伊勢物語14…六十六段〜第六十八段

                        第六十六段

 むかし、をとこ、つのくにに、しる所ありけるに、あに、おとと、友だちかきゐて、なにはの方にいきけり。なぎさを見れば、ふねどものあるを見て、
   なにはつをけさこそみつのうらごとに
    これやこの世をうみわたるふね                                  (一二二)

これをあはれがりて、人々かへりにけり。

                         【通釈】
昔、男がいたのである。その男は、摂津の国に、知っている所があったので、兄、弟、友達をひきつれて、難波の方へ行ったのである。渚を見ると、船が多く停泊しているのを見て、
   難波津を今朝はじめて見た。この御津の浦のあちらこちらに、多くの船が見えるが、これこそまさに、海を渡る船、倦き思いで世を渡っている私と同じように、この世をこの歌をしみじみ味わって、一行は帰ったのであった。

                     【語釈】
※つのくにに、しる所ありけるに→「つ」は漢字では「摂津」と書く(「き」は「紀伊」)。東は大阪府の淀川西岸からと西は兵庫県の須磨、北は兵庫県の有馬・三田に及ぶ範囲。『伊勢物語』では、第八十七段に「津の国、菟原のこほり、芦屋の里に、しるよしして、行きて住みけり」とあった。
※しるよしして→領地を持っていた関係で知っていた所と訳してもよい。
※しる所→統治している所。
※あに・おとゝ・ともだちひきゐて→第八十七段にも記されているように、この男の「芦屋の」別荘に来ていた「兄・弟・友達」が一緒に「難波の方」へ足をのばしたのであろう。「難波」は今の大阪市。
※なにはつをけさこそみつのうらごとに→「津」は「港」のこと。「今朝こそみつの浦」は「今朝難波津を見た」(「つ」は完了の助動詞で「ぬ」よりも強意。「はっきりと見たぞ」という気持ち)と「御津の浦」を掛ける。「御津」は政府公認の港。
※大きな港→大津
※これやこの→「これが、まあ〜なのだなあ」という意の慣用句。「これやこのゆくも帰るも別れつつ(別れては)知るも知らぬも逢坂の関」(後撰集・雑一・一〇八九・蝉丸)と同じ。
※よをうみわたるふね→難波の港で「海渡る」大きな船を初めて見た感激と「世を倦みわたる」(「人生をしっくりしないままに生き続ける」という意)を掛ける。「わたる」は時間の継続を表わす接尾動詞。
※これをあはれがりて→この歌に心を動かされて。この歌をしみじみと味わって。
※人々かへりにけり都へ帰ったと見ることもできないわけでないが、第八十七段で述べられているように、芦屋の里から人々とともに難波へやって来たと見れば、芦屋に帰ったとも見られる。
※この段は八十七段が出来てから新しく加えられた。
※この段のキーワード→「憂し」という形容詞。「いやになる」と訳すとピッタリ。平安時代によく使われていた言葉。
※第六十六段と第六十七段と第六十八段はセットになっている。
 宮仕えで押さえられた気持ちを晴らしたいという気持ちを書いている。

                         第六十七段
 むかし、をとこ、せうえうしに、思ふどちかいつらねて、いづみのくにへ、きさらぎばかりにいきけり。河内のくに、いこまの山を見れば、くもりみ、はれみ、たちゐるくもやまず。あしたよりくもりて、ひるはれたり。ゆきいとしろう木のすゑにふりたり。それを見て、かのゆく人のなかに、ただひとりよみける。
    きのふけふくものたちまひかくろふは
      花のはやしをうしとなりけり    
                                  (一二三)

                      【通釈】
 昔、男がいたのである。その男は、逍遥をするために、思いが通じる者同士が連れだって、和泉の国へ、二月頃に行ったのである。河内の国にある生駒山を見ると、曇ったり晴れたりして、動いたり停まったりする雲の動きが止まない。朝から曇って、昼になって晴れた。やっと見えるようになったわけだが、雪がたいそう白く梢に降りかかっている。それを見て、前述した道ゆく人の中で、ただ一人が詠んだ歌、
    昨日から今日にかけて、雲が立ち舞って、山が隠れ続けているのは、花の林を見せるのが嫌だと思ってのことだったのだなあ。

