百人一首 8…39〜44


三九 浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき      参議 等(さんぎ ひとし)

【出典】
  『後撰和歌集』恋一・577
    人につかはしける       源ひとしの朝臣
 あさぢふの小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき

【通釈】                   (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
浅茅の生えている小野の篠原ーその「しの」ではないがーこれまでは忍びに忍んできたけれど、今はとても忍びきれないで、どうしてこんなにあなたが恋しいのでしょう。

【鑑賞】                   (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 序詞を巧みに使って、おさえきれない恋の切なさを告白した歌である。脚注に引いた『古今集』のよみ人知らずの歌の上句をほとんどそのまま使いながら、下句で、細かくたたみこむ口調で、恋心を積極的に歌いあげて、本歌とは違った趣を出している。この歌を認めたのは、おそらく定家と思われ、『自筆本近代秀歌』『秀歌躰大略』らにはさ『八代集秀逸』にもとりあげているし、「小野の篠原しりぶ」と続けた歌を好んでよんでもいる。歌人としては、ほとんど問題にならなかった源等を『百人一首』に加えたのも、この秀歌ゆえのことであった。なお、後鳥羽院も『時代不同歌合』にとりあげ、『八代集秀逸』にも選ばれるなど、その点では定家と同意見であったことが知られる。

【語釈】
※あさぢふの小野の篠原→浅茅の生えている小野の篠原。「忍ぶれど」にかかる。序詞。
※忍ぶれど→自分の気持ちを抑える。
※あまりて→「忍びあまりて」の意。
◎「あさぢふの小野の篠原忍ぶとも人知るらめや言う人なしに」(古今集・恋一・505)

【参考】
  『後撰集』の源ひとしの歌
   人のもとにつかはしける        源ひとし朝臣(恋の歌が有名)
 東路(あつせまぢ)の佐野の船橋かけてのみ思ひ渡るを知る人のなさ   (恋二・619)
※東路の佐野の船橋→たとえの序詞。群馬県高崎市東南にあった橋だと言う。
※船橋→舟に板を渡して橋を掛ける。
※思い渡る→「わたる」は橋を渡る意を「思い続ける」意に転換。
◎かみつけのさわの船橋とりはずし親はさくれど我はさかるがへ  (萬葉・東歌)
   題しらず                 ひとしの朝臣
 かげろふに見しばかりにや浜千鳥ゆくへも知らぬ恋にまどはむ       (恋二・654)
   ある法師の、源のひとしの朝臣の家にまかりて、数珠(ずず)のすがりを落としけるを、朝(あした)におくるとて
 うたたねの床(とこ)にとまれる白玉は君がおきける露にやあるらん
   返し
 かひもなき草の枕におく露の何に消えなで落ちちまりけむ          (雑四・1284〜5)

【影響】
 定家自筆本『近代秀歌』

※『近代秀歌』→平安中期以降。古今集以後。万葉集は含まれない。源実朝(右大臣・定家の孫)に送った歌の心得。


                  


定家・家隆の実作に見られる影響
 浅茅生の小野の篠原うちなびき遠方人(わちかたびと)に秋風ぞ吹く  (拾遺愚草・2375「秋十首」)
 夕暮は小野の篠原しのばれぬ秋来にけりと鶉鳴くなり          (拾遺愚草・1038「秋廿首)
 霜埋(うづ)む小野の篠原しのぶとてしばしもおかぬ秋のかたみを    (拾遺愚草・1761「冬七首」)
 はし鷹のかへる白斑(しらふ)に霜おきておのれさびしき小野の篠原  (拾遺ぐ草・1655「冬」)
 今日暮れぬ秋はひと夜と吹く風に鹿の音ならせ小野の篠原       (秋篠月清集・524「夏十首」)
 時雨つる宵のむら雲さえふけて霜降るなり小野の篠原          (壬二集・1673冬七首)
 しのびわび小野の篠原おく露にあまりて誰をまつ虫の声         (壬二集・2399「秋歌」)
 玉ぼこの道も宿りもしら露に風の吹きしく小野の篠原           (壬二集・2464「行路秋」)
 かりにさす庵までこそなびきけれ野分に耐へぬ小野の篠原       (壬二集・330「野分」)

