百人一首 6…27〜32

二七 みかの原分きて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ

【出典】
『新古今和歌集』恋一・996
 定家(選者名注記)     題不知                         兼輔中納言
 家隆(選者名注記)
    みかの原わきて流るる泉川いつみきとてか恋しかるらん
 <注>『兼輔集』諸本になし。『古今和歌六帖』第三 「川」に、
 1563 をばすての月をしめでじみみと川そこをのみこそしのびわたらめ
 ※みみと川ー耳が優れていてどんな噂も聞いてしまう。信州の川。
 1564 おとにのみきかましものをおとは川わたるとなしにみなれそめけん
 ※おしは川ー噂に立つ事はないのに、便りだけ聞いておけば良かった。
 1565 かりにてもわかるとおもへばかみながはせぜの千鳥のみだれてぞなく
 1566 こころにもあらでわかれしあひづがはうき名を水にながしつるかな
 1567 めなし川みみなしやまのみみきかずありせば人をうらみざらまし
 1568 ふちせともなにかたのまんいもせ川こころはせにしよらんとおもへば
 1569 世の中はなぞやまとなるみなれ川みなれそめずぞあるべかりける
 1570 いのりつつたのみぞわたるはつせ川うれしきせにもながれあふやと
 1571 よの中をいとななげきそあすかがはあすかの川はふちせなりけり
 1572 みかのはらこひしかるらんわきてながるるいづみがはいつみきとてか
 ※1572の歌は定家の思い入れがある歌ー序詞・形状一致(みかの原わきて流るるーイメージ)

【現代語訳】                (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
瓶原(みかのはら)を分けて流れる泉河、それは水が湧いて流れるともいう泉河のその「いつ」という言葉ではないが、いつ逢ったというので、このように恋しく思われるのであろうか。まだ逢っていないのに。

【鑑賞】                   (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
上三句が序として用いられていて、歌意は下句によってはじめて、恋の心がわかる歌であり、何よりも同音をくり返しての流麗な調べに乗ってよまれた全く調子の歌である。「いつ見き」の意をめぐって、「未だ逢はざる恋」なのか、「逢うて逢はざる恋」なのかということが、『応永抄』以下の旧注に論ぜられているが、『新古今集』や『八代抄』の並びからは、定家は前者の解であったことが知られる。為家の『詠歌一体』に、この歌をあげて、「昔の歌は一首のうちにも序のあるやうによみなして、をはりに其の事と聞ゆるなり」と言っており、いかにも古代ぶりのおおらかな優雅な序歌として、定家は好んでいたのであろう。

【語釈】
※みかの原→京都府相楽郡加茂町に属する地。古代「甕原<みかのはら>(恭仁<くに>)京として都を定めたが、わずか四年で廃都された。
 
 二年乙丑春三月、三香原の離宮(とつみや)に幸(いでま)しし時、娘子(をとめ)を得て作る歌一首 并に短歌
                                  笠朝臣金村
1 三原の原 旅の宿りに たまほこの 道の行き合ひに 天雲の 外のみ見つつ 言問はむ 縁のなければ 情のみ むせつつあるに 天地の 神言寄せて しきたへの 衣手易へて 自妻と 頼める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも                            (万葉集・巻四・546)

*久邇の新しき京を讃むる歌二首 反歌二首
2 三日の原布当の野べを清みこそ大宮所定めけれしも   (万葉集・巻六・1051) 
 春の日に、三香の原の荒れたる墟を悲しび傷みて作る歌一首 短歌を并せたり

3 三香の原、久邇の都は 山高く 川の瀬清し 住みよしと 人は言へども在りよしと 我は思へど 古りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり 愛しけやし かくありけるか 三諸つく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく 百鳥の 声なつかしく ありが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも  (同・巻六・1059)

     反歌二首
4 三香のはら久邇の京は荒れにけり大宮人の移ろひぬれば     (同・巻六・1060)

※大宮人→貴族。

【参考】
『古今集』巻九 羇旅歌(408)
題知らず
 都いでて今日みかの原泉河かは風さむし衣かせ山
  都を出て今日は三日目、瓶の原にやって来た。ここには泉川が流れているが、その川風が寒い。衣を貸してほしい、鹿背山よ。
※今日みか・みかの原→三日と掛けている。
※上の句を枕詞にしてゆったりとしている歌
※枕詞→平安後期から鎌倉にかけて良く読まれている。

