百人一首 3…9〜14

九 花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に

【出典】
『古今和歌集』春下・113(題しらず)       小野小町

【現代語訳】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
美しい桜の色は、もう空しく色あせてしまったことであるよ。春の長雨が降っていた間に。そして、私も男女の仲にかかずらわっていたずらに物思いをしていた間に。

【鑑賞】             (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
「花のいろはうつりにけりな」という二句は、単に花の衰えを詠じたものだという説があり、『古今集』に春の歌として並べられていることを主な論拠とするが、「したの心は花の色はと小町が身のさかりのおとろへて行くさまをよめり」(応永抄)など古来多くの注がいっているように、わが身の容色の衰えをも寓しているととるべきであろう。定家が『八代抄』にやはり春下において「はかなくて過にしかたを数ふれば花にもおもふ春ぞへにける」という式子内親王の歌に並べていることからも、定家は、表面花のうつろいを主題としながら、容色の衰えをもいったものとして小町伝説をも思いうかべ、この歌を味わっていたものと思う。

【他出】
『小町集』『三十六人撰』『時代不同歌合』『俊成三十六歌合』『定家八代抄』『近代秀歌』『秀歌躰大略』『八代集秀逸』『詠歌大概』『定家十躰』『西行上人談抄』『桐火桶』

【語釈】
※花の色→漢語「花色」。花の美しさ。人間喩える時は、血色のよい元気な様子。たとえば「夜酌容ニ満チテ花色暖カニ」(『白氏文集』巻十九「酬厳十八郎中見示」)、「貌ハ花色ヲ偸ミテ老シバラク去ル」(『白氏文集』巻十二「藍田劉明府攜酎相過、与皇甫郎中卯時同飲、酔後贈之」)などの用例がある。
※うつりにけりな→「うつる」は、ある状態から他の状態に推移することであるが、和歌においては「うつろふ」と同じく衰えた状態に推移する場合が多い。
※いたづらに→「むなしく」「意味なく」「何の効果もなく」。「かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寝て明かすらむ人さへぞうき」(秋上・190)、「いたづらに過ぐす月日はおもほえで花見て暮らす春ぞ少なき」(賀・351)など、集中に例が多い。ここは上二句を補って「花の色は(いたづらに)うつりにけりな」と言っているとも、下句を補って「いたづらに世に経る」と言っているとも解し得るが、今は後者の解によった。
※我が身世にふる→「ふる」は「時を過す」意の「経(ふ)る」と「長雨が降る」の意の「降る」を掛けている。
※ながめせし間に→「ながめ」は「長雨」と「ぼんやりと外を眺めつつわびしく物思いにふける」意の「ながむ」の名詞形「ながめ」を掛ける。「起きもせず寝もせで夜を明かしては春の物とてながめ暮らしつ」(恋三・616)、「つれづれのながめにまさる涙河袖のみ濡れて逢ふよしもなし」(同・617)の「ながめ」も同じ。

【参孝】
片桐洋一 『古今和歌集以後』(笠間書院、2000年刊)