【参議等】                 (百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 元慶四年(880)ー天暦五年(951)。中納言兼民部卿源希の二男。嵯峨天皇の曾孫に当たる。その娘が藤原敦忠と結婚して助信の母となった。昌泰二年(899)二十歳で近江権少掾、延喜四年(904)従五位より累進、延長八年(930)従四位大宰大弐、天暦元年(947)参議、同五年正月正四位下になる。官暦は『公卿補任』に見られるが、歌人としての経歴は明らかでない。勅撰集入集は、『後撰集』に四首のみ。『袋草紙』によれば源等(トトノフ)というよみくせがある。




四〇 しのぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで     平 兼盛(たひらのかねもり)

【出典】
  『拾遺和歌集』恋一・622
         (天暦御時歌合)             平 兼盛
 しのぶれど色に出(い)でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで

【通釈】                  (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 かくしていてもかくしていてもつい私の恋心は顔色に出てしまったらしい。「誰かを恋していらっしゃるのですか」と人があやしみたずねるほどまでに。
※「誰かを恋していらっしゃるのですか」よりも「恋をして苦しんでいらっしゃるのですか」と解釈するほうがよい。

【鑑賞】                  (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 『天徳歌合』の「忍恋」の題でよまれ、次の忠見の歌と番(つが)えられた歌。上二句、一気に、秘めている恋が思いあまって顔色に出てしまったことをうたいあげ、第三句以下、会話をとり入れて屈折を見せ、余韻をこめてとめている。まことに技巧的に勝れた歌であるが、公任の『三十六人撰』には、兼盛の歌を十首もあげているのにこの歌は見られない。それが俊成の選びかえた三首の中に見え、『古来風躰抄』にもとっていて、歌合の折の逸話の歌話的興味にもひかれて有名になっていった。『百人秀歌』にも『百人一首』にも忠見の歌と並んで取られ、定家もやはり、この二首の歌を、そういった興をもって味わっていたかと思われる。

※歌合の折の逸話→歌合の披講は天徳四年三月三十日、十二題二十番、判者は左大臣実頼、後世の範と仰がれた晴儀の内裏歌合である。この兼盛の歌は、二十番右として、次の忠見の歌と番えられ、ともに優れた歌で、勝負が決しがたく、判者実頼は天皇の御気色をうかがったところ、天皇も判を下すことなく、ひそかに兼盛の歌を口ずさまれたので、勝とした旨、実頼の消息に見える。この話は語り草として言い伝えられ、『袋草子』『童蒙抄』などに記されているが、『袋草子』には、兼盛がこの歌合の時、衣冠を正して参陣して終日伺候し、この歌が勝ったことを聞いて、拝舞して退出し、自余の勝負には執しなかったということも見えている。

【語釈】
※しのぶれど→歌合の題の「忍ぶ恋」をそのまま言った。表面に出さないで抑えること。
※色に出でにけり→顔色に出ること。転じて外面に表われること。
※物や思ふと→「物思ふ」は「恋に苦しむ」という意の場合が最も多い。
※人の問ふまで→他人が質問するぐらいに。

【平兼盛】               (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生年未詳ー正暦元年(990)。従四位上兵部大輔篤行王の三男。光孝天皇の玄孫(ひまご)に当たる。兼盛王とも称していたが、天暦四年(950)越前権守となり臣籍に下る。康保三年(966)従五位上、天元二年(979)駿河守。天暦十年『麗景殿女御歌合』以下に作者となり、後撰時代の有力歌人。屏風歌を多くよんでいる。三十六歌仙の一人。家集に『兼盛集』がある。『拾遺集』に三十八首、以後の勅撰集に四十六首入集。『後撰集』にも表記が乱れているが三首入っている。


四一 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか   壬生忠見(みふのただみ)

【出典】
  『拾遺和歌集』恋一・621
       天暦御時歌合           壬生忠見
 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

※恋の歌を文学として見られるようになった。後に俊成が復活させた。

※『拾遺和歌集』→西暦1004年頃、花山天皇が位を退いてから選んだ勅撰和歌。

【通釈】                 (百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 恋をしているという私のうわさは、はやくも世間に広まってしまったことだ。誰にも知られないように、私の心ひとつに思いそめたばかりなのに。

