伊勢物語1…第一段〜第六段


                 第一段

  むかし、をとこ、うひかうぶりして、ならの京、かすがのさとに、
 しるよしして、かりにいにけり。そのさとに、いとなまめいたるをん
 なはらからすみけり。このをとこかいまみてけり。おもほえず。ふる
 さとに、いとはしたなくてありければ、こゝちまどひにけり。をとこ
 のきたりけるかりぎぬのすそをきりて、うたをかきてやる。そのをと
 こ、しのぶずりのかりぎぬをなむきたりける。
     かすがののわかむらそきのすり衣
      しのぶのみだれかぎりしられず   
          (一)
 となむおひつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけ
 ん。「みちのくの忍ぶもぢずりたれゆゑにみだれそめにし我ならなく
 に」といふうたの心ばへなり。むかし人はかくいちはやきみやびをな
 んしける。

                  『通釈』                
 昔、男がいたのである。その男は、元服して、平城の古京の春日の里に
知り合いの縁があって、鷹狩に出掛けたのである。その里にたいそう魅力的な姉妹が
住んでいたのである。この男は、その女たちを垣の間からのぞき見してしまったのである。思いもかけず、今は、古い
里になってしまっている所に全く不似合いともいえる美しさで住んでいたので、すっかり魅惑されてしまったのである。
男自身が着ていた狩衣の裾を切って、歌を書いて贈る。折しも、その男は
陸奥信夫郡産の摺り狩衣を着ていたのである。
    春日野の若い紫草で摺った衣なのに、あの歌で有名な
    信夫摺りの乱れ模様のように、忍んでいた私の心も、乱れに乱れていること、
    その限りがないほどでありますよ。
と追いかけるように言い贈ったのであった。女の方も、その歌を贈った手続きを趣きあることとでも思ったのであろうか。それによって結ばれることになったのである。 
草子地(物語の追加的コメント)↓
 この男の歌は、「陸奥の信夫郡の摺り衣の模様のように、すっかり乱れてしまったのは私のせいではありませんよ。皆あなたのせいなのですよ」という『古今集』の歌の意味を発展させて詠んだものである。今の人と違って、昔の人は
、このように激烈な「みやび」をしたことであったよ。

                 『語釈』
※この段はフィクションである事の証明→『古今集』の歌の意味を発展させて詠んだものである。
 古今集に入っている源左大臣の有名な歌。
※四十一段が出来上がってから一段が書かれた。伊勢物語の最初においた。
※男は元服すると親が決めた人と結婚したが、ここは田舎で好きになった人が出来た。打算的な結婚ではなく、素晴 らしいと思ったら進む、これが伊勢物語(平安時代)の価値観。

※はしたなし→不似合い
※ふるさと→古い里


                 
                   第二段

 むかし、をとこ有りけり。ならの京ははなれ、この京は人の家まだ
さだまらざりける時に、にしの京に女ありけり。その女。世人にはま
されりけり。その人、かたちよりは、心なんまさりたりける。ひとり
のみもあらざりけらし。それを、かのまめをとこ、うちものがたらひ
て、かへりきていかが思ひけん、時はやよひのついたち、あめそほふ
るに、やりける。
    おきもせずねもせでよるをあかしては
     春の物とてながめくらしつ       
           (二)

                   『通釈』
 昔、男がいた。奈良の都は廃都となり、この平安京は、都市としてはまだ人家が
整備されていない時のこと。西の京にこの男が目指す女がいた。その女は、世間の誰よりも
まさっていた。その人は容姿よりも、心の在りようがまさっていたのである。この女に
通ってくる男は1人だけというわけではなかったらしい。そんな女を、例の一途な男が通っていって
いささか親しく語らって帰宅して、どう思ったのであろうか、(まるで後朝〈きぬぎぬ〉の文のように、
歌を贈ったのである。)時節は陰暦三月の一日、春雨がしょぼしょぼと降る時に、
言い贈ったのである。
    起きているわけでもなく、寝ているわけでもない状態で一夜を過ごし、帰ってからも、
    これは春には付き物だと思って、長雨を見ながらぼんやりと物思いにふけりつつ、時を過ごしてしまいました。

