伊勢物語 12…第五十八段〜六十一段

第五十八段

 むかし、心つきて色ごのみなるをとこ、ながをかといふ所に、家つくりてをりけり。そこのとなりなりける宮ばらに、こともなき女どもの、ゐなかなりければ田からんとてこのをとこのあるを、見て、「いみじのすき物のしわざや」とて、あつまりて、いりきければ、このをとこ、げにて、おくにかくれにければ、女、
    あれにけりあはれいく世のなどなれや 
     すみけんひとのおとづれもせぬ 
                     (一〇三)
といひて、この宮に、あつまりきゐてありければ、このをとこ、
    むぐらおひてあれたるやどのうれたきは
     かりにもおにのすだくなりけり
                       (一〇四)
とてなむいだしたりける。
 この女ども、「ほひろはむ」といひければ、
    うちわびておちぼひろふときかませば 
     我も田づらにゆかましものを
                        (一〇五)

【通釈】

 昔、好奇心が強く、浮気な男がいたのである。その男は、長岡という所に家を作って住んでいたのである。そこの隣にいた、宮腹で、美しい女たちが、田舎であったので、田を刈ろうと思って、この男がいるのを見て、「すごいプレイボーイがなさる作業なのですね」と言って、集まって入って来たので、この男は、逃げて家の奥に隠れてしまったので、(この辺りが俳諧的。面白さを出そうとしている。)女が、
    あの方は逃げてしまったわ、この住まいも荒れてしまっているよ。まあ、どれだけ時代を経た古い住まいだからでしょうか。以前に住んでいたはずの人も、今はまったく訪ねてもいらっしゃらないことですよ。
と言って、この宮に集まって来て、坐り込んでいたので、この男は、
    葎が生い繁って荒れ果てているこの住まいが嫌な感じであるのは、一時的であるにせよ、鬼が群れ集まっているせいでありますよ。
と言って、この歌を奥から差し出したのである。
 
この女達が「穂を拾おう」と言って、男を誘おうとしたので、
    あなた方が落ちぶれて落穂を拾うとおっしやるのを事前に聞いていたならば、私もお手伝いをするために田の傍に行きましたのに……、まったく聞いていませんでしたので失礼いたしました。

※この段は俳諧の段である。特殊な段。
リアリズムとしてこの段を読んでは駄目。理想を求めるのではなく、わざとくだけている。
※和歌→連歌→俳諧の連歌
※連歌→平安後期から鎌倉時代は最盛期。座の文学(皆で集って坐って楽しい時間を過す)鎌倉、室町中期時代は社交の場。最盛期。
※俳諧の連歌→連歌を崩したもの。江戸時代の始め、西鶴など。

