伊勢物語15…第六十九段


                          第六十九段 

(一)伊勢斎宮密通譚は事実か?
*藤原行成の日記『権記』の寛弘八年(1011)五月二十七日条
   但シ、故皇后宮(定子皇后)ノ外戚高(階)氏之先ハ、斎宮ノ事ニ依ッテ、其後胤為ル者ハ、皆以ツテ不和也云々>(行成が藤原道長に言った。)
 権記→権大納言記の略。漢文で書いてある。
 道長は皇后と中宮を別にした。
*『江家次第』巻第十四
   中将(業平)斎宮と密通し、師尚真人(もろなおまおと)ヲ生マシム。仍ツテ高(階)家、今ニテモ、伊勢ニ参ラズ。
 江家次第→大江家に伝わった有職故実の書。大江匡房著。
 伊勢斎宮→天皇に近い未婚の女性を1年間野々宮神社で身を清めてから伊勢神宮に派遣して神の守りをする。
天皇が変わる度に派遣する。若い天皇の場合は子供がいないので妹を派遣する。

(ニ)『伊勢物語』という題名の因と『伊勢物語』の形態
顕昭(1130~1209頃・学問的な人、歌学氏書を残している。)『古今集注』
*伊勢物語ノ中ニハ、事ノ外ニ歌ノ次第(順番)モカハリ、広略ハベル中ニ、普通本(あまねく通用している本)トオボシキニハ「左近ノムマバノヒヲリノ日(九十九段)」トカキテ「中将ナリケルヲトコ」トカケリ。普通ニタガヒタル本ニハ「右近ノ馬場ノテツガヒノヒ」トカキテ「中将ナリケル人」トカケリ。(伊勢物語の中には色々あって本文の中が違っている。)
*又、コノ斎宮ノコトヲムネ(重要事項)トカクユヱニ『伊勢物語』トナズクルトハ、大外記師安(阿部もろやす)ガ顕輔郷ノ許ニ来テ申侍シ、此定也。其『伊勢物語』一本モテ来テ侍キ。小式部内侍(和泉式部の娘)ガ書写也。普通ノ本ニハ、「春日野ノ若紫ノ摺衣」トイフ哥ヲコソ、ハジメニカキテハベルニ、此ハ証本ニテ、此「君ヤコシ我ヤユキケム」ノ哥ヲハジメニカケル、『伊勢物語』トナズクルユヱト申侍シ。
☆狩使本(かりのつかひほん)と初冠本(ういかうぶりほん)〔定家本はじめ現存本のすべて〕
小式部内侍本と朱雀院塗籠本いう呼称もある。
※狩使本→六十九段から始まっている本。小式部内侍本とも言われている。
※初冠本→一段から始まっている本。完全な形で現在残っている本。朱雀院塗籠本。
※塗籠本→三方を壁で塗った物置に入っていた本。
※伊勢物語は六十九段で名前がついた事は否定出来ない。

                          【余説】虚か実か
※事実とする説
(一)『権記』(藤原行成)寛弘八年(1011)五月二十七日条
 ところで、権大納言藤原行成(972~1027)の日記である『権記』の寛弘八年(1011)五月二十七日の条には、立太子に関して、定子皇后腹第一皇子敦康親王を立てるべきか、彰子中宮腹の第ニ皇子敦成親王を立てるべきかについて一条天皇から意見を求められた行成が「高氏ノ先ハ、斎宮ノ事ニ依り、其の後胤為る者ハ、皆以テ和セザル也」と答えたと書かれている。定子皇后の母である高内侍が高階氏であることを前提に、この一族にかかわる者が帝位につくのは先祖の高階師尚が業平と斎宮との密通によって生れた人であるゆえに適当ではない、伊勢の大神宮とうまくゆかなくなるだろうと答えているのである。彰子中宮の父である最高権力者藤原道長の意を向えての発言であることは確かだが、業平が没して百年余り後に、既にこのような伝承が出来上がっていたことに驚くのである。
(片桐洋一『日本の作家 在原業平 小野小町』)