                『語釈』
※後朝の文→男女が一夜の交わりをもって朝帰る。又、手紙を出して来てもらう。三日続くと結婚
※きぬ=着物
※まめをとこ→一途な男
※かたちよりは、心なんまさりたりける。→伊勢物語の価値観

【参考】 片桐洋一『全対訳日本古典新書 古今和歌集』巻十三

恋歌三  恋→目の前にいない人を思って詠む

 弥生の朔日(ついたち)より、忍びに人にものらいひて、のちに雨のそほ降りけるによみてつかわしける。
                                                在原業平朝臣
 616 おきもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ
      あなたのことを思い出して、起きるでもなく寝るでもない有様で一夜を明かしましたが、今日もまた春の
      景物だから仕方ないと一日中長雨をながめつつ物思いにふけっておりました。
    ※配列から見てまだ結ばれていないと見るべきであろう。



                   第三段

 むかし、をとこありけり。けさうじける女のもとに、ひじきもといふものをやるとて、
      思ひあらばむぐらのやどにねもしなん
       ひしきものにはそでをしつゝも    
                 (三)
二条のきさきの、まだみかどにもつかうまつりたまはで、たゞ人にておはしましける時のこと也。

                   『通釈』
 昔、男がいたのである。想いを掛けていた女のもとに、ヒジキ藻という物を贈ると言って、
こんな歌を詠んだものである。
  お互いに愛情があるならば、葎の生えているようなひどい所にでも共寝ができることでしょう。
  敷物には、お互いの袖を用いながらでも。
二条の后が、まだ、帝のおそばにお仕えにならずに、普通の身分の人でいらっしゃった時のことであるよ。

                    『語釈』
ひじき藻→「ひじき」のこと。
思ひあらば→「私(男)に愛情さえあるならば…」と解する説と「あなた(女)に愛情さえあるならば…」と解する説が あるが、共に落ち着かない。ここは、第一段や第二段に共通するテーマであった恋愛至上の価値観を一般論的に  示したものと見ておけばよい。『万葉集巻十一(二八二五)』の「玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居り  てば」に通ずる発想である。
ひじきもの→海藻の「ヒジキ」に「シキモノ(敷物)」を掛けているのである。
袖をしつつも→夜具がないので、お互いの袖を敷物にして共寝をしよう。
※『大和物語』百六十一段は伊勢物語の影響を受けている。


                   第四段

 むかし、ひんがしの五条に、おほきさいの宮おはしましける、にし
のたいに、すむ人有りけり。それを、ほいにはあらで心ざしうかゝり
けるひと、ゆきとぶらひけるを、む月り十日ばかりのほどに、ほかに
かくれにけり。ありどころはきれど、人のいきかよふべき所にもあら
ざりければ、猶、うしと思いつゝなんありける。
 又のとしのむ月に、むめの花ざかりに、こぞをこひていきて、たち
て見、ゐて見、見れど、こぞににるべくもあらず。うちなきて、あば
らなるいたじきに、月のかたぶくまで、ふせりて、こぞを思ひいで
て、よめる。
    月やあらぬ春や昔の春ならぬ
      わが身ひとつはもとの身にして    
        (四)
とよみて、夜のほのぼのとあくるに、なくなくかへりにけり。

                   『通釈』
 昔、東の五条に大后の宮がおいでになった、その邸の西の対に、
住んでいる女がいたのである。その女を、もともとの意志ではないけれども、愛情深く
慕うようになった男が訪ねていったのであるが、陰暦一月十日の頃に、他所に
姿を隠してしまったのである。所在は聞いて知っていたのであるが、一般人が通って行く事の出来る所
でもなかったので、やはり、嫌な日々だなぁと思い思い過ごしていたのである。ところが、
翌年の一月に、梅の花の盛りに、男は去年の最後の逢瀬を懐しがって、こらえ切れずに、
この場所にやって来て、立って見たり座って見たりして、あたりを見るのだけれども、去年の状況に似ているはずも
ない。思わず泣いてしまって、誰もいないゆえに、調度類をとりはずしてある板の間に、月が西に傾くまで臥せって
去年の最後の逢瀬を思い出してよんだ歌、
 この月は去年の月ではないのか! この春は去年の春ではないのか!
我が身だけは、元の身であって、変らないはずの月や春まで、すっかり変ってしまった感じであるよ。
と詠んで、ほのぼのと夜が明ける頃に、泣く泣く帰ったのであるよ。
 
