百人一首 5…21〜26

二一 今こむといひしばかりに長月のありあけの月を待ちいでつるかな

【出典】
『古今和歌集』恋四・691
(題しらず)                                        素性法師
  今こむといひしばかりに長月のありあけの月を待ちいでつるかな  

【現代語釈】                 (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 やがて行こうと、あなたが言ってきたばっかりに、それをあてにして、毎夜待っているうちに、いつしか秋もふけ、九月の有明の月が出るのを待ちあかしてしまったことだ。

【鑑賞】                    (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 女の立場で詠んだ歌である。『古今集』にも恋の部があり、定家も『八代抄』で恋の部に取っていることから明らかで、「今こむといひし人を、月来(ごろ)待つ程に、秋も暮れ、月さへ在明になりぬとぞよみ侍けん。こよひばかりは猶心づくしならずや」(顕註密勘)と言うように、ただ一夜待ったのではなく、数月来、待ち明かしたのだと解している。この歌は、公任も『前十五番歌合』をはじめ諸書に選び、高く評価していたが、定家はこのように解釈することによって、物語的、浪漫的な風韻に富む歌とし、『近代秀歌』に素性を、余情妖艶の体をよんだ歌人として、花山僧正(遍昭)・在原中将(業平)・小町と並べてあげているのである。

【他出】
『古今六帖』二七二八「人を待つ」素性  『金玉集』恋・四四 素性法師  『和漢朗詠集』「恋」七八九 素性  『素性集』二四

【参孝1】
「一夜説」と「月来説」について
『顕註密勘(けんちゅうみっかん)』(六条家の顕昭の古今集注釈に、御子左家の定家がひそかに考えを加えたもの)
  いまこむといひしばかりになが月のあり明の月をまちでつるかな   (古今集)
長月の在明の月とは、なが月の夜のながきに在明のいづるまで人を待つとよめり。大方萬葉にも、なが月の在明の月とつゞけたる歌あまたあり。   (顕註釈)
大略相同じ。今こむといひし人を月来まつ程に、秋もくれ月さへ在明になりぬとぞ、よみ侍けん。こよひばかりはなほ心づくしならずや。          (定家釈)

【参孝2】
王朝和歌の虚構性
「長月の有明の月〜」という言い方は、既に『万葉集』から見られた。
※万葉集から古今集に使うのは珍しい。
  長月の有明の月夜ありつつも君が来まさば吾恋ひめやも        (巻十・2300)
  白露を玉になしたる長月のありあけの月夜見れどあかぬかも     (巻十・2229)
特に前者(2300)は、「君が来まさば〜」とあって、当該歌と共通するものがあると言ってよい。また「待ち出で」についても、
  君来ずは形見にせむと我二人植ゑし松の木君を待ち出でむ      (巻十一・2484)
  高山にたかべさ渡り々に我が待つ君を待ち出でむかも        (巻十一・2804)
※待ち出づ→良く見えるところに出て待つ。
※たかべ→鳥。
のように『万葉集』に先例が見られる表現を用いていることは注意してよい。前歌の場合もそうであったが、当該歌も、当時の一般的な言葉を用いて作られているのではなく、やや古めかしい、格調のある表現を用いた、ポーズをとった歌であると言える。
 ところで、当該歌の最も大きな特徴は、父の僧正遍昭の
  我が宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせし間に     (古今集・恋五・770)
※つれなき→男女関係。自分に対してつれなき人。
  今来むと言ひて別れし朝より思ひくらしの音(ね)をのみぞ泣く      (古今集ろ恋五・771)
※くらし→朝から暗くなるまで一日を過す。
という歌と同じように、作者の素性法師が女の立場に立って詠んだ歌だということである。この歌が、前述したようにポーズある歌であったのは、いわば芝居がかった歌である以上、当然だったのである。

【注釈史・享受史】
この歌は、壬生忠岑の作とも言われる。『和歌体十種』に「余情体」として見えるほか、藤原公任の『金玉集』『前(さき)十五番歌合』『三十六人撰』『深窓秘抄』『和漢朗詠集』にとられており、平安時代中期から『百人一首』に至るまで名歌の誉れが高かったことがわかる。
※余情(よせい)→公任は大切にした。言葉に表してないものを感じる。
※藤原公任→紫式部時代の最高の文化人。
※前十五番歌合→時代の違う人の歌を左右十五人歌合せをする。
※和漢朗詠集→漢詩と和歌。

【影響】
『秋篠月清集』九九 
   長月の有明の月のあけがたを誰待つ人のながめわぶらむ
『秋篠月清集』付二
   何ゆゑと思ひも入れぬ夕べだに待ち出でしものを山のはの月
『拾玉集』四二一八
   待ちいづる心の月は宵ながら心のうちはありあけの空
『壬二集』二五一三
   いねがてに夜な夜な月ぞ待ち出でつる下葉うつろふ秋萩の色