※虚構とする説
(一)第六十九段は事実ではない
 (理由1)狩の使いが清和朝(858~876)には行われた記録はない。
狩の使 
狩の使は勅命を受けて諸国に使いし、その土地の野禽を狩りして宮中に捧げる行事であった。その性質から考えて、所を変えて毎年行われていたと見てよいものだが、正史に見えるこれに関する記録はきわめて少なく、かつ「狩の使」などという呼称を用いてもいない。今、わずかに見える『三代実録』の元慶八年十二月二日、仁和元年三月七日、仁和二年二月十六日などの条によって見るに、十二月から二月、三月に行われ、従五位から従四位程度の身分の人を長として、鷹や犬を伴って下向している。その対象になった土地は、播磨、美作、遠江、備中などである。これらの記録はいずれも陽成天皇・光孝天皇の時のことであり、『三代実録』に慈悲深くて鷹狩りなどもしなかったと書かれたほどの清和天皇であってみれば、その御代には狩の使がなかったのではないかと言っている契沖の説(『勢語臆断』)は注目すべきである。この段の事件を歴史的事実と見るか否かについてのまず第一の手がかりになると思うのである。
(片桐洋一 『鑑賞日本古典文学 伊勢物語 大和物語』)

 (理由2)斎宮の歌「君やこしわれやゆきけん」も、在原業平の歌の特色である①対句と②倒置的表現をとっている(片桐洋一『鑑賞日本古典文学第5巻 伊勢物語・大和物語』参照)。

『古今集』で業平真作と考えられる歌をみよう。
おきもせず寝もせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ(二段)
「おきもせずー寝もせで」と対立関係にある句が対になっている。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして(四段)
「月やあらぬ」は「月や昔の月にあらぬ」の略。だから「春や昔の春ならぬ」と対になっている。
植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや(五一段)
下句の「花こそ散らめ」と「根さへ枯れめや」がそのまま対になっている。
見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめくらさむ(九九段)
「見ずもあらずー見もせぬ人」と対句仕立てになっている。
かずかずに思ひ思はずとひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(一〇七段)
「思ひー思はず」と対になっているが、これまで入れると第九段の「わが思ふ人はありやなしやと」まで入れたくなる。

次に、もう一度斎宮の歌にもどってその特徴を見よう。「君や来し」-係助詞「や」の結びは「来し」の「し」であって連体形で結ばれている。「我や行きけむ」の「けむ」も同じく連体形で「や」の結びである。ここで、一応切れているのである。だから「あなたがいらしたのか私が行ったのかわかりません」と「おもほえず」に続けてしまうのはよろしくない。本居宣長の『古今集遠鏡』の解のように、「おもほえず」は、「夢かうつつか」「寝てかさめてか」→「おもほえず」という形において見るべきであろう。いわゆる倒置法なのである。ところで、このような倒置法も業平真作歌に多いのである。
名にしおはばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(九段)
「ありやなしやと」→「こととはむ」と続くのである。
濡れつつぞしひて折つる年の内に春はいくかもあらじと思へば(八〇段)
「春はいくかもあらじと思へば」→「しひて折りつる」と意味は続くのである
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは(八三段)
「雪ふみわけて君を見むとは」→「思ひきや」……(思はざりけり)と意味的には続いているのである。
世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため(八四段)
「千代もといのる人の子のため」→「さらぬ別れのなくもがな」と、これも続くのである。
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは(一〇六段)
「竜田川」が「からくれなゐに水くくるとは」→「ちはやぶる神代も聞かず」と続くわけである。
このように、いわゆる倒置法を頻用するのも、対句をしばしば用いることとともに、業平真作歌のまことに顕著な特徴なのである。
殊と言える。だからといって対句と倒置法を用いたこの歌が斎宮の作ではなく業平自身の作だと断定することはもちろんできない。しかしその可能性はあると私は思う。再び、元にもどるが、「君や来し我やゆきけむ」と切りだすオクターブの高さ、そしてその発想と表現が当時の女流の歌とはあまりにもかけはなれている、まして、初めて、しかも禁忌をおかして男を知った翌朝の女の歌とはどうしても思えない。また、返しの業平の歌を含めて、物語の場にあまりにもピッタリしすぎているという印象をぬぐい去ることが私にはどうしてもできないのである。