【鑑賞】                 (百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 先の兼盛の歌と並べて、いつも優劣が問題にされる歌。『応永抄』に「此両首は歌合のつがひ也。おんくはすこしまさりけるとぞ」とあるように、かえって負歌の忠見の歌を高く評価することもはやくから行われていたようである。兼盛の歌が技巧的にすぐれているのに対して、忠見の歌は率直に感情を詠出しているといえよう。ところで、この歌も公任の『三十六人撰』には選ばれておらず、俊成が選びかえた三首の中に見え、『古来風躰抄』にも取られている。定家は、兼盛の歌とともに『八代抄』には選んでいるが、いずれも『自筆本近代秀歌』以下の秀歌撰にはなく、『百人一首』に並んで取っているのは、歌話的興味にひかれたものと思うのである。

【語釈】
※恋すてふ我が名→「恋すてふ」は、「恋すといふ」の約。「名」は定評。評判。恋をしているという評判。
※まだき→「ひの時期でないのに、早くも」の意。「あかなくまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ」(伊勢物語・八二段)
※我が名→「名…立つ」は噂が立つ。評判になる。
※人知れず→「恋の相手に知られない」という意の場合と「世間の人に知られない」という場合があるが、ここは後者。
※思ひそめしか→「そむ」は、ふつう「初む」をあて、「……し初める」の意に解しているが、本義は「染む」。色彩が次第に染み込んでゆく感じを表す接尾語。「思ひそめしか」の「しか」は過去の助動詞「き」の己然形。「こそ」に対応して己然形で結んでいるのである。

『天徳内裏歌合』
   廿番            左         忠見
39 こひすてふわがなはまだきたちにけり人しれずこそ思(おもひ)そめしか
                  右       兼盛 
40 しのぶれどいろにいでけりわがこひはものやおもふと人のとふまで
 少臣奏云、「左右歌伴以 優也。不能定申勝劣」勅云、「各尤可歎美。但猶可定申之」、小臣譲大納言源朝臣、敬屈不答。此間相互詠揚、各似請我力之勝。少臣頻候天気未給判勅、令密詠右方歌。源朝臣密語云、「天気若在右歟」者、因之遂以右爲勝。有所思、暫持疑也。但左歌甚好矣。

御記(ぎょき)四年三月卅日己巳、此日、有女房歌合事。去年秋八月、殿上侍臣闘詩。爾時、典侍命婦等相語曰、「男己闘文章女宜合和歌」。及今年二月定左右方人。

※『天徳内裏歌合』→判者(どちらが勝ったか判定する人)は藤原実頼
※少臣→藤原実頼。
※勅シテ云ハク→村上天皇。
※源朝臣→源高明。
※暫クハ持ニ疑フ也→引き分け。
※御記→歌合の正式の記録として残されたもの。
※有女房歌合事→兼盛(右方)とか忠見(左方)とかの歌を歌合する。女房が歌を作る訳ではない。
※方人(カタウドヲ)→各々の見方になる人。

『袋草紙』下巻(藤原清輔著。1157-58の成立)
天徳歌合之時、兼盛正衣冠参陣テ終日伺候。シノブレド色ニ出ニケリ我恋ハトイフ歌勝畢ヌトキヽテ、拝舞テ退出。自余ノ勝負ヲバ不執云々

『沙石集』(1280年前後の成立)
一 天徳ノ御歌合時、兼盛・忠見、共ニ御随身ニテ、左右ニツヒテケリ。初戀ト云題ヲ給テ、忠見、名歌ヨミ出シタリト思テ、兼盛モイカデコレホドノ歌ヨムベキトゾ思ケル。
  戀ステフ我名ハマダキ立ニケリ 人シレズコソ思ヒソメシカ
サテ、スデニ御前ニテ講ジテ、判ゼラレケルニ、兼盛ガ歌ニ、
 ツヽメドモ色ニ出デニケリ我戀ハ 物ヤ思フト人ノトフマデ
 判者ドモ、名歌ナリケレバ判ジ煩テ、天氣ヲ伺ヒケルニ、御門、忠見ガ歌ヲバ、兩三度御詠アリケリ。兼盛ガ歌ヲバ、多反(たへん)御詠アリケル時、天氣左ニアリトテ、兼盛勝ニケリ。忠見心ウク覺テ、心フサガリテ、不食ノ病付テケリ。タノミナキヨシ聞テ、兼盛訪ヒケレバ、「別(べち)ノ病ニアラズ。御歌合時、名歌ヨミ出シテ覺侍シニ、殿ノ、「物ヤ思ト人ノトフマデ」ニ、アワト思テ、アサマシク覺ヘシヨリ、ムネフサガリテ、カク思侍リヌ」ト、ツイニ身マカリニケリ。執心コソヨシナケレドモ、道ヲ執スル習ヒアワレニコソ。共ニ名歌ニテ、拾遺(しふゐ)ニ入テ侍ルニヤ。