【素性法師】                 (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生没年未詳。良岑宗貞(遍昭)の息子。俗名玄利(はるとし)(尊卑文脈)。父のすすめで出家して雲林院に住む。宇多上皇の愛顧を受け、昌泰二年(899)の宮滝遊覧には、石上の良因院に住んでいたが、特に召され供奉して歌をよむ。書家としても知られ、延喜六年(906)、九年(909)の屏風歌を書く。『古今集』に三十六首、『後撰集』以下の勅撰集に約二十六首入集。家集の『素性集』は後人の編。兄を由性とするがその伝は混同が多く、あるいは素性の別名か。

二二 吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風をあらしといふらむ

【出典】
『古今和歌集』秋下・249
  是貞親王の家の歌合の歌             文室やすひで
   吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風をあらしといふらむ

【現代語釈】                  (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)

 吹くとたちまちに、秋の草木がしおれてしまうので、いかにも、山から吹きおろす風のことを、荒い風といっているのであろう。

【鑑賞】                     (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 公任が、『九品和歌(くほんわか)』の「下品上」に「わづかに一ふしある也」としてあげているように、言語的興味を主にした理知的な歌というべきである。ところが、定家は、『秀歌躰大略』にも取りあげ、この『百人一首』にも入れたのは、ただ言語的興味にとどまらず、秋の野分のあわれをこの歌から感じとっていたのではなかろうか。「むべ」と肯定した内容を、契沖以下山風の二字で嵐となることをよみこんだとする説が有力であり、もともと六朝後期に流行した離合詩(字訓詩)の影響に成るもので、おそらくその説は正しいのであるが、旧注の多くが当流二条家の説として、あえて否定しつづけていることには、やはり定家の意向をいくぶんかは反映しているかとも思われる。 

【他出】
『新撰萬葉』372  @「うち吹くに」 D「あらしなるらむ」 
『古今六帖』431  「嵐」ふんやのあさやす(やすひで)  (「是貞親王家歌合」にこの歌なし)

【問題点】 「歌の作者は康秀か朝康か」
 
                    

*朝康=『古今集』高野切・雅俗山荘本・静嘉堂文庫伝為相筆本・六条家本・清輔永治本・前田本・天理本・基俊本・雅経本・俊成永暦本
*康秀=『古今集』伝寂蓮筆本・筋切本・元永本・唐紙巻子本・俊成昭和切・俊成建久本・定家本
※高野切→十一世紀中頃、1050年頃。二十一巻の巻物であった。高価なもので切って鑑賞した。

文屋康秀
 六歌仙の一人。生没年未詳。文琳と称した。縫殿助宗于の子。貞観二(860)年刑部中判事。三河掾を経て元慶元(877)年山城大掾、同三年縫殿助。8・249・250・445・846
文屋朝康
 康秀の子。寛平四(892)年駿河掾、延喜二(902)年大舎人大允(おおとねりだいじょう)。225。

【鑑賞と評論】
 「山風」と書いて「嵐」と読むことを前提にした和歌であり、漢詩の離合詩にあたる。冬部(37)の紀友則の「雪降れば木毎に花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし」の「木」と「毎」を合わせると「梅」になるのも、同じく離合詩のけ例である。まさしく言語遊戯といってよいものである。なお、離合詩や、それに順ずる字訓詩については、小西甚一博士の「古今集的表現の成立」(『日本学士院紀要』七号三号、昭和42年11月刊、のち『日本文学研究資料叢書・古今和歌集』に収める)に詳しい。

【注釈史・享受史】
 藤原公任の『九品和歌』は、和歌をその品格によって、「上品の上」「上品の中」「上品の下」「中品の上」「中品の中」「中品の下」「下品の上」「下品の中」「下品の下」に分けて評価しているが、この歌は「吹くからに野辺の草木のしをるれば山風をあらしといふらむ」という形で「下品の上」として引かれ、「わづかにひとふしあるなり」という評価を与えられている。「余情」を重んじる公任の趣味には合わなかったのであろうが、やはり情趣を何よりも重んずる宗祇の『再度聞書』でも、「嵐といふ文字の心にあらず」と離合詩としての理解を廃し、「風の端的に草木のしほるるを見て、ことわりに山風をばあらしといふぞといふ義なり」と注している。『古今集』の性格の一つである言語遊戯的側面は、抒情優先の享受をする人達には評判が悪かったようである。

【参孝】
「むべ〜いふ」は平安時代中期に流行した。
  みなかみとむべもいひけり雲ゐより落ちくるかとも見ゆる滝かな   『伊勢集』67 
※みなかみ→水の流の上の方。
  逢へりとも心もゆかぬ夢路をばはかなきものとむべもいひけり    『藤原興風集』41
※心ゆく→満足する。
  君が世のながらときけば橋をさへつくる世なしとむべもいひけり   『大中臣能宣集』468
  ほととぎすむべも鳴きけり卯の花の折は物こそあはれなりけれ   『和泉式部集』696
※卯→うつ。
  なにはめに生田の森のありければむべながらふと人も言ひけり   『和泉式部続集』241
※ながら→長柄。

