伊勢物語16第七十段〜第七十四段

第七十段

 むかし、をとこ、狩の使いよりかへりきけるに、おほよどのわたりにやどりて、いつきの宮のわらはべに、いひかけける。
   見るめかる方やいづこぞさをさして
     我にをしへよあまのつり舟    
                                      (一二八)


【通釈】

昔、男がいた。その男が狩の使いを終えて斎宮の近くに帰って来た時に、大淀の渡し場に宿泊して、そこから斎宮寮の童べに言葉をかけたのである。
   海松布(みるめ)を刈る潟はどこなのか、斎宮にお目にかかれる所はどこなのか、棹をもって指し示して私に教えておくれ。あまの釣舟ならぬ童よ。

※この段は第六十九段の後日譚として書いている。
 狩の使を終えて帰っていく過程を付け加えている。
 狩ー閑

【語釈】

※狩の使いより帰り来れるに→前後の後日譚。伊勢の国に続いて尾張の国をも巡察して、最後は京へ帰ったので、帰路という意で、「帰り来けるに」と言ったのである。
※大淀のわたり→前段の末尾に「明くれば尾張の国へ越えにけり」とあるように、大淀から伊勢湾を舟で渡って尾張の国へ行ったが、そこでも狩の使いの任を果たして再び伊勢の国の「大淀」に渡りついたのであろう。「大淀」は伊勢国多気郡(たけぐん)の斎宮寮の東北の海岸にある。「わたり」は「あたり」ではなく、「渡し場」の意。
※斎の宮の童べに言ひかけける→「童べ」は、第六十九段の「ちひさきわらはを先に立てて人たてり」とある「女の童」のこととするのが通説であるが、「女の童」は、斎宮に仕える、未成年の女房であって、渡し場まで迎えに来ているとは思えない。ここは、狩の使を大淀の渡し場まで迎えに来た男の童で、下僕と言ってよい小者であろう。「わらはべの踏み開けたる築泥(ついひぢ)の崩れよりかよひけり」(第五段)参照。
※みるめかるかた→「かた」は「方」ではなく、「潟」。「みるめ刈る」は海藻の「海松(みる)の布(め)」と「女を見る機会」の意の「見る目」を掛けている。斎宮をもう一度見る機会を持ちたいのだが、会える場所はどこか教えてほしいと言っているのである。
※見る→関係が出来る第一歩。
※棹さして→「棹さす」は「舟」の縁語。「指し示す」という意の「指す」を掛ける。

第七十一段

 昔、をとこ、伊勢の斎宮に、内の御つかひにて、まゐれりければ、かの宮に、すきごといひける女、わたくしごとにて、
   ちはやぶる神のいがきもこえぬべし
     大宮人の見まくほしさに       
                                     (一二九)
をとこ、
   こひしくはきても見よかしちはやぶる
      神のいさむるみちならなくに                                     
(一三〇)

【通釈】

昔、男がいた。その男は、伊勢の斎宮寮(さいくうつかさ)へ、勅使として参上したところ、その斎宮で、色めいた言葉をかけてきた女が、自分自身のこととして言って来た。
   私は、恐れ多い神垣をも越えて出てしまいそうです。都のお方とお会いしたいばかりに。
男、
   そんなに恋しかったら、神垣を越えて出て来てみなさいよ。恋というものは、何も、神様が禁止命令を出される道ではないのですから。

※他の女房が自分の事として話している。第六十九段を意識している。

                                  【語釈】

※伊勢の斎宮に→第六十九段から派生した章段であることを示している。
※内の御使にて→勅使。これも、第六十九段の「狩の使」のことを言っている。
※内→宮中。
※かの宮に→直前に「伊勢の斎宮に」とあるのを受けている。「か」は遠いものを指し示す。一度書いた事をもう一度受ける場合に使う。
※すきごと言ひける女→色めいた言葉をかけた女。
※わたくしごとにて→斎宮の思いを伝えるのではなく、この女房個人の気持ちとして、
※ちはやぶる→「神」の枕詞。
※神の斎垣(いがき)→「斎垣」は、『倭名抄』に「瑞垣 俗云、美豆加岐(みづかき)。一云、以賀岐(いかき)」、『名義抄』にも「瑞垣 ミヅカキ イカキ 俗云、美豆加岐。一云、以賀岐」と「いかき」の「か」は清音であったらしい。
※大宮人→宮中に仕える貴人。
※神のいさむる道ならなくに→神も男女の恋をどうこう言うことはないと言っているのである。事実『日本書紀』神代巻から男女の愛は記されている。

【万葉の歌をもとにして異伝歌として付け加えている】
   ちはやぶる神のいがきもこえぬべし大宮人の見まくほしさに
万葉集巻十一(二六六三)「千葉破神之伊垣毛可越今者吾之惜無」。
古今六帖第二(一〇六五)「ちはやぶる神の忌垣もこえぬべし今はわが身のをしけくもなし」柿本人麿。柿本集。

第七十二段

 むかし、をとこ、伊勢のくになりける女又えあはで、となりのくにへいくとていみじううらみければ、女、
    おほよどの松はつらくもあらなくに
       うらみてのみもかへるなみ哉  
                                 (一三一)

