百人一首 4…15〜20

十五 君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ

【出典】
『古今集』春上・ニ一
仁和のみかど、親王におはしましける時に、人に若菜たまひける御歌

【現代語訳】           (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
あなたにさしあげようと思って、春の野に出て若菜をつんでいるこの私の袖に、まだ雪がちらちら降りかかっているのですよ。

【鑑賞】              (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
天皇が、まだ時康親王と申しあげていたころ、ある人に若菜を贈られるにつけて、添えられた歌で、いわば挨拶の意をこめたものであるが、雪に降られながら摘んだのだというところに、まごころがこもっているのである。春の若菜を食することは、邪気を払うものとされていて、この歌の、いかにもすがすがしい春のしらべがふさわしいものとなっている。旧注は『応永抄』以来有心体の歌とされ、幽斎は、「定家卿はかりそめにも花麗ばかりは本意無しとて、かくのごとく心ある哥を取出して入給へり。新勅撰などの心同じかるべし」と言っているが、それも「此内に王道もおのづからに侍りてこそ有心躰とも申すべけれ」(両度聞書)という考え方にもとづく。

【他出】
『新撰和歌集』二九 『古今六帖』四五「若菜」 『仁和御集』一 『新撰朗詠集』三二

【語釈】
※ 光孝天皇→仁和年間(885-889)の帝として『古今集』では「仁和のみかど」と呼ばれているが、実際は元慶八年(884)二月に即位、仁和三年(887)八月に崩御した。即位した時すでに五十五歳。廃された陽成天皇は十七歳。

【参孝1】 片桐洋一 『古今和歌集全評釈』
【鑑賞と評論】 契沖の『古今余材抄』は、まったく説明を加えず次の四首をあげている。
万葉 
  君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪げの水に裳の裾濡れぬ
ふつほ 
  君がため春日の野辺の雪間わけ今日の若菜をひとり摘みつる
六帖
  朝露にしとどに袖を濡らしつつ君がためとぞ若菜摘みつる  
大和物語
  君がため衣の裾を濡らしつつ春の野に出でて摘める若菜ぞ
 類歌として引いていることはわかるが、説明がないのでその意図はわからない。ただ注意すべきは、この種の類歌はすべて女性の歌であるという事実である。
 まず第一の「君がため山田の沢にゑぐ摘むと〜」は、『万葉集』巻十・春雑歌・1839の作者不明歌あるが、『万葉集』における「君」は女が男に対して言う語である以上、女性の立場から詠まれた歌であることは明らかであり、また「裳」も女性が腰から下にまとうスカート状の衣と見るべきであるから、女の歌であることは間違いない。
 第ニの「君がため春日の野辺の雪間わけ〜」の歌は『古今集』のこの歌と恋一・478の「春日野の雪間をわけて生ひ出で来る草のはつかに見えし君はも」(忠岑)によって作られた歌と見てよいが、『宇津保物語』の蔵開の中巻で、一人の女が若菜を摘んでいる形の物にそえられた歌で、作者も孫王の君という女房である。
 第三の「朝露にしとどに袖を濡らしつつ〜」の歌は『古今六帖』第四・祝・若菜・2303にあり、作者名は前歌に続いて貫之とするが、『貫之集』には見えず、疑問である。
 第四の「君がため衣の裾を濡らしつつ〜」は、『大和物語』第一七三段において、良岑宗貞(僧正遍昭の俗名)がたまたま通りかかって雨宿りをした邸にいたすばらしい女性が詠んだ歌である。
この四首、疑問を残した一首を除いて、女性の歌だったことに注意したい。『宇津保物語』の作り物のように、若菜を摘んで食膳に供するのは、本来女の仕事だったからであろうか。
 契沖は以上のことに気づいて引用したのかどうかわからぬが、この仁和帝の歌がそのような位相にあることだけは確かであろう。
【注釈史・享受史】 平安時代、特に三代集時代の和歌は「場」がすべてに優先し、作者の立場や作者の性格が表面に出ないのが最大の特性である。しかるに、和歌が一人称の形をとることが多いために、作者のありようによって解釈することが今も多いのだが(先に述べた四番歌「雪の内に春は来にけり〜」がその好例)、この歌の場合も、契沖の『古今余材抄』は、
 これは人にわかな給はせんとて、みづから野に出て摘せ給ふに、折ふし雪ふりかゝりて御袖も寒けれども、そこのためと思へば、しひてしのぎて摘ためたりとある心なり。みこにまします時よりかやうに人をめぐませたまふ仁徳おはしければ、陽成院位をすべらせ給ふ時、諸皇子あまたおはしけれども、此みこ帝王の相にかなはせたまふとて昭宣公のはからひにて位にはつかせ給ひけるなり。其御年五十四歳。それよりさきにたゞ人にならせ給ひて、中将に任じ、ひたちの大守などにもならせたまへり。中々位につかせたまはんとはおぼえさせ給はざりけれども、徳のましましける故に、かくはなし奉られけるなり。みこにて人ひとりをめぐませたまふ御心に、位につかせたまはゞ万民に及ぶべきことこもれり。
と述べて光孝天皇のやさしい人柄がこの歌を作らせたかのように言っているのであるが宗祇の『両度聞書』にも、
 君がためにすることわざなれども、雪水をしのぐ袖のしづくは我身にこそ承りき。此内に王道もおのづからに侍りてこそ有心躰とも申すべけれ。
と、王道のあるべき姿が、この歌によって示されていると言っている。本来は若菜を給仕する女房の立場に立って詠まれた歌であっただろうが、歌のやさしさのせいで、このように帝の仁徳を伝える歌として享受されるようになったのである。

