百人一首 2…3〜8

三 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む

【出典】
『拾遺和歌集』恋三・778(岩波書店「新日本古典文学大系」による)
  (題しらず)                            人麿
778 葦引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

【現代語訳】
山鳥の尾の垂れ下がった、あの長い長いその尾よりも、いっそう長いこの秋の夜を、恋しい人とも離れて、たったひとりでさびしく寝ることであろうかなあ。

【鑑賞】   (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 『万葉集』2812の歌のあとに、「或本の歌に曰はく」として見え、人麿の歌だという明証もなく、歌がらも人麿らしくはないが、平安時代以降は代表作の一つと考えられてきた。藤原公任は、むしろ「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思う」を第一にあげていたが、『新古今集』の前後から、特に高く評価され、定家は『八代抄』以下の秀歌撰にことごとくあげている。「足引の山」と枕詞でよみ出し、「山鳥の尾のしだりをの」といって、「ながながし夜」と続け、いかにも限りない秋の夜の長さを序詞によって巧みによみ切った風情を独り寝の抒情を余韻深く味読したのである。

【参孝】
『萬葉集』巻十一(2802イ)
2802 念友    念毛金津     足檜之   山鳥尾之     永此夜乎
    おもへども おもひもかねつ あしひはの やまどりのをの ながきこのよを
        或本歌曰 足日木乃  山鳥之尾乃  四垂尾乃  長永夜乎    一鴨将宿
               あしひきの やまどりのをの しだりをの ながながしよを ひとりかもねむ

【他出】
*古今六帖・第ニ・924「山鳥」Dわがひとりぬる
*人麿集T207 *人麿集U333(萬葉集巻十一・十二をもとにして作られた。人麿の歌としているがそうではない)。
*和漢朗詠集・上238「秋夜」人丸

【用例】
山かげや山鳥の尾の長き夜を我ひとりかは明かしかねつつ(慈円 拾玉集・4953)
あしひきの山鳥の尾のながらへてあらばあふよを泣く泣くぞ待つ(『続後撰集』巻・786・源家清)
ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾の霜置きまよふ床の月影(新古今・秋下・487・定家)
うかりける山鳥の尾のひとりねよ秋ぞ契りし長き夜にとも(定家『拾遺愚草』2328)

【柿本人丸】   (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生没年未詳(飛鳥時代)。持統ー文武期(686-707)ごろの宮廷歌人。所々の行幸に従って歌を献上し、一生低い官位で過したらしく、石見国(島根県)で死んだともいう。
万葉時代最大の歌人で、長歌・短歌ともにすぐれ、『万葉集』に長歌十八首、短歌約六十七首を残す。
『古今集』以下の勅撰集にも二百四十八首入集しているが、平安初期に選ばれた『人丸集』などをもととし、真偽の疑わしい歌も多い。
歌神とされ、平安末期以降、神格化された人麿を礼拝する「人丸影供(えいぐ)」が行われた。


四 田子の浦にうち出でて見ればしろたへの富士の高嶺に雪は降りつつ 

【出典】
『新古今和歌集』冬・675(岩波書店「新日本古典文学大系」による)
   題しらず                           赤人
675 田子の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪はふりつゝ

【現代語訳】 
田子の浦の、眺望のきくところに進み出て、はるか彼方を見渡すと、まっ白い富士の高嶺に、今もなお雪はしきりに降っていることだ。

【鑑賞】    (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)

「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(万葉集・321)という原歌は、まっ白に雪の降りつもっている富士山を田子の浦から見やった、雄大荘厳な実景歌として高く評価されるが、「雪は降りつつ」の絶句では、現に雪が降っている冬の歌となって、実景ではあり得ないこととなってしまい、歌調は流麗だが、原作よりはるかに劣ったものとなると説かれるのが常である。しかし、『応永抄』など「此の雪はふりつつといへるに余情かぎりなし」といっているように、幻想的に一つの叙景を思いうかべて味わっていたのである。「景曲すぐれたるところ」(水無月抄)とあるなど、古注も多く叙景の方向でとらえている。