                『語釈』
むかし、ひんがしの五条におほきさいの宮おはしましける、にしのたいにすむ人有りけり→「おほきさきさいの 宮」と「にしのたいにすむ人」が別人であることは、前者には「おはしましける」を用い後者には「有りける」を用いてい ることによって明らかであるが、この東五条の大后の宮には二説がある。第一は左大臣藤原冬嗣の娘で仁明天皇 の后であった順子をあてる説で、『和歌知顕集』以降『臆断』『童子問』『新釈』など、必ずしも多くなかったが、契冲  の『臆断』の実証主義を評価したのか、近年の注釈書は一般にこの説をとっている。一方、第二の説はその順子の 姪にあたる藤原明子(文徳天皇后、太政大臣藤原良房娘)とする説で、『令泉家流伊勢物語抄』『愚見抄』『宗長聞 書』『肖聞抄』『惟清抄』『闕疑抄』『拾穂抄』など江戸時代以前の多くの注釈書がこの説をとっている。これらの注釈 書は、第六段の後書に「二条の后の、いとこの女御」とあるゆえに、この明子説をとったのであろうが、この章段の  記述を忠実と見る事はできない。
ほいにはあらで心ざしふかかりける人→「ほい」は「本意」。「ン」を無表記にしているので、読む時は「ほんい」と 読むのであろう。「…など言ひ言ひて、つひにほいのごとくあひにけり」(第二十三段)「この人の宮仕へのほい、か  ならず遂げさせ給へ」(源氏物語・桐壺)。「心ざし」は心が一定の方向へ向かって行くこと。「愛情」と訳すして当たる 場合が多い。「心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、」(第四十一段)、「女のもとに、なほ心 ざし果たさむとや思ひけむ、男、歌をよみてやれりけり。」(第八十六段)、「いとなめしと思ひけれど、心ざしは、いや  まさりけり。」(第百五段)。
猶、うしと思ひつつなんありける→「うし」は意気消沈、「嫌だ」という消極的な心の状態。「ありける」は自分の邸 で過ごしていたのである。
又の年→次の年。翌年。
あばらなるいたじきに→「あばら」は『新撰字鏡』に「客亭 無壁之屋也。客人屋 阿波良」とあり、『倭名抄』に「亭  アバラヤ」とあって、「あばらや」は「亭(ちん)」のようにスケスケの所を言うことがわかるが、ここは「あばらなる板  敷」だから、建具、障子、屏風、几帳などをはずして、「亭」のようにスケスケになっている室のことを言うのであろ   う。「板敷」 は、畳なども敷いていない状態を言う。
月やあらぬ春や昔のはるならぬ わが身ひとつはもとの身にして→二つの「や」を疑問ととるか、反語ととるか 、またそれにともなって「わが身ひとつはもとの身にして(あの人はもとの身にあらず)」というように補って訳すか否 か論議が多いが、「歌の心は、月も昔の月にてはなきか、春もむかしの春にてはなきか。それに、見し折のやうにも なく、よろずかはりはてたる心地のするは、いかにぞや。さるかとおもへば、我身ひとつは本のまゝにてありとよめり 。是は人にはなれて後、我心の思ひなしに、かはらぬ物もかはりておぼゆる事也。此歌、心ふかくして、ふと心得が たきやうなり」という『愚見抄』の説明が、理屈が過ぎるがその通りだと思う。
 『古今集』恋三・六三二
   東の五条わたりに、人をしりおきてまかり通ひけり。忍びなる所なりければ、門よりしもえいらで、垣のくづれより    通ひけるを、たびかさなりければ、主ききつけてかの道に夜ごとに人をふせて守らすれば、行きけれど、えあはで   のみ帰りて、よみてやりける
                                     なりひら朝臣
        人しれぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちともねななむ
 
                    第五段

 むかし、をとこ有りけり。ひんがしの五条わたりに、いとしのびて
いきけり。みそかなる所なれば、かどよりもえいらで、わらはべのふ
みあけたるついひぢのくづれよりかよひけり。ひとしげくもあらね
ど、たびかさなりければ、あるじ、きゝつけて、そのかよひぢに夜ご
とに人をすゑてまもらせければ、いけども、えあはで。かへりけり。
さてよめる。
    ひとしれぬわがかよひぢのせきもりは
     よひよひごとにうちもねななん     
         (五)
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。二条
のきさきにしのびてまゐりけるを、世のきこえありければ、せうとた
ちのまもらせたまひけるとぞ。