【語釈】

※心づはて色好みなる男→「心づきて」は、『源氏物語』椎本(しいがほん
)の巻の「客人(まらうど)たちは御娘たちの住まひ給ふらむ御ありさま思ひやりつつ、心づく人もあるべし」や、『後撰集』恋二・688番歌の詞書に「人の家より物見に出づる車を見て、心づきにおぼえ侍りければ、『誰(た)そ』と尋ね問ひければ、『出(い)でける家の主(あるじ)』と聞きてつかはしける」とあるように、「心づきて」は、「心が引かれる」「関心が持たれる」というような意と見てよさそうである。また「色好みなる男」の「色好み」を、この段の場合は「風流な」と言う意であって、「好色な」という意ではないと主張する人もあるが、第二十八段・第三十七段の「色好み」と同じく、心がすぐ他の人に移る浮気な人という意と解すべきであろう。以上のように見ると、「心つきて色好みなる男」は、「どんな女にも執心してしまう浮気男」「好奇心の強い色好みの男」の意となる。なお、真福寺本『遊仙窟』(中国の文学、日本にしか残っていない中国文学)文和二年点や観智院本『名義抄』に「開懐 ココロツキナリ」とあり、図書寮本『名義抄』に「開懐 ココロツキナリ」とあることから、「心つき」を「心を開いてうちとけること」「誰でも容易に打ち解ける人」とする説(竹岡全評釈)があるが、これに従えば、「ざっくばらんで、こだわることのない色好み」ということになる。
※長岡といふ所に家作りてをりけり→「長岡」は今の京都府長岡京市と向日市にまたがる地。桓武天皇が延暦三年(784)十一月に平城京から遷都したが、凶事が続いたので、十年後の延暦十三年(794)十月に平安京に再遷都した。なお、『続日本後紀』嘉祥元年七月二十九日条によれば、業平の母伊都内親王の邸が洛中にあったことを記録されているが、父桓武天皇ゆかりの長岡に別荘があった可能性はある。「をり」は「侍り」に近く、「控えている」「じっと坐っている」というような訳に適合することが多いが、ここは誰か高貴な人の傍に控えているのではないから、かしこまって住んでいるという感じに受け取ればよい。第六段の「あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・やなぐひをおひて、戸口にをり」と同じと見てよかろう。
※宮ばらに→「宮輩(みやばら)に」と解して「宮」の複数と解する説もあるが、「宮腹に」として「宮の腹に生まれた人で」と解すべきであろう。「宮腹の中将は。中に親しく馴れ聞こえ給ひて」(源氏物語・箒木)「九条殿の十一郎君、母、宮腹におはします」(大鏡・公秀)などの例がある。男の家も「この宮」と書かれているように、物語の主人公(在原業平)と同じく、女も内親王の娘だったと言っているのである。
「ばら」は複数の接頭語として使う場合がある。
※こともなき女ども→「問題のない女」「まあまあな女」と解釈する通説は誤り。『名義抄』では、「美」という字を「ヨシ」「ウルハシ」」ホム」「カホヨシ」とともに「コトモナシ」と読んでおり、『うつほ物語』嵯峨の院の巻に「今日、ここに物し給ふ人々の中に、こともなきむすめ、誰持給へる」と言って皇太子妃にふさわしい女性を選ぼうとしている場面に記される「こともなきむすめ」は「問題のない娘」「まあまあな娘」ではなく、「格段に美しい娘」であることは明らかである。
※田舎なりければ田刈らんとて→「とて」は「として」「と思って」の意。これを誰のこととするかについてニ通りが考えられる。一つは「田舎であるので田を刈ろうとして外に出ていた内親王腹で美しい女が、折しも隣家にこの男が来ているのを見て……」とする解、つまり「こともなき女が田を刈ろうとしていた」とする解であり、もう一つは「内親王腹で美しい女が、田舎であるので、田を刈ろうとしてそこにいたこの男を見て……」とする解である。続く「集まりて、入り来ければ」が女を主格にして述べていることを思えば、「女どもの」は「見て」に続くと見るのが、文の流れとして自然であり、「田舎なりければ田刈らんとてこの男のあるを」は、「見て」の客語の役割を果たしていると見るべきであろう。つまり「男が田を刈ろうとしている」と見る第二説を可としたいのである。
※いみじのすき者のしわざや→すごいプレイボーイの作業ですね。この段の男は一貫して「すき者」「色好み」として書かれているのである。
※あれにけり→「宿が荒れた」の意の「荒れにけり」と、「あれ逃げり」を掛けた表現である。人称代名詞としての「かれ」の例は、当時かならずしも多くないが、「誰そ彼と問へば答へむすべをなみ君が使ひを帰しつるかな」(萬葉集・巻十一・2545)や「異人(ことひと)よりはけうらなりと思しける人も、かれに思し合はすれば、人にもあらず」(竹取物語)のように、例がないわけではない。それに対して「あれ」はさらに少ないが、「あれは誰(た)そ」(枕草子・八段)などに見られる。また「逃げり」は、「てけり」が「てンげり」と発音されていたように、「にンげり」と発音されていたが、「ン」を表記しないために「にげり」と書かれるようになったのである。
※葎生(むぐらお)ひて→「葎」は「むぐら這ふいやしきやども」(萬葉集・巻十九・4270)や「貧しき家の蓬葎も〜」(源氏物語・松風)のように、荒れた住まいの形容として用いられた。男が自分の家だから謙遜して言ったのである。
※うれたきは→終止形の「うれたし」は「うらいたし」、つまり「心痛し」り約か。「嫌だ」「感心しない」という気持ちであろう。
※かりにも→かれそめにも。ずっとでなく一時的であるにせよ。
※鬼のすだく→「すだく」は、従来「集まる」意と解されているが、「水鳥のすだく水沼」(萬葉集・巻十九・4261)「幼き君たちなど、すだきあわて給ふ」(源氏物語・横笛巻)など、多くの例が「集まって、がやがや騒ぐ」場面に用いられている。だから「かしかまし野もせにすだく虫の音や」(うつほ物語・藤原の君の巻。伊勢物語異本追加章段N段にも重出)というような表現がなされるのである。なお、「鬼」と言っていることについて、「外面似菩薩、内心如羅刹」というような仏教的な言葉を引いて、女のことを言ったのだとする説(『闕疑抄(けつぎしょう)』)や、真名本(漢字ばかりで書いている本)に「醜女」と書かれていることを理由にこの女達を罵って言ったのだとする説(『古意(こい)…古い意味』)があるが、従えない。女たちに圧倒されている状態から回復すべく、女を突き放すような姿勢で「鬼」と言ったのである。
※うちわびて→「いささかつらい気持ちになって」というのが本義だか、「わぶ」の意から考えすれば、「生活が苦しくなって」「落ちぶれて」の意と解すべきであろう。「うち」は接頭語。意味を和らげる状態に使う。
※田づら→「海づら」(第七段)などから類推すれば、「田に面した所」「田圃のそば」の意。
※ゆかましものを→「まし」は事実にないことを仮想する場合に用いる。実際は聞かなかったし、行かなかったのである。