【参孝】
『萬葉集』巻一・321
        山部宿祢赤人      望不盡山      歌一首井短歌
       やまべのすくねあかひと ふじさんをのぞみて歌一首並びに短歌
317 天地之   分時従      神左備手  高貴寸     駿河有   布士能高嶺乎  天原     振放見者 
   あめつちの わかれしときゆ かむさびて たかくたふとき するがなる ふじのたかねを あまのはら 
   振放見者    度日之   蔭毛隠比    照月乃   光毛不見     白雲母  伊去波伐加利
   ふりさけみれば わたるひの かげもかくらひ てるつきの ひかりもみえず しらくもも いゆきはばかり
   時自久曽 雪者落家留   語告    言継将往      不盡能高嶺者
   ときじくそ ゆきはふりける かたりつぎ いひつぎゆかむ  ゆきはふりける
         反歌
318 田子之浦従 打出而見者     真白衣   不盡能高嶺尓  雪波零家留
   たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに  ゆきはふりける

たごのうら【田子浦】  片桐洋一『歌枕ことば辞典』による
 駿河国の歌枕。静岡県富士市の田子の浦がその地とされているが、『万葉集』の「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(巻三・赤人)の「田子の浦ゆ」は「田子の浦を通って」と訳すほかはないので、当時の田子の浦は、むしろ富士山が見えない山蔭であったということになり、富士川河口の西、由比・西倉沢・薩た山のあたりを考えるのが通説になっている。しかし、この歌が平安時代後期の『万葉集』のよみ方の一つに従って「田子の浦に…」と改まって『新古今集』や『百人一首』にとられると「田子の浦」は「富士山」がよく見える所でなければならなくなり、今の名勝『田子の浦」ができあがったのである。
 ところで、平安時代には、この歌と関係なく『古今集』の「駿河なる田子の浦浪たたぬ日はあれども君を恋ひぬ日はなし」(恋一・読人不知)を受けて、「浦浪」をよむことが多かった。いつも涙に濡れているわが身を、絶えることなく浪のたつ田子の浦にたとえた「おぼつかな我身は田子の浦なれや袖うちぬらす浪のまもなし」(和泉式部続集)など、その例は多い。また、「富士」の地名とともによんだり、「田子(農夫)」と掛けてよんだりした。また、名所絵屏風に付する歌としてよまれた「田子の浦に霞の深くみゆるかなもしほの煙たちやそふらむ」(拾遺集・雑春・能宣)によったのか、春の季節をよんだ抒情歌が多かった。「田子の浦の浪も一つにたつ雲の色わかれゆく春のあけぼの」(拾遺愚草)などがその例である。
※田子の浦→いつも泡がたっている。

【山辺赤人】     (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生没年未詳。奈良初期の宮廷歌人。『万葉集』の歌は、すべて聖武期の作と認められる。ごく下級の官人で、行幸従駕の歌に伝統的な宮廷儀礼歌を多くよんでいる。史書にはその名をみないが、歌人としては柿本人麿と並び称される。長歌より短歌に秀作が多く、特に叙景歌にすぐれていた。『万葉集』に長歌十三首、短歌三十七首を残す。『後撰集』以下の勅撰集に約四十六首入集しているが、人麿と同じく、平安初期に選ばれた『赤人集』などをもととし、真偽が疑わしい。

五 おくやまにもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき 

【出典】 
『古今集』秋上・215
(是貞親王の家の歌合の歌)                   よみ人しらず

【現代語訳】
奥山に、一面に散り敷いた紅葉をふみ分けふみ分けて来て、妻をしたって鳴く鹿の声を聞く時こそ、秋は悲しいという思いが、ひとしお身にしみて感じられることよ。