 (理由3)この段に唐代の伝奇(伝わってきた奇妙な話・現実にはありえない話)『鶯鶯伝』(えいえいでん『會真記』ともいう)の影響がある。※新釈漢文大系・唐代伝記(明治書院)参照。
  この第六十九段に、唐の元稹(げんしん)の『会真記(鶯々伝)』の影響があると論ぜられたのは目加田さくを氏である。(『物語作家圏の研究』)

 唐の貞元年中に張生という者があった。性は温茂(おんも)にして丰容(すがた)美しく操志もしっかりしている。友達すべてが騒いでいるような時でも悠々と一人落ち着いている。年は二十三だが、いまだに女を知らない。まさしく「まめ男」である。しかし世人に対しては、自分は実は色を好むのだが、未だ自分に値する色がないのだなどと言っている。我こそまことの色好みという自負も『伊勢物語』の主人公的である。(第二段…「まめ男」と業平が言っているのと同じ)
 さて、この張生は、ある時、蒲の近くの普救寺という寺に遊びに来ていた。たまたま崔氏の孀婦(やもめ)が長安への帰途、その寺に泊まっていた。折しもこの地方に騒乱があり崔氏の財産もねらわれたが、張生はこの地方の将と親しかったのでその騒乱を収めさせ、崔氏の財産と生命を守った。崔氏の孀婦は大いに感謝し、息と女にも謝辞を述べさせたが、母が娘を紹介するのも『勢語』第六十九段に似ている。その女(むすめ)の美しさに張生は完全に魅せられてしまった。
 その後、張生は崔氏に仕える紅娘(こうじょう)という召使を買収し、何とかその娘鶯々にみずからの思いを伝え、近づこうとした。あるときはこっそりと忍んで行ったりしたが、かえって説論されて空しく帰って来た。 
 望みは絶えたかと、半ばあきらめていたある夜、張生は軒に臨んで独りで寝ていた。「男…外の方を見出してふせるに」というのと同じである。すると、何と、夜着と枕をたずさえた召使紅娘を先に立てて、あの鶯々が立っている。「小さき童を先に立てり」というのと同じである。この夜は二月十八日である。斜月晶熒ニシテ幽輝半床……「月のおぼろなるに…」と同じである。しばらくして寺の鐘が鳴り朝の近いことを告げる。紅娘にうながされ鶯々は去ってゆく。終夕一言ナシ…「まだ何事も語らはぬに、かへりにけり」と同じである。張生は自ヲ疑ヒテ曰く、「豈其夢耶」ト……「夢かうつつか寝てかさめてか」というのと同じである。
目加田氏のほか、上野理氏もこの両者(鶯鶯伝、伊勢物語)の類似について論じていられるが(『国文学研究』第四一号、<昭四四・一二>所蔵「伊勢物語狩の使考」)、両者の類似は、特に女のほうから男のもとに会いに来る場面において著しい。換骨奪胎、みずからものにしたのであろう。しかし、私はかの『会真記』よりこの『伊勢物語』のほうが文学としても数段優れていると思う。(片桐洋一 『鑑賞日本古典文学 伊勢物語 大和物語』)