    古今和歌集巻第七  賀歌
  仁和の御時、僧正遍昭に七十の賀給ひける時の御歌
347 かくしつつとにもかくにもながらへて君が八千代にあふよしもがな
  (このように算賀などを何度もしながら永らえてあなたの八千代の賀の宴に出席したいものですね。)
※仁和の御時→光孝天皇の時代(884〜887)
※七十の賀給ひける時の御歌→仁和元年(885)十二月十八日のこと。
※かくしつつ→このように何度もして。賀を何度もして。
当時は四〇歳から始まって五〇・六〇・七〇・八〇と十年ごとに賀をした。算賀という。
※光孝天皇が元慶八年(884)に実に五十五歳で即位したことを知っていれば、この歌はさらに興味深く味わえよう。

 仁和の帝の親王におはしましける時に、御をばの八十の賀に、銀(しろがね)を杖につくれりけるを見て、かの御をばにかはりてよみける
                僧正へんぜう
348 ちはやぶる神やきりけむつくからに千年(ちとせ)の坂も越えぬべらなり
  (この杖は神が昔に切ったのだろうか。これをつくや否や、元気が出て千年という齢の坂も越えてしまいそうです。)
※仁和の帝の親王におはしましける時に→前歌参照。884年以降。
※御をば→誰人が不明。「をば」ならば伯叔母。「おば」ならば祖母。「おば」とする本もある。いずれか不明だが底本を生かしておく。
※ちはやぶる→神の枕詞。
※からに→……するとすぐに。
※千年の坂→人生を坂に喩える。千年もある人生の坂。

【光孝天皇】           (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
天長七年(830)ー仁和三年(887)。第五十八代天皇。在位四年(774-887)。通称小松の帝。仁明天皇第三皇子。母は藤原沢子。名は時康。天慶八年、藤原基経に迎えられて五十五歳で即位。そのため天皇は基経を経て政治を奏上させ、それが関白のはじめとなった。風流の才に富み、和歌興隆の基をなしたともいえる。親王時代から遍昭と親しかった。仁和二年(886)、嵯峨天皇の佳例にならって、芹川野に行幸、放鷹とともに和歌をよませた。『仁和御集』がある。

十六 立ち別れいなばの山の嶺に生ふるまつとし聞かば今帰りこむ

【出典】
『古今集』離別・365
  題しらず                     在原行平朝臣

【現代語訳】         (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
私は今お別れして因幡の国に行くが、その因幡の山の峰に生えている「まつ」という名のように皆さんが私を待っていてくださると聞くならば、今すぐにも帰って参りましょう。