【総括】
 一七番歌の「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは(くくるとは)の場合にも述べたが、この二一番歌・二二番歌に共通する問題は、出典である『古今集』などにさかのぼって読解するか、『百人一首』の撰者である藤原定家の理解に従って鑑賞するかということであろう。現代人としては、両方知った上で、定家の理解を味わうべきだと思う。

【文屋康秀】
 生没年未詳。文室とも書く。平安初期の人。『古今集目録』によれば、貞観二年(860)刑部中判事、ついで三河掾、同十九年(877)山城大掾、元慶三年(879)縫殿助文屋宗于の息子と見える。朝康の父。『古今集』真名序には文琳とあり、六歌仙の一人。二条后高子のもとで作歌し、三河掾になって下った時、小野小町を誘ったことが知られる。家集は現存していない。『古今集』に五首(あるいは三首)、『後撰集』に一首入集。

二三 月みれば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど 

【出典】
『古今和歌集』秋上・193
  是貞の親王の歌合によめる               大江千里
    月見ればちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど 

【現代語釈】              (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 秋の月を見ていると、いろいろととどめなく物ごとが悲しく感じられることだ。秋が来るのは世間一般に来るのであって、なにも格別自分ひとりのための秋ではないのだが。

【鑑賞】                 (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 この歌は、おそらく『白氏文集』巻十五の「燕子楼中霜月色、秋来 只為一人長」の翻案と見る契沖の説(早く『古今栄雅抄』に指摘)が正しいであろう。しかし、翻案にありがちな無理がなく、「おほかたの秋くるからにわが身こそかなしき物と思ひしりぬれ よみ人しらず」(古今集・秋上)などの歌とともに、秋の夜の月をながめての、しみじみとしたもの思いの情がこめられている。広く愛唱された歌で、定家も、『自筆本近代秀歌』や『秀歌躰大略』に選び入れ、高く評価しているばかりでなく、「いく秋をちぢにくだけて過ぎぬらん我が身ひとつを月に憂へて」(拾遺愚草・上)などと、この歌を本歌としてよんでいて、好みにあった歌であった。

【参孝】
『萬葉集』の「月」
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな   (巻一・8・額田王)
 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ   (巻一・48・柿本人麻呂)
 あかねさす日は照らせどもぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも   (巻二・169・柿本人麻呂)
 我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし   (巻十・2225)
 心なき秋の月夜の物思ふといの寝らえぬに照りつつもとな     (巻十・2226)
 萩の花咲きのををり見よとてか月夜の清き恋ひまさらくに      (巻十・2228)
 木の間より移ろふ月の影を惜しみ立ちもとほるにさ夜ふけにけり  (巻十一・2821)
 ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を      (巻十二・3007)

『千里集』(『句題和歌』)
  臣千里謹言去二月十日参議朝臣伝勅曰古今和歌多少献上臣奉命以
  後魂神不安遂臥莚以至今臣儒門余ゲツ側聴言詩未習艶辞不知所為今
  臣僅探古句構成新歌別今加自詠古今物百廿首悚恐震 謹以挙進豈
  求駭目欲解顎千里成恐懼成謹言
       寛平九年四月廿五日

  咽霧山鶯啼尚少
一 やまふかみたちくる霧にむすればやなく鶯の声のまれなる
  鶯声誘引来花下
二 うぐひすのなきつるこゑにさそはれて花のもとにぞ我は来にける

【大江千里】
 生没年未詳。寛平・延喜(889-922)ごろの人。音人の息子。在原行平・業平の甥。一説に、玉淵の息子。儒者。『古今集目録』には、大学学生とし、延喜元年(901)中務少丞、同三年、大丞を歴任。家集によれば無実の罪を得て籠居したことや、伊予に赴任(おそらく介か)したこともある。家集の序に「臣ハ儒門ノ余檗ナリ」と記し、儒臣詩人の意識を持っていたが、詩作の残るものは少ない。『古今集』に十首、『後撰集』以下の勅撰集に約十五首入集。

二十四 このたびはぬさもとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに

【出典】
『古今和歌集』羇旅・420
朱雀院の奈良におはしましたりける時に、たむけ山にてよみける
                             すがはらの朝臣
420 このたびはぬさもとりあへずたむけ山紅葉の錦神のまにまに
     このたびの行幸には幣の用意も出来ませんでした。この手向山では、散っているさまざまの色の紅葉を、神の御意のままに幣として御受納ください。
                             素性法師
421 たむけにはつづりの袖も切るべきに紅葉にあける袖やかへさむ
     手向けをするためには、幣の用意がなければ、私の破れ衣の袖でも切って代わりにすべきでありましょうが、そんなものは美しい紅葉の幣に飽いていらっしゃる神様がお返しになるでしょう。

【現代語訳】                  (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 このたびの旅は、まったくにわかのことで、幣をささげることもできません。とりあえずはこの手向山の美しい紅葉を幣として、神よ、御心のままにお受けください。