 (理由4)罪をとがめられずに、恬子内親王は斎宮を全うしている。

                           ー 本文ー

 むかし、をとこ有りけり。そのおとこ、伊勢のくにに、かりの使いにいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人のおや、「つねのつかひよりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、おやのことなりければ、いとねんごろにいたはりけり。あしたにはかりにいだしてたててやりゆふさりはかへりつゝ、そこにこさせけり。かくて、ねんごろにいたつきけり。二日といふ夜、をとこ、われて「あはむ」といふ。女も、はた、「いとあはじ」ともおもへらず。されど、人めしげければ、えあはず。つかひざねとある人なれば、とほくもやどさず。女のねやちかくありければ、女、ひとをしづめて、ねひとつばかりに、をとこのもとにきたりけり。をとこはたねられざりければ、とのかたを見いだしてふせるに、月のおぼろなるに、ちひさきわらはをさきにたてて人たてり。をとこ、いとうれしくて、わがぬる所にゐていりて、ねひとつよりうしみつまであるに、まだ、なにごともかたらはぬにかへりにけり。をとこ、いとかなしくてねずなりにけり。つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと、心もとなくてまちをれば、あけはなれてしばしあるに、女のもとより、ことばはなくて、
    きみやこし我やゆきけむおもほえず
       夢かうつゝかねてかさめてか                              (一二五)

をとこ、いといたうなきてよめる。
    かきくらす心のやみにまどひにき
        ゆめうつゝとはこよひさだめよ                             (一二六)     

とよみてやりて、かりにいでぬ。野にありけど、心はそらにて、「こよひだに、人しづめて、いととくあはむ」と思ふに、くにのかみ、いつきの宮のかみかけたる、かりのつかひありときゝて、夜ひとよ、さけのみしければ、もはらあひごともえせで、あけば、をはりのくにへたちなむとすれば、をとこも、人しれず、ちのなみだをながせど、えあはず。夜、やうやうあけなむとするほどに、女がたよりいだすさかづきのさらに、歌をかきていだしたり。とりて、みれば、
    かち人のわたれどぬれぬえにしあれば                             (一二七A)
とかきて、すゑはなし。そのさかづきのさらに、ついまつのすみして、うたのすゑをかきつく。
    又あふさかのせきはこえなん                                    (一二七B) 
とて、あくれば、をはりのくにへこえにけり。
 斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、これたかのみこのいもうと。