第五十九段

 むかし、をとこ、京をいかゞ思ひけん、「ひむがし山にすまむ」と思ひいりて、
    すみわびぬ今はかぎりと山ざとに
     身をかくすべきやどもとめてん
                       (一〇六)
 かくて、物いたくやみて、しにいりたりければ、おもてに水そゝきなどして、いきいでて、
    わがうへに露ぞおくなるあまの河
     とわたるふねのかいのかいのしづくか
                  (一〇七)
となむいひて、いきいでたりける。

※この段の前半は隠遁生活を望み、俗世間を嫌っている。雅な生活、自然と一体として生きていくことを描こうとしている。
後半部分を付け加えた。滑稽部分がある。
※業平は東下りをしていない。当時の官位を貰っている人は許可なく行く事はない。本当は東山に住んでフィクションで東下りを書いている。
「すみわびぬ今はかぎりと山ざとに 身をかくすべきやどもとめてん」業平の歌。−ここで終わってもよい。
「わがうへに露ぞおくなるあまの河 とわたるふねのかいのしづくか」古今集・よみ人しらずの歌をもってきて後の人が付け加えた。
※『伊勢物語』は@雅(みやび)→みやびの概念は雅(が)の世界。雅の反対は俗。俗の根源は打算。
           A風流(みやび)→みやびは自然と一体となって生活する=風流。みやびの文学。
 

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、都をどのよう思っていたのであろうか、東山に住もうとと思い詰めて、
    都に住むのがつらくなった。ここにいるのも今は終りだと思うので、山里に、隠遁することのできる住居を探そうと思うよ。
 このようにして隠遁したのであるが、ひどく病いづいて死んでしまったので、顔面に水をそそぐというようなことをした結果、生き返って、
    私の上に露が置いたようだよ。ひょっとしたら、これは露ではなくて、天の川を航行する舟の櫂の雫なのかしら。
と言って、甦生したのであった。

【語釈】

※ひむがし山→『倭名抄』に「東生(ひんがしなりー東成区の地名)」を「比牟我志奈里(ひむがしなり)」と読み、『名義抄』には「東(ひむがし)」とあるように、今言う「東(ひがし)」は、「ひむがし」が本来の形であったが、やがて「む」が「ん」になり、「ん」を表記しなくなって、発音もしなくなり、「ひがし」となった。『伊勢物語』の時代は当然「ひむがし」である。なお、当時は賀茂川と桂川の間が洛中であったので、賀茂川から東にある東山は洛外で、京ではなかった。
※思ひ入る→「限りなく思ひ入る日のともにのみ西の山べをながめやるかな」(後撰集・恋四・879)、「何心ありて海の底まで深う思ひ入るらむ」(源氏物語・若菜巻)のように、山中や海中に入ることと深く思いつめることを掛けた表現。
※かくて→このように隠遁生活をしているうちに。
※物いたくやみて→「物やみ」の動詞形「物病む」に「いたく」を加えた形である。「物やみ」は、第四十五段の「人のむすめのかしづく、いかでこの男に物言はむと思ひけり。うちいでむことかたくやありけむ、物やみになりて、死ぬべき時に」のように、恋患いのことと見てよい。「物思ひ」が「恋の苦しみ」の意に限られるのと同じである。「物」は漠然と言う時に使う。
※水そそき→「き」は『名義抄』などいーでは清音。「そそぐ」となったのは江戸時代になってからのことである。
※いき出でて→生き返って、第四十段参照。前にある「死に入りたりければ」の反対。「息出でて」ではない。
※露ぞ置くなる→「なる」は詠嘆の意を含んだ推定の助動詞「なり」の連体形。
※とわたる舟→「と」は本来「門」のこと。「水門を渡る」意だが、ここは、一般的に「川を渡る」意と見てよい。七夕の宴でよんだ歌を転用したのであろう。ちなみに、『萬葉集』巻十・2052の「この夕 降り来る雨は彦星のはや漕ぐ舟の櫂の散りかも」という歌もある。『萬葉集』巻十は民謡的、作者不明の歌を集めている。
※本間美術館にある前民部卿(定家の娘)が写したとされる『伊勢物語』によると125段にこの段が出ている。主人公が死ぬところ。