「花の色はうつりにけりな」の注釈史
『古今和歌集』春下・113に初出し、『百人一首』にも採られて有名な、小野小町の題しらず歌、
    花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
の解釈は「花の色」の具体的内容の相違によって、大きく二つに分けられる。
第一は。「花の色」を、文字通り戸外に咲く花の美しさとする解釈であり、第二の解釈は、戸外の桜が散ることを詠嘆するとともに、「花の色はうつりにけりな」に小野自身の容貌の衰えの嘆きを見る読解である。
 さて、この第一の説、つまり「花の色」は戸外の花の視覚的美しさのみを言うとする解釈は、現在市販されている『古今集』の頭注本や注釈書がおおむね採用している通説である。それというのも、この歌が『古今集』では、恋部や雑部でなく、春部の下巻に入っているという事実を前提としての解釈である。しかし、同じ歌でありながら、『百人一首』の注釈書の場合は、たとえば講談社学術文庫の『百人一首』(有吉保訳注)などか、「花の色」を「桜の花の色香に、自分自身の容色を言い掛けている」とし、「美しい桜の花の色香は、すっかり色あせてしまったことであるよ。むなしく春の長雨が降っていた間に。−私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。むなしく私が男女の間のことにかかずらわって過し、いたずらに物思いにふけっていた間に」というように、「裏の意」を付している注釈書が以外に多いのである。
 ところで、この歌は、平安、鎌倉時代の人達には、あまり疑問とする点がなかったのか、特別に注釈するものが少ない。わずかに二条為氏説をまとめた『六巻抄』と、為家に擬するが実は南北朝時代の二条家説の聞書である『古今為家抄(天理図書館本)』が触れている程度であるが、その内容は前述した『古今集』の通説とそれほど変わるところはなく、「花の色」はまさしく花の色であって、花のように美しいみずからの容色を喩えるというものは見られない。
 ところが、このような状況を大きく変えたのは、室町時代も後期の宗祇である。
 宗祇が師の東常緑の説をまとめたという『古今和歌集両度聞書』を見ると、
  心はたゞ我身の衰ふる事を花の色によそへ言へるなり。「我身世にふるながめせしまに」とは、さらでも世にふるとは、とやかくやと物思ふならひなるを、ことに好色の者なれば、世をも人をも怨みがちにてうちながめて明け暮るるままに衰ふることを驚き嘆く心なり。此心、小町にかぎるべからずとぞ。(後略)。
てあって、「花の色はうつりにけりな」は「我身の衰ふること」を喩えていると明言しているのである。
 この宗祇の解釈は、『古今集』だけでなく、『百人一首』の注においても同じである。今、『百人一首宗祇抄』を見ると、
  春のいたり花のさくべきころは、かならずたづね見るべき心を思ひきぬるに、いたづらにたゞ我身世にふるまじはりのひまなきに、うちすぐしうちすぐしするに、長雨さへふりぬれば、はや花の色はうつりにけりなどいへる也。下の心は、花の色はと小町が身のさかりのおとろへ行さまをよめり。我身世にふるながめせし間にとは、詠する儀也。世にしたがひ、人になびき、人をうらみ、世をかこちなどするにより、物なげかしくうち詠じなどしてすぐるに、我が身の花なりしかたちはおとろへゆくの心なり。人ことに思ふべき身の上をわするゝ物、此ことはり侍べきにこそ。
と述べている。
 このように、「花の色」に「小町が身のさかりのおとろ行さま」を裏の意として含ませて読むのが、宗祇の、まったく革新的な読解だったのであるが、この読解を成り立たせている基盤は、特に「好色の者」である小町であるゆえに、このような憂き目を見ることも確かだが、それは「小町にかぎるべからず」(『両度聞書』)と言い、さらに「身の上をわするゝ物、此ことはり侍べきにこそ」(『百人一首抄』)と説く教訓性にある。何のために文学はあるのか、何のために文学を研究するのか、ということを、日常の生活に追われる一般の人々に説明するのは昔も今も難しいことだが、文学のアイデンティティをわかってもらえぬ人に何とか納得してもらうためには、生きるための教訓として再構成して見せるのがもっとも手取り早い。宗祇は日本の古典文学の読解に、朱子学を基盤にした儒教的教訓性を大幅に用いたことによって、室町時代末期から戦国時代という戦乱の世でありながら、古典文学が武士階級の間に急速に浸透してゆく契機を作ったのである。
 当時において、この方法がいかに人気があったかは、宗祇の門流以外でも、実はこっそりとこの方法を採用しているという事実が物語っている。たとえば、『古今永雅抄』は、この小町の歌について、「(前略)下のこゝろ、いたづらにわが身世に人をうらみかこち、うちながめ過ぐるまに、花の色なりしかたちのおとろへぬると、我身を花によそへてよめり」と記しているのであるが、この『古今永雅抄』は、実は飛鳥井永雅の注釈としては純粋の物ではなく、永雅が将軍足利義政に講釈した時に用いた本を大内家の臣速水親祐から与えられた玉信という僧がまとめたものなのである。実際、永雅自身の講釈をまとめた『蓮心院殿説古今集』には、「下の心」についてのコメントはまったくない。「花の色」を我が身のこととする「下の心」は、おそらく宗祇一門の影響によって加えられたものと思われるのであるが、同様のことは、堯恵にも見られる。彼の『延五記』には、「小町が一生の姿、此歌也。我身を花に風してよめり」と書かれているが、宗祇の流に異を唱えたと言われている堯恵の門流でも、このように恐るべきスピードで伝播する宗祇流の古典読解の方法を採用しなければ、常識が存続し得なかったのではないかと思われるのである。
 そして、このような宗祇流の読解は江戸時代に入っても続き、かの契沖が、『古今余材抄』において、「さて、小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用」とわざわざ言わなければならなかったほどに伝播していたのである。
 文学は時代の産物である。それぞれの文学作品は好むと好まざるにかかわらず、その時代をそのままに背負っているのだが、作品の「読み」もまた同じである。それぞれの時代の古典文学の「読み」は、そのそれぞれの時代をそのままに背負って、そのそれぞれの時代の文化として伝わっているのである。大学の演習や講義でも、注釈書の記事を時代順に羅列して発表するだけではなく、その一つ一つを、それぞれの時代の文化として検討してゆくと、興味は尽きるところがないと思うのだが、いかがであろうか。

【小野小町】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 かどかわソフィア文庫による)
生没年未詳。阿倍清行・小野貞樹・文屋康秀・遍昭らと交渉のあった仁明・文徳期に活躍の女流歌人。小野篁の孫、あるいは出羽郡司の娘と言い、出羽郡司に良実などとする説があり、采女ともいうが、良実自体も架空の人物のようで、小野氏出自の女性という以上には不明。美人であったが、晩年おちぶれて諸国を流浪したという。玉造小町の伝説などが生じる。『小町集』は流布本・異本ともにかなり後のずさんな編集に成るもので、『古今集』『後撰集』にとられた二十二首が確実な作といえる。

十 これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬもあふさかの関

【出典】
『後撰和歌集』雑一・1089
相坂の関に庵室を作りて住み侍けるに、行き交ふ人を見て               蝉丸
   これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬもあふさかの関
という形で見える。

【現代語訳】         (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
これがまあ、あの都から東国へ行く人も、それを見送って都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

【鑑賞】            (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
「これやこの」、「行くも帰るも」、「しるもしらぬも」と畳みかけた語法は、一作家の歌風というよりは、当時の一つの流行であった。「世中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らず有りて無ければ」「よのなかにいづらわが身の有りてなしあはれとやいはむあなうとやいはむ」(古今集・雑下)など。中でも、この歌が蝉丸の伝説とともに喧伝されて早くより有名となり、「足柄の関の山路を行く人は知るも知らぬも疎からぬかな」(後撰集・羇旅)のような歌もよまれている。定家も『八代抄』に『後撰集』の詞書とは異なり、「あふさかの関に庵室つくりてすみ侍りけるころ」として、逢坂の関の歌の並びに配置している。

【他出】
『時代不同歌合』『定家八代抄』『近代秀歌』『古来風躰抄』(ただし「ゆくもとまるも」)