                             【通釈】
 昔、男がいたのである。その男が伊勢の国に狩の使に行った時に、あの伊勢の斎宮であった人の母親が「いつもの使者よりも、この人を特によく世話せよ」と言い送ってあったので、親のことばであったので、たいそう手厚くもてなしたのである。朝には世話をして狩に送り出し、夕方には何度もそこに帰って来ると、斎宮に来させたのであった。このようにして、心をこめて世話をさせたのである。
 二日目という夜に、男は、たまらなくなって、「遭おう」と言う。女の方もまた、まったく逢いたくないと思っているわけではない。 
 しかし、人目が多いので、逢うことができない。男は、使者の代表者として来ている人であるので、建物のはずれには泊めない。女の寝所に近い所に宿る所があったので、女は他の人が静かになってから、子の一刻ぐらいの時に、男のもとにやって来たのであった。男、やはり、寝られないので、外の方を見出して臥せっていると、おぼろ月のもと、小さい童女を先に立てて、人が立っている。男は、たいそう嬉しくなって、自分の寝所に連れて入って、子の一亥から丑の三刻まで三時間半以上もいっしょにいたが、まだいかほども語り合わっていないのに、女は帰ってしまった。男はたいそう悲しく思って、そのまま朝まで、寝ないで終わってしまった。
 翌早朝、落ち着かず気がかりな気持ちであったが、こちらの使者を派遣することができる状態ではなかったので、もどかしい思いで待っていると、すっかり夜が明けて少し経った頃に、女のもとから便りがあった。手紙の文章はなくて、ただ歌だけ。
    あなたがおいでになったのでしょうか。私のほうから出かけましたのでしょうか。昨夜のことは、夢だったのでしょうか、現実(うつつ)だったのでしょうか、寝ていてのことだったのでしようか、醒めていてのことだったのでしょうか、はっきりいたしません。
男は、ひどく泣いて返歌をよんだ。
    お別れした悲しみで真っ暗になった心の闇の中で私はとまどっておりました。お逢いしたのは、夢であったのか、現実(うつつ)であったのか、今晩おいでくださることによってはっきりさせてください。
とよんで、その歌を届けて、そのまま狩に出た。
野を狩して廻るのだが、心はうつろで、「せめて今夜だけでも、仕えている人が寝るのを待って、少しでも早く逢いたい」と思っているのに、伊勢の国守で、斎宮寮(さいくうつかさ)の長官を兼任している人が、狩の使がここにいると聞いて、一晩中、酒宴を催したので、まったく女に逢うこともできないで、夜が明けたら、尾張の国へ出発してしまおうとするので、女はもとより、男の方も、こっそりと血の涙を流すのだが、逢うことができない。
 夜が次第に明けようとするころに、女のいる方から差し出した盃の皿に歌を書いて出したのである。それを取って見ると、
    徒歩の人が渡っても濡れないほどの浅い江ならぬ、浅い縁でありましたので……このままお別れですね。、
と書いてあって、末の句は書かれていない。その続松の炭を用いて、歌の末句を続けて書く。
    また逢うという名を持つ相坂の関を越えて逢いにまいりましょう。
と書いて、夜が明けたので、尾張の国へ越えて行ったのである。
 この斎宮は、水の尾のみかどの御時の斎宮で、文徳天皇の御娘、惟喬親王の妹である。
※「むかし、をとこ有りけり。そのおとこ…」で始まる段は二段と六十九段のみ。
※この段が基本になって伊勢物語が出来ている。
                             【語釈】
※狩の使→勅命を受けて、諸国に使いし、その土地の野禽を狩って、宮中に捧げる行事。その性質から考えて、所を変えて毎年行われていた可能性が高いが、正史に見えるこれに関する記録はきわめて少なく、また「狩の使」という呼称を用いてもいない。今、わずかに見える『三代実録(当時の正式の歴史書)』の元慶八年(879)十二月二日、仁和元年(885)三月七日、仁和二年(886)二月十六日の記事を見ると、十二月から二月、三月に行われ、従五位から従四位程度の人を長として、鷹や犬を伴って下向している。その対象となった地は、播磨・美作・遠江・備中である。これらの記録は、いずれも陽成天皇・光孝天皇の時のことであり、『三代実録』に、仏教に深く帰依し、慈悲深くて、鷹狩りなどもしなかったと書かれたほどの清和天皇の時代に狩の使はなかったのではないかという契冲の説(『勢語臆断』)は注目すべきであろう。後述するように、この段は事実ではなく、虚構であるとする根拠の一つであると言えよう。なお『類聚三代格』十二所収の延喜五年(905)の太政官符の事書には、「民之疾苦、只狩使ニ在」るゆえに、「応ニ諸院・宮家ノ狩使ヲ禁ズベキ事」とあって、延喜の初め頃までは、天皇家だけではなく、院や宮家でも狩使が行われていたことが知られる。