【鑑賞】                     (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 紅葉の美しい景色を正面から歌わないで、理知的にとらえるよみぶりが、現代人の鑑賞眼からは好まれないが、紅葉の錦を幣として神に捧げようという着想が、当時の人々に喜ばれ、貫之も「秋の山紅葉をぬさとたむくれば住む我さへぞ旅心ちする」(古今集・秋下)の類歌をよんでいる。定家も「秋萩のゆくての錦これも又ぬさとりあへぬ手向にぞ折る」(拾遺愚草・上)などと本歌取を試み、『秀歌躰大略』『八代集秀逸』にも選び高く評価している。『八代抄』に十六首の道真の歌を選んでいたり、『新古今集』入集の十六首中、十五首まで定家の撰者名が見られるなど、天神崇拝の気運の高まりの中で、歌人道真を認めていたということもできよう。

【参孝
『大鏡』
一 左大臣時平
 この大臣は、基経のおとどの太郎なり。御母四品弾正尹人康親王の御女なり。醍醐の帝の御時、この大臣、左大臣の位にて、年いと若うておはします。菅原の大臣道真、右大臣の位にておはします。そのをり、帝御年いと若くおはします。左右の大臣に、世の政(まつりごと)行ふべき宣旨下さしめたまへりしに、そのをり左大臣御年廿八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八ばかりにやおはしけむ。ともに世の政をせしめたまひしあいだ、右大臣は才世に勝れ、めでたくおはしまし、御心のおきても、ことのほかにかしこくおはしまし、左大臣は御年もわかく、才もことのほかに劣りたまへるによりて、右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに、左大臣安からず思したる程に、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬ事出できて、昌泰四年正月廿五日、太宰権帥(ださいのごんのそち)になし奉りて、流されたまふ。
 このおとど道真、子どもあまたおはせしに、女君たちは聟(むこ)どり、男君たちは、皆ほどほどにつけて位どもおはせしを、これも皆方々に流されたまひてかなしきに、幼なくおはしける男君、女君たち、慕ひ泣きておはしければ、小さきはあへなむと、おほやけも許さしめたまひしぞかし。みかどの御おきて、極めてあやにくにおはしませば、この御子どもを、同じ方に遣はさざりけり。かたがたにいと悲しく思し召して、御前の梅の花を御覧じて、
    こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな
 これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日こさは照らしたまはめとこそはあめれ」
 まことに、おどろおどろしき事はさるものにて、かくやうの歌や詩などを、いとなだらかに、ゆゑゆゑしういひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。もののゆゑ知りたる人なども、無下(むげ)に近く居よりて、ほか目せず見聞くけしきどもを見て、いよいよはえて、物を繰りいだすやうにいひつづくるほどぞ、まことに稀有なるや。繁樹、涙をのごひつつ興じゐたり。
 「筑紫におはします所の御門、かためておはします。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、又いと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声をきこしめして、作らせたまへる詩ぞかし。
    都府楼ハ纔カニ看ル瓦ノ色ヲ    観音寺ハ只聴ク鐘ノ声ヲ
これは文集(もんじふ)の白居易(はくきよい)の、「遺愛寺ノ鐘ハ欹ソバダテテ 香炉峰ノ雪ハ撥カカゲテ 簾ヲ看ル」といふ詩に、勝ざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。「又かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵、内裏にて菊の宴ありしに、この大臣の作らしめたまへりける詩を帝醍醐かしこく感じたまひて、御衣をたまへりしを、筑紫にもて下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどそのをり思し召し出でて、作らしめたまひける、
    去年ノ今夜ハ侍リキ清涼ニ  秋思ノ詩篇独リ断ツ腸ヲ
    恩賜ノ御衣今在リ此ニ    捧ゲ持チテ毎日拝シタテマツル余香ヲ
 この詩いとかしこく人々感じ申されき。この事ども、ただちりぢりなるにもあらず。かの筑紫にて作りあつめさせたまへりけるを、書きて一巻とせしめたまひて、後集となづけられたり。また折々の歌を書きおかせたまへりける、おのづから世に散り聞えしなり。世継若うはべりし時、この事のせめてあはれに悲しうはべりしかば、大学の衆どもの、なま不合にいますがりしを、訪ひ尋ねかたらひとりて、さるべき餌袋、破子やうの物調じて、うち具してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老の気の甚だしきことは、皆こそ忘れはべりにけれ。これはただすこぶる覚えはべるなり」といへば、聞く人々、
  「げにげに、いみじき好き者にも物したまひけるかな。今の人はさる心ありなむや」
など感じあへり。
  「又雨のふる日、うちながめたまひて、
  あめのしたかわける程のなければや着てしぬれ衣ひるよしもなき
 やがてかしこにてうせたまへる、夜のうちに、この北野にそこらの松を生(おほ)したまひて、わたり住みたまふをこそは、ただ今の北野の宮と申して、現人神(あらひとがみ)におはあはぬしますめれば、おほやけも行幸せしめさせたまふ。いとかしこくあがめ奉りたまふめり。筑紫のおはしまし所は、安楽寺といひて、おほやけより別当、所司などなさせたまひて、いとやむごとなし。
 内裏焼けて度々造らしめたまひしに、円融院の御時のことなり。工匠ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋かきてなかり出でつつ、又のあしたまゐりて見るに、昨日の裏板に物のすすけて見ゆる所のありければ、梯にのぼりて見るに、夜の中に虫の食めるなりけり。その文字は、すがはらやむねのいたまの
    つくるともまたもやけなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそはありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくてこの大臣は、筑紫におはしまして、延喜三年癸亥二月廿五日にうせたまひしぞかし。御年五十九にて。
 さて後、七年ばかりやありて、左大臣時平のおとど、延喜九年己巳四月四日うせたまふ。御年三十九。大臣のくらゐにて十一年ぞおはしましける。
「本院の大臣と申す。またこの時平の大臣のむすめの女御褒子もうせたまふ。御孫の東宮も、一男八条の大将保忠卿もうせたまひにきかし。この大将、八条に住みたまへば、内裏に参りたまふほどいと遥かなるに、いかがおぼされけむ、冬は餅のいと大きなるをばひとつ、小さきをば二つ焼きて、焼き石のやうに御身にあてて持ちたまへけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副に投げとらせたまひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも耳とどまりて人の思ひければこそは、かくいひ伝へためれ。この君ぞかし、病づきて、さまざまの祈したまふ。薬師経の読経、枕上にてせさせたまふに、「所謂宮昆蘿大将」とうちあげたるを、われをくびると読むなりけり。とおぼしける臆病に、やがて絶え入りたまへり。経の文といひながら、こはき物怪にとりこめられたまへる人に、げにはあしくはうちあげてはべりし。さるべきとはいひながら、物は折ふしのことだまもはへる事なり。
 その御弟の敦忠の中納言もうせたまひにき。和歌の上手、管絃の道にもすぐれたまひにき。世にかくれたまひて後、御遊などあるをりに、博雅三位のさはる事ありて参らぬ時は、「今日の御遊とどまりぬ」と、たびたび召されて参るを見て、ふるき人々は、「世の末こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますがりしをりは、かかる道に、この三位の、おほやけを始め奉りて、世の大事に思はるべきものとこそ、思はざりしか」とぞのたまひける。
 先坊に御息所参りたまふこと、本院のおとど時平の御女仁善子具して三四人なり。本院のはうせたまひにき。中将の御息所ときこえしは、後は重明の式部卿の親王の北の方にて、斎宮の女御徽子の御母にて、そもうせたまひにき。いとやさしくおはせし。先坊を恋ひかなしび奉りたまふ。大輔なむ夢に見奉りたると聞きて、詠みておくりたまへる。
    時のまもなぐさめつらむ君はさは夢にだに見ぬわれぞかなしき
御返し、大輔、
    こひしさのなぐさむべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば

※大鏡→1100年代中頃作、歴史小説。藤原氏を中心。実際は道真が中心。
※才世(ざえ)→才能。学才。中国風学問。
※御心おきても→思慮分別。
           大和魂=もともとは優美なもの。
※繁樹→夏山繁樹。大鏡の語りの一人。
※博士→漢学者。
※菊→中国から入ってきた。不老長寿のまじない。(今の十月下旬)
※詩→昌泰三年九月九日の菊の宴(重陽の宴)の詩の題は寒露凝、十日朝(後朝)の宴の題が秋思で、ここでは後者をさしている。
※後集→『菅家後集』『菅家文草(漢詩)』に対して大宰府で詩を集めた物。
※下らしめたまへりければ→「しめ」は尊敬語。
この北野→「この」は都。
※現人神(あらひとがみ)→人の形で現れる神。人と神の間を行き来している。

【菅原】
 菅原道真。承和十二年(845)ー延喜三年(903)。正二位、右大臣。贈太政大臣。是善の息子。宇多・醍醐両天皇の信任厚く、藤原氏の押さえに重用されたが、昌泰四年(901)藤原時平の中傷により太宰権帥に左遷、配所で没。当代随一の漢学者で、詩文は『菅家文草』『菅家後集』に収められ、編著に『類聚国史』『三代実録』。和歌にもすぐれ、『新撰万葉集』編集に関与。後世天満天神として崇められ、他撰の家集が多い。『古今集』以下の勅撰集に三十四首(『新古今集』以後仮託の作混入)入集。

二五 名にしおはゞ相坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな

【出典】
『後撰和歌集』恋三・700
女につかはしける               三条右大臣
名にしおはば相坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな
【和歌の意】
「あふ坂やまのさねかづら」と言って、「逢う」という名と「さ寝かづら」を掛け、蔓草である「さねかづら」を「手繰る」ということから、「人に知られないで、ここに「来る(繰る)」手段がほしいものであるよ」と言っているのである。
※掛け→平安時代からの表現。
※さねかづら→「さね」は小さなものを表す。

【現代語釈】                  (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
「あふ坂山のさねかづら」とっい、逢って寝るという名をもっているならば、その「さねかづら」を繰るように、誰にも知られずに来る(行く)方法があればよいがなあ。