【語釈】
※これやこの→「これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背の山」(萬葉集・巻一・35)
「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子(あまをとめ)ども」(萬葉集・巻十五・3638)が「名に負ふ」(有名な)という語をともなっているように「これが、かねて聞いていた、あの〜だったのか」という意の慣用句。「あふさかの関」にかかり、「これが、かねて聞いていた、あの逢坂の関だったのか」の意になる。
※ゆくも帰るも→都から東国へ行く人も東国から都へ帰る人も。
※別れては→一度別れても。
※知るも知らぬも→知っている人も知らない人も。
※あふさかの関→地名の「逢坂の関」に「逢ふ」を掛けた歌枕表現。

【参孝】
『俊頼髄脳』
 猿丸が歌、
    世の中はとてもかくてもありぬべし宮も藁屋もはてしなければ    (和漢朗詠 雑 述懐 )
これは、逢坂の関にゐて、行き来の人に物を乞ひて、世をすぐすものありけり。さすがに、琴などひき、人にあはれがられける者にて、故(ゆゑ)づきたりけるものにや。あやしの草の庵を作りて、藁といふものを、かけてしつらひたりけるを見て、「あやしの住処(すみか)のさまや。藁してしも、しつらひたるこそ」など笑ひけるを、詠める歌なり。

『今昔物語集』巻第二十四
  源博雅朝臣(みなもとのひろまさのあそん)、行会坂盲許語(あふさかのめしひのもとにゆくこと)第二十三
 今昔、源博雅朝臣ト云人有ケリ。延喜ノ御子ノ兵部卿ノ親王ト申人ノ子也。万ノ事止事無カリケル中ニモ、管絃ノ道ニナム極タリケル。琵琶ヲモ微妙ニ弾ケリ。苗ヲモ艶ズ吹ケリ。此人、村上ノ御時ニ、□ノ殿上人ニテ有ケル。
其時i、会坂k関i一人k盲、庵ヲ造テ住ケリ。名ヲバ猿丸トゾ云ケル。此レハ敦実ト申ケル式部卿ノ宮ノ雑色ニテナム有ケル。其ノ宮ハ宇多法皇ノ御子ニテ、管絃ノ道ニ極リケル人也。年来琵琶ヲ弾給ケルヲ常ニ聞テ、蝉丸琵琶ヲナム微妙ニ弾ク。
 而ル間、此博雅、此道ヲ強ニ好テ求ケルニ、彼ノ会坂ノ関ノ盲、琵琶ノ上手ナル由ヲ聞テ、彼ノ琵琶ヲ極テ聞マ欲ク思ケレドモ、盲ノ家異様ナレバ不行シテ、人ヲ以テ内ゝニ蝉丸ニ云セケル様、「何ド不思議所ニハ住ゾ。京ニ来テモ住カシ」ト。盲此ヲ聞テ、其答ヘヲバ不為シテ云ク、
  世中ハトテモカクテモスゴシテムミヤモワラヤモハテシナケレバ
ト。使返テ此由ヲ語ケレバ、博雅此ヲ聞テ、極ク心ニクク思ヘテ、心ニ思フ様、「我レ強ニ此ノ道ヲ好ムニ依テ、必ズ此盲ニ会ハムト思フ心深ク、其ニ盲命有ラム事モ難シ。亦、我モ命ヲ不知ラ。琵琶ニ流泉・啄木ト云曲有リ。此ハ世ニ絶ヌベキ事也。只此盲ノミコソ此ワ知タルナレ。構テ此ガ弾ヲ聞カム」ト思テ、夜、彼ノ会坂ノ関ニ行ニケリ。然レドモ、蝉丸其ノ曲ヲ弾ク事無カリケレバ、其後三年ノ間、夜ゝ会坂ノ盲ガ庵ノ辺ニ行テ、其曲ヲ、「今ヤ弾ク、今ヤ弾ク」ト窃ニ立聞ケレドモ、更ニ不弾リケルニ、三年ト云八月ノ十五日ノ夜、月少上陰テ、風少シ打吹タリケルニ、博雅、「哀レ、今夜ハ興有カ。会坂盲、今夜コソ流泉・啄木ハ弾ラメ」思テ、会坂ニ行テ立聞ケルニ、盲琵琶ヲ掻鳴シテ、物哀ニ思ヘル気色也。
 博雅此ヲ極テ喜ク思テ聞ク程ニ、盲独リ心ヲ遣テ詠ジテ云ク。 
    アフサカノセキノアラシノハゲシキニシヰテゾヰタルヨヲスゴストテ 
琵琶ヲ鳴スニ、博雅コレヲ聞テ、涙ヲ流シテ哀レト思フ事無限シ。
 盲独言ニ云ク、「哀レ、興有ル夜カナ。若シ我レニ非ズ□者ヤ世ニ有ラム。今夜心得タラム人ノ来カシ。物語セム」ト云ヲ、博雅聞テ、音ヲ出シテ、「王城ニ有ル博雅ト云者コソ此ニ来タレ」ト云ケレバ、盲ノ云ク、「此申スハ誰ニカ御座ス」ト。博雅ノ云ク、「我ハ然ゝノ人也。強ニ此道ヲ好ムニ依テ、此ノ三年此庵ノ辺ニ来ツルニ、幸ニ今夜汝ニ会ヌ」盲此ヲ聞テフ喜ブ。其時ニ、博雅モ喜ビ乍、庵ノ内ニ入テ、互ニ物語ナドシテ、博雅、「流泉・啄木ノ手ヲ聞カム」ト云フ。盲、「故宮ハ此ナム弾給ヒシ」トテ、件ノ手ヲ博雅ニ令伝テケル。博雅、琵琶ヲ不具リケレバ、只口伝ヲ以テ此ヲ習テ、返ゝ喜ケリ。暁ニ返ニケリ。
 此ヲ思フニ、諸ノ道ハ只如此可好キ也。其レニ、近代ハ実ニ不然。然レバ、末代ニハ諸道ニ達者ハ少キ也。実ニ此哀ナル事也カシ。
 蝉丸賎キ者也ト云ヘドモ、年来宮ノ弾給ヒケル琵琶ヲ聞キ、此極タル上手ニテ有ケル也。其ガ盲ニ成ニケレバ、会坂ニハ居タル也ケリ。