【鑑賞】            (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
別れに際して名残を惜しむ人への挨拶の歌である。行平が因幡守となったのは、斉衡二年(855)正月十五日、三十八歳の時、旧注は多く「任はてて都へのぼるとて」の歌とするが、真淵以下の新注のように、京から任国へおもむく折の歌と見るべきである。一首のうちに二つの掛詞が用いられた技巧もこの種の挨拶の歌としては、いかにもふさわしいし、これから行く旅のさびしさをもこめていて、すぐれた離別歌として人々の心をひきつけたものと思われる。技巧に流れようとするのを結句でひきしめ、ととのった歌となっており、俊成は『古来風躰抄』に「あまりにくさりゆきたれど姿をかしき也」と評し、定家は『自筆本近代秀歌』以下に取り上げ高く評価する。

【他出】
『新撰和歌集』181 @「たちかへり」 『古今六帖』1275 D「とくかへりこむ」

【語釈】
※在原行平朝臣→弘仁九年(818)ー寛平五年(893)。業平の異母兄弟。
※立ち別れいなばの山→「立ち別れ往なば」と鳥取県岩見郡国府町に今もある「因幡山」を掛ける。
※まつとし聞かば→「因幡の山の嶺にふる松」と「待つとし聞かば」の「待つ」を掛ける。

【影響歌】
旅寝する花の下風立ち別れいなばの山のまつぞかひなき   (藤原良経『秋篠月清集』964)
忘れなむまつとな告げそなかなかにいなばの山の嶺の秋風  (藤原定家『拾遺愚草』2680)
これもまた忘れじものをたちかへりいなばの山の秋の夕暮   (藤原定家『拾遺愚草』1936)

【参孝1】
         冷泉家時雨亭文庫所蔵  藤原俊成自筆『古来風躰抄』

             

【参孝2】
『百人一首一夕話』(尾崎雅嘉)
            中納言行平の話
 嵯峨天皇の弘仁の頃新羅国(しんらのくに)の者共肥前国に寇(あた)して、唐土(もろこし)より我が国に貢(みつぎ)する船を奪い或ひは船中の絹綿などを掠(かす)めければ、或時は軍兵(ぐんびやう)を遺して討ち取り或時は新羅の人を捕へて近江・駿河などに配流(はいる)せしむといへども、時としては穀物を盗みて船に積み入れ海上に逃げ去る事など度々に及びぬ。しかるに在原行平は経済の才ある人なりければ、大宰権帥(だざいのごんのそつ)に任ぜられて西国の事務を掌らしめ給へり。これより先に筑前・肥前等の六ヶ国の穀物を運漕して対馬国の年糧とする例なりしを渡海運漕の便り悪しくてその船十に六七は海中に漂ひ沈み、或いは船人の溺れ死する事ありてつゝがなく対馬に到著する事少なかりしかば、行平奏聞をとげてかのかの六ヶ国の運漕の廻米を留め筑前の民を発して壹岐国の水田(みづた)を営ましめ、これを対馬の年糧に当て壹岐より年々都へ貢ぐ穀米を留めて、そのわきまへを筑前・肥前等の六ヶ国に課(おほ)せられければ、これより年々運漕の費(つひ)えを省くのみならず難船溺死の患ひを免るゝ事を喜ばざる者なかりし。また肥前松浦郡庇蘿・値嘉の二郷に昔より奇石・香薬等を産するに、唐人の我が国に来る者多くこの奇石・香薬等を採り帰れり。もとこのニ郷地勢広くして民戸も富饒(ふねう)なれば、その土産に奇異の物多きを徒らにその国の郡司に任せてほしいまゝに聚斂(しうれん)せしむる事、国司巡検の往到らざるが故なり。しかのみならずこの地海中にありて唐人共我が国に来る時は、まづこの島に到りて妄(みだ)りに香薬等を採りて貨物(くわぶつ)に加ゆる故、この島の人民はかへりてその産物を見る事を得ず。かつ海浜に産する奇石は、或ひは鍛錬して銀(しろがね)を得或ひは琢磨して玉と成すものなどあれど、多く唐人に奪ひ取らるゝ由土民共が申すにより、行平改めてこのニ郷を合せて一つ島とし、郡領を置き正税を定めて妄りに他国の者を入れず、以後は全く国益となさん由を言上せられければ、たゞちにその請ひに任する由勅許ありし。
 これらの巧によりてますます昇進し元慶六年に中納言に任ぜられしに、寛平五年七十六歳にてコウぜられし。俗説に行平須磨の浦へ流されられし事をいひ伝へたるのみにて、その事正史に見えざればいぶかしき事なれど、古今集雑下に田村の御時に事に当りて津国須磨といふ所に籠り侍(はんべ)りけるに、宮のうちに侍りける人に遣しけるとありて、
    わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつゝ侘ぶと答へよ

