を折り青海波の昔を思い出す
35 殿上の御遊始まる。琴「宇多の法師」の音色のすばらしさ。この世のものと思われぬ六条院の見事さ。冷泉院、光源氏、「ただひとつもの」。夕霧も瓜二つ。笛を吹く。弁の少将の美声

★巻名「藤裏葉」
「藤の裏葉」は、後撰集巻三春下
    春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ
が出典。暗示する意味は、「うらとけ」る意味と「君し思はば我も頼まむ」の両義である。夕霧と雲居雁が結婚するこの巻に相応しい語句である。なお、「うら」は心の内の意味である。「春日さす」は、ここでは藤原氏の氏神「春日の神も御照覧あれ」の語気であろう。絶妙の「藤の裏葉」の引用である。

★極楽寺
『大鏡』第五巻に、極楽寺建立のエピソードが紹介されている。仁明天皇の芹河行幸の時。天皇が道中で琴の爪を紛失。幼い基経に捜索の命が下る。途方に暮れた馬上の基経が祈る。「これをもとめいでたらん所には、一伽藍たてん」。すると爪が出てきた。後年、出世した基経は、そこに極楽寺を建てた。極楽寺は、藤原氏の栄華を象徴する記念碑的名刹なのである。大宮がここに葬られているということは、内大臣の父、故太政大臣のイメージを基経とする含みかと思われる。基経の死後、藤原氏はちょっと衰退した。菅原道真の時代から醍醐天皇親政があったころである。そのあたりの歴史的推移を念頭において作者は筆をすすめているのではないか。

★内大臣の夕霧・光源氏評
北の方、若き女房などに、「のぞきて見たまへ。いと警策(かうざく)にねびまさる人なり。用意など静かに、ものものしや。あざやかに、抜け出でおよすけたるかたは、父大臣にもまさりざまにこそあめれ。かれは、ただいと切になまめかしう愛敬づきて、見るに笑ましく、世の中忘るるここちぞしたまふ。公ざまは、すこしたはれて、あざれたるかたなりし、ことわりぞかし。これは、才の際もまさり、心もちゐ男々しく、すくよかに足らひたりと、世におぼえためり」などのたまひてぞ、対面したまふ。

★催馬楽「葦垣」「河口」
「葦垣」
葦垣眞垣 眞垣かきわけ てふ越すと 負ひ越すと 誰 てふ越すと 誰か 誰か この事を 親にまうよこし申しし とどろける この家 この家の 弟嫁(おとよめ) 親にまうよこしけらしも
天地(あめつち)の 紳も 神も したべ 我はまうよこし申さす
菅(すが)の根の すがな すがなきことを 我は聞く 我は聞くかな
「河口」
河口の 関の荒垣や 関の荒垣や守れども はれ 守れども 出て゜て我寝ぬや(一説 いでてあひにきや) 関の荒垣

★光源氏の内大臣評
「おいらかに、大きなる心おきてと見ゆれど、下の心ばへ男々しからず癖ありて、人見えにくきところつきたまへる人なり」。先の、内大臣からの光源氏評と比べてみるとおもしろい。光源氏のほうが、政治家として数段上の、人の悪さがしのばれよう。内大臣が光源氏にそうするのは人情の自然だが、光源氏は、決して内大臣に打ち解けることはない、という気がしないか。

★光源氏紫上に人生を語る
「すべていと定めなき世なればこそ、何ごとも思ふままにて、生ける限りの世を過ぐさまほしけれ」と光源氏は言う。余裕の表現かもしれない。が、言った相手が紫上で、「残りたまはむ末の世などの、たとしへなきおとろへなどをさへ、思ひ憚らるれ」と続くから、これは、本音とも受け取れる。生きているうちは、君を泣かせない。と彼はこの桟敷で紫上に言った。しかし、間もなく、生きているうちに、彼女を泣かせることをする。この時、「定めなき世」という言葉が皮肉に響く結果となる。