【蝉丸】              (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
生没年・伝未詳。『後撰集』の詞書によれば、逢坂の関のほとりに住んでいた隠者で、ほぼその時代の人と考えられる。「敦実と申しける式部卿の宮の雑色」(今昔物語集・巻24ノ23話)、「仁明の御時の盲目の道心者(道を究めている人)」(和歌色葉)など、もとよりたしかな所伝でなく、「延喜第四の王子」(平家物語・海道下)などは、謡曲「蝉丸」につながる伝説にすぎない。逢坂の関の関神をまつる巫祝的存在とか「蝉歌の名人」といった考えの方が、その面影を伝えていよう。

十一 わたのはら八十嶋かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟

【出典】
『古今和歌集』羇旅・407
  隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける    小野篁朝臣

【現代語訳】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
(遠い隠岐の配所へおもむくために)広々とした海原はるかの多くの島々に心を寄せて、いま舟を漕ぎ出したとせめて京にいるあの人だけには告げておくれ、漁夫の釣舟よ

【鑑賞】             (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
流罪となって、今遠く配所へ向って、舟出をしたのである。遣唐副使に任じられたが、乗船のことで大使藤原常嗣と争った末、「西道謡」を作って政治を諷し、事に従わなかった罪のために、隠岐の島へ流されて行くのだという。はるかなる舟路を前にして、故郷の人を思いやったこの歌は、悲劇の人、篁のイメージとともに愛誦されてゆく。貫之も『新撰和歌』に、公任も、『金玉集』『和漢朗詠集』に、俊成も『古来風躰抄』に取り上げ、俊成は「人にはつげよといへる姿心たぐひなく侍る也」とまでいっている。定家は『八代抄』にあげただけであったが、隠岐に流された後鳥羽院の悲痛な嘆きと二重映しにすることによって取り上げたかと思われる。

【他出】
『新撰和歌』『金玉集』『深窓秘抄』『和漢朗詠集』『時代不同歌合』『古来風躰抄』『定家八代抄』『定家十躰』

【語釈】
※わたのはら→「わた」は「海」。『岩崎本日本書紀』では、「海」を「わた」と読んでいる。「海原」と同じ。
※八十嶋かけて→「難波の八十嶋」とする説もあったが、「数多くの島」の意。どんな島でも、どんな場所でも住めるという気持ちを表している。
※かけて→心にかけて、目指して。

【補注】       片桐洋一 『古今和歌集評釈』より
○隠岐の国に流されける時=「隠岐の国」は今の島根県隠岐の島。当時は一国であった。小野篁の隠岐謫は承和五年(838)。
○小野篁朝臣(おののたかむらのあそん)=小野岑守の長男。延暦二十一年(802)誕生。弘仁十二年(821)文章生。承和元年(834)遣唐副使に任ぜられたが、難船などを重ねて出発が延引する間に大使藤原常嗣と争い、病と称して進発しなかったために、承和五年十二月十五日、死一等を減じて、隠岐の国に流罪となった。ただし、同七年に召還され、同十四年には参議に列し、仁寿二年(852)左大弁、従三位となった。しかし同年十二月二十二日、五十一歳にて没した。漢詩集『野相公集』や自撰歌集『小野篁集』は散佚したが、漢詩人、歌人として有名。

【参孝】
『撰集抄』(西行に仮託した鎌倉時代の説話集) 巻 八
 第一 篁詩事(76)
むかし、嵯峨の天皇、西山の大井川のほとりに、御所をたてさせおはしまして、嵯峨殿と申て、めでたくゆゝしくつくりみがゝるのみならず、山水木立わりなくて、こと〔に〕心とまるべきほどにぞ侍りける。きさらぎのはじめの十日の比、みかどはじめてみゆきの侍しに、小野の篁、供奉し侍りけるに、みかど、篁をめされて、「野邊のけしき、ちと詩につくりてたてまつれ」とおほせのありけるに、篁とりあへず、
  紫塵嬾蕨(しぢんものうきわらび)人拳手、碧玉寒葦錐脱嚢
とつくりて侍りければ、みかどしきりに御感(ぎょかむ)侍りて、宰相にぞなされにける。おほくの人を越して、その座につき給へりにけり。ゆゝしき面目なりけんかし。さても、篁逝去の後、大唐(中国)より楽天(白楽天)の詩どもを送りけるに、
  蕨嬾人拳手ね蘆寒錐脱嚢
といふ詩侍り。心はすこしも、篁の詩にたがはず、言葉は、いとゝかあひ變れり。ときの秀才(漢学者として名の通った人、博士)の人々申されけるは、篁の句、猶めでたきとぞほめきこえける。

 第五 野相公左遷時詩歌事 (80)
 むかし、仁明の御時、小野の相公、とがにあたりて、隠岐の國へながされ侍りけるに、
  萬里東來何 再日 一生西望是長 襟
とつくれり。みかどきこしめされて、流罪をとゞめたく思しめされければ、綸言すでにくだり侍りぬほどに、力なくて流しつかはされ侍りぬ。つぎの年、めしかへされけるは、「去年の再日の名句によるぞ」とおほせくだされ侍りける。げにもありがたき句におぼえ侍り。萬里の浪にたゞよひて、一生西におもむくらん、まことにかなしかるべし。
  さても、此篁の、隠岐の國に流されておはするに、あまの釣舟のはるかに波にうかびて、こぎかくれぬるを見て、
     和田の原八十嶋かれてこぎ出ぬと人には告よあまの釣舟
とよみけり。詩にたくみなる人は、歌をもよくよまれけるこそ。まことにおなじ風情ならんと、返々ゆかしくぞ侍り。