【鑑賞】
 おそらく「さねかづら」に添えて女のもとに贈った歌であろう。「女のもとへ、さる所のさね葛を贈りたるなどやうの事ならでは一首さらにことわりをなさず」と景樹が言うように、非常に技巧の多い歌である。和歌を好んだ貴公子定方の、若き日の歌と思われ、『古今集』選者時代のよみぶりを模しつつ、さすがに選者ら専門歌人とは違った大らかさが見えよう。『八代抄』に見える以外、定家のいくつかの秀歌撰の類にも入っていないが「此歌は詞つよくして更になまみなく侍て1躰の歌と見ゆ。新勅撰などに此風躰の歌おほく入侍り。能々工夫をめぐらすべし」(応永抄)といった批評が古くから行われており、晩年の定家好みの歌でもあったといえる。

【参孝】
冬嗣ー長良ー国経
       ー基経
       −高子(清和后)
   ー良房ー(基経…「養子」)ー時平(左大臣)
                   ー仲平(右大臣)
                   ー忠平(太政大臣)ー実頼(摂政太政大臣)ー頼忠(関白太政大臣)
                               −師輔(右大臣)ー伊尹
                               −兼道
                               −兼家(摂政関白太政大臣)ー道隆(摂政内大臣)
                                                 ー道兼(関白右大臣)
                                                 −道長(太政大臣)
   ー順子(仁明后)
   ー良相ー常行
   −良門ー高藤ー定国(従二位 大納言 右大将)
            −定方(従二位 右大臣 左大将 東富傳)ー朝忠(中納言)
                                       ー朝成(中納言 中富大夫)
                                       ー能子(醍醐天皇女御)
                                       ー女子(兼輔朝臣妻)
            ー胤子(宇多天皇女御 醍醐天皇母儀)
            ー満子(醍醐天皇女御)

『三条右大臣集』

    寛平のみかどの、朱雀院にて女郎花あはせさせ給ひける時、よみたまへける
 1 秋にしてあふことかたきをみなへしあまのかはらにおひぬものゆゑ

    延喜御時、賀茂臨時祭の日、御前にてかはらけとりてよみたまへる
 2 かくてのみやむべきものかちはやぶる賀茂のやしろのよろづよを見む

    すまひのかへりあるじのくれつかた、女郎花ををりて式部卿のみこのかざしにさしたまふとて
 3 をみなへし花の名ならぬものならばなにかは君がかざしにもせん

    おなじみこの御もとにおはしあそび給ひけるに、をみなへしををりてかのみこにかざしに給うけるに
 4 女郎花をるてにうつるしら玉はむかしのけふにあらぬ涙か

    延喜御時、ふぢつぼにてはなの宴せさせ給ひけるによみたまへりける
 5 君ませばくもゐににほふふぢの花ここにたちまひをらんとはおもふ

    やよひのつごもりに中納言兼輔の京極の家におはして、やり水のほとりに藤のはなのさかりなみければ、あるじのたまへりける
 6 かぎりなき名におふふぢの花なればそこひもしらぬ色のふかさか

    かへし
 7 色ふかきにほへることは藤なみのたちもかへらず君とまれとか 
    中納言又そへてはべりける
 8 あかなくに君かへりなばふぢの花かけてさらにや恋ひわたるべき
    かくて管絃してあそび給ひて夜ふけにければ、そのよまりて、あしたによみ給へりける
 9 きのふみし花のかほとくけさみればねてこそさらに色まさりけれ
    かへし、中納言兼輔
10 ひとよのみねてしかへればふぢのはなこころとけたる色みせんやは

    延喜御時、菊合ありけるによみてたてまつられける
11 栽ゑしよもつゆのおきけるきくの花うつろはぬまにちよをかぞへよ

    延喜十七年閏十月五日、みかど菊の宴せさせ給ひけるに、おほんかざしてたてまつらるるとてよみ給へるける
12 たがためにながき冬までにほふらんとはばちとせと君はこたへよ

    みかどの御かへし
13 色ふかくにほふきくかなあはれらるをりにをりける花にやあるらん

    交野におはしてかりし給ひけるに、兼輔中納言いそぐことありとてさきだちてかへり侍りけるが、みなせといふところに花おもしろく咲きたりけるををりて
14 さくら花にほふを見つつかへるにはしづ心なき物にぞ有りける

    みちにてかへししたまひける
15 たちかへりはなをぞわれは恨みこし人の心ののどけからねば

    延喜十九年十二月十九日うちの仏名の御導師にて雲晴法師がまゐりて侍りけるが、としたけてしづめることをうれへ申しけるをきこしめして、すなはち権律師になしたびて、其夜御遊ありけるを、めしいだされてはべりけるを、賀して御かざし多くまつられける次に奏したまひける
16 雪のうちの山のふもとに雲はれてさきたるはなは散るよしもなし

    みると、この歌を雲晴にたまはすとてよませたまひける
17 あぢきなし花をみるとてかへるさにみちやまどはむ山のしら雪

    女のもとにつかはしける
18 なにしおはばあふさか山のさねかづら人にしられでくるよしもがな

    せうそこかよはしたまへる女のいなぶねとかへり事にはべりけるをたのみていひわたりたまへりけるが、なほつれなきさまなりければ、しばしといひしはいかになどのたまひつかはしたりけるに
19 ながれくるせぜのしらなみあさければとまるいな舟かへるなるべし

