伊勢物語17…第七十五段〜第七十八段

 第七十五段

 昔、をとこ、「伊勢のくににゐていきてあらむ」といひければ、女、
    おほよどのはまにおふてふ見るからに
      心はなぎぬかたらはねども   
                                    (一三四)
といひて、ましてつれなかりければ、をとこ、
    袖ぬれてあまのかりほすわたつうみの
       見るをあふにてやまむとやする
                                    (一三五)

    いはまよりおふるみるめしつれなくは
        しほひしほみちかひもありなん
                                   (一三六)

又、をとこ、
    なみだにぞぬれつゝしぼる世の人の
         つらき心はそでのしづくか
                                     (一三七)
世にあふことかたき女になん。

                             【通釈】 
昔、男がいたのである。その男が「伊勢の国に、いっしょに行って生活しよう」と言ったところ、女は、
    伊勢の国の大淀の浜に生えているという海松(みる)ではありませんがは、私はあなたのお顔を見ることができただけで心してしまいました。深く語り合ってはいませんけれども。
と言って、以前にもましてつれなかったので、男は、
    袖が濡れるようにして、海人が刈って干す大海の海松を掛けて言うわけではないが、そなたを見るだけで、夫婦になったということにして、終りにしようとするのか。
女の歌、
    岩の間から生えている海松布(みるめ)に掛けて言うわけではないが、「見る目」、すなわち顔を見る機会だけではつれないとおっしゃるのであれば、潮が満ちたり干たりする時に貝があって見えるように、日を重ねて通っていらっしゃると、その効(かい)も現れることでしょうよ。
また男の詠んだ歌、
    あなたを恋しく思って流す涙に濡れてぐっしょりいたしております。まことに、この世におわす人のつれないお心は、この袖の雫になったかと思われます。
全くもって、深い関係になることが難しい女であることよ。

                             【語釈】
※率いて行きてあらむ→「あらむ」の「ら」は「は」の誤写かも知れない。「者(は)」の草体は「ら」に近いし、「袖濡れて…」の歌で、「見る」と「あふ」を対比して問題にしているので、「あらむ」よりも「あはむ」の方がよかろう。
※大淀の浜に生ふてふみるからに→「大淀の浜に生ふてふ海松」と「見るからに」(見るとすぐに)」を掛ける。
※大淀→「大淀」は七十段(大淀のわたり)・七十二段(大淀の松)にも出てくる。
※心はなぎぬ→「なぎ」は、「風」。風がおさまって静かになること。「浜」の縁語。
※語らはねども→「語らふ」は、必ずしも実時に至らなくてもよい。じっくりと睦び合うという感じの語である。第九十五段の「物語なとせして」参照。
※袖濡れて→袖が濡れるようにして。「袖ひちてむすびし水」(古今集・春上・二)参照。
※海人の刈りほす→「海人」は、男女を問わず、海で働く人を言う。「海松」を食料にするために刈り取って干すのである。海藻を取る=女。舟を漕いで魚を獲る=男。ここのイメージは女。
※わたつうみのみるをあふにて→「見る」だけであるのに、「会ふ」であるかのように思わせて。「見る」は顔や姿を見るだけであるのに対して、「会ふ」はじっくり会って話し合うこと。「語らふ」は、当然「会ふ」に属する。
※岩間より生ふるみるめしつれなくは→「岩間より生ふる海松布」と「見る機会」の意の「見るめ」を掛ける。「見る機会だけではつれないのであれば」の意。「岩間よりおふるみるめ」掛け詞的序詞。
※潮干潮満ちかひもありなん→潮が満ちたり干たりする時に貝が見えるように、日を重ねて通ってくると効もあるでしょう…と言っているのである。
※涙にぞ濡れつゝしほる→通説は「しぼる」と読み、「私の流す涙に濡れ続けながら袖をしぼっております。あなたの薄情な心がこうしてしぼっている私の袖のしずくになったのでしょうかーあなたのひどいお気持ちが変わらないように、袖のしずくも乾く時がありません」(角川ソフィア文庫)と訳しているが、くどい繰り返しのある訳し方をしなければ意が通らないし、自分の流す涙が、相手のつれない心に擬されるというのはおかしい。また「濡れつつしぼる」という言い方では歌の調べも好ましくないる「しほる」と清音に読み、「萎る」と解すべきであろう。「しほる」は『名義抄』に「汐」「汗」「澤」の字などを「シホル」と訓んでいるように『濡れてぐっしょりとなる」という意であるが、「しぼる」ではない。
※つらき心は袖の雫か→既にぐっしょり濡れたような状態になっている私を、つれない御方の心は、袖の雫のように、さらに濡らすことであるよ…と言っているのである。
※世に会ふこと難き女になん→語り手のコメント。「世に」は「ほんとうに」という意。

第七十六段

 むかし、二条の后のまだ春宮のみやすん所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよりたまはりて、よみたてまつりける。
    大原やをしほの山もけふこそは
      神世のことも思ひいづらめ
                                       (一三八)

                               【通釈】
昔、二条の后が、まだ東宮の御息所と申しあげていた時のこと、藤原氏の氏神である大原野神社に参詣なさった折に、当時近衛府に勤めていたこの翁が、お供の人々が禄を賜る機会に、御息所の御車から賜って、よんで奉った歌、
    この大原の、小塩の山も、今日はまさに、神代のことをも思い出していることでしょう。私もはるか昔のことを思い出しておりますよ。
と詠んで、みずからの心の内でも、しみじみとした気持ちになっただろうか、どのように思ったのであろうか、語り手としての私は知らないことであるよ。