【参議 篁】        (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
延暦二十一年(802)ー仁寿二年(852)。小野氏。平安初期の学者、漢詩人、歌人。参議、従三位に至る。岑守の息子。幼時弓馬を好んだが、のち学問に転じ、文章生となり、漢詩文で名をあげた。『古今集』真名序に「風流如野宰相」と見える。『令義解』の撰進に参加。承和五年(838)遣唐副使に任じられながら大使藤原常嗣と争い、病と称して行かなかったため、一時流罪。漢詩集に『野相公集』があったが散逸。『篁物語』は後人の創作。多くの伝説を生んだ。『古今集』に六首入集。

十二 あまつ風雲のかよひぢ吹き閉ぢよ乙女の姿しばしとゞめん

【出典】
『古今和歌集』雑上・872
五節(ごせち)の舞姫を見てよめる      良岑宗貞(よしみねのむねさだ)
  あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばしとゞめむ

【現代語釈】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
空を吹く風よ、天女の通ってゆく雲の中の通路を吹き閉ざしてくれ。舞いおわって帰ってゆくあの美しい天女たちの姿を、もうしばらくここにとどめておきたいと思うのだ。

【鑑賞】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
遍昭の歌は「歌のさまは得たれども、まこと少し」(古今集・序)ということになっている。「心詞たぐひなき物也。遍昭の哥にはかやうなるは稀なるにこそ、仍定家の心にかなへり」(応永抄)という評も、定評を意識した上でのべている。伝説を巧みに用い、そう奔放によみ流した機知の力は、いかにも『古今集』の歌風につながるものであって、しかももっとのびのびとしている。五節の舞姫のきらびやかな美しさを現実に見て、しかも、天女が舞い下ったという伝説が生き生きとイメージを描き出していた当時のことだから、作者独特の即興風の機知とばかりは言ってしまえないものを持っている。在俗時の作で、まだ三十五歳にならないころのことであった。

【他出】
『新撰和歌集』『古今六帖』『和漢朗詠集』『定家八代抄』『近代秀歌』『古来風躰抄』

【語釈】
※あまつ風→天から吹く風。「あまつ風よ」と呼び掛けているのである。
※雲のかよひぢ→雲の通路。五節の舞姫は天から雲に乗っておりてくるという認識にもとづく。【参孝1】参照。
※乙女→天つ乙女。

【参孝1】
『十訓抄』 十ー十八

五節の舞姫の起源
 浄御原天皇(きよみはらのてんわう)、吉野川のほとりに御幸(みゆき)して、琴をひ給ふ時、神女(しんにょ)、これにめでて、あまくだりて、舞ひけり。その曲、五かへり、これを五節(ごせち)と名づけて、豊の明りの節会(せちゑ)とて、年々たえず、今におこなはる。舞姫といふは、かの神女をうつせるなり。舞ひける時の歌いはく、
   をとめ子がをとめさびすも韓玉ををとめさびすもその韓玉を
  (ますます乙女らしくなるその韓玉をもっているので)
をとめは未通女と書けり。いまだをさなき心なり。「をとめ子が袖振山」と吉野山をいふも、これより始まる。
※韓玉→韓国から渡ってきた玉。
※未通女(みつうじょ)→乙女

【参孝2】
『大和物語』 百六十八段 
 かくて世にもらうあるものにおぼえ、仕うまつる帝、かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝、うせたまひぬ。御葬(はふり)の夜、御ともにみな人仕うまつりけるなかに、その夜より、この良少将うせにけり。友だち、妻(め)も、いかならむとて、しばしばここかしこもとむれども、音耳にも聞えず。法師にやなりにけむ。身をや投げてけむ。法師になりたらば、さてなむあるとも聞えなむ。なほ身を投げたるなるべしと思ふに、世の中にもいみじうあはれがり、妻子(めこ)どもはさらにもいはず、夜昼、精進潔斎(さうじいもゐ)をして、世間の仏神に願を立てまどへど、音にも聞えず。妻は三人なむありけるを、よろしく思ひけるには、「なほ世に経じとなむ思ふ」とふたりにはいひけり。かぎりなく思ひて子どもなどあるには、ちりばかりもさるけしきも見せざりけり。このことをかけてもいはば、女も、いみじと思ふべし。われも、えかくなるまじき心地のしければ、寄りだに来(こ)で、にはかになむうせにける。ともかくもなれ、「かくなむ思ふ」ともいはざりけることのいみじきことを思ひつつ泣きいられて、初瀬の御寺に、この妻まうでにけり。この少将は法師になりて、蓑ひとつをうち着て、世間世界を行ひありきて、初瀬の御寺に行ふほどになむありける。局近うゐて行へば、この女、導師にいふやう、「この人かくなりにたるを、生きて世にあるものならば、いまひとたびあひ見せたまへ。身を投げ死にたるものならば、その道なしたまへ。さてなむ死にたりとも。この人のあらむやうを、夢にてもうつつにても、聞き見せたまへ」といひて、わが装束、上下、帯、太刀まで、みな誦経にしけり。みづからも申しもやらず泣きけり。はじめは、「なに人のまうでたるらむ」と聞きゐたるに、わが上をかく申しつつ、わが装束などをんく誦経にするを見るに、心も肝もなく、悲しきこと、ものに似ず。「走りやいでなまし」と千たび思ひけれども、思ひかへし思ひかへしゐて、夜ひと夜泣きあかしけり。わが妻子どもの泣く泣く申す声どもも聞ゆ。いといみじき心地しけり。されど念じて泣きあかして、朝に見れば、蓑もなにも涙のかかりたる所は、血の涙にてなむありける。「いみじう泣けば、血の涙といふものはあるものになむありける」とぞいひける。「そのをりなむ走りもいでぬべき心地せし」とぞ、のちにいひける。
  かかれどなほえ聞かず。御はてになりて、御ぶくぬぎに、よろづの殿上人川原にいでたるに、童のことやうなるなむ、柏に書きたる文をもて来たる。とりて見れば、
   みな人は花の衣になりぬなり苔のたもとよかはきだにせよ
とありければ、この良少将の手に見なしつ。「いづら」といひて、もて来し人を世界にもとむれど、なし。法師になりたるべしとは、これにてなむみな人知りにける。されど、いづくにかあらむといふこと、さらにえ知らず。
※らうあるもの→すばらしい人。
※うせにけり→姿を消した。
※もとむれども→探したが。
※よろしく思ひけるには→よく思っている三人の内二人には言った。
※ちりばかりもさるけしきも見せざりけり→塵ほども姿を消す事を見せなかった。
※泣きいられて→泣いて心が不安定。
※この妻まうでにけり→大切な人には何も言わなかった。
※世間世界→広い所。
※行い→仏道修行。
※局→女性が泊る個室。
※かくなりにたるを→このように別れてしまったが。
※あらむやうを→様子を。
※念じて→辛抱して。
※血の涙にてなむありける→たまらない悲しさ。
※あるものになむありける→あるものであったよ。
※御はてになりて→一周忌がすぎて(一年)
※御ぶく→喪服。
※川原→穢れは川で流すー禊(みそぎ)…身に付いたものを落とす。
※童のことやうなるらむ→ちょっと変わった童が。