※『沙石集』→無住という僧が作った仏教説話集(鎌倉中期)
※ツヽメドモ→記録違いか?
※多反→何度も繰り返し。
※アサマシク→意外。
※身マカリニケリ→死んでしまった。
※道ヲ執スル→和歌の道に固執する。

『平家物語』巻六
  葵 前 (あふひのまへ)
 なかにもあはれなりし御事は、中宮の御方に候はせ給ふ女房のめしつかひける上童(しやうとう)、おもはざる外、龍顔(れうがん)に咫尺(しせき)する事有けり。たヾよのつねのあからさまにてもなくして、主上(しゆしやう)つねはめされけり。
                主上「いさとよ。そこに申事はさる事なれども、位を退て後はまヽさるためしもあんなり。まさしう在位の時、さ様の事は後代のそしりなるべし」とて、きこしめしもいれざりけり。關白殿ちからをよばせ給はず、御涙をおさへて御退出あり。其後主上、緑の薄様のことに匂ふかかりけるに、古きことなれ共おぼしめしいでて、あそばされけり。
   しのぶれどいろに出にけりわが戀はものやおもふと人のとふまで
 此御手習を、冷泉少将隆房給はりつゐで、件の葵の前に給はせたれば、かほうちあかめ、「例ならぬ心ち出きたり」とて、里へ歸り、うちふす事五六日して、ついにはかなくなりにけり。

※葵前→後白河法皇の話。一生を振り返って述べている。
※上童→未成年の女性。
※おもはざる外→美少女。
※龍顔→天皇に気に入られた。
※薄様→貴重な紙。
※手習→自分の思っていることを習い事の稽古をするような態度で歌を詠んでいる。
※はかなくなりにけり→亡くなった。

『閑吟集』 (室町時代の歌謡集。1518頃の成立)
   大 五(忍)          (我)     (色に…)
265・しのぶれど、色に出にけり吾(が)戀は、〃、物やおもふと人のとふまで、
   (恥)     (洩)           (げ)         (我)     (夙)          (知)           (知)
   はづかしのもりける袖の涙かな、実(に)や戀すてふ、わが名はまだき立(ち)けりと、人しれざりし心まで、思ひしら
           (思ひ…)
れてはづかしや、〃

※『閑吟集』…口に出して歌う歌を集めた(小歌)
※大…大歌(小歌の長いもの)。節をつけて歌われていた。

『享受史』
『前(さき)十五番歌合』 (藤原公任)
  五番           忠見
 さ夜ふけて寝覚めざりせばほととぎす人伝てにこそ聞くべかりけれ
※ほととぎすに対する愛情。
  十四番          兼盛
 数ふれば我が身につもる年月を送り迎ふとなに急ぐらむ
※つもる年月…老齢。
※老いの気持を斜めに構えて表現。