【鑑賞】     (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
この歌は『猿丸集』には、「鹿のなくを聞きて」(本文少異あり)として見え、『古今集』の配列からしても、鹿を主題にした歌で、後に並ぶ三首は萩の歌であり、『新撰万葉集』にも「黄葉蹈別」と書かれていて、契沖の指摘の通り、この「もみぢ」は萩の黄葉で、秋もまだ中秋のことと見るのが有力である。しかし、それがいつしか楓の紅葉とされ、鹿の音に妻恋いのイメージが重なり秋深きころの悲しみに重点が移されて鑑賞されてゆく。定家が、この歌を高く評価していたのも、すでに紅葉ふみわけ鳴く鹿の音に、暮れゆく秋山の寂寥を感じていたに違いない。それは、いかにも新古今時代の好みーほのかな艶と哀愁の表出ーにかなった歌境であった。

【校異】
基俊本・元永本・筋切・六条家本・清輔永治本は「題しらず」
『猿丸大夫集』五九@「あきやまの」D「物はかなしき」

【他出1】
『新撰萬葉集』巻上・113(寛平五年893、菅原道真撰か)
113 奥山丹   黄葉蹈別    鳴麋之   音聴時曽   秋者金敷
   オクヤマニ モミヂフミワケ ナクシカノ コエキクトキゾ アキハカナシキ
114 秋山寂寂葉零零        麋 鹿 鳴 音 数 処 聆
    しうざんせきせきはれいれい びろくのなくこゑあまたのところにきこゆ
   勝 地 尋 来 遊 宴 処            無 朋 無 酒 意 猶 冷
   しようちにたずねきたりていうえんするところ ともなくさけなくしてこころなほつめたし 

※ 歌合せ→歌人が自分で歌を作って左右に分かれて勝負する。プレイする人と元歌を作る人は別。
  巻上→歌合せで勝った歌。
  巻下→歌合せで負けた歌。

【参孝1】  
『古今集』秋上の配列
       これさだのみこの家の歌合のうた   たゞみね
214 山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴くねに目をさましつゝ
                               よみ人しらず
215 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿のこゑきく時ぞ 秋はかなしき
       題しらず
216 秋萩にうらびれをれば あしひきの山したとよみ鹿の鳴くらん

217 秋萩をしがらみふせて鳴く鹿の 目には見えずて音のさやけさ 

【参孝2】
『三十六人撰』公任
    左                   中納言家持
13 まきみくの檜ばらもいまだくもらねば小松がはらにあわ雪ぞふる
14 かささぎのわたせるはしにおく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける
15 神なびのみむろの山のくずかづらうら吹きかへす秋はきにけり

※三十六人撰→36人の有名歌人を集めて作った歌集。 10首2人。 5首2人。 3首2人。

【参孝3】
『三十六人歌合』俊成
   左                    猿丸大夫
31 をちこちのたつきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな
32 ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとおもふは山のかげにぞありける
33 おく山にもみぢふみわけなくしかのこゑきくときぞ秋はかなしき

【猿丸大夫】       (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
生没年・伝未詳。『古今集』真名序に、大友黒主の歌を批評して「古猿丸大夫之次也」とあるだけで、『三十六歌仙伝』(盛房)にも、「何レノ代ノ人トモ知レズ」という伝承の人丸大夫に対する伝承の歌人(古今全評釈)。さまざまの伝説が生まれ、弓削王とか、弓削の道鏡とかいった俗説もあり、小野神を奉じた巡遊詩人の徒だともいわれる。『無名抄』には、近江国田上に墓所のあった由を記している。『猿丸集』(猿丸大夫集)は一種の古歌集であり、勅撰集には一首もなく、確実な詠歌は残らない。

六 かささぎのわたせる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける   

【出典】
『新古今集』冬・620
                           中納言家持

620 かさゝぎのわたせる橋にをく霜の白きを見れば夜ぞふけにける

264 『家持集』ニ六八<ニ六三・ニ六四「時雨」ニ六九「神無月時雨」ニ七〇〜ニ七ニ「雪」。当該歌も冬の歌。月の光をも意識>
   かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜はふけにけり

【現代語訳】
冬の夜空にこうこうと輝く天の川の、鵲が翼をつらねて渡した(七夕の時に)とい橋に、あたかも霜が置いたように白く見えているのを見と、天上の夜もすっかり更けたことだなあ。

