伊勢物語11…第五十四段〜第五十七段

第五十四段

 昔、をとこ、つれなかりける女にいひやりける。
    行きやらぬ夢ぢをたのむたもとには
     あまつそらなるつゆやおくらん
                   (九九)

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男が、自分につれなかった女に言い贈った歌、
    行こうとしても、あなたの許に行きつくことのできないはかない夢の中の路に依拠している私の袂には、天空の露が置いたのでしょうか。このように濡れておりますよ。

【語釈】

※ゆきやらぬ夢路→「やらぬ」は「完全に〜ならない」の意。「行こうとしても行きつかない、頼りにならぬ「夢の通い路」を頼りにするということは、夢の中でも、なかなか会えないということである。その夢路は天空にかかっていると考えて、「あまつそらなる露やおくらん」と言ったのである。「夢路にも露やおくらむ夜もすがら かよへる袖のひちてかわかぬ」(古今集・恋二・574・紀貫之)の本歌取りであるとすれば、『後撰集』所載のこの歌は紀貫之の歌によって作られたということになり、併せて『伊勢物語』のこの章段は紀貫之以後の増補であるということになる。「袖の露」の実体は、言うまでもなく「涙」である。
※天つ空なる露→夢は天にかかっている夢路を通って相手の所へ行くというとらえ方である。

【参考】

 『後撰集』恋一・559の題知らず・よみ人知らず歌
    ゆきやらぬ夢ぢにまどふ袂には天つ空なき露ぞ置きける
を取り込んだのであろう。定家本『後撰集』では、第四句「あまつそらなき」となっているが、二荒山本(ふたらさんぼん)・清輔片仮名本・堀河具世(ともよ)本・白河切などでは「あまつそらなる」とあって、『伊勢物語』と一致している。「天つ空なる露」の場合は、「地上に置いている露ではなく天空に置いている露で濡れたのであろう」と言っていることになる。なお、「夢で会う」ということは、空にかかる夢路(「夢の通ひ路」とも言う)を通って行って会うという認識であったから、このような表現になったのであろう。それに対して、「天つ空なき」の場合、「天つ空にはないはずの露」、すなわち「涙で濡れた」と言っていることになる。
※後撰集→村上天皇の時の勅撰和歌集。古今集の次の集。951年から編纂を始めた2〜3年で出来た。
※片仮名本→学問的な本。
※平仮名→芸術的に写す。

第五十五段

 むかし、をとこ、思ひかけたる女の、えうまじうなりての世に、
    おもはすせはありもすらめど事のはの
     をりふしごとにたのまるゝ哉
                     (一〇〇)

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男が、思いをかけた女が自分のものにできそうになくなった状況において詠んだ歌。
    あなたは私のことなど今は思ってはいらっしゃらないでしょうが、私としましては、あの時のお歌の言葉が、時節時節に思い出され、あてにしているみとでありますよ。

【語釈】

※え得(う)まじうなりての世→「まじう」は打消の推量を表す「まじ」の連用形「まじく」のウ音便。「え〜まじう」は「〜できないだろう」の意。「世」は自分と相手の間に存在する状況。第六段の「女のえ得(う)まじかりけるを、年をへてよばひわたりけるを」参照。
※言の葉→単なる日常的な言葉をいうのではまく、「親のいさめし言の葉も、かへすがへす思ひ出(い)でられ給ひて悲しければ」(源氏物語・総角巻)というように、「整えられたことば」「凝縮したことば」という意に相当する場合が多い。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(古今集・仮名序)、「はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりは異なりしけはひかたちの」(源氏物語・桐壷巻)のように、具体的には「和歌」を指す場合や、「世にふれば言の葉繁きくれたけのうきふしごとに鶯の鳴く」(古今集・雑下・958)のように「人の噂」や「悪口」の意で用いられる場合も、いわば「凝縮したことば」に属すると見てよかろう。
※をりふし→その時々。そのおりおり。その時節に応じて。「花の時」「月の時」「雪の時」などに思い出して、その言葉の成就を願うということであれば、「言の葉」はやはり和歌ということになろう。
※たのむ→期待する。

第五十六段

 むかし、をとこ、ふして思ひ、おきて思ひ、思ひあまりて、
    わがそでは草の庵にあらねども
     くるればつゆのやどりなりけり
                   (一〇一)

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、横になって女を思い、たま起き上がっては女を思ったりしていたが、とうとう思い余って詠んだ歌、
    私の袖は「草の庵」ではないが、まるで「草の庵」であるかのように、暮れて来ると、まさに露の宿り場所であったのだなあ。ほれ、このように涙で濡れているよ。

【語釈】

※草の庵→草庵。世捨て人が住む庵の意。「屋根や壁を草で覆った簡素な住まい」とするのが通説だが、実体は明らかでない。「草の戸」「草の戸ざし」「草の宿り」などとのかかわりを考えれば、「野宿に近い生活をするための庵」と考えるべきであろう。草庵は漢語。
※露の宿り→「露」は草に置くものであるので「草の庵」に宿ると言ったのである。もちろん「袖」に置くのであるから、涙のことである。

第五十七段

 昔、をとこ、人しれぬ物思ひけり。つれなき人のもとに、
    こひわびぬあまのかるもにやどるてふ
     我から身をもくだきつる哉
                      (一〇二)

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は相手にわかってもらえない苦しい物思いをしていたのである。そんなつれない人のもとに贈った歌、
    恋に苦しんでいます。海人(あま)が刈る藻(も)に宿るという割殻虫(われからむし)ではないが、我から我が身を砕いているような苦しさでありますよ。

【語釈】

※人知れぬ→「世間の人に知られない」という意もあるが、ここは五十三段と同じく、「相手の人に知ってもらえない」という意。おそらくは身分が違って、通っては行けず歌も送れないような関係だったのであろう。「ぬ」は連体形。
※物思ひけり→恋に苦しむこと。恋わずらいをした」と訳してよい。
※「人知れぬ物思ひけり」→文法的におかしい。@人知れず。A人知れぬ物思いをしけり。「を・し」が抜けている。 
※恋ひわびぬ→「わぶ」は精神的に苦しむこと。恋に苦しんでいます。
※海人の刈る→「海人(あま)」は海で働く人すべてを言い、男女を問わない。「志賀の海人のめ刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛筍(くしげ)の小櫛(をぐし)取りもみなくに」(萬葉集・巻三・278)のように、海藻を刈るのも塩を焼くのも海人の仕事である。
※宿るてふ→「てふ」は「といふ」の約。
※われから→「自分から」「自分のせいで」という意の「我から」と、海藻に付着している「割殻虫(われからむし)」を掛ける。割殻虫は節足動物端脚目カプレラ科に属する。海藻に付着している四センチほどの虫。『古今集』恋・五・807・典侍藤原直子朝臣の歌「海人の刈る藻に住む虫の我からと ねをこそ泣かめ世をばうらみじ」<漁師の刈る海藻に住んでいる割殻虫の名前ではないが、すべては我から、自分のせいですよと声をあげて泣きはいたしましょうが、二人の間柄がこうなったことを今さら恨みはいたしませんよ>による。なお、この歌は、『伊勢物語』第六十五段にそのまま利用されている。
※『伊勢物語』→二条后(藤原高子)説。
  『古今集』→藤原直子朝臣説。