【影響】
 影清き月は浪間にいづみ川秋の十日のけふみかの原     (慈円『拾玉集』4132)
 いづみ川今年は今はみかの原みかさの山の春ぞまぢかき   (慈円『拾玉集』4460) 
 月影も今日みかの原いづみ川波の宿貸せ今しばし見む     (家隆『壬二集』481)
 長月の十日あまりのみかの原川波清く宿る月影         (家隆『壬二集』636)
 みかの原恭仁の都山越えて昔や遠きさをしかの声        (定家『拾遺愚草』1131)
 秋立ちて今日みかの原風寒しややたなばたに衣かせ山    (『後鳥羽院御集』1119)

【中納言兼輔】             (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
元慶元年(877)ー承平三年(933)。藤原氏。冬嗣の曾孫、利基の六男。定方とは従兄弟。中納言兼右衛門督、従三位。父や祖父が公卿の列に入らなかったのに比べて非常な栄達であった。賀茂川堤に邸宅があり、堤中納言と呼ばれた。定方とともに、延喜歌壇の中核をなし、貫之・躬恒らと親交があり、社会的な地位を超えた文人の小世界を形成していた。三十六歌仙の一人。家集に『兼輔集』があり、『古今集』以下の勅撰集に約五十七首入集。『大和物語』にも、いくつかの逸話が見えている。

二八 山里は冬ぞさびしさまさりける人めもくさもかれぬとおもへば

【出典】
『古今和歌集』冬・315
     冬の歌とてよめる                源宗于朝臣
 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば
山里
 春立てど花もにほはぬ山里は物うかる音に鶯ぞ鳴く         (『古今集』一五・棟梁)
 ※春立て→立春。
 ※にほはぬ→咲くこと。
 山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ     (『古今集』)二一四・忠岑
 白雪の降りてつもれる山里は住む人さへや思ひ消ゆらむ      (『古今集』三二八・忠岑)
 里山は物のわびしきことこそあれ世のうきよりは住みよかりけり  (『古今集』九四四・よみ人知らず)
 をりにつけあはれをそふる山里は雪降るままを思ひおこせよ    (俊成『長秋詠藻』三七七)
 染めわたす梢を見てぞ山里は秋深くなる日を数へける        (『長秋詠藻』五五一)
 冬ごもりたき木積むとも山里は雪よりやがて花ぞ咲くべき      (『長秋詠藻』六一〇)
 山里は霞わたれるけしきにて空にや春の立つを知るらん      (西行『山家集』七)
 山里は秋の末にぞ思ひ知るかなしかりけり木枯らしの風       (『山家集』四八七)
 花も枯れ紅葉も散らぬ山里はさびしさをまたとふ人もがな      (『山家集』五五七)
 山里は時雨しころのさびしさに嵐の音はややまさりけり        (『山家集』五六三)
 身のうさの隠れ家にせむ山里は心ありてぞ住むべかりける     (山家集』九一〇)
 ※山里は感じる心がある時に住むべきだ。
 木枯らしに木の葉の落つる山里は涙さへこそもろくなりけれ     (『山家集』九三五)
 ※涙もろさ、日常の言葉を使っている。
 山里は谷の懸け樋の絶え絶えに水恋ひ鳥の声聞こゆなり      (『山家集』九五七)
 ※夏を詠んでいる。
 山里は分け入る袖の上だにはらひもあへず散る木の葉かな     (定家『拾遺愚草』三五九)
 板廂久しくとはぬ山里は波間も見ゆる卯の花のころ          (『拾遺愚草』五二二)
 ※伊勢物語の歌をとっている。浪間より見える小島の浜ひさぎ。
 山里は人の通へる跡もなし宿もる犬の声ばかりして          (『拾遺愚草』七六五)
 ※もる→守る。
 山里は谷の鶯うちはぶき雪より出づる去年の古声           (『拾遺愚草』一〇〇四)
 ※うちはぶき→羽ばたき。
 ※去年の古声→平安時代の和歌に多い詠み方をとっている。
 山里はなほさびしさぞたちかへる明くればいそぐ心休まで       (『拾遺愚草』一三八八)
 山里は卯の花垣根雪折れて杉葺く庵ぞ青葉なりける         (『拾遺愚草』員外・一三二)
 ※卯の花→卯の花の白いのを雪に見立てている。
 ※員外→付録。
 山里は蝉の諸声秋かけてそともの桐の下葉落つなり         (『拾遺愚草』員外・一四二)
 ※秋かけて→秋を待ちかねて。
 山里は籬の小田の苗代に懸樋の水をまかせてぞ見る         (家隆『壬二集』一一五)
 ※この和歌は絵に描かれているような歌。
 さてもなほとふ人もなき山里は晴れ間も霧のうらめしきかな      (『壬二集』二三二)
 山里は垣根の梅のにほひ来てやがて春ある埋み火の頃       (『壬二集』四六九)
 山里は木の間の日影なほさえて春とも見えぬ庭の霜かな       (『壬二集』五〇三)
 ※さえて→冷たい感じ。
 山里ははた織る虫の片糸の夜さへやすく寝られざりけり        (『壬二集』六二八)
 ※はた織る→キリギリス。
 ※片糸→撚り合せる前の片方の糸。
 ※やすく→安眠。
 かやり火の煙にむせぶ山里は秋をこめたる夕霧ぞ立つ        (『壬二集』九三二)
 山里は霜枯れはてて呉竹の籬に曇る秋のうへかな          (『壬二集』一一一八)
 ※呉竹→中国からの竹。