※夜がふけて寒さを身にしみて感じる。孤独をかんじる。

※かささぎ→現在は北九州で見られる。
※織女が川を渡って牽牛に会いに行った(古今集では男が会いにいっている)ー中国の影響。

【鑑賞】         (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
真淵が『うひまなび(百人一首のことが書いてある)』で、「鵲のわたせる橋」を宮中の御階(みはし)に取ってより、従う説が多く、定説となろうとしている。それは、『大和物語』125段の話。壬生忠岑が御階もとにひざまずいて、「鵲の渡せる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ」とよんだことによるのだが、この歌は、今の歌をふまえ、それを現実の宮中の御階によんだ機知に富んだ作と言えよう。『応永抄』が、秘伝だからと口を閉ざしつつ「此の歌の心は冬深く成て月もなく雲も晴たる後、霜は天に満ちて冴えに冴えたる深夜などに起き出でて此歌を思はば感情限りあるべからず」と言っていることは、よくこの歌の風情を理解している。そう解してこそ秀歌として定家の心を捉えたと言える。

【参孝1】
『家持集』
ニ〇六<一九五〜ニ一九>七夕の歌が並ぶ
   かささぜの橋つくるより天の川水もひななむ川渡りせむ
同・ニ一三
   かささぎのつばさにかけて渡す橋またもこほれぬ心あるらし

【参孝2】
定家に冬のかささぎの歌多し。他の家隆の『壬ニ集』に例あるが、秋か恋が一般的。

『拾遺愚草』(定家)ニ〇〇ニ
   ながき夜に羽を並ぶる契りとて秋待ち得たるかささぎの橋(七月鵲)
同・ニ〇ニ七
   天の川渡瀬の浪に風たちてややほど近きかささぎの橋(早秋)
同・一三五九
   かささぎの羽交ひに山の山風のはらひもあへぬ霜の上のつき(冬)
同・一八一〇
   神無月しぐれて来たるかささぎの羽に霜置きさゆる夜の袖(冬)
同・ニ四五七
   あまつ風初霜白しかささぎのとわたる橋の有明の空(雪)
  ※「と」→接頭語。
同・員外(『拾遺愚草』に入らなかった歌)・五一四
   天の川夜わたる月もこほるらむ霜に霜置くかささぎの橋(冬の月)

『壬ニ集(藤原家隆)』ニ五九九
   かささぎのわたすやいづこ夕霜の雲ゐに白き峰のかけはし(冬山霜)
同・ニ六七ニ
   限りなく行きかふ年の通ひ路や霜に朽ちせぬかささぎの橋(冬)

【中納言家持】       (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
養老ニ年(718)ごろー延暦四年(785)。大伴氏。奈良時代末期の貴族、歌人。旅人の息子。従三位、中納言に至る。父の死後、衰えつつあった大伴氏の首長として種々困難に遭遇し、政治的には不遇に終わった。『万葉集』中にもっとも歌数多く、短歌四百三十一、長歌四十六、連歌一、旋頭歌一、詩一首を残し、『万葉集』の編纂にも関係した。『古今集』には、その名は見えないが、公任の『三十六歌仙』に選ばれる。『拾遺集』以下の勅撰集に六十二首入集。多くは『家持集』により真偽の疑わしい歌が多い。

七 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

【出典】
『古今和歌集』羇旅・406

もろこしにて月を見てよみける             阿倍仲麿

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

 この歌は、昔、仲麿を唐土(もろこし)に物ならはしにつかはしたりけるに、あまたの年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうで来なむとて出て立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、馬(むま)のはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさしいでたりけるを見てよめるとなむ語り伝ふる。