    おんかへし
20 もがみがはふかきにあへずいなぶねのこころかろくもかへるなみかな

    中将としいますかりけるとき、祭の使つとめ給へりけるに、ひさしくかよひ給はざりける女のもとへあふぎてうじてのたまはせたりければ、いといみじうけうらにてうじてたてまつりたりける扇のつまにかきつけてはべりける
21 ゆゆしとていむともいまはかひもあらじうきをばこれにおもひよせけむ
    
    御かへし
22 ゆゆしとていみけるものをわがためになしといはぬはつらきなりけり
 
    延喜八年九月、みかどおほんやまひおもくならせ給ひて、御くらゐさらせたまはんとしける時よみ給へりける
23 かはりなんよにはいかでかながらへむおもひやれどもゆかぬこころを

    兼輔の中納言、これを聞きて和し侍りける
24 秋ふかきいろかはるともきくのはなきみがよはひのちよしとまらば

    おなじ比よみ給へりける
25 色かはるはぎの下葉のしたにのみ秋きうき物と露やおくらん

    かくてみかど九月廿九日かくれさせ給ひにけるをなげきて、中納言兼輔のもとにいひつかはし給へる
26 人のよのおもひにかなふものならばわがみはきみにおくれましやは
27 はかなくて世にふるよりはやましなのみやのくさ木とならましものを
    
    かへし
28 やましなのみやのくさ木と君ならばわれもしづくにぬるばかりなり

    あくる年の月の一日、おなじ人のもとにのたうびつかはしける
29 いたづらにけふやくれなんあたらしきとしのはじめも昔ながらに

    かへし
30 なくなみだふりにし年のころもではあらたまれどもかわかざりけり

    なほたへぬあまりによみ給へりける
31 みやこには見るべき君もなきものをつねをおもひてはるやきぬらん

    やよひのつごもりがたに、兼輔中納言のもとにつかはしける
32 さくらちるはるのすゑにはなりにけりあやめもしらぬながめせしまに

    かへし
33 春ふかくちりかふ花をかずにてもとりあへぬ物はなみだなりけり

    式部卿のみこきさらぎの花ざかりにかくれ給へりける時、兼輔中納言のよみてきこえさせはべりける
34 さきにほふかぜまつほどのやまざくらひとのよよりはひさしかりけり

    おほんかへし
35 

はるはるの花はちるともさきぬべしまたあひがたき人の代ぞうき

【三条右大臣】
 藤原定方。貞観十五年(873)ー承平二年(932)。右大臣、従二位。邸が三条にあったので三条右大臣と呼ばれた。高藤の息子。朝忠の父。風流を好み、和歌・管絃をよくし、従兄弟の兼輔とともに上卿でありながら和歌を好んで、醍醐天皇の宮廷に和歌を普及するのに力があった。家集『三条右大臣集』は、他撰であるが、没年の前後に編まれ、『後撰集』や『大和物語』の資料となっている。『古今集』一首、『後撰集』九首、『新勅撰集』四首、以下の勅撰集に四首入集。

二六 をぐら山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなん

【出典】
『拾遺和歌集』雑秋・1128
 亭子院、大井河に御幸ありて、「御幸もありぬべき所なり」と仰せ給ふに、「事のよし奏せん」と申して
                                       小一条太政大臣
    小倉山のもみぢ葉心あらば今ひとたびの御幸待たなん
※亭子院→宇多上皇の邸。
※御幸ありて→宇多天皇が行幸なさって。

【通釈】
小倉山の峰のもみじ葉よ。もしお前に心があるならば、もう一度、今度は主上の行幸があるはずだから、その折までどうか散らないで、待っていてほしいものだ。

【鑑賞】
 宇多上皇が大井川に御幸されて、あたりの秋景色のあまりの美しさに、ぜひ醍醐天皇も行幸をと仰せになったので、その旨奏上しましょうといってよんだ歌。無心の紅葉に呼びかけて、一気に歌いあげている。藤原忠房の「吉野山岸のもみぢし心あらばまれのみゆきを色かへで待て」(古今六帖・巻六)と全く同想であるが、この歌が『大和物語』などに伝えられて有名になったものである。なお、定家は『八代集秀逸』に抜いていて晩年には高く評価していたといえようが、「定家がこの歌を選んだのは、実は、小倉山(小倉山荘の軒にせまる小倉山)の美しさを讃えた歌がほしかったからではなかろうか」という石田吉貞氏の説も捨てがたい。