【現代語訳】               (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による )
 山里は都とちがって、冬が格別にさびしさが増さって感じられることだ。人の尋ねて来ることもなくなり、草も枯れてしまうと思うので。

【鑑賞】                  (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 この歌の意図された中心は、やはり下句の掛詞を巧みに用いた知的構成にある。「秋来れば虫とともにぞなかれぬる人も草葉もかれぬと思へば」(是貞親王家歌合)の歌と、いずれが先によまれたものかわからないが、『古今六帖』には、巻二と巻六に重ねて取られていたり、『陽成院一親王姫君達歌合』(天暦二年九月十五日)の返歌合の本歌にされたり、よほど好まれていたらしい。定家のころともなれば、さらに山家の風情が、ひとしお哀れ深いものとして味わわれ、「夢路まで人めはかれぬ草の原おきあかす霜に結ぼほれつつ」(拾遺愚草・下)の歌など、この歌を本歌としつつ、山家のわびしさを深く、抒情的にとらえてよみなしている。
※返歌合→一首作っておいて、それの返しの歌の遊び。

【源宗于朝臣】             (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生年未詳〜天慶二年(939)。光孝天皇の皇子一品式部卿是忠親王の息子。寛平六年(894)従四位下に叙せられ、臣下に下り、右京大夫、正四位下に至る。『寛平御時后宮歌合』以下の作者で、貫之との贈答の歌なども家集に見え、『大和物語』には、監命婦や南院の君達と歌をよみあい、官位の進まないのを嘆いた歌などが見える。三十六歌仙の一人。家集に『宗于集』(後に編纂)がある。『古今集』に六首、『後撰集』に三首、『新勅撰集』に六首入集。

二九 心あてにおらばやおらむ初霜のをきまどはせるしらぎくの花

【出典】
『古今和歌集』秋上・227
    白菊の花をよめる                 凡河内躬恒
 心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花

【現代語訳】              
 もしあて推量で折るのなら折ることができよう(が、よく見ても折ることはできない状況だ)。初霜が置いて白菊がどこにあるのかわからない状況であるよ。(起きたばかりで私が混乱しているせいもあって)。

※留まっている気持ち。
※この歌が後の時代に影響を与えた。

【鑑賞】                 (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 早期に置いた初霜のすがすがしい清らかさ、それと清楚を競う白菊の高い気品ある景に着目し、白い霜が置いてどれが白菊かわからないといった非現実的な表現をもってくる、いかにも『古今集』独特のよみぶりである。もとより『古今集』撰者の一人である躬恒の自賛の歌で、貫之も『新撰和歌』に選び高く評価している。それは公任にもそのまま受けつがれ、俊成も『古来風躰抄』に取りあげ、定家も『八代抄』『秀歌躰大略』に選び入れている。石田吉貞氏が、「定家は白の色にとくに艶を感じたのであるから、このむせかえるばかりの白の饗宴には、胸のときめきを感じたにちがいない」と言われていることは、いかにもと思われる。