                    『通釈』
 昔、男がいたのである。東の五条のあたりに、たいそう忍んで通って
行ったのである。ひそかに通う所であるので、門を通って入ることも出来ず、下働きの
人たちが踏み開けた土塀の崩れを通って通っていたのである。あたりに人が多いていうわけでもないのだが、
度重なったので、このことを邸の主が聞きつけて、その通路に毎夜
人を置いて見守らせたので、男は、行きはするのだけれども、女に会うことはできずに帰ったのであった。
そこで、帰ってから詠んで届けた歌、
 人に知られぬように私が通っていた道の番人は、
毎夜毎夜、ついうとうとと寝てしまってほしいものであるよ。
と詠んだので、女はまことにひどく心を傷めたのである。そこで、仕方なく、主は男がやって来ることを許したというわけである「関守」などと言っているが、実は、男が、二条の后にこっそりと会いに行ったのであるが、世間の噂があるので、兄たちが、二人を会わせないように見張っていらっしゃったということであるよ。

                    『語釈』
東の五条わたりに、いと忍びて行きけり→前後(第四段)の「むかし、ひんがしの五条に、おほきさいの宮おはしまし
 ける、にしのたいに、すむ人有りけり」が前提になって「ひんがしの五条わたりに」と書いたのであって、大后の宮の 西の対に住む人のもとに「いと忍びて行った」ということを簡略に書いているのである。しかし、時間的には前段より 前の話としなければならない。「東五条邸では、こんなこともあったのですよ…」という形で後から書き加えた本文な のである。
わらはべのふみあむたるついひぢの崩れ→「わらはべ」は「わらは(童)」と違って、雑用に従う下級の使用人のこ  とである。男女を問わず言う。身分の低い使用人がこっそりと出入りする塀の崩れであろう。「京童部(きょうわらは べ)」のように町のならず者をいうこともあるが、ここはそうではあるまい。「ついひぢ」は「築土」で土塀のこと。土手 のように土を積み上げて固めた塀。
さて、よめる→「行けども、え会わで帰りけり」とあるので、「さて、よめる」は帰って来てから歌をよんで届けたという ことである。
人知れぬわが通ひ路→他人には知られていない私だけの通路。「そのかよひぢに夜ごとに人を据ゑてまもらせた」 とあるのだから「人知れぬ」はおかしいという説もあるが、男は「人知れぬ」と一方的に思い込んでいたのである。
関守→関所の番人。通路の見張り番。
うちも寝ななん→「うち」は、「ちょっと」「軽く」という意の接頭語。「ついうとうとする」という意。「…なん」は未然形  に 続いて「…してほしい」の意。
いといたう心やみけり→主語は女。「女はまったくひどく心を悩ませた」と言っているのである。
あるじゆるしてけり→「あるじ」は、その邸の主人。第四段によれば、大后宮のこと。大后宮が男の通って来ること  を許したのであるが、現実にはあり得ないことであり、物語というほかない。
二条のきさきに…→以下、後人の補注。二条の后は延喜十年(910)まで生存していたので、この補注はこれより  かなり後に補われたものとするほかない。『古今集』の詞書では、「二条后」の名は見えない。
 
 『古今集』 恋五・七四七
   五条の后宮の西の対にすみける人に、ほいにはあらでもの言ひわたりけるを、正月の十日あまりなむ、ほかへ    かく れにける。あり所は聞きけれど、えものも言わで、又の年の春、梅の花さかりに、月のおもしろかりける夜、   去年を恋 ひてかの西の対に行きて、月のかたぶくまであばらなる板敷にふせりてよめる   在原業平朝臣
       月やあらぬ春や昔の 春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