【歌語】
*「心あらば」
夏山に鳴くほととぎす心あらば物思ふ我に声な聞かせそ    (古今集・夏・よみ人しらず)
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け      (古今集・哀傷・上野峯雄)
                                            (後撰集・745)           
                                            (後撰集・1330)
*「今ひとたびの」
いかにせむ今ひとたびのあふことを夢にだに見てねざめずもがな  (新勅撰集・恋五・殷富門院大輔)
春日山今ひとたびとたづね来て道見えぬまでふる涙かな       (新勅撰集・雑二・前大納言忠良)
あらざらむこの世のほかの思ひ出での今ひとたびのあふこともがな (和泉式部集・744)
山も出でて暗き道にをたづねこし今ひとたびのあふことにより     (和泉式部集・883)

【参孝】
『大鏡』
 一 太政大臣忠平 貞信公 
 このおとゞこれ基経のおとゞの四郎君。御母、本院大臣・枇杷大臣に同。このおとゞ、延長八年九月廿一日攝政、天慶四年十一月関白宣旨かぶりたまふ。公卿にて四十二年、大臣位にて卅二年、よをしらせ給事廿年。後の御いみな、貞信公となづけたてまつる。小一條太政大臣と申。朱雀院ならび村上の御をぢにをはします。この御子五人、そのおりは御くらゐ太政大臣にて、御太郎、左大臣にて實ョのおとゞ、これ小野宮と申き。二郎、右大臣師輔のおとゞ、これを九條(殿)と申き。四郎、師氏の大納言ときこえき。五郎、又左大臣師尹のおとゞ、小一條殿と申きかし。これ四人君達、左右の大臣・納言などにてさしつゞきおはしましゝ、いみじかりし御榮花ざかし。女君一所は、先坊のみやす所にておはしましき。つねにこの三人の大臣達のまいらせ給れうに、小一条の南、勘解由の小路には石だゝみをぞせられたりしが、まだ侍ぞかし。宗像の明~のおはしませば、洞院小代の辻子よりおりさせ給しに、あめなどのふるひのれうとぞうけたまはりし。凡その一町は人まかりありかざりき。いまは、あやしのものもむま・車にのりつゝみしみしとあるき侍れば、むかしのなごりに、いとかたじけなくこそみたまふれ。このおきなどもは、いまも、おぼろけにてはしほり侍らず。今日もまいりはべるが、こしのいたく侍りつれば、術なくてぞ、まかりとほりつれど、猶いしだゝみをばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥をふみこみて候つれば、きたなきものもかくなりて侍るなり」とて、ひきいでゝみす。「先祖の(御)ものはなにもほしれど、小一條のみなん要に侍らぬ。人は子生、死がれうにこそ家もほしきに、さやうのおりほかへわたらん所は、なにゝかはせん。又、凡、常にもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道殿はおほせらるなれ。ことはりなりや。この貞信公には、宗像の明~うつゝにものなど申給けり。「われよりは御くらゐたかくてゐさせたまへるなむ、くるしき」と申給ければ、いと不便なる御ことゝて、~の御くらゐ申あげさせたまへる也。この殿、何御時とはおぼえ侍らず、思に延喜・朱雀院の御ほどにこそははべりけめ、宣旨奉らせ給てをこなひに、陣座ざまにおはします道に、南殿の御帳のうしろのほどゝほらせ給に、ものゝけはひして、御大刀のいしづきをとらへたりければ、いとあやしくて、、さぐらせ給に、手はむくむくとおひたるての、爪ながく刀のはのやうなるに、「鬼なりけり」と、いとおそろしくおぼしけれど、おくしたるさまみえじとねんぜさせ給て、「おほやけの勅宣うけたまはりて定にまいる人とらふるは、なにものぞ。ゆるさずば、あしかりなむ」とて、御大刀をひきぬきて、彼が手をとらへさせ給へりければ、まどひてうちはなちてこそ、うしとらのすみざまにまかり(に)けれ。思に、よるのこと也けむかし。こと殿ばらの御ことよりも、この殿の御こと(申)は、かたじけなくもあはれにもはべるかなとて、音(こえ)うちかはりて、はな度〃うちかむめり。いかなりけることにか、七月にてむまれさせ給へるとこそ、人、申つたへたれ。天暦三年八月十一日にぞ、うせさせ給ける。正一位に贈せられ給。御年七十一。
※太政大臣忠平→藤原氏の原点。
※紀伝体→天皇の順番に並べている。「紀」は天皇を現す。
※本院大臣→藤原時平
※枇杷大臣→藤原仲平
※みやす所→源氏物語六条御息所のモデル
※あやしのもの→身分の低いもの
※術なくてぞ→どうしようもまくて
※宣旨→天皇の命令
※陣座→閣議

【貞信公】
 藤原忠平。元慶四年(880)ー天暦三年(949)。摂政、関白、従一位。通称は小一条太政大臣。基経の息子、時平の弟。兄時平・仲平とともに三平とよばれた。時平の死後、氏の長者となり性格は温厚勤勉で人望があり、藤原氏全盛の基をつくった。死後貞信公と諡され、信濃公に封ぜられた。歌は、その性格を反映して温雅で、『後撰集』に七首、『拾遺集』以下の勅撰集に六首入集。時平の遺業『延喜格式』を完成撰進、著書に『貞信公叙命』、日記に『貞宣公記』がある。