【語釈】
※心あてに→あて推量で。『万葉集』にはない表現。「心あてに見ばこそ分かめ白雪のいづれか花の散るに違(たが)へる(『後撰集』冬・487・よみ人知らず)。「心して」とは異なる。
※折らばや折らむ→未然形+「ば」の形である「折らば折らむ」に疑問の「や」を加えた形。
※おきまどはせる→初霜が置いて白菊の存在が確認されなくなると言っているのである。「(霜が)置く」と「(人が)起く」を掛けているとも考えられる。

【影響】
    卒塔婆の年は経たるが、まろび倒れつつ人に踏まるるを
 心あてにあなかたじけな苔むせる仏のみ顔そとは見えねど    (紫式部集・82)
 秋霧の立ちつるすがら心あてに色なき風ぞ着衣にしむ       (曽祢好忠集・505)
 心あてにながむる里も霧こめて行へも知らず百舌鳥の草ぐき   (壬二集・73)
 心あての煙ばかりをくもりにて富士の高嶺を出づる月かな     (壬二集・447)
 心あてにをらばやをらむ夕づくひさすや小倉の峰のもみぢ葉    (壬二集・2406)
 心あてにながめし山の桜花うつろふままに残る白雲         (秋篠月清集・615)
 春はなほ心あてにぞ花は見し雲もまがはぬみよし野の月      (秋篠月清集・1212)
 心あての思ひの色ぞ龍田山今朝しも染めし木々の白露       (拾遺愚集・1232)
 心あてに分くとも分けじ梅の花散り交(か)ふ里の春のあは雪      (拾遺愚集・1782)

※まろび倒れ→転がるように倒れ。
※仏のみ顔→一般の人も死ぬと仏になるのは平安時代から。
とは→「そ」はそれだ。
※秋霜の立ちつるすがら→「すがら」は道すがらの略。
※心あてにながむる→「ながむる」は物思いにふける。
※壬二集→藤原家隆の歌集。
※秋篠月清集→藤原教長の歌集。定家と同時代の人。
※今朝しも染めし木々の白露→露が紅葉を染めている。
※拾遺愚集→定家の歌集。

【逸話】
『大和物語』第三十三段

 躬恒が院によみて奉りける。
    立ち寄らむ木のもともなきつたの身はときはながらに秋ぞかなしき

 躬恒が亭子院(ていじのいん)に詠んで奉った歌。
    立ち寄らむ……(蔦は立木に寄りすがってのびていくものですが、蔦とおなじように、とるにたらぬ私の場合は、頼りに思ってすがるような手づるもなく緑の袍を着る身分のまま、紅の袍を着るようになれず、紅葉に映える秋がつらく悲しく思われます)

※院→宇多法皇のこと。
※ときは→常緑。正装のときの上着の色は、六位が深緑。7位が朝緑。常緑のままで、秋であるのに赤くならないのが悲しい。五位が浅緋であるので、なかなか五位になれないのを嘆いていることになる。

『大和物語』第百三十二段
  
 おなじ帝の御時、躬恒を召して、月のいとおもしろき夜、御遊びなどありて、「月を弓はりといふは、なにの心ぞ。そのよしつかうまつれ」とおほせたまうければ、御階(みはし)のもとにさぶらひて、つかうまつりける。
    照る月を弓はりとしもいふことは山べをさしていればなりけり
禄に大袿(おほうちき)かづきてねまた、
    白雲のこのかたにしもおりゐるは天つ風こそ吹きてきつらし

 おなじ帝の御時、躬恒を召して、月のたいそう美しい夜だったが、管絃のお遊びなどがあって、「月を弓張というのはどういう意味か、そのわけを歌で答えてみよ」と仰せられたので、御階のそばに控えて、お詠み申しあげた。
    照る月を……(照る月を弓張と申しますのは、山のあたりをさして矢を射るようにして入るからなのでございます)
ご褒美としていただいた大袿を肩にかけて、躬恒は、また、つぎのように詠んだ。
    白雲の……(白雲がこちらのほうにおりてきてかかっているのは、空吹く風が吹きよせてきたかららしい。私の肩に白く美しい大袿がかかっているのは、帝のおめぐみによるものでございます)