                 第六段

 むかし、をとこありけり。女のえうまじかりけるを、としをへて、
よばひわたりけるを、からうじてぬすみいでて、いとくらきにきけ
り。あくたがわといふ河をゐていきければ、草のうへにおきたりける
つゆを、「かれはなにぞ」となんをとこにとひける。
 ゆくさきおほく、夜もふけにければ、おにある所ともしらで、神さ
へいといみじぅなり、あめもいたうふりければ、あばらなるくらに、
女をばおくにおしいれて、をとこ、ゆみやなぐひをおいて、とぐちに
をり。はや夜もあけなんと思ひつゝゐたりけるに、おに、はやひとく
ちにくひてけり。「あなや」といひけれど、神るさわぎに、えきか
ざりけり。やうやう夜もあけゆくに、見れば、ゐてこし女もなし。あ
しずりをしてなけども、かひなし。
    しらたまかなにぞと人のとひし時
     つゆとこたへてきえなましみのを    
         (六)
 これは二条のきさきの、いとこの女御の御もとに、つかうまつる
やうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめて゜たくおはしければ、ぬ
すみておひていでたりけるを、御せうとほりかわのおとゞ・たらうく
につねの大納言、まだ下らうにて、内へまゐりたまふに、いみじうな
く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、
かくおにとはいふなりけり。まだ、いとわかうて、きさきのたゞにお
はしける時とや。

                    『通釈』
 昔、男がいたのである。自分のものに出来ない女を、何年かかかって求婚し続けていた
のであるが、つらい思いをしてやっと盗み出して、ひどく暗い所にやって来た。芥川とい
う川のあたりをいざなって行ったところ、その河のほとりの草の上に置いていた露をみて、
「あれは何なの?」と男に尋ねたものである。
 前途は遥か、また夜もふけてしまったので、鬼がいるところだとも知らないで、加えて
雷までが、とてもすごく鳴り、雨もひどく降ったものだから、がらんとして中に何もない
倉に、女を奥に押し入れて、男は、弓と箙(やなぐい)を背にして戸口に控えている。女も、夜も早
く明けてほしいと思い思い座っていたところ、鬼が急に一口に喰ってしまった。「ああ!」
と言ったのであるが、雷が鳴る騒ぎで、男は聞くことが出来なかったのである。
 やっと夜も明けゆく頃、見ると、連れて来た女もいない。足を擦り合わせて泣いても、
どうしようもない。
 「あれは白玉ですか、何ですか」とあの人が尋ねた時、「いやいや、あれは露ですよ」
 と答えて、まさしく露のように、はかなく消えてしまっていたらよかったのに…。
 これは、二条の后が、従姉妹の女御の御もとに、女房としてお仕えするような形でい
らっしゃったのを、容貌がたいそう素晴らしくていらっしゃるので、盗んで背負って出た
のを、お兄さんの堀川大臣と御長男の国経の大納言が、まだ地位が低い時に、内裏へ参
上なさる時に、ひどく泣く人があるのを聞きつけて、引き留めて取り返しなさったので
あった。その兄上たちのことを、このように物語では鬼だというのであるよ。后がまだ
とても若くて、ただの人でいらっしゃった時のことだということである。