★紫上と明石御方の対面
たちかはりて参りたまふ夜、御対面あり。「かくおとなびたまふけぢめになむ、年月のほども知られはべれば、うとうとしき隔ては、残るまじくや」と、なつかしうのたまひて、物語などしたまふ。これもうちとけぬはじめなり。ものなどうち言ひたるけはひなど、むべこそはと、めざましう見たまふ。またいと気高う盛りなる御けしきを、かたみにめでたしと見て、そこらの御なかにもすぐれたる御心ざしにて、並びなきさまに定まりたまひけるも、いとことわりと思ひ知らるるに、かうまで立ち並びきこゆる契り、おろかなりやはと思ふものから、出でたまふ儀式の、いとことによそほしく、御車(てぐるま)などゆるされたまひて、女御の卸ありさまに異ならぬを、思ひくらぶるに、さすがなる身のほどなり。
いとうつくしげに雛のやうなる御ありさまを、夢のここちして見たてまつるにも、涙のみとどまらぬは、ひとつものとぞ見えざりける。年ごろよろづに嘆き沈み、さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、まことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。

★交代の意味
この紫上と明石御方の交代劇は、次のように考えると分かりやすい。これまで、育ての親であった紫上意思に譲るということは、役割の交替ということを意味する。奇妙な言い方を厭わず言えば、紫上が産みの親となり、明石が育ての親となるということである。こう観念すると、以後の展開、明石姫君に対する、絶対的な母となる紫上のありようがよく理解されるだろう。この交代劇は、いうなれば、紫上の、単なる養母から脱し、さらなるバージョンアップなのである。古代神話で言えば、珠依姫の位置にいた紫上が、豊玉姫になった。そうなることによって、彼女が籠宮神仙界へ帰っていく未来図がここに開いた、と考えられる。紫上は、ここで明石のもつ神仙性を奪い取り、神仙となって天上界に帰る。一方、神仙性を喪失した明石は地上の人となり、この世の栄耀栄華を見おおせる。そういう構図がここに成立したのである。

★紫上から見た明石御方
「さし過ぎもの馴れず、あなづらはしかるべきもてなしはたつゆなく、あやしくあらまほしき人のありさま心ばへなり」。対面以降、明石御方はこれまでの態度を持し、紫上の信頼を確保していったものと想像される。なかなか出来ぬ振る舞いである。

★光源氏、絶好機を見逃す
夕霧問題も明石姫君入内の大仕事も片付き、紫上も秋好中宮と明石姫君がいれば心配ない。花散里も夕霧がいるので大丈夫。光源氏にとって「本意をとげ」る千載一遇のチャンス到来である。しかし、人はとかく絶好機を見逃すものだ。光源氏とて、例外ではない。

★来年四十歳
「明けむ年四十になりたまふ賀」。読者は初めてここで光源氏の年齢を、明確に意識することになる。桐壷巻で十二歳の記述があって以来、紅葉賀巻の源典侍をめぐるドタバタ劇の時二十ぐらいと記されてよりこのかた、光源氏の年齢は空白のままに捨て置かれていた。が、この空白は無意味な空白ではない。光源氏の時間は、地上の時間に晒されることなく密閉封印されて、彼は「流れぬ時」のなかにいた。いうなれば、これまで六条院という籠宮に似た不老不死の神仙空間に存在しつづけてきたのである。その彼が、ここで突然に、この世の時間に曝される。そして、水の江の浦島みたいに、一気に歳をとる。これが、このあたりで作者が持っている構想、描こうとしている絵柄なのではないか。