※弓→半月。
※「いる」→「入る」と「射る」の掛詞。
※大袿→禄に賜るためにね大きく仕立てられた袿(うちき)。自分の体に合せて仕立てなおして着る。色は定まらないが、次に「白雲の」と歌われているので、白であろう。
※「白雲」「天つ風」は縁語。「かた」は「肩」と「方」、「おり」は「織り」と「下り」、「きつ」は「着つ」と「来つ」の掛詞。おおらかな歌である。

【凡河内躬恒】           (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生没年未詳。凡河内ェ利(のぶとし)の息子(作者部類)とあるが確かではない。寛平六年(894)甲斐少目に任ぜられてより、延長三年(925)淡路権掾を退くまで、卑官を歴任。『寛平御時后宮歌合』に見え、延喜七年大井川御幸、十六年石山御幸、二十一年春日御幸に供奉。貫之と親しく、ともに兼輔邸に出入りし、屏風歌をたびたび詠進した。『古今集』撰者の一人。三十六歌仙の一人。家集に『躬恒集』があり、歌合や屏風歌が多い。『古今集』以下の勅撰集に百九十六首入集。


三十 有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし

【出典】
『古今和歌集』恋三・625
     (題知らず)                    壬生忠岑
    有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし

【現代語訳】              (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 有明の月までがつれなく見えるほどに、あなたがつれなく思われたあの別れのとき以来、(それが思い出されて)夜明け前ほどいやな時間帯はございませんよ。

【鑑賞】                 (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
この歌の解釈には古くから異説があるが、定家はこのように解して、まことに優艶この上もない風情を感じとっていたのである。『顕註密勘』にも顕昭の注に従ったあとに、「此詞の続きは不及艶にをかしくもよみて侍かな。これ程の哥一つよみ出でたらむ、此の世の思出に侍べし」と絶賛ている。一条兼良の『童蒙抄』に、後鳥羽院が定家と家隆に『古今集』中の秀歌を問うたところ、二人ともこの歌を推した話が見え、『古今著聞集』巻五では陰明門院が問うたことになっているが、いずれにしても定家・家隆、さらには後鳥羽院もこの歌を高く評価したことは、ともに『八代集秀逸』に選び入れていることからも知られる。『新古今集』好みの優艶な歌である。

【語釈】
※有明の→明け方まで空にかかっている月、『万葉集』から「長月の在明の月夜ありつつも君が来まさば吾恋ひめやも」(巻十・2300)「今宵の在開の月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし」(巻十一・2671)のように女性が男を待ち明かしたことを表す語であった。
※つれなく→そっけなく。
※別れより→別れたあの時以来。
※暁ばかりうきものはなし→「暁は」は夜明け前のまだ暗い時。曙の前。『顕註密勘』は「我はあけぬとていづるに、有明の月はあくるもしらずつれなく見えし也」と解しているが、「の」を「…のように」と見て「有明の月と同じように、あなたがつれなく見えたあの暁の別れ以来……」と解することもできる。「うきもの」は、いやなものの意。「つらいもの」と解するのは行き過ぎ。

【鑑賞】
 その後、会えない日々が続いていることを思っても、「つれないのは、月だけではないと見るべきであろう。二一番の「今来むと言ひしばかりに長月のありあけの月を待ち出でつるかな」という素性法師の歌と同様に、女の立場に立ってよんだ歌とも解し得るのではないか。

(次項の影響歌参照)
【影響】
    有明のつれなく見えし浅茅生におのれも名のる松虫の声        (壬二集・2394)
    ※松虫→待っている虫=松虫。
    有明のつれなく見えし月は出でぬ山ほととぎす待つ夜ながらに     (秋篠月清集・822)
    ※待つ夜→女の立場。
    花の香も霞みて慕ふ有明をつれなく見えて帰るかりがね         (拾遺愚集・2151)
    ※見えて→見られるようにして。
    面影も待つ夜むなしき別れにてつれなく見ゆる有明の空         (拾遺ぐ集・2540)