【現代語訳】   
大空はるかに見渡すと、今しも東の空に美しい月が出ているが、ああ、この月は、かって眺めた故郷奈良春日野の三笠の山に出た、あの月なのかなあ。

【鑑賞】           (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
阿倍仲麿が、遣唐使清河に従って帰国を志し、蘇州江上にて、折からの満月を異境の空に眺め、望郷の憶いにひたってよんだ歌とされているが、この歌をよみ返してみると、あまりにも素直な淡々とした口調、かどかどしさのない口誦しやすさが感じられ、「かも」といった古い詠嘆の助詞もそのまま一首の調子の中にとけこんで目立たない。『和漢朗詠集』にとられている通り、いかにも王朝の公達が好んで口ずさんだにふさわしい調べであって、もはや仲麻呂その人の時代、すなわち万葉調も爛熟した天平勝宝のころのおもかげは見いだし得ない。仲麻呂伝説の興味も伴って、ひろく愛誦され、「たけたかく余情(よせい)かぎりな」き歌(応永抄)とされていたのである。

【他出
公任『金玉集』『和漢朗詠集(有名な漢詩の一部分と和歌を組み合わせて作った)』『深窓秘抄(和歌の中で優れているもの、自分の弟子・子供のみに教える)』、伝忠岑『和歌体十種(和歌の表現を十種に別けて表している)』、俊頼『俊頼髄脳(和歌を説話的に説明)』、仲実『綺語抄』『和歌童蒙抄』、清輔『奥義抄』、俊成『古来風躰抄(昔から歌のスタイルの良い歌)』のほか、『江談抄(大江匡房が語った)』『今昔物語集』『古本説話集』『宝物集(仏教説話)』などに引用されている。

【参孝】
『今昔物語集』巻二十四の四十四

阿倍仲麿、於唐讀和歌語第四十四

 今ハ昔、阿倍仲麿ト云人有ケリ。遣唐使トシテ物ヲ令習ムガ為ニ、彼国ニ渡ケリ。
数ノ年ヲ経テ、否返リ不来リケルニ、亦此ノ国ヨリ□ト云フ人、遣唐使トシテ行タリケルニ返リ来ケルニ伴ナヒテ返リナムトテ明州ト云所ノ海ノ邊ニテ彼ノ国ノ人餞シケルニ、夜ニ成テ月ノ極ク明カリケルヲ見テ、墓无キ事ニ付テモ、此ノ国ノ事思ヒ被出ツ、戀ク悲シク思ヒケレバ此ノ国ノ方ヲ詠メテ此ナム讀ケル
アマノハラフリサケミレバカスガナルミカサノヤ山ニイデシツキカモ
ト云テナム泣ケル。
此レハ、仲丸、此国ニ返テ語ケルヲ聞テ語リ傳ヘタルトヤ。

【語釈】
※あまのはらふりさけみれば→『丹後国風土記』(逸分)に「あまのはら ふりさけみれば 霞立ち 家ぢまどひて ゆくへ知らずも」とあり、『万葉集』巻二・147に「あまのはらふりさけ見れば大君の御命は長く天たらしたり」とあり、巻三・289「あまのはらふりさけみれば白まゆみ張りてかけたり夜道はよけむ」とあり、同・317の山部赤人の長歌にも「天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く尊き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光もみえず (後略)」とあるように、「遠く
を振り仰いで見ると」の意。
※いでし月かも→「かも」は万葉時代の終助詞。平安時代以降は「かな」に代わる。なお、この場合は「たまづきの妹は玉かもあしひきのこの山かげにまけばうせぬる」(万葉集・巻七・1416)「あかときの家恋しきに浦みより楫の音するは海人乙女かも」(同・巻十五・3641)のように、疑問の意を含む詠嘆表現。 

【阿倍仲麿】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による )
文武二年(698)ー宝亀元年(770)。正しくは阿倍仲麻呂。船守の子。奈良時代の遣唐留学生。唐名朝衛。養老元年(717)吉備真備(きびのまびき) ・玄ム(げんぼう)らとともに入唐。玄宗皇帝に仕えて、その寵をえ、李白・王維らとも親交があった。天平勝宝五年(753)来唐した遣唐使藤原清河とともに帰国の途中、難破して安南に漂着し、再び唐にもどり、在唐五十四年、帰国できぬまま唐土で死んだ。『古今集』と『続後拾遺集』に一首づつ入集。『文華秀麗集』などに詩が残る。奈良出身。
※麿→日本で作られた。二字を一字にした漢字。