                      【語釈】 
※せうえうしに→『荘子』の「逍遥遊」で知られる語であるが、『詩経』の「鄭風」や、『楚辭』の「離騒」に見られる例では、自然と合一すべく、山野をぶらぶらと歩くこと。俗世を逃れて、野外に出て自然に心を遊ばせること。「宮仕へをば苦しきことにして、ただ逍遥をばして(平中物語・第一段)のように、当時の物語によく用いられた。
※平中物語→写本は一つしか残っていない。青嘉堂文庫(三菱・岩崎家) 伊勢物語の後に出来た物語。伊勢物語を意識して書いた歌物語。くどい書き方。主人公も色好み男、いつも、振られてドジをして、泣いている物語。
※おもふどち→「どち」は「同士」。意見が同じ人同士。
※かいつらねて→「かきつらねて」の音便。
※いづみのくに→摂津の南の海岸沿いの地。今の大阪府堺市以南、和歌山県に接する所まで。
※かうちの国→大阪府の淀川東岸の地で、和泉国の内陸部につながる。この場合は河内の国へ入ったわけではなかろう。和泉の国へ向かうべく津の国の難波を南下している時に、東に河内の生駒山を見たのである。現在でも、大阪市内から生駒山は一望できる。
※くもりみはれみ→「〜み〜み」は、「神な月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬の初めなりける」(後撰集・冬・四四五)と同じく、「〜したり〜しなかったり」の意。
※たちゐるくもやまず→「たつ」は「動き始める」という意。雲が湧いて空に浮かぶことである。また「ゐる」は、山などに「落ち着く」ことである。「天雲のよそにのみしてふることは我ゐる山の風はやみなり」(第十九段)
※木のすゑ→木の梢。
※昨日今日雲の立ち舞ひかくろふは→昨日から今日にかけて、雲が立って舞い、その結果として、この梢に多く残っている雪によって山が隠れ続けていて我々の目に触れなかったのは、
※花のはやしをうしとなりけり→この雪が梢に積もって花のようになって美しい光景を他人に見せるのを嫌がってのことなのであろう。「うし」は、「嫌がる」「気が進まない」という意。
※花→雪を花と見ている。春を待つ心、花を待つ心が非常に強い。

                          第六十八段
 昔、をとこ、いづみのくにへいきけり。すみよしのこほり、すみよしのさと。すみ吉のはまをゆくに、いとおもしろければ、おりゐつゝゆく。ある人、「すみよしのはまとよめ」といふ。
    雁なきて菊の花さく秋はあれど
       春のうみべにすみよしのはま                                 (一二四)
とよめりければ、みな人々よまずなりけり。

                            【通釈】
 
昔、男がいたのである。その男は、和泉の国へ行ったのである。その途中、住吉の郡、住吉の里、住吉の浜を行く時に、たいそう趣き深かったので、馬から下りて時々腰をおろしたりしながら行く。ある人が「『住吉の浜』という題で歌を詠め」と言う。
   雁が鳴いて菊の花が咲くというようなすばらしい秋は他所にもあるが、私の「憂」を慰めてくれる住みよい「春の海辺」は、唯一このこの住吉の浜であるよ。
と詠んだので、一行の人々は、この歌に感じ入って、自分たちの歌を詠まなくなってしまったのである。

                            【語釈】
※住吉のこほり、住吉の里、住吉の浜→『類聚倭名抄』巻五に、摂津の国として、住吉(すみよし)、百済(くだら)、東生(ひむがしなり)、西生(にしなり)、島上(しまのかみ)、島下(しまのしも)、豊島(てしま)、河邊(かはのべ)、武庫(むこ)、兎原(うばら)、八部(やたべ)、有馬(ありま)、能勢(のせ)の十三の郡をあるように、住吉は摂津の国である。だから、「昔、男、和泉の国へ行きけりに、…」と書き出していても、最終到達地として、「和泉の国」と書いているのであって、「住吉のこほり、住吉の里、住吉の浜」が和泉ではない。
※島上→島本町。豊島→豊中(豊島郡の真ん中だから豊中)兎原→芦屋・東灘。
※おりゐつつゆく→馬から下りて時々腰をおろすことを繰り返しながら行く。
※かりなきて菊のはなさく秋はあれど→「〜はあれど」は、「みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも」(古今集・雑躰・一〇八八)の「みちのくはいづくはあれど」が、「陸奥の素晴らしさはあちらこちらにあるが、〜」の意。
※春のうみべにすみよしのはま→「春のうみべ」は「春の海辺」に「春の憂みべ」を響かせ、私の「春の憂き状態」を癒してくれる「海辺」は、この住みよい住吉の浜しかないと言っているのである。