【通釈】

昔、男がいたのである。その男が、伊勢の国にいる女に再び会うことができないままに隣の国へ行くと言って、ひどく恨み言を言ったので、女がよんだ歌、
   大淀の松はつれないわけではないのに、浪は浦を見るだけで帰ってゆくのと同様に、あなたを待つ私は、決してつれないわけでもないのに、あなたは、恨みだけを残して帰って行かれることでありますよ。

※伊勢斎宮密通の後日譚。
※恋の気持ちを当時は自然のものに喩えている。(男ー浪 女ー大淀の松)
※おほよどの松はつらくもあらなくにうらみてのみもかへるなみ哉→女の歌。
※女の歌のみの段である。伊勢物語では女の歌のみの段は珍しい。後から加えられた段である。

【語釈】

※伊勢の国なりける女→「伊勢の国なりける女に」とある本に従うべきであろう。
※大淀の松はつらくもあらなくに→「大淀」は第七十段参照。斎宮寮近くの海岸に生える松を伊勢に住む自分(女)に喩え、「私はつれないわけではないのに」と言っているのである。「つらし」は現代語と違って「つれない」という意。「つらき心の長く見ゆらむ」(第三十段)「世の人のつらき心は袖のしづくか(相手の女のつれない心は袖のしづくのようなもので私の涙が流れるよ)」(第七十五段)など参照。
※うらみてのみもかへる浪かな→「浦見て」と「恨みて」を掛け、「かへる」は浪が反転するという意と男が帰る意を掛ける。「逢ふことのなぎさにし寄る浪なればうらみてのみぞたちかへりける」(古今集・恋三・六百二十六・在原元方)元方は業平の孫。

第七十三段

 むかし、「そこにはあり」ときけど、せうそこをだにいふべくもあらぬ女のあたりをおもひける。
    めには見ててにはとられぬ月のうちの
       かつらのごとききみにぞありける 
                                   (一三二)

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、どこそこにいるとは聞いているが、手紙だけでも出せない女のあたりを思いやって詠んだ歌、
    目には見ても、手には取れない、月の中の桂のようなあの人でありますよ。

【万葉の歌をもとにして異伝歌として付け加えている】
    めには見ててにはとられぬ月のうちのかつらのごとききみにぞありける
万葉集巻四(六三二)「目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責」湯原王。
古今六帖第六(四二八八)「目には見て手にはとられぬ月の内の桂のごとき妹にもあるかな」作者名無。

【語釈】

※そこにはありと聞けど→「そこ」は、現代語と違って、「どこそこ」「ある特定の場所」という意。「そこともいはぬ旅寝してしか」(『古今集』春下・一二六・素性)。新潮古典集成は第四段の「ありどころは聞けど、人の行きかよふべき所にもあらざりけれど」と同じ言い方であると言い、二条后章段とこの斎宮章段が対応していると言うが、第四段の場合は、読者も当然わかっているだろうという書き方であるのに対し、この段の場合は、意図的に名前を伏せようという書き方である。
※女のあたり→「あたり」は、女の居場所をわざと婉曲に言って「女」への敬意を表した言い方。「あたり苦し」(そばにいるだけでも恐れ多い)、「あたりをはらふ」(周囲を威圧する)などという言い方が見られるのは、そのためであろう。女が身分の高い女性であることを暗示しているのである。
※月のうちの桂のごとき→月の中に桂の木があるというのは、中国の故事。『初学記(類書・色々なものを集めた本・雑知識を纏めている)』の「月」の項に「虞喜安天論云、俗伝桂中仙人桂樹、今視其初生、見仙人之足、漸己成形、桂樹後生」とあり、『酉陽雑爼』巻一・天咫に「舊言、月中有桂、有蟾蜍。故異書言、月桂高五百丈、下有一人、常斫之、樹創随合。人姓呉、名剛。西河人、学仙有過、謫令伐樹。」とある。『古今集』秋上・一九四に「ひさかたの月の桂も秋はなほ紅葉すればや照りまさるらむ」(忠岑)とよまれていて、当時、一般的な知識になっていたことがわかる。
※きみ→身分の高い人なので妹ではなく「きみ」

第七十四段

 むかし、をとこ、女をいたううらみて、
     いはねふみかさなる山にあらねども
        あはぬ日おほくこひわたる哉  
                                    (一三三)

 【通釈】

  昔、男がいたのである。その男は、女をひどく恨んで、
     二人の間にあるのは、岩根を踏んで行くような累々たる山ではないけれども、逢わない日が多いので、離れているあなたを恋し続けていることであるよ。

※斎宮のように会えない人を恋い慕っている段。

【万葉の歌をもとにして異伝歌として付け加えている】

     いはねふみかさなる山にあらねどもあはぬ日おほくこひわたる哉

万葉集巻十一(二四二二)「石根踏重成山雖不有不相日数恋度鴨」
拾遺集恋五(九六九)「岩ねふみかさなる山はなけれどもあはぬ日数をこひやわたらん」坂上郎女(いらつめ)。女性の歌。伊勢物語では男性の歌にしている。

 【語釈】

※岩根踏み→岩根を踏んで行くような重なる山。
         「岩根」は、「岩が根」とも言うように、大地に根を下ろしたような巨岩。
※重なる山にあらねども→重々累々たる山ではないが。「二人の間は」という意を補って訳すべきであろう。
※恋ひわたるかな→「恋ふ」は離れている相手を恋い慕うこと。「わたる」は「続ける」。

※いわねふみかさなる山にあらねども→「あらねども」が「へだてねど」とある本もある。