※かの伊勢の斎宮なりける人の親→貞観元年(859)に斎宮にト定され同三年(861)に伊勢の斎宮に入り、同じく貞観十八年(876)清和天皇の譲位にともなって退下した清和天皇の皇女恬子内親王のこと。「斎宮なりける人の親」は、紀有常の姉妹で、惟喬親王の母でもある紀静子(三条の町)のこと。
※ねむごろにいたつきけり→「いたつく」は、『垂仁紀』五年に「苦労する」の意で「労」の字を「イタツク」と読む。
※われてあはむ→「無理に」「強いて」と訳している注釈が多いが、『万葉集』巻十一・二七一六の「高山ゆ 出で来る水の 岩に触れ われてそおもふ(破衣念)妹に逢はぬ夜は」、<近年は「くだけてそ思ふ」と読むものが多い>や、『古今集』俳諧歌・一〇五九「よひのまに出でて入りぬる三日月のわれて物思ふ頃にもあるかな」のように「心が砕けて」「心が千々に乱れて」の意。
※使ひざねとある人なれば→「使ひざね」は「使ひ」の中の中心人物。第百一段の「まらうどざね」参照。
※子一つばかりに→「子の刻」は午後十一時から午前一時までの二時間。それを四分割した第一部分、すなわち午後十一時から十一時半までの半時間が「子一つ」。
※子一つより丑三つまであるに→午後十一時から十一時半までの半時間から午前二時の前後二時間の第三部分である午前二時から二時半までの間までの三時間半の間。
※まだ何事も語らはぬに→実事の有無について両説あるが、『古今集』の配列から見て「逢うのはあったが満足できなかった」の意。
※いとかなしくて→「かなし」は「悲」た゜けではなく胸が一杯になること。
※酒のみしければ→『日本書紀』宮内庁書陵部本は、允恭天皇五年七月の「酒宴」を「サケノミス」と読む。
※もはらあひごともえせで→「もはら」は現代語の「もっぱら」だが、意味は、「まったく~ない」の意。
※女方→女性が独立して住んでいる所。「女方許されたりければ」(第六十五段)「女方より、そのみるを高杯に盛りて」(第八十七段)。
※さかづきの皿→盃を置く皿か。
※えにしあれば→縁があるので。「縁」の「ん」を省略。「江」の意を掛けて「渡る」に続ける。「に」は断定の助動詞「なり」の連用形。「し」は強意の助詞。
※おもほえず→第二句の「我やゆきけむ」は「や…(連体形)」という形で終止しているので、「おもほえず」は、、倒置して第四句・第五句を受ける形になっている。「夢かうつつか、寝てか醒めてか、わからない」という形になっているのである。
※かきくらす心のやみまどひにき→「かきくらす」は目の前が真っ暗になること。「心のやみ」は、心が真っ暗になっている状態。
※君や来し我やゆきけむおもほえず→「おもほえず」は、「思うことができない」「はっきりしない」の意。
※夢うつゝとはこよひさだめよ→昨夜から明け方にかけての逢瀬が、夢でのことであったのか、現実のことであったのか、今夜もういちど逢って確認したいと言っているのである。なお、底本に「一説、よひと」とあるのをそのまま生かすと、「私はわからない、世間の人が判断してください」ということになる。
※国の守、斎宮の頭かけたる→角田文衛氏(『紫式部とその時代』および『二条の后藤原高子』など参照)は、①業平が狩の使を命じられたのは、無官の時であるはずがないから、左兵衛権佐になった貞観五年(863)二月十日以降のことであり、②斎宮なりける人の親を恬子内親王の母紀静子が没する貞観八年(866)二月以前であるとして、貞観五年二月から貞観八年二月の間に、伊勢守で斎宮寮頭を兼任したのは、伊勢権守兼斎宮権頭従五位上藤原朝臣宜以外になく、藤原宜が斎宮権頭を兼任したのは、貞観七年五月十六日であるから、この段にかたられている業平の狩の使、すなわち斎宮との密通は、貞観七年十月中旬の満月のことであると推定しておられる。(事実であるとの大前提で書かれている。小数意見。)
※かち人のわたれど濡れぬえにしあれば→「え」は「えん(縁)の「ん」を無表記にしたものが一般化した。「江」と掛けて「かち(徒歩)人の渡れど濡れぬ」と続けた。「に」は断定の助動詞「なり」の連用形。「し」は強意の間投助詞。「し」は強意の副助詞。これによって、後世「えにし」という形の語ができた。
※ついまつのすみ→『黒川本色葉字類抄』に「続松 ツキマツ、又タイマツ、又ツイマツ」とあるので「たいまつ」と同じと見てよい。たいまつが消し炭(カラケシ)になったものを使って書いたのである。「ついまつ」は、「継ぎ松」のイ音便形。
※またあふさかの関は越えなん→地名の「逢坂」に「また逢ふ」意を含む。
※水の尾の御時→のちに嵯峨の水尾の御陵に葬られた清和天皇。