【僧正遍昭】       (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
弘仁七年(816)ー寛平二年(890)。俗名良岑宗貞。号は花山僧正。桓武天皇の孫。良岑安世の息子。素性の父。蔵人頭になったが、嘉祥二年(849)仁明天皇の急死にあい出家。叡山に入る。僧正となり元慶寺(がんぎょうじ)を創立。出家後も必ずしも俗界と離れたわけではなく、特に光孝天皇との関係は密接であった。六歌仙の一人。遍昭と光孝天皇を中心とする一グループは、古今歌壇につながる性格をもつ。家集に『遍昭集』があり、『古今集』以下の勅撰集に三十五首入集。

十三 つくばねの峯より落つるみなの川こひぞつもりて渕とゆりぬる

【出典】
『後撰和歌集』恋三・776
釣殿の皇女(みこ)につかはしける   陽成院御製

【現代語釈】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
筑波山の峰から流れ落ちるみなの川が、つもりつもって深い淵となるように、あなたを思う私の恋も、今では深い深い思いの淵となってしまったことだ。

【鑑賞】             (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
釣殿のみことよばれた綏子(すいし)内親王(光孝天皇の皇女)に恋情をうったえられた歌で、ほのかに思いそめたことが、深い思いとなったことを、かすかな水がつもって淵となるのにたとえて、一気によみきったところに、狂気にわずらわされて数奇な生活を送った院の心のたかぶりが見える。院の歌は勅撰集に一首しか見えず、それもほとんど注目されずにきたのを、わずかに『八代抄』に抜いたばかりであった定家が、あえて『百人一首』の中に取り上げたのは、歌人元良親王の父という意識もあったのではなかろうか。『百人一首』の歌人の選択に当たって留意されたかどうかはわからないが、江戸の柳句にも指摘されているように親子の作者が十八組もあることは事実である。

【他出】
『古今六帖』

【語釈】
※釣殿の皇女→光孝天皇の皇女。母は班子(はんし)女王で、是忠親王・是貞親王・宇多天皇と同母妹。陽成天皇の女御になった。
※陽成院→清和天皇皇子。母は二条后高子。貞観10年(868)誕生。同十八年九歳にて即位したが、元慶八年(884)十七歳で退位した。その後、天歴三年(949)まで長寿を保った。『江談抄』や『古事談』に奇矯な言動や暴力的振舞が伝えられるが、若くして退位したゆえに生じた臆説であろう。『大和物語』にはおほつぶねや若狭の御との恋が伝えられ、また二度の陽成院歌合を主催するなど、風流文事を楽しんだ人である。
※みなの川→筑波山は山頂が男体山と女体山に分かれているので、そこから発する川をみなの川(男女の川)と言った。

【参孝1】
『古今六帖』には採られているが、その後、撰集・秀歌撰にまったく採られていなかったが、定家の『拾遺愚草』には、
  みなの川峯より落つる桜花にほひの渕のえやはせかかる(2187)
  袖の上に恋ぞつもりて渕となる人をば峯のよその滝つ瀬(1377)
とよまれているのは、同時代のほかの歌人の歌に例が見られないだけに注目される。『百人一首』はやはり定家の高尚によるといわなければなるまい。

【陽成院】            (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
貞観十年(876)ー天歴三年(949)。第五十七代天皇。在位九年(876-884)。清和天皇の皇子。母は藤原長良の娘高子。名は貞明。脳病のため、乱行が絶えず、人主の器に耐えずとして、元慶八年(884)関白藤原基経に廃されたという。その後も乱行がつづいたが譲位後、六十五年を経て、八十二歳で崩御。勅撰集入集は、この一首のみであるが、『陽成院歌合』(二度)、『陽成院第一親王姫歌合』を主催、夏虫恋・惜秋意など独特の歌題をもった純粋の歌合であった。

十四 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

【出典】
『古今和歌集』恋・四・724
           (題しらず)                河原左大臣
   みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに
『校異』C元永本・基俊本「みだれそめにし」