といふ歌あり。田村とは文徳天皇の御事なり。行平経済の才ありて器量すぐれたる人なりし故、事務の事につきていさゝか障る事などありて公の御咎めにはあらねど、みづから須磨へ引退かれたる事のありしにや。しばしの事につけて、俗説に松風・村雨といふ二人の蜑(あま)にたはぶれられし事をいふは間違いで、西行の撰集抄に昔行平の中納言といふ人身にあやまつ事ありて、須磨の浦に流されて藻塩たれつゝ浦伝ひしありきけるに、松島の浦にてかづきする蜑人の中に世の心に留まりけるに便り賜ひしに、いづくに住居する人にかと尋ね給ふにこの蜑取りあへず、
    白波のよするなぎさに世を過す蛋の子なれば宿も定めず    (和漢朗詠集)
と詠みてまぎれぬといふ事あり。これらを伝へ誤りたるものなるべし。

※「嵯峨天皇の弘仁の頃新羅国の……………時としては穀物を盗みて船に積み入れ海上に逃げ去る事など度々に及びぬ」→歴史的根拠はない。文献にはない。
※奏聞→天皇に申し上げる事。
※田村の御時→文徳天皇。
※蜑(あま)→江戸後期。   蜑ー海人
※撰集抄→和歌に関する説話集(鎌倉時代)。
※松島の浦→淡路島の端。
※かづき→もぐる。「かづき」の「か」は「頭」  かづきーかつぐーもぐる

【中納言行平】           (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
弘仁九年(818)ー寛平五年(893)。在原氏。中納言正三位に至る。阿保親王の息子。業平の兄。蔵人・民部卿・按察使などを歴任。元慶五年(881)藤原氏の勧学院にならい、一門の学問所として左京三条に奨学院を創設するなど政治的手腕もあった。在民部卿、在中納言といわれた。『在民部卿家歌合』は現存最古の歌合である。光孝天皇の芹川野の行幸にも参加している。勅撰集には十一首入集しているが、『古今集』『後撰集』にそれぞれ四首ずつ見えるのが確実な作品である。

十七 ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くぐるとは

【出典】
『古今和歌集』秋下・(293)・294
二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田河にもみぢ流れたる形をかけりけるを題にてよめる
                                素性
 もみぢ葉のながれてとまる水門にはくれなゐ深き浪や立つらむ
                                在原業平朝臣
 ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは

【現代語訳】           (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
(人の世にあってはもちろんのこと)不思議なことのあった神代にも聞いたことがない。竜田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは。

【鑑賞】              (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
定家はおそらくこう解していたであろう。『顕註密勘』に「水くぐるとは紅の木の葉の下を水のくぐりて流る」という顕昭の注をそのままにあげているとし「竜田川岩根のつつじ影見えて猶水くぐる春の紅」(拾遺愚草・下)などの歌が、その解釈の上に立って本歌取をしていることは、野中春水氏が指摘される通りである(「国文論叢」3)。ただ、この歌を作った業平にかえってよめば、賀茂真淵以下今日の通説の、下句を「こんなにまっ赤な色に水をくくり染めにするなどとは」といった解釈が正しいであろう。まことに奇抜な着想の才を見るべき歌であるが、定家らは「渡らば錦なかや絶えなむ」(古今集・秋下)の光景をこの歌に思いうかべていたのであった。

【他出】
『伊勢物語』『業平集』『古来風躰抄』

【語釈】
※二条の后の春宮の御息所と申しける時→二条の后が生んだ陽成天皇が皇太子であるため、母の二条の后が「春宮の御息所」と呼ばれていた時期。天安ニ年(858)から貞観十八年(876)の間。
※水くぐるとは→賀茂真淵以降、纐纈(こうけつ)。すなわち括り染めのことと解するようになったが、それ以前は「水潜る」と解していた。【参孝2】参照。

【参孝1】
『伊勢物語』第106段
  昔、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田川のほとりにて、
      ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは

【参孝2】
『顕注密勘』(顕昭の『古今集』の注釈に定家が勘(考え)を付したもの)。
水くゞるとは、紅の木の葉の下を水のくゞりてながると云歟。「潜」の字を「くゞる」とよめり。寛平の宮滝の行幸に、在原友于の歌に。
   時雨には龍田の河も染みにけり  
   からくれなゐに木の葉くゞれり
業平が歌は、もみぢの水くゞるとよめる歟。友于が歌は河を落葉くぐるとよめり。今案に、業平はもみぢのちりつみたるを、くれなゐの水になして、龍田河をくれなゐの水のくゞる事は、昔もきかずととよめる歟。此友于、時雨にたつたの河を染めさせつれば、からくれなゐに木の葉をなして川をくぐらせたれば、たゞ同じことにて侍る歟。友于は行平卿の息也。業平逝去の後、舅が歌をかすめよむ歟。親経縁者の近歌盗み取ること。此頃の遺恨に侍るを、古き人も侍けるこそくちをしけれ。この歌、かくれたる所なし。

【参孝3】
賀茂真淵『伊勢物語古意』
こは、立田河に紅葉の流るゝは、紅して水を絞染めにしたりと見えて、えもいはず珍しきさまなれば、神代よりもまだ聞かざりしけしき也とほめたり。さるを近きほどの説に、紅の下より水の泳(くぐ)るを云といへる者、理りも聞こえず、させる面白きふしもなし。其の上、紅は色にて体なき物なれば、紅に水の泳るといはんは、後の俗なるべし。絞るといふ時は実に珍し。且つ或家の伝には、絞る事とせるを、さては詞の聞きにくしと思ひて用ゐざるよ。それこそ後の俗の心なれ。

【参孝4】
業平歌の評価史
○世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
                               『前十五番歌合』(公人が架空の歌合を行った)『三十六人撰』
○たのめつつ会はで年ふる偽りに懲りぬ心を人は知らなむ
                               『三十六人撰』(公任の秀歌撰)※秀歌…良い歌を選んで編集。
○今ぞ知るくるしきものと人待たむ里をばかれずとふべかりける
                               『三十六人撰』
○花にあかぬなげきはいつもせしかども今日の今宵に似る時はなし
                               『時代不同歌合』(後鳥羽院が編集)
○月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつは元の身にして
                               『時代不同歌合』

【参孝5】
当該歌の本歌取
 龍田川袖のもみぢにせきかねてからくれなゐの下とよむなり
                               (慈鎮 拾玉集・3523)
 ※袖→涙。
 ※下→くぐる方に解釈。
 ※とよむ→さわぐ。心の下が穏やかでない。
 ※心の描写を歌に託している。

 これもまた神代もしらず龍田川袖の氷に水くぐるとは
                               (良経 秋篠月清集・1123「河月似氷」)
 みよし野やたぎつ河内の春の風神代もきかぬ花ぞみなぎる
                               (定家 拾遺愚草・1971)
 龍田姫手染めの露のくれなゐに神代もきかぬ峰の色かな
                               (定家 拾遺愚草・2114)
 せく袖はからくれなゐの時雨にて身のふりはつる秋ぞかなしき
                               (定家 拾遺愚草・2708)
 ※身のふり→年をとる。

 ※定家は「くくる」「くぐる」にははっきりしていない。それよりも近歌盗み取る事ををけしからんと言っている。

【在原業平朝臣】        (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
天長二年(825)ー元慶四年(880)。右近衛中将、従四位上。阿保親王の息子。行平の異母弟。母は桓武天皇皇女伊都内親王。在五中将・在中将と呼ばれた。六歌仙の一人。『古今集』以下の勅撰集に約八十七首入集。家集『業平集』には多くの異本があり、それぞれに撰集資料とした『伊勢物語』の姿を反映する。官途より見れば必ずしも不遇とは言えないが多感放縦で、歌才に恵まれ、その作品をめぐって、やがて『伊勢物語』の主人公としてのみやび男のイメージが形成されていった。

十八 住の江の岸に寄る浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらん

【出典】
『古今和歌集』恋ニ・(558)・559
         寛平御時の后の歌合の歌           藤原敏行朝臣
    恋ひわびてうち寝(ぬ)るなかにゆきかよふ夢の直路(ただぢ)は現(うつつ)ならなむ
    住の江の岸に寄る浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ

【現代語訳】        (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
住の江の岸による波ではないが、人目の憚られる昼ばかりでなく、夜までも、その夢の中の通い路で、あなたはどうして人目を避けようとなさるのだろうか。