【参考1】
『六百番歌合』(俊成判)
    四番 左                        有家
 787 つれなさのたぐひまでやはつらからぬつきをもめでじあり明のそら
        右勝                       勝信
 788 あふとみるなさけもつらしあかつきの露のみふかき夢のかよひぢ
        右申云、暁のつれなく見えし別よりといふ歌を本歌にて読みたるは、件歌は月をつれなしといひたるとは不見、暁に人をつれなしといひたるいひたるにこそみえたれ、さらば此歌いかが、陳申、有明のつれなくみえしと読みたれば、月のことときこえたれ、左申云、左、有明のつれなくみえし別よりと云ふ歌は、人のつれなかりしより、暁ばかりうき物はなしといへるなり、但さはありとも、月をもめでじといへらんもたがふべからずや、右の夢は人のなさけにやはあるべきと聞ゆれど、末句宜しくみゆ、右すこしまさり侍らん
※六百番歌合→880年〜890年。始めは遊び中心、物合わせ的。平安中期は歌合せをする人と歌は別人であった。
遊び、主として女性。歌人に作ってもらっていた。判者がいて判定をした。1050年まで。それ以降は歌人達が歌合せをした。歌は貴人の教養。公任が代表的。(身分が高い人も歌が上手だった)。
【参考2】
『顕註密勘』(顕昭の『古今秘注抄』に定家が私見を加えたもの)
※密勘→密に考えを加えた。
※顕昭→定家のライバル。六条家の人。
    あり明のつれなくみえし別より暁ばかりうき物はなし
顕昭説=是は女のもとよりかへるに、我はあけぬとていづるに、有明の月はあくるもしらず、つれなくみえし也。其時より暁はうくおぼゆともよめり。只女にわかれしより、あかつきはうき心也。
※男の側からの解釈。
定家説=つれなくみえし、此心にこそ侍らめ。此詞のつゞきは不及えむにをかしくもよみて侍かな。これ程の歌ひとつよみいでたらむ、この世の思出に侍べし。
※細かく解釈するよりも情趣で解すべき。艶(えん)=麗様  麗様(うるわしよう)=壬生「和歌体十種」    

【壬生忠岑】              (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生没年未詳。壬生安綱の息子(作者部類)。忠見の父。藤原定国の随身を勤めたことが『大和物語』に見え、左近衛番長、右衛門府生などの卑官を歴任、六位に叙せられた。『寛平御時后宮歌合』の作者であり、早くから歌人として知られた。屏風歌の詠作も多い。『古今集』撰者の一人。三十六歌仙の一人。家集に『忠岑集』がある。歌論書『和歌体十種』(忠岑十体)の著者ともいわれる。『古今集』に三十五首、『後撰集』以下の勅撰集に約四十七首入集。



三十一 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪  
                                          坂上是則       

【出典】 『古今和歌集』冬・332
        大和の国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる    坂上是則
   朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪

【現代語訳】                (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 夜がほのかに明るくなってきたころ、有明の月が光っているのかと思うほどに、しらじらとこの吉野の里に降りつもっている白雪であることよ。

【鑑賞】                   (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
李白の「牀前看ル月光ヲ 、疑フラクハ是レ地上霜、挙ゲテ頭ヲ望ミ山月ヲ、低レテ頭ヲ思フ故郷ヲ」(詩集・巻五)の詩に通ずる境地であり、技法である。是則の場合、「み吉野の山の白雪つもるらし故里寒くなりまさるなり」(古今集・冬)が代表作として公任の諸撰集にあるが、俊成撰の『三十六人歌合』にこの歌が加わり、定家は『近代秀歌』『秀歌躰大略』『八代集秀逸』にも選び、高く評価していたのは、この歌のもつ清らかな幽韻を愛したものと思われる。阿仏尼は「四季の歌にはそら事したるはわろし」と言いながら、この歌などをあげて、「偽りながら、まことにさ覚ゆる事なれば苦しからず」(夜の鶴)と言っている。比喩とは言いながらいかにも実感の上に読まれているといえよう。