『三十六人撰』 (藤原公任)
                忠見
 子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしに何を引かまし
 さ夜ふけて寝覚めざりせば時鳥人づてにこそ聞くべかりけれ
 焼かずとも草は燃えなむ春日野はただ春の日にまかせたらなむ
                兼盛
 数ふれば我が身につもる年月を送り迎ふとなに急ぐらむ
※自然を詠み込んでいる。その中で年をとっていく寂しさを詠んでいる。
 み山出でて夜はにや来つるほととぎす暁かけて声の聞こゆる
 山桜あくまで色を見つるかな花散るべくも風吹かぬ世に
※世→権力者にこびる。
 望月の駒引き渡す音すなり瀬田の長道橋もとどろに
※音→聴覚的表現。
 暮れてゆく秋の形見に置くものは我が元結ひの霜にざりける
※秋の形見・霜→暮れてゆく秋と自分の老いを重ねている。
 便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと
 今年生ひの松は七日になりにけり残れる齢思ひやるかな
※今年生ひの松→小松引きをしているが何年生きるか。
 朝日さす峰の白雪むら消えて春の霞はたなびきにけり
※むら→固まっている。
 我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる
※親しい人が訪ねて来た喜び。
 見渡せば松の葉白き吉野山幾世積もれる雪にかあるらむ
※冬の様子。

※兼盛、忠見も百人一首の話題になった歌は取り上げられていない。四季の歌が重要。恋の歌は番外。

『俊成三十六人歌合』
                壬生忠見
 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめてき
 焼かずとも草はもえなむ春日野をただ春の日にまかせたらなむ
 いづ方に鳴きてゆくらむ時鳥淀の渡りのまだ夜深きに
※淀の渡り…淀川の渡し。
                平兼盛
 暮れてゆく秋の形見に置くものは我が元結ひの霜にぞありける
 便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと
 忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで

※『俊成三十六人歌合』→新しい歌合。恋の歌が中心になってきている。旅情。

『時代不同歌合』 後鳥羽院
                平兼盛
 暮れてゆく秋の形見に置くものは我が元結ひの霜にぞありける

【壬生忠見】              (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 生没年未詳。壬生忠岑の息子。天暦八年(954)御厨子所に候し、天徳二年(958)摂津大目となる。天暦七年十月『内裏菊合』以下の歌合に作者として活躍。多くの屏風歌がある。幼名、名多(長尾家蔵三十人撰・袋草紙)。歌の数奇人として、その歌話が『袋草紙』などに伝えられている。三十六歌仙の一人。家集に『忠見集』がある。忠岑の歌と混同されて正確には知り得ないが、『後撰集』に一首(一本忠岑)、『拾遺集』に十四首、その他の勅撰集に二十二首入集。



四二 契りきなかたみに袖をしぼりつつすゑの松山波越さじとは     清原 元輔 (きよはらのもとすけ)

【出典】
  『後拾遺和歌集』恋四・770(巻十四の巻頭歌)
    心変わりて侍りける女に、人に代わりて   
                           清原元輔
 契りきなかたみに袖をしぼりつつすゑの松山波越さじとは

【通釈】                  (片桐洋一訳)
 神の前で誓い合いましたよね。涙に濡れた袖を何度もしぼりながら、他の人に心を移すようなことは絶対にしないつもりだということを。

【鑑賞】                  (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 有名な末の松山の古歌をふまえ、ものやわらかに、しかも激しいうらみをこめて相手の不実をつくまことに巧みな歌である。この歌は、公任の『三十六人撰』には見えず、俊成が選びかえた中に見られ、定家は『自筆本近代秀歌』『秀歌躰大略』『八代集秀逸』にも選び高く評価
していたことが知られる。末の松山の伝承にも興味があったことと思われるし、『源氏物語』浮舟の巻での浮舟の心変わりをよんだ薫の「浪こゆる頃ともしらず末の松まつらむとのみ思ひけるかな」という歌などもあって、物語的な情趣をも思いうかべて味わっていたのであろう。「思ひ出でよ末の松山までも浪こさじとは契らざりきや」(拾遺愚草・上)のような類歌が、すでに「初学百首」に見られる。

【語釈】
※契りきな→「き」はみずから体験した過去を表わす助動詞。「契る」神の前で誓言すること。
※かたみに→「互いに」。
※袖をしぼりつつ→「袖をしぼる」は涙で濡れた袖をしぼること。「つつ」は動作の繰り返しを表わす助詞。何度も袖の涙をしぼるほどに、涙とともに神前で愛を誓い合ったと言っているのである。
※すゑの松山波越さじとは→『古今集』東歌(1093)の「君をおきてあだし心をわが持たばすゑの松山波も越えなむ」(あなたをさしおいて、他の人に心を移すような浮気心を私が持つようなことがあったならば、あのすゑの松山を波が越えるというような、ありえないことが起こるでしょうよ。浮気をするようなこと、あるはずもありません。)を本歌にして、すゑの松山わ波が越すというようなことは絶対にないように、私が浮気をするようなことは絶対にしないつもりですと言っているのである。