【現代語訳】                (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
あの陸奥の国の信夫もじずりの乱れ模様のように、私のこころは乱れているが、それはあなたよりほかの誰のためにも乱れそめてしまった私ではないのに。あなた一人のためなのに。

【鑑賞】                   (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
女から疑いを受け、それに答えて詠んだものと思われる。上二句は「乱れ」をいうための序で、一息によみなしているが、第三句以下に、相手のつれない態度をなじっての強い感情の高ぶりが見られ、巧みな歌として、早くから評判になっていたことは、『伊勢物語』の初段に、「春日野の若菜のすり衣しのぶの乱れ限り知られず」の歌がこの歌の心持ちをふまえてよんだものであることからもわかる。定家も「陸奥の信夫もぢずり乱れつつ色にを恋ひん思ひそめきて」(拾遺愚草員外)と本歌取の歌をよみ、源融の歌は、『古今集』『後撰集』にそれぞれ二首しか見えないが、人口に膾炙(かいしゃ)しているこの歌をとりあげ、風流人として知られたこの人をえらび入れたものと思われる。

【他出】
『古今六帖』『伊勢物語』(ともに「みだれそめにし」)
『俊頼髄脳』『綺語抄』『和歌童蒙抄』『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』『古来風躰抄』

【語釈】
※陸奥のしのぶ→陸奥国信夫郡。今の福島県福島市周辺。
※もぢずり→【参孝1】参照。
※乱れそめにし→現存する定家本、俊成本『古今集』は「みだれむと思ふ」とあるが、俊成の『古来風躰抄』では『俊頼髄脳』『綺語抄』『和歌童蒙抄』と同じく「乱れそめにし」とある。「乱れそめにし」では、「乱れそめ」たのが過去のことになるのに対して「乱れむと思ふ」の場合は「まさに乱れようとしている」の意となる。

【参孝1】 片桐洋一 『古今和歌集全評釈』より
【鑑賞と評論】
「しのぶもぢずり」は古来の難義であるが、新編国歌大観本『敦忠集』の八番に、
ちかもりが唐物の使いに下るに、かねの火打ちを火糞(ほくそ)にして、布おし摺りたる袋に言づけに思ひ出づやとふるさとのしのぶ草して摺れるなりけり
とあるのを見ると、しのぶ草の汁で摺ったものがしのぶ摺りであったと見なければなるまい。とすれば、当該歌の「「陸奥の」は「陸奥の信夫郡」(今の福島市のあたり)と「しのぶ草」を掛けることによって、「しのぶ草」の枕詞となっていると見られるのである。
ということで、「しのぶ摺り」は、しのぶ草によって摺ったものであることは明らかと言うべきだが、「もぢ摺り」とは何か。「文字摺り」とする説もあるが、『古今集』『伊勢物語』とも古写本はすべて「もちすり」と表記しているので、「文字(もじ)ずり」とするのには抵抗がある。「よじれる」「もつれる」「乱れる」の意の「もぢる(捩)」とすべきであろう。「しのぶ草の草汁で摺ったねじれたような模様」ということであろう。だから「乱れむと思ふ」に続くのである。

【注釈史・享受史】
『伊勢物語』の初段は、この歌を利用して作られたものである。
 むかし、をとこ、うひかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。このをとこ、かいまみてけり。おもほえずふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。をとこの着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。そのをとこ、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。
   かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず
となむおいつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけ

   みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
河原左大臣が作った当該歌が有名になってから、その歌を本歌にして『伊勢物語』の主人公(実在の在原業平ではない)が「〜しのぶのみだれ限り知られず」と詠んだものであって、『伊勢物語』の初段は、当該歌の利用第一号であると言ってよい。

【参孝2】
『百人一首一夕話(ひとよがたり)』(江戸時代中期大坂の学者尾崎雅嘉の著)
   河原左大臣
 源融、嵯峨天皇第十二の皇子。母は正四位下大原金子と申しき。仁明天皇の御子となされて、承和五年皇太子御元服の日、融も共に禁中にて元服し給ひ、正四位下に叙せらる。それより昇進して貞観の始め正二位、同十四年左大臣に任ぜらる。六条の河原院に住まれし故、河原左大臣と称す。

  陸奥の忍ぶもぢ摺り誰故に乱れ初めにし我ならなくに

古今集恋四に題知らずとありて、四の句の乱れんと思ふとあり。歌の心は奥州の信夫郡より出づるもぢ摺りといふものは、髪を乱したるやうにしどろもどろに模様を摺りつけたる衣なるが、我も誰故に心が乱れ始めしぞ、皆そこ許故の事にて、我れと思ひ乱れたるにはあらずといふ事なり。もぢ摺りは摺り衣の事にて、昔は藍・忍ぶ草・萩・月草などを布に摺りつけたるなり。後には物の形を板に彫りて、それに色を塗りて布を摺る事になれり。