【鑑賞】           (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
『改観抄』には、類歌として「直に逢はず有はことわり夢にだに何しか人に言の繁けん」(万葉集・2859)、「うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目をもると見るがわびしさ 小町」(古今集・恋3)の二首をあげている。この二首と、敏行の歌を並べてみると歌風の変遷がよくわかる。斉藤茂吉はこの三首を比較し、「直に逢はず」の歌に対して、万葉集としては、小きざみな声調の難を指摘しつつ、『古今集』の二首に較べれば、まだまだ素朴でよいところがあると評価している。(『柿本人麻呂』評釈篇)が、流麗な歌調の中に、夢にも会えない忍ぶ恋の嘆きを歌った典雅な敏行の作には完成品としての確かさが感ぜられる。

【他出】
寛平御時后宮歌合(186) 古今和歌六帖・第四「夢」186 近代秀歌

【語釈】
※住の江の→「住吉の」とする文献も多い。本来は「住吉」と書いて「すみのえ」と読んでいたのだが、後には「住吉の江」の意となって、住吉郡の海に面している所を言うようになった。
※夢の通ひ路→夢の中で男が女のもとに通ってくる道。「夢路」と同じ。
※人目よくらむ→「よく」は「よける」「避ける」の意。「吹く風にあつらへつくるものならばこの一本はよきよと言はまし」(古今集・春下・99)「秋風にさそはれわたるかりがねは物思ふ人の宿をよかなむ」(後撰集・秋下・360)。

【参孝1】
敏行歌の評価史
○秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかけぬる  『三十六人撰』『時代不同歌合』
○ひさかたの雲の上にて見る菊は天つ星とぞあやまたれける     『三十六人撰』
○心から花の雫にそほちつつうくひずとのみ鳥の鳴くらむ       『三十六人撰』
 ※ものの名の歌=鶯。
 ※心から→自分から進んで。※うく→いやだ。※ひず→乾かない。
○秋萩の花咲きにけり高砂の尾上の鹿は今や鳴くらむ        『時代不同歌合』
○明けぬとて帰る道にはこきたれて雨も涙も降りそほちつつ     『時代不同歌合』
 ※こきたれて→涙が流れて。

【参孝2】
『伊勢物語』百七段
 むかし、あてなるをとこありけり。そのをとこのもとなりける人を、内記に有りけるふぢはらのとしゆきといふ人、よばひけり。されど、まだわかければ、ふみもをさをさしからず、ことばもいひしらず。いはむや、うたはよまざりければ、かのあるじなる人、あんをかきて、かゝせてやりけり。めでまどひにけり。さて、をとこのよめる。
    つれづれのながめにまさる涙河
      そでのみひちてあふよしもなし
返し、れいのをとこ、女にかはりて、
    あさみこそそではひつらめ涙河
      身さへながるときかばたのまむ
といへりければ、をとこ、いといたうめでて、いままで、まきて、ふばこにいれてありとなんいふなる。
 をとこ、ふみおこせたり。えてのちの事なりけり。「あめのふりぬべといへりければ、れいのをとこ、女にかはりて、よみてやらす。
    かずかずに思ひおもはずとひがたみ
      身をしる雨はふりぞまされる
とよみてやりければ、みのもかさもとりあへで、しとゞにぬれて、まどひきにけり。

【藤原敏行朝臣】       (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
生年未詳ー延喜七年(907)。延喜元年没とも。右兵衛督、従四位上。陸奥出羽按察使富士麿の息子。母は紀名虎の娘。若くより能書家として知られ、『江談抄』(巻三)・『今昔物語集』(巻一四ノ二九話)などに書道に達していたことを伝える逸話があり、神護寺の鐘銘が現存している。『古今集』に十九首入集し、古今時代の和歌勃興の先駆者の一人で、歌風は六歌仙よりは『古今集』撰者に近い。三十六歌撰の一人。家集『敏行集』は、『古今集』『後撰集』による後人の撰。

十九 難波潟みじかきあしのふしのまもあはでこの世を過ぐしてよとや

【出典】
『新古今和歌集』恋一・(1048)・1049
             題しらず                       伊勢
   (み熊野の浦よりをちにこぐ舟の我をばよそにへだてつるかな)
   難波潟みじかき葦の節の間もあはでこの世をすぐしてよとや