第六十段

 むかし、をとこ有りけり、宮づかへいそがしく、心もまめならざりけるほどのいへとうじ、「まめにおもはむ」といふ人につきて、人のくにへいにけり。このをとこ、宇佐の使にていきけるに、「あるくにのしぞうの官人のめにてなむある」ときゝて、「をんなあるじにかはらけとらせよ。さらずはのまじ」といひければ、かはらけとりて、いだしたりけるに、さかななりけるたちばなをとりて
    さ月まつ花たちばなのかをかげば
     むかしの人のそでのかぞする
                       (一〇八)
といひけるにぞ、思ひいでて、あまになりて、山にいりてぞありける。

※東下りに対抗して九州に行っている。別の作者が付け加えた。
※この段の特徴は男が傷つかない、完璧な人として描かれている。
※六十段〜六十二段は新しく加えられた段で女の生き方をテーマにしている。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男が公務が忙しく心も誠実でなかった頃に主婦であった人が、「私は、誠実に愛しましょう」と言ってくれた人に従って、他国へ行ったのである。
 この主人公の男が宇佐の勅使として出張したところ、「今いるこの国の接待をする役人の妻として、元の女が、ここにいる」と聞いて、「その女主人に杯を持たせて酌をさせよ。そうしなければ酒は飲むまい」と言ったので、女主人が酒器をとってさし出したところ、男は酒のさかなであった橘の実をとって、
    この実を見て思い出したが、五月を待って咲くあの橘の花の香をかぐと、昔なじみの人の袖の香がすることであるよ。
と言ったことによって、女も昔のことを思い出して、尼になって、山に入ってしまったのであった。

【語釈】

※宮つかへいそがしく→この物語は、物語のテーマである「愛」を阻害するものとして「宮仕へ」を書いている。第二十四段・第八十三段・第八十四段参照。
※家刀自→その家の中心をなす妻。主婦。
※まめにおもはむといふ人→「心もまめならざりける」男と違って、「自分は一途にあなたを思うよ」と言って来た第二の男につき従って。
※人の国→京都以外の国。他国。「人の国にても、なほかかることなんやまざりける」(第十段)、「かた時さらずあひ思ひけるを、人の国に行きけるを」(第四十六段)参照。
※宇佐の使→「宇佐」は宇佐神宮。大分県北部、周防灘に臨む宇佐市にある。二万五千を越える全国の八幡宮の総本社とされる。奈良時代の聖武天皇の神亀二年(725)の建立と言う。当初は広幡八幡大神(応神天皇の顕現)のみを祀ったが、次いで天平元年(729)にその后神として比売(ひめ)神社を合祀、さらに嵯峨天皇の弘仁十四年(823)息長帯姫命・おきながたらしひめのみこと(神功皇后)を勧請した大帯姫廟神社(おほたらしひめ)を加えて三座とした。奈良時代から朝廷の尊崇を得て、勅使による奉幣が行われていたが、即位など、国家の大事にあたっての奉幣が恒常的に行われるようになった。その勅使が、この「宇佐の使」である。
※祗承→「しぞう」という仮名書きがあるが、「ぞう」は「承(じょう)」の直音表記だから「しじょう」と読むべきであろう。「葛城王陸奥国に遣はさえし時に、国司の祗承の緩怠なる事、異に甚し」(萬葉集・巻十六・3807)は「祗承
のすることが緩怠だ」という意であるから、「祗承の官人」は「祗承する官人」の意であろう。
※かはらけ→素焼きの杯。酒を飲むのに使うことが多かったので、酒杯を交わすことを「かきらけ」というようになった。「御机参り、かはらけ始まり、御箸くだりぬ」(うつほ物語・嵯峨院の巻)の例がそれに該当する。
※いだしたりけるに→女は几帳の中にいて召使いを通じてつがせているから「出だしたりけるに」と言ったのである。