★光源氏、准太上天皇になる
この人事、彼の現在の地位の追認の感がしないでもない。が、歴史上の事例を検討しておく必要がある。天皇の父であって既に死亡している者、あるいは怨霊の鎮魂のため、等々の場合の太上天皇追号は自然である。ここは、「准」に意味があるとみるべきであろう。これが、名乗れぬ実子・冷泉帝のできる最大の孝養ということだろう。「かくても、なほ飽かず帝はおぼしめして、世の中を憚りて、位をえゆずりきこえぬことをなむ、朝夕の御嘆きぐさなりける」。さて、光源氏の准太上天皇就任は、いうまでもなく桐壷帝の高麗人の予言の成就である。ということは、桐壷巻の影響力はここまでということか。しかし、あの時、高麗の相人は、光源氏が天皇になったら世は乱れ憂れうることが起こると言った。いま、光源氏は、准とはいえ天皇になった。ということは、波瀾の開始だ。と了解すれば、桐壺巻の影響力は、若菜巻をも覆うことになる。そう読むべきではないか。彼がぐずぐずせずに出家しておれば、波瀾は回避できた。しかし、「すべて定めなき世」は、そんな甘いものではない。と、作者がやって、これより源氏物語は、とんでもない世界に突き進んでゆくことになる。なお、光源氏の准太上天皇就任は、藤壷の先例がある。(澪標巻)。また、中宮にはなれなかったが皇太后になった、かっての弘徽殿女御のことをも思い起こされる。

★両帝、六条院に行幸する
十月二十日。六条院へ帝・朱雀院という新旧両帝の行幸がある。これは、光源氏生涯の栄光の日である。おりしも紅葉の盛りの頃。青春時代の頂点、紅葉賀の再来であろう。いつも、行事は簡略にするきらいのあった光源氏も、この日ばかりは「御心を尽くし、目もあやなる御心まうけ」をさせた。彼の感激、推して知るべしである。光源氏をはじめ参加者が皆「朱雀院の紅葉の賀、例の古事おぼし出でらる」とあるが、これは紫式部の小さなミス。参加者の内、光源氏の世代以上の人は全員である。夕霧や柏木の世代以下の人々は、光源氏の青海波は知らないからだ。むしろここは、読者全員と心得た方が良い。どんな胡乱な読者とて、ここで紅葉賀巻の盛儀を思い出さない者はない。そして、ここで初めて読者は、かの巻で、朱雀院の行幸の記事が簡略で、試楽のみが大量に記されていた理由を了解することになるのだろう。ここの、この記事とのバランスを作者は考えて、わざと行幸の場面に筆を費やさなかったのである。

★最後の場面
ものの興切なるほどに、御前に皆御琴ども参れり。宇多の法師のかはらぬ声も、朱雀院は、いとめずらしくあはれに聞こしめす。
    秋をへて時雨ふりぬる里人も
     かかる紅葉のをりをこそ見ね
うらめしげにぞおぼしたるや。帝、
    世の常の紅葉とや見るいにしへの
     ためしにひける庭の錦を
と聞こえ知らせたまふ。御容貌いよいよねびととのほりたまひて、ただひとつものと見えさせたまふを、中納言のさぶらひたまふが、ことことならぬこそめざましかめれ。あてにめでたきけはひや、思ひなしに劣りまさらむ、あざやかににほはしきところは、添ひてさへ見ゆ。笛つかうまつりたまふ、いとおもしろし。唱歌の殿上人、御階にさぶらふなかに、弁の少将の声すぐれたり。なほさるべきにこそと見えたる御仲らひなめり。

★「瓜三つ」ということ
パスカルの『パンセ』に次のような記事がある。「二つのそっくりの顔がある。どちらもそれ自体はおかしくないのだが、並んでいるとそのそっくり具合が人を笑わせる」。三つ並ぶとどうか。人は首をかしげ、何故だと考える。作者の狙いもそこにあると思う。そうされても、疑おうともせぬ善意のかたまりみたいな貴族たちを、原因理由を知っている『源氏物語』の読者たちは笑うだろう。が、その読者たちとて、笑うことによって、事実を再確認させられることを知らない。罪はけっして帳消しになってはいない。物語は次に続く。かくして、この巻は、弁の少将の美声で閉じられる。美しいフィナーレである。もうこういう栄光の時は、二度とないのかもしれない。古い物語に別れを告げるようで、名残惜しい終わり方であると思う。