【参考】
 宮内庁書陵部本『元輔集』(181)
   心変りてはべる女に、人にかはりて
 歌仙家集本『元輔集』(218)
   心かはれる女につかはす。人にすはりて
 宮内庁書陵部本『藤原惟規集』(7)
   女に
※藤原惟規は紫式部の弟(兄)として有名。天禄三年(972)頃に出生。寛弘八年(1011)頃に死去。一方、清原元輔は清原深養父の孫、清少納言の父、延喜八年(908)に生まれ、永祚二年(990)に逝去しているから、惟規が十八歳の時に元輔に代作を依頼したら、出来ないことはない。
 しかし、元輔が誰のために代作した歌が気に入った惟規が備忘のために書き認めていた歌だったということもあり得るのではないかと思うのである。

【参考】
 契りきなこれを名残りの月の頃なぐさむ夢もたえて見じとは       (定家『拾遺愚草』2695)
 忘るなよ宿る袂は変るともかたみにしぼる夜半の月影          (定家『拾遺愚草』193)

【清原元輔】               (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 延喜八年(908)ー永祚二年(990)。下総守春光の息子。深養父の孫、清少納言の父。天暦五年(951)河内権少掾より諸官を歴任、天元三年(980)従五位上、寛和二年(986)肥後守に任ぜられ任地で没したらしい。明朗で機智に富んだ性格は『今昔物語集』(巻28の六話)に逸話がある。天暦年間、和歌所の寄人となり、『万葉集』訓点の業に従い、『後撰集』の撰進に当たった。梨壷の五人の一人。三十六歌仙の一人。家集に『元輔集』がある。『拾遺集』(四十八首)以下の勅撰集に約百六首入集。




四三 あひ見てののちの心にくらぶれば昔は物を思はざりけり 権中納言敦忠(ごんぢゆうなごんあつただ)

【出典】
  『拾遺和歌集』恋二・710
          (題しらず)         権中納言敦忠
 あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物も思はざりけり

【通釈】                  (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 逢って見て後の、この恋しく切ない心にくらべると、以前のもの思いなどは、まったく無きにも等しい、なんでもないものでしたよ。

【鑑賞】                  (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 若き貴公子の切なる恋の思いをよんだ歌として、いかにもさわやかな感じがする。この歌、公任の『三十六人撰』に見え、敦忠の代表作と見ていたが、俊成は選びかえて、この歌をとっていない。『古来風躰抄』にも選んでいない。定家も『八代抄』『五代簡要』以外には取りあげていないが、結局『百人一首』を選ぶに当たって、やはりこの歌を敦忠の一首として抜き出したのである。ところで、公任は『拾遺抄』に「はじめて女のもとにまかりて又の朝につかはしける」として引いているから明らかに後朝(きぬぎぬ)の歌と解して味わっていたわけであるが、定家は『八代抄』の並びからみて、必ずしも後朝と考えていなかったようにも思われる。

【語釈】
※あひ見ての→「あふ」は男女が二人だけで逢うこと。「見る」はその次の段階で男女の関係を持つこと。
※昔は物も思はざりけり→「物思ふ」は、恋に苦しむことが最も多い。「昔は恋に苦しんで悩むこともなかった」と訳してよい。

【参考】 『大和物語』第九十二段
 故権中納言、左の大殿の君をよばひたまうける年の師走のつごもりに、物おもふと月日のゆくもしらぬまに今年は今日にはてぬとかきくとなむありける。又かくなむ、
 いかにしてかくおもふてふことをだに人づてならで君に語らむ
かくいひいひてつひにあひにけるあしたに、
 けふそへにくれざらめやはとおもへども堪えぬは人のこヽろなりけり