第六十一段

 昔、をとこ、つくしまでいきたりけるに、「これは、色このむといふすき物」と、すだれのうちなる人のいひけるを、きゝて、
    そめ河をわたらむ人のいかでかは
     色になるてふことのなからん
                       (一〇九)  
女、返し、
    名にしおはばあだにぞあるべきたはれじま
     浪のぬれぎぬきるといふなり
                       (一一〇)

※西下りもやった。読者も第二、第三の作者になっている。
 西に行ってプレイボーイを発揮していたことが描かれている。
※後撰集以降に作られた段。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男が筑紫まで行った時に、「この人は色好みという評判の風流人なのですよ」と簾の内にいる女性が言っているのを聞いて、
    こちらにお住まいになっていて、染川をお渡りになるであろうあなたの方が、どうして色めいた人にならないことがないのでしょうか。あなたこそ色好みのはずです。
女が返歌をする。
    名前のせいにするのであれば、当然浮気物であるはずの戯(たわ)れ島も、実は、波に着せられた濡衣(ぬれぎぬ)のせいであって、戯れ物ー浮気物ーではないということです。

【語釈】

※筑紫→今の福岡県を言う場合があるが、一般的であるが、ここは(平安時代は)九州全体を言う古い言い方。
※色好むといふすきもの→「色好む」は「色好み」の動詞形。第二十八段・第三十七段。第四十二段や第三十九段の例を見ると、「色好み」は、愛するのも速く、離れるのも速いというタイプ。「すき者」は第四十段の「すける物思ひ」のように、ひたすらに執着するタイプを言う。「といふなり」は、「と人が言っているようだ」という意。
伊勢物語では女性の方を色好みととらえている場合が多い。
※すだれの内なる人の言ひけるを→男が逗留した地方官人のもとにいる女たち私語であろう。「すだれの内なりける人」とあるので、少し身分のある女、おそらくは大宰大弐などの地方有力官人の縁者であろう。
※染川を渡らむ人→「染川」は福岡県太宰府市の大宰府天満宮と観世音寺の間を東西に流れていた川で、太宰府市から福岡市博多区に流れる御笠川(みかさがわ)の上流だと言うが、今はない。しかし、当時すでに歌枕になっていて、『後撰集』恋六・1046「筑紫なる思ひ染川渡りなば水やまさらむよどむ時なく」(藤原真忠)と1047「渡りてはあだになるてふ染川の心づくしになりもこそすれ」と贈答が見られる。さて、「染川を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ」という男の歌に戻って言えば、「物を染めるという名を持つ染川を渡っているであろう人が、どうして色めかしくならないでいられようか」と言っているのである。なお、「染川を渡らむ人」を主人公の男と解するのが通説であるが、自分のことを「人」と言った例はほとんどない。返歌との対応を考えれば、「この地に住んで、日常的に染川を渡っているであろうあなた」と解してみた。
※何しおはば→「もし、名前のせいにするのであれば」第九段の「名にしおはばいざ言問はむ都鳥…」の歌参照。
※たはれ島→「風流島」と書く。熊本県宇土市の西を流れる緑川の河口近くの有明海にある小さな島。「裸島」とも呼ばれている。『後撰集』雑一・1120の大江朝綱の歌「まめなれどあだ名は立ちぬたはれ島寄る白浪を濡衣に着て」を本歌にしてよんだものである。
※浪のぬれぎぬ着る→「浪の濡衣」と「無みの濡衣」を掛けて、事実無根の濡衣と意を表しているのである。「濡衣を着る」という表現が、「無実の罪を被る」という意で用いられるのは、『古今集』離別・402の「かきくらしことは降らなむ春雨に濡衣着せて君をとどめむ」に始まり、やや転じて「根拠のない噂」の意で用いられるのは、『後撰集(古今集から50年後)』雑三・1202に「無き名立ちける頃」という詞書を付して「世とともに我が濡衣となるものはわぶる涙の着するなりけり」など、『後撰集』時代にきわめて多くなる。『伊勢物語』のこの章段も、『後撰集』から少し後になって作られたと見てよさそうである。
※ぬれぎぬ→涙、濡れるものからきている。