                    『語釈』
年を経てよばひわたりけるを→「よばふ」は「求婚する」という意。「夜這ふ」から出来た語とするのは、民間語源  説的なこじつけであり、「よばひぶみ(求婚を申し入れる手紙)」(うつほ物語・藤原の君)という語があることによっ  ても 、求婚そのものの意であることは明らかであろう。
芥川といふ河→兄の基経と国経が参内する途中に出会ったと書かれていることもあって、京都の中の塵芥を捨て る川のこととする説や、大内裏の中にある御溝水のこととする説などが有力であったが、当時「芥川」と言えば
     はつかにも君をみしまの芥川あくとや人のおとつせれもせぬ(『伊勢集』四〇三)
     月影に我をみしまの芥川あくとや君がおとづれもせぬ(『古今六帖』二八九〇)
     人をとくあくた川てふ津の国の名ににはたがはぬものにぞありける
         (『大和物語』一三九段、『元良親王集』一〇七・『拾遺集』恋五・九七七)
 とよまれている摂津国三島郡の芥川(現在の大阪府高槻市の芥川)以外には考えられない。
あばらなるくら→中に物があまりなく、すかすかしている倉。第四段参照。
足ずりをしてなけども→「足ずり」は、くやしさ、あるいは腹立たしさのあまり、倒れて転がって足をばたばたさせる 動作「立ち走り 叫ぶ袖ふり こいまろび 足ずりしつつ」(『萬葉集』巻九。一七四〇)「こいまろび 恋ひかもをらむ  足ずりし 音(ね)のみや泣かむ」(同・一七八〇)という例が『萬葉集』に見られる。オーバーな動作をあえてさせて  いるのであって、立ったままの地団駄ではない。
いとこの女御→二条の后の父である藤原長良の弟良房の娘明子。良房が染殿と呼ばれる御殿に住んでいたの で、染殿后と呼ばれた。道康親王(文徳天皇)の東宮妃となり、嘉祥三年(八五〇)に惟仁親王(清和天皇)を生み、 同年文徳天皇の即位にあたって女御となった。二条后高子が五節舞妓となって従五位下に叙せられたのは貞観  元年(八五九)十一月二十日であるから、「ただ人」の立場で、「いとこの女御の御もと」にいたのは、嘉祥三年(八  五〇)から貞観元年(八五九)の間ということになる。ただし、この第六段の徐述を史実と見てのことであり、前述の ように、フィクションと見れば、このようなことを考える必要はない。
仕うまつるやうにてゐたまへりけるを=異本に「つかうまつりびとのやうにて」とあるように、女房に準ずるような 形でその邸にいたのである。
御兄人堀河のおとゞ→藤原基経。藤原長良の息で二条后の兄だが、叔父の良房の養子となって早く昇進し、大 臣になったために「堀川のおとど」と呼ばれ、兄よりも前に書かれているのである。仁寿二年に十七歳で蔵人となり 、その後、左兵衛少尉、十一月に侍従、斉衛二年正月、左兵衛佐、蔵人、天安二年蔵人等を経て貞観六年(八六四)に二十九歳で参議、同十四年に三十七歳で右大臣となったが、貞観十八年(八七六)、  陽成天皇受禅とともに摂政となり、元慶4年(八八〇)には太政大臣となり、関白となった。「まだ下臈にて…」と叙述 にそのまま従うと、参議となった貞観六年(八六四)以前ということになる。※太郎国経の大納言=二条后の長兄。貞観元年(八五九)叙爵。備後権介、播磨介、右兵衛権佐等を経て、元慶元年(八七七)正月従四位下、元慶六年(八八二)正月にやっと参議になったというように冬嗣の嗣子となった弟の基経とは社会的地位がまったく異なっていた。
まだ下臈にて→「げらふ」。「下臈」は「上臈」に対する語。本来は仏教語で、経験の浅い僧侶のことを言ったが、  転じて特定のポストについての経験が浅い人を一般的に言うようになった。「早う、まだげらふに侍りし時、…」(『源 氏物語』帚木)。
内へ参りたまふに→実相は、摂津の「芥川」ではなく、参内する途次のことであり、当然洛中だと付言的説明を加 えているのである。
それをかく鬼とはいふなりけり→実相は二条后の兄二人が取り返したのだが、物語としては、それを鬼として仮  相を表現しているのだと説明を加えているのである。
后のたゞにおはしける時とや→「二条后が「ただ人」であった時の話ということであるよ。」二条后が「ただ人」で  あった時とは、貞観元年(八五九)十一月に五節舞妓になってから貞観八年(八六六)十二月に女御になる前の八 年間が想定される。なお、「……后のたゞにおはしける時とや。」の文末、底本は「…とや」となっているが、阿波国文 庫本や初期の定家書写本系の本、あるいは古本の類では「…とかや」となっている。その場合は、「……時だとか  いうことであるよ。」という意となり、疑問をはさみながら伝承するという姿勢が表面に出る。

                 東くだり章段の構造

※第七段  伊勢・尾張の国境     『後撰集』業平(よみ人知らず)
※第八段  浅間山(信濃)       出典なし
※第九段  三河の八橋         『古今集』業平
        駿河の宇津の山      『忠岑集』歌の利用
        駿河の富士山        『業平集』
        武蔵・下総国境の隅田川 『古今集』業平
※第十段  武蔵国入間郡        『業平集』
※第十一段 東(あづま)         『拾遺集』橘忠基の利用
※第十二段 武蔵野            『古今集』詠人不知歌の改変利用
※第十三段 武蔵             出典ナシ
※第十四段 陸奥             『萬葉集』歌の利用
                        出典ナシ
                        出典ナシ
※第十五段 陸奥             『古今集』東歌の改変利用
※第十六段 陸奥             『萬葉集』歌の利用