【参考】
吉野の里に降れる白雪=「白雪」は当時「吉野」の名物。「桜」が「吉野」の名物になるのは平安時代末期のこと。それまでは「雪」が「吉野」の名物であった。
 夕されば衣で寒しみよしのの山にみ雪降るらし  (古今集・冬・317・よみ人知らず)
 ふる里は吉野の山し近ければひと日もみ雪ふらぬ日はなし   (同・321・よみ人知らず)
 みよし野の山の白雪積もるらしふるさと寒くなりまさるなり    (同・325・坂上是則)
 みよし野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ  (同・327・壬生忠岑)
 春霞立てるやいづこみよしのの吉野の山に雪は降りつつ  (同・春上・3・よみ人知らず)
のように多くよまれているが、当該歌はその白雪による明るさを「朝ぼらけありあけの月と見るまでに」とよんだところに眼目があった。
 なお、吉野山が桜の名所になる発端は、『古今集』春上の紀友則の歌、
  みよし野の山辺に咲ける桜花雪かとのぞみあやまたれける」とあるように吉野山の名物は「雪」であるということが前提になっている。
 しかし、この歌が『古今六帖』に見られるように、
  みよし野の山辺に咲ける桜花白雲とのみあやまたれける
という形や、『後撰集』(春下・117)の
  みよし野の吉野の山の桜花白雲とのみ見えまがひつつ
になると、「雪」はなくなり、「桜」だけがよまれるようになるが、それでもなお、「雪」は吉野山の名物であった。しかし、西行の
  吉野山桜が枝に雪散りて花遅げなる年にもあるかな (山家集)
  何となく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山 (同)
  吉野山花の散りにし木(こ)のもとに留めし心は我を待つらむ (同)
  吉野山去年(こそ)の枝折(しをり)の道変へてまだ見ぬ方の花をたづねむ(同)
  吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ (同)  
などと多くよまれた時代になると、「吉野山」と「桜」の結びつきはきわめて一般的になるのである。

【当該歌の評価】
◇公任「前十五番歌合」
    九番                   是則
 み吉野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり
                          元真
 年ごとの春の別れはあはれとも人に遅るる人ぞ知りける
◇公任「三十六人撰」
                          是則
 みよし野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり
 山がつと人はいへどもほととぎすまづ初声は我のみぞ聞く
 深緑ときはの松の蔭にゐてうつろふ花をよそにこそ見れ
◇俊成「三十六人歌合」
     左      坂上是則
 み吉野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり
 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれる白雪
 牡鹿伏す夏野の草の道をなみ繁き恋路にまどふ頃かな
     右      藤原元真
  (省略)
◇後鳥羽院「時代不同歌合」
     左      坂上是則
 み吉野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり
 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれる白雪
 牡鹿伏す夏野の草の道をなみ繁き恋路にまどふ頃かな
     右      俊恵法師
  (省略)

【坂上是則】                (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生没年末詳。坂上田村麻呂四代の孫好蔭の息子という。(坂上氏系図)。延喜八年(908)大和権少掾。ついで大和権掾となり、少内記・大内記(記録を司る人)等をへて、延長二年(924)、従五位下加賀介(一段下)に至る。『亭子院歌合』以下の作者、『古今集』撰者時代の歌人として知られた。延喜七年大井川行幸に供奉。蹴鞠の上手であったことが、『西宮記』に見える。三十六歌仙の一人。家集に『是則集』がある。『古今集』に八首、『後撰集』以下の勅撰集に約三十三首入集。



三十二 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり   
                                       春道列樹(はるみちのつらき)

【出典】 『古今和歌集』秋下・303
        志賀の山越えにてよめる                はるみちのつらき
 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり

【現代語訳】               (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 山川に風がしかけたしがらみとは、どのようなものかと思っていたら、流れきらないでせきとめるばかりに落ちかかる紅葉であったよ。(自答)