【問題点】 後朝(のちのあした)の歌か否か。
※『拾遺和歌集』恋二の配列

  題知らず           よみ人知らず
708 夢かとも思べけれど寝やはせし何ぞ心に忘れがたきは

709 夢よゆめ恋しき人に逢ひ見すなさめての後にわびしかりけり
          
                  権中納言敦忠
710 逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物も思はざりけり

                  坂上是則
711 逢ひ見ては慰むやとぞ思(おもひ)しをななごりしもひそ恋しかりけれ
 
                  よみ人知らず
712 逢ひ見でもありにし物をいつのまにならひて人の恋しかるらん

713 我が恋は猶逢ひ見ても慰まずいやまさりなる心地のみして

      初めて女の許にまかりて、あしたに遣はしける   
                  能宣
714 逢事を待ちし月日のほどよりも今日の暮こそ久しかりけれ

                  貫之
715 暁のなからましかば白露のおきてわびしき別(わかれ)せましや

【権中納言敦忠】            (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 延喜六年(906)ー天慶六年(943)。藤原氏。左大臣時平の三男。母は在原棟梁(在原業平の息子)の娘(一説に、本康親王の娘)。延喜十七年(917)昇殿、侍従、蔵人頭、参議等を経て天慶五年(942)従三位権中納言となる。本院中納言、また枇杷中納言と呼ばれ、琵琶の名手、であった。「よにめでたき和歌の上手」(大鏡)といわれ、右近らとの交渉が『大和物語』などに見える。三十六歌仙の一人。家集に『敦忠集』がある。『後撰集』(十首)以下の勅撰集に三十首入集。




四四 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも怨みざらまし 中納言朝忠(ちゆうなごんあさただ)

【出典】
  『拾遺和歌集』 恋一・678
    天暦御時の歌合に          中納言朝忠

【通釈】              (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 逢うということがまったくないものならば、かえって、人のつらさをも、わが身のはかなさをも恨むようなことはあるまいのに。

【鑑賞】
 「未逢恋(いまだあはざるこひ)」の意にとるのと「逢不逢恋(あうてあはざるこひ)」の意にとるのとでかなり趣は違ってくる。この歌は、公任が『三十六歌仙』『前十五番歌合』に選んでいる朝忠の代表作で、それは俊成撰でも全く変わっていない。公任は、『拾遺抄』の並びから見れば、「未逢恋」の意で解していたらしく、『天暦歌合』の恋五番がいずれも逢わぬ恋を歌ったものばかりだから、それが作者の意図にも近い。しかし、定家の『八代抄』の並びを見れば、すでに、逢ってからかえって増す恋心をよんだものと解されていたようであり、やがて、参考にかかげる『応永抄』の評釈に見られるような、纏綿とした恋の情緒が余情深く味わわれる作品として愛唱されていったのである。

【参考】
 内裏和歌合   天暦四年三月卅日、於清涼殿有此事

   題
 霞     鶯    柳     桜    款冬   藤
 暮春   首夏   卯花   郭公   夏草   恋

   歌人
     左
 朝忠卿     坂上望城   橘好古   大中臣能宣
 少弐命婦   壬生忠見    源順
     右
 平兼盛   藤原元真   中務   藤原博古

   講師 
 左   延光朝臣
 右   博雅朝臣
   判者    左大臣

   恋
    十九番 左 勝           朝臣
 あふことのたうてしなくはなかなかに人をも身をも怨みざらまし
          右             元真
 君恋ふとかつは消えつつふるものをかくては生ける身とか見るらん
          左右歌、いとおかし、されど、左の歌は、ことばきよげなりとて、以左為勝。
    廿番  左              忠見
 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
         右             兼盛
 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで
      (以下、略)

【中納言朝忠】         (新版百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による)
 延喜十年(910)ー康保三年(966)。『歌仙伝』によれば延喜九年生まれ。藤原氏。三条右大臣定方の五男。延喜十七年(917)昇殿、延長二年(924)左近将監、以後侍従、左中将、参議等を経て、応和元年(961)従三位、同三年中納言となる。『天徳歌合』はじめ歌合に列し屏風歌をよみ、歌人として知られる。『大和物語』には右近ら女房との贈答歌がある。また笙の名手でもあった。三十六歌仙の一人。家集に『朝忠集』がある。『後撰集』(四首)以下の勅撰集に二十一首入集。