【現代語訳】        (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川文庫ソフィアによる)
難波潟の短い蘆の節と節との間のような、ほんのしばしの間も逢わずに、この世を空しく終えてしまえというのですか。こんなに私が恋い慕っているのに。

【鑑賞】            (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
繊細にして強く、恋の恨みを美しい調べに包んで、巧みな譬喩の序詞を駆使した、いかにも定家好みの恋歌である。『伊勢集』(定家等筆本)に「秋ごろうたて人の物いひけるに」として見えるこの歌は、百二十一首も選ばれた三代集にも洩れ、『新古今集』になって取り上げられたのだが、『狭衣物語』巻二にも、「そよさらに頼むにもあらぬ小ざささへ末葉の雪の消もはてぬよ 短き蘆のふしのまもなど書きすさびて」と地の文にもひかれ、知られた歌ではあった。公任は十首も選んだ『三十六人集』にも取らず、「散りちらず聞かまほしきを故郷の花見て帰る人もあはなん」(拾遺集・春)を代表作としていたが、定家は『自筆本近代秀歌』などにも選び、高く評価していたのである。

【他出】
『伊勢集』429
 難波潟みじかき葦のふしごとにあはでこの世をすぐしてよとや
<ただし379から443まで、名所歌を中心とする名歌集成。古歌を多く含む。伊勢の歌と断定はできぬが、この歌に限っては調べと抒情性から見て、伊勢の歌の可能性大。442の「うつせみの羽におく露のこかせくれてしのびしのびに濡るる袖かな(『源氏物語』空蝉に利用)も同じ>

【参孝1】
藤原公任『三十六人撰』<躬恒と対す>
   31 青柳の枝に懸かれる春雨は 糸もて貫ける玉かとぞ見る
   32 千年経る松といへども植ゑて見る 人ぞ数へて知るべかりける
   33 春ごとに花の鏡となる水は 散りかかるをや曇ると言ふらむ
   34 散り散らず聞かまほしきを古里の 花見て帰る人も逢はなむ
   35 いづくまで春は去ぬらむ暮れ果てて あかれしほどは夜になりにき
   36 二声と聞くとはなしに時鳥 夜深く目をも覚ましつるかな
   37 三輪の山いかに待ち見む年経とも 尋ぬる人もあらじと思へば
   38 移ろはむことだに惜しき秋萩に 折れぬばかりも置ける露かな
   39 人知れず絶えなましかば侘びつつも なき名ぞとだに言ふべきものを
   40 難波なる長柄の橋も造るなり 今は我が身を何に譬へむ

【参孝2】
『俊成三十六人歌合』<躬恒と対す>
   10 合ひに合ひて物思ふころの我が袖に 宿る月さへ濡るる顔なる
   11 三輪の山いかに待ち見む年経とも 尋ぬる人もあらじと思へば
   12 思ひ川絶えず流るる水の泡の うたかた人に逢はで消えめや

【参孝3】
『拾遺愚草』 1143  冬の日の短き葦はうらがれて浪の苫屋に風ぞ弱らぬ
『拾遺愚草』 2570  難波なる身をつくしてのかひもなし短き葦のひとよばかりは
『壬二集』 2780  立ちかへりあはでこの世を杉のと立てながらのみ朽ちや果てなむ
『壬二集』 2916  あさ衣かたの大島行きまよひあはでこの世や浪にしほれむ

【参孝4】伊勢をめぐる男性
 宇多天皇  藤原仲平  藤原時平  敦慶親王  平定文

【伊勢】            (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
生没年未詳。貞観十四年(872)ごろ出生。天慶初年(938、940)ごろの没か。藤原継蔭の娘。宇多天皇の中宮温子(基経の娘)に仕え、仲平(温子の兄)と恋愛し、宇多天皇の寵を賜って、皇子を生み、伊勢の御ともよばれた。後、宇多天皇の皇子敦慶親王との間に中務を生んだ。三十六歌仙の一人。『源氏物語』桐壷の巻からも古今時代一流の女流歌人で、貫之と並称されていたことが知られる。多くの屏風歌をよんだ。家集に『伊勢集』がある。『古今集』以下の勅撰集に百八十四首入集。