                                   【語釈】
※二条の后まだ春宮の御息所と申しける時→二条の后が「春宮の御息所」と呼ばれたのは、二条の后が産んだ陽成天皇が皇太子であった貞観十一年(869)二月一日から同十八年(876)十一月二十八日までの間である。
※氏神→藤原氏の氏神。ここでは大原野神社。京都市西京区大原野南春日町。本来藤原氏の氏神である奈良の春日大社を観請したものである。南春日町ー春日大社を移して来たので「春日」の地名をつけた。
※近衛づかさにさぶらひける翁→元慶元年(877)正月二十三日に右近衛権中将になったとされる(『三代実録』)在原業平を意識した書き方。「翁」は語り手のことであって、「その時、近衛府にお仕えしていたこの翁が」と訳すべきである。
※禄賜はるついでに、御車より賜はりて→『古今集』にはない説明。二条の后から直接禄を賜わり、献歌したという設定である。
※大原や小塩の山も→「美作や久米のさら山さらさらにわが名は立てじ万代までに」(古今集・大嘗会歌・一〇八三)の「美作や」の「や」や、「近江のや八橋の篠を矢はがずてまことあり得むや恋しきものを」(萬葉集・巻七・一三五〇)の「近江のや」の「や」のように、「や」は「調べを整える」と役割と「…にある」という意を表す。
※今日こそは→藤原氏出身の春宮の御息所が参詣した今日は特別。
※神世のことも思ひ出づらめ→「神世のこと」とは、皇孫の天津彦彦火瓊杵尊(あまつひこひこほのににきのみこと)が降臨し時、「中臣上祖(なかとみのとほつおや)」(藤原氏の先祖)にあたる天児屋根命(あまのこやねのみこと)が従駕したこと。『日本書紀』神代下に、「一書第一」として記されている。
※心にもかなしとや思ひけん、知らずかし→「大原や小塩の山も」神代のことを思い出しているが、主人公の男(業平)の心中でも、思い出して悲しいと思っただろうか、どう思っただろうか、語り手の私は知らないよ…と言っているのである。
※大原野神社→春日大社の別社。当時の女性が参拝するには遠方なので大原野に移した。
※禄→女の装束、十二単。繊維製品。巻物の絹等が多い。
※賜わる→式次第。順番。

                                  【参孝】
*『古今集』雑上・八七一
     二条の后のまだ春宮の御息所と申しける時に、大原野にまうで給ひける日、よめる         業平朝臣
   大原や小塩の山も今日こそは神世のことも思ひ出づらめ

*『大和物語』〔第一六一段〕
  在中将、二条の后の宮、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人におはしましける世に、よばひたてまつりける時、ひじきといふ物をおこせて、かくなむ。
   思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじき物には袖をしつつも
となむ、のたまへりける。返しを人なむ忘れにける。
 さて、后の宮、春宮の女御と聞えて、大原野にまうでたまひけり。御供に上達部、殿上人、いと多く仕うまつりけり。在中将も仕うまつれり。なま暗きをりに立てりけり。御社にて、おほかたの人々禄賜はりて後なりけり。御車のしりより、奉れる御衣をかづけさせたまへりけり。在中将、賜はるままに、
   大原や小塩の山も今日こそは神代のことを思ひ出づらめ
としのびやかに言ひけり。昔をおぼし出でて、をかしとおぼしける。

※春宮→古今集独自の言い方。古今集から取った部分、これを入れて3ヶ所ある。
※小塩の山→大原神社の神様。
※『大和物語』〔第一六一段〕→伊勢物語の三段・七十六段を一つに纏めている。
 大和物語は伊勢物語を意識している。
 沢山の人の和歌の歌物語を集めている。詳しく書いているので想像させるものがない。
※よばひたてまつりける時→伊勢物語「六段」
※ひじきという物を→伊勢物語「三段」
※思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじき物には袖をしつつも→大和物語では二条の后の歌になっている。
 伊勢物語では男が二条の后に歌を贈っている。
※ひじき物→「ひじき」と「敷物」に掛けている。
※奉れる→「着る」の敬語。着ていらっしゃった。
※かづけ→肩に掛ける。
※かづけもの→物を貰うこと。
 

第七十七段

 むかし、たむらのみかどと申すみかどおはしましけり。その時の女御たかきこと申す。みまそがりけり。それうせたまひて、安祥寺にてみわざしけり。人々、さゝげものたてまつりけり。たてまつりあつめたる物、ちさゝげばかりあり。そこばくのさゝげものを、木のえだにつけて、だうのまへにたてたれば、山もさらにだうのまへにうごきいでたるやうになん見えける。それを、右大将にいまそがりけるふぢはらのつねゆきと申すいまそがりて、かうのおはるほどに、うたよむ人々をめしあつめて、けふのみわざを題にて、春の心ばへあるうた、たてまつらせたまふ。右のむまのかみなりけるおきな、めはたがひながら、よみける。
    山のみなうつりてけふにあふ事は
       はるのわかれをとふとなるべし
                                   (一三九)

とよみたりけるを、いま見れば、よくもあらざりけり。そのかみは、これやまさりけむ、あはれがりけり。

【通釈】

 昔、田邑の帝と申し上げる帝がいらっしゃったのである。その時の女御に多賀幾子と申しあげる方がいらっしゃった。その女御が亡くなられて、安祥寺で御法事をしたのである。人々が捧げ物を献上したのである。そのように献上すべく集めた物は千捧げほどもあったのである。そのように多くあった捧げ物を木の枝につけて、堂の前に立ててあったので、山も今新たに堂の前に動いて出て来たように見えたのであった。
 そのような状態であるのを、当時、右大将でいらっしゃった藤原常行と申しあげる人がいらっしゃって、講会が終る頃に歌を詠む人々を招集されて、今日の法事を歌題にして、春の心が表現されている歌を奉呈させなさる。当時、右馬頭であったこの翁が、供え物を山と見