【鑑賞】                   (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
志賀の山越(京都の北白川から、比叡山と如意ヶ岳との間を通って、近江の志賀の里へ抜ける山道)で、眼前の光景を見ての歌であるが、自問自答の形で理知的に作りあげている。いかにも古今風のよみぶりである。『応永抄』に「風のかけたるしがらみは誠にはじめて云出(いひいだ)したる妙処也」とあるように、その奇抜な趣向がもてはやされたのである。山川という語のもつ、しぶきの白さ、清らかさと、紅葉の紅との対照的な色彩の美しさも感ぜられたことであろう。『古今集』と『後撰集』にたった五首しか取られていない列樹を百人の中に加えたのは、まず人を選んだというより、歌を選んだといえよう。定家は『秀歌躰大略』にも採って高く評価している。

【語釈】
※山川→山の中を流れる川。「やまがわ」と読む。
※風のかけたる→擬人法。
※しがらみ→動詞「しがらむ」の名詞形。「しがらむ」は、「萩の枝をしがらみ散らしさ男鹿は妻呼びとよむ…」(万葉集巻六・1074)のように「まとわりつける」「からみつける」という意であったが、杭を打ち並べて横に小枝や竹を渡して流れを塞き止めること(あるいは、「流れを塞く止める物」)をいうようになった。「玉藻刈る井堤(ゐで)のしがらみ薄みかも恋のよどめるわが心かも」(万葉集・巻十一・2721)がその例である。
※流れもあへぬ→流れきれない。

【参考@】
   「志賀の山越え」をよんだ歌
 志賀の山越えにて、石井のもとにて、物言ひける人の別れける折によめる  貫之
  結ぶ手りしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな    (古今集・離別・404)
   志賀の山越え
  人知れず越ゆと思ひしあしひきの山下水に影は見えつつ      (『貫之集』延喜六年内裏月次屏風歌)
   ある所の屏風に、志賀の山越えに滝落ちたる所
  みなかみに結ぶ人なみ白玉は山のをよりぞ濡れて落ちける    (大中臣頼基集)
   右兵衛督忠君の朝臣の月令の屏風の料
   九月志賀の山越え、男、女、ゆきかひて、男また帰りゆく所 
  たちかへり恋ひてこそくれさざなみの山下水のせきしかへせば   (大中臣能宣集)
   右兵衛督忠君家屏風歌
   九月志賀の山越えの人々
  山おろしの風にもみぢの散る時はさざなみぞまづ色づきにける   
   大納言朝臣大饗屏風歌
   十月志賀の山越え
  名を聞けば昔ながらの山なれどしぐるるころは色かはりけり     (源順集)

【参考A】 春道列樹の歌
    年の果てによめる
  昨日といひ今日と暮らして明日香川流れて早き月日なりけり     (古今集・冬・341)
     (題しらず)
  梓弓ひけばもとすゑ我が方(かた)によるこそまされ恋の心は    (古今集・恋・610)
    呼子鳥を聞きて、隣の家に送り侍りける 
  わが宿の花にな鳴きそ呼ぶ小鳥呼ぶかひありて君も来なくに    (後撰集・春中・79)
    得がたかるべき女を思ひかけてつかはしける
  数ならぬみ山隠れのほととぎす人知れぬ音(ね)をなきつつぞふる (後撰集・恋一・549)

【影響】
  龍田川流れて早き年暮れて風のかくべきしがらみもなし           (家隆・壬二集・2008)
  龍田川木(こ)の葉ののちのしがらみも風のかけたる氷なりけり       (家隆・壬二集・2602)
  山川に風のかけたるしがらみの色に出でても濡るる袖かな          (家隆・壬二集・2818)
  木(こ)の葉(は)もて風のかけたるしがらみにさてもよどまぬ秋の色かな  (定家・拾遺愚草・1355)
    ※定家以前の秀歌撰にはこの歌はまったく採られていないことを思えば。家隆・定家時代の流行的評価か。

【春道列樹】                (新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生年未詳ー延喜二十年(920)。主税頭(『和歌色葉』には雅楽頭)新名の長男。延喜十年(910)五月文章生、ついで大宰大典(漢文で高文章を書く仕事)わ経て、二十年正月、壱岐守に任じられたが、赴任前に没した(古今集目録)。春道の姓については、『三代実録』貞観六(864)年五月十一日の条に、右京の人因幡権掾正六位上物部門起が姓春道宿禰を賜った由見え、物部氏の末流であった。『古今集』に三首と『後撰集』に二首の歌が見えるだけで、詳しいことは全くわからない。