  河原左大臣の話
 源融は嵯峨天皇の御子にてありけれど、仁明帝正四位に叙して臣下とし給ひ、貞観の始め正三位に進め十四年に左大臣に拝せられ、元慶二年陽成院即位によりて、その輔佐の労の為に正二位を授けらるゝに、再三表を奉りて職を辞せられけれど許し給はざりき。しかるに融公いかなる子細にてか、貞観十八年の冬より門を閉ぢて参内もせられざりけるに、陽成院乱し給ひし時よりまた朝廷に出でられけり。この節関白基経公陽成院の御位を下ろし奉り、小松宮を新帝と仰ぎ奉らん事を陣の座にて議せらるゝ時、融公基経に対して申されけるは、この度帝御位を去り給ふにつけて御親族の中を選み尋ねらるゝならば、融なども候ふはと申されければ基経公即答に、たとひ後胤たりとも一旦人臣の位に定まり、源の姓を賜はりたる人を帝位に即け奉る例を聞き候はずと申されければ、融は舌を巻いて黙せられぬ。これによりて基経公、いよいよ光孝天皇の御即位の事を急ぎて定められたるなり。かくて融は宇多天皇御位の後従一位に進まれ、寛平六年に輦(てぐるま)に乗りて禁中を出入りする事を許され、同じき七年の八月七十歳にてコウぜられしかば、正一位を贈らせ給へり。
 融公性質遊楽を好み鳥獣虫魚花木を愛せられ、別業を宇治に構へて陽成・宇多・朱雀の三帝を美行幸ならせ奉られしが、後の世にその別業を御堂関白求め領せられ、その子頼通公の代に寺として平等院と名を改めらる。融公また嵯峨に山荘を営みて遊覧の所とせられ、棲霞観(せいがくわん)と名づけられしが、これも後には棲霞寺といふ寺になれり。今の清涼寺の東にある阿弥陀堂これなる由、花鳥余情に見えたり。また東六条(とうろくでう)の北・坊門の南・万里小路(までのこうぢ)の東・鴨河の西に四丁四方の地を占めて河原院といふ殿を造り、池にはいろいろの魚貝などを放ち、毎日難波の浦より潮を二十石づゝ汲ませ塩釜を立てて塩を焼かせ奥州の塩釜浦を移されし故河原左大臣と称せり。この河原院は融公コウぜられし後、宇多天皇の御領となりたり。しかるに法皇或時京極御息所と同車にて河原院に渡らせ給ひ、風景を御覧ありけるに夜になりて月の明らかなりければ、御車の畳を取下ろさせて仮に御座とし給ひ御息所と臥させ給ひしに、この院の塗籠(ぬりごめ)の戸を開きて出で来る者の音しければ、法皇何者なるぞと咎めさせ給へば、融にて候御息所賜はらんといふ。法皇宣はく汝存生(ぞんじやう)の時臣下たり、何ぞ不礼の言葉を出だせるや早く帰り去れと宣ふに、かの霊者(れいぶつ)たちまち法皇の御腰を抱きければ、大いに恐れ給ひて半死半生の体にておはします。今日前駆(ぜんく)の輩(ともがら)は皆中門のほかに候したる故御声遠きに到らず、牛童のすこぶる近くに候(さぶら)ひて牛に物食はせ居たれば、件の童を召して人々をして御車差しよせしめ給ひて乗らせ給ふに、御息所の顔色青ざめ給ひて起き立ち給ふ事あたはざりしを、とかくに助け抱き乗せしめ還御の後、浄蔵大法師を召して加持せしめ給ひければ蘇生し給へりとぞ。この事は古事談(こじだん)に載せて、河海抄(かかいせう…源氏物語の注釈書)にも略して記されたり。
  この河原院の事は古今集に、河原の左のおほいまうち君のみまかりて後にかの家にまかりてありけるに、塩釜といふ所の樣を造れりけるを見て詠める、
                            貫之
     君まさで烟(けぶり)絶えにし塩釜のうら淋しくも見え渡るかな
また伊勢物語にも、この院の菊の花うつろひ盛りなるに紅葉の千種(ちぐさ)に見ゆる折、みこたちおはしまさせて夜一夜酒飲みし遊び給ひたる由見えたり。

【尾崎雅嘉(おざきまさよし)】
江戸時代の国学者・歌人。雅嘉は名。字は有魚、通称は晴蔵(墓碑には俊蔵)。華陽・蘿月庵・春の屋・博古知今堂と号した。宝暦五年(1755)に生まれ、大阪に住し、文政十年(1827)十月三日に没、七十三歳<墓碑>。墓所は夕陽丘春陽軒。【事蹟】若年、奥田尚斎に儒学を学び、安永四年(1775)版『浪華郷友録』には儒家の部に載るが、父より和歌を勧められ、契沖の著述を味読、国学を修め多くの著述を遺した。書賈説は確かでなく、一時医を業としたうである。【著述】『群書一覧』(六巻六冊、享和二年(1802)刊)は、三十年来渉猟の和書解題、『続異称日本伝』(315巻序目一巻、写)は、松下見林著『異称日本伝』の続編で菅茶山が序し、『事物博採』(六十六冊、写)は、伊藤東涯編『名物六帖』の続補で、ともに畢生の編著。歌書では、『古今和歌集鄙言』(六巻三冊、寛政八年(1796)刊)、『古今和歌集両序鄙言』(二巻二冊、同年刊)、『百人一首一夕話』(九巻九冊、天保四年(1833)刊)のほか、実作便覧書も多く編刊した。ほかに『増補松葉名所和歌集』(九巻付一巻十冊、写)、『倭歌題詩集』(七巻七冊、写)、『源語参註』(十三冊)、『蘿月庵国書漫鈔』(十冊)等、多くの稿本をのこした。〔生没〕1755-1827      〔水田紀久〕
【参孝文献】幸田成友「尾崎雅嘉」(『読史余録』昭和3年)。○同「尾崎雅嘉伝補遺」(『上方』6、昭和6年6月)。

【河原左大臣】       (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 源融。弘仁十三年(822)ー寛平七年(895)。左大臣、従一位。父は嵯峨天皇、母は大原全子。源氏の姓を受けて臣籍に下り、貞観十四年(872)左大臣に至る。河原院・東六条院などの豪華な邸宅を営み、世に河原院、河原左大臣などと呼ばれた。また宇治に別荘を営んだが、これが後の平等院となる。河原院は奥州塩釜に模した池庭を作り、貫之の歌(古今集・哀傷)などによまれている。後、荒廃して融の亡霊が出た話(今昔物語集・巻二七ノ二話)なども伝わる