八 我が庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり

【出典】
『古今和歌集』雑下・983
                             喜撰法師
我が庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり

【現代語釈】
私の庵室は都の東南です。そこにご覧のように心静かに住んでいます。世間の人たちは、この世につらい憂き山、宇治山だと言っているようですよ。

【鑑賞】            (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
伝承歌で、この歌の作られた動機なども早くわからなくなっていたので、その歌意についても、あれこれと説が分かれている。本来は萩谷朴氏の説のように機智的な詠であったかも知れない。『顕註密勘』では「しか」に鹿を掛けるとする教長説に対して、顕昭は否定していて、その顕昭の見解に定家も密勘では触れていないので、定家も同意と考えられるが、定家も「春日野やまもるみ山のしるしとて都の西も鹿ぞすみける」(拾遺愚草・下)と詠んでいるので、この歌に鹿を思い浮かべていたかも知れない。「世をうぢ山」の表現は、『源氏物語』の「宇治十帖」を経て世間の人が憂しと思う宇治山、悲しい鹿の鳴き声のする山里というイメージをともなってくる。

【参孝】        (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
『古今集』雑下、983。「(題しらず)きせんほうし」として見える。『応永抄』に「此哥は大かた明なり。宇治山といへどもわれは住むーえたるさまの心也。古今にはじめおはりたしかならずといへるは世を宇治山と人はいへどもとあるべき哥を、人はいふなりといへる所をさして云也。秋の月を見るに暁の雲にあへるとかける事終夜晴たる月俄に雲のかゝりたるを、はじめおはりたしかならずとはいへり。しかも此雪かかりたるさまなをかすかにおもしろき所あり。是にて此哥の心を思ふべし」と見え、『古今集』序の喜撰評を、この歌の批評のようにとり、比較的、明快素直に解釈しているが、『百人一首鈔』(素然)は、敷衍して説き、さらに、この歌の真意は、天台の王舎城観心のの意だとし、幽斎・貞徳をへて季吟の『拾穂抄』にまでうけつがれてゆく。いわば室町末期より『百人一首』の講釈が盛んになったための産物といってよい。

【語釈】
※喜撰法師→『古今集』の真名序・仮名序に論評され、六歌仙の一人とされているが、未詳の人物。元永本・雅俗山荘本・高野切には「基泉法師」とあり、唐紙巻子本の仮名序には「基檐」とあり、俊成本の真名序には「撰喜」としているなど、一定しない。ただし「我が庵は…」と言っていることから見て俗世を捨てた人だったことは確かであろう。
※たつみ→真北を「子」として時計回りで十二支に分けてゆくと、四時にあたるところが辰、五時にあたるところが巳、したがって東南の方向になり、まさしく宇治の方向になる。
※しかぞ住む→「然ぞ住む」。「さように住む」の意。ただし、『山家集』の「鹿」を題にした「なにとなく住ままほしくぞ思ほゆるしかあはれなる秋の山里」(435)「隣ゐぬ原の仮家に明す夜はしかあはれなるものにぞありける」(439)や慈円の『拾玉集』の「都出でてしか住む宿のませの内になほいとはしき女郎花かな」(3210)「おのづからまがきの野べをかきわけてしか住むやどをとふ人もがな」(5118)などを見ると、平等院の鳳凰堂の扉絵に鹿が描かれている宇治の名物としての鹿が連想されていたと見ることもできる。

【喜撰法師】        (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
生没年・伝未詳。『古今集』序に六歌仙の一人とされて名高い喜撰も、確実な歌は、この一首だけで、『古今集』の成立当時、すでにその作品はほかには伝わっていなかったようである。『古今和歌集目録』には、『孫姫式』(現存の部分には見えぬ)にいう基泉法師と別人かと注しており、後には紀氏出自の道術士など種々の説が生じるが、結局は宇治山の僧という以上にはわからない。『喜撰式』の作者としても注意されているが、これも仮託書にすぎない。