二十 わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしてもあはむとぞ思ふ

【出典】
『後撰和歌集』恋五・960
   事出で来てのちに、京極御息所につかはしける
                               元良の皇子
わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ

【現代語訳】        (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
噂が立ってわびしい嘆きに悩んでいるのですから同じことです。どうせ立ってしまった名ですもの、難波の「みをつくし」という言葉のように命をかけてもお会いしたいと思います。

【鑑賞】
京極御息所(宇多天皇の后。藤原時平の娘)との密事が露顕して、世のうわさと罪の深さに苦しみながら、なおも逢いたいという情熱を一気にうたいあげた強い調べの、真実のこもった歌。好色の名の高い元良親王の逸話をともなって、人々の間に印象づけられていたと見え、『源氏物語』(澪標・藤袴の巻)や『狭衣物語』(巻一)に引歌とされている。『時代不同歌合』で親王と番(つが)えられた定家は、相手不足を皮肉った言が伝えられている(井蛙抄)が、後鳥羽院が親王を殊勝な歌よみと考えられていたと見るべく、定家も、『八代集』『近代秀歌』『秀歌躰大略』『八代集秀逸』に、この歌を選び入れていて、高く評価していたことが知られる。

【他出】
『元良親王集』120
     事いできてのち、御息所に
  わびぬれば今はた同じなにはなる身をつくしても逢はむとぞ思ふ
『古今六帖』第三・1960
     みをつくし 
                  もとよしのみこ
  わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしてもあはんとぞ思ふ

【参孝1】
『元良親王集』35
     京極の御息所をまだ亭子の院におはしける時、けさうしたまひて、九月九日にきこえたまうける 
 世にあればありといふことをきくの花なほ過ぎぬべき心地こそすれ
『元良親王集』166
     京極御息所
 思ふてふこと世に浅くなりぬなり我うくばかり深きことせじ

【参孝2】
京極御息所について
贈太政大臣藤原時平の娘。晩年の宇多天皇の寵愛を受け三人の皇子を生んだが、上皇出家後のことであったので、醍醐天皇の皇子という扱いにした。雅明・載明・行明の三親王である。延喜二十一年「京極御息所歌合」を主催。なお、ついで言えば、この歌合は伊勢がとりしきった。前歌に続けた撰者の連想が注目される。
『後撰集』哀傷・1404
     法皇の御服なりける時、鈍色(にびいろ)の裂帛(さいで)に書きて、人に贈りける  京極御息所
 墨染めの濃きも薄きも見る時は重ねて物ぞかなしかりける

【参孝3】
『時代不同歌合』
後鳥羽院撰とされる歌仙歌合。時代を異にする歌仙百人の秀歌各三首を選び、左方に万葉集から拾遺集に至る歌人。右方に後拾遺集から新古今集に至る歌人を番えている。
      三十一番
      左              元良親王
61 花の色は昔ながらに見し人の 心のみこそ移ろひにけれ
      右              権中納言定家
62 さむしろや待つ夜の秋の風更けて 月を片敷く宇治の橋姫
      三十二番 
      左              
63 逢ふことは遠山鳥の狩衣 きてはかひなき音をのみぞ泣く
      右
64 独り寝る山鳥の尾のしだり尾に 霜置きまよふ床の月影
      三十三番
      左
65 わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ
      右
66 消えわびぬ移ろふ人の秋の色に 身をこがらしの森の下露

【参孝4】
『秋篠月清集』889
歎かずよ今はた同じ名取川瀬ぜの埋もれ木朽ち果てぬとも
『壬二集』2731
恋ひわびぬいまはたおなじ名取川あらはれはてぬ瀬ぜの埋もれ木
『拾遺愚草』2570
難波なる身をつくしてのかひもなし短き葦の一夜ばかりは

【元良親王】          (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
寛平二年(890)ー天慶六年(943)。陽成天皇の第一皇子。母は藤原遠長の娘。三品兵部卿。風流好色の貴公子として知られ、逸話が『大和物語』に見られる。元日奏賀の声がはなはだ殊勝であったともいう。(徒然草所引李部王記)。『元良親王集』には多くの女性との贈答歌が見え、没後の他撰であるが冒頭の物語性が注意される。弟元平親王とともに「ねざめの恋」「暁の別れの恋」を題にした二人の歌を合わせた純文芸的な歌合を催し、『後撰集』以下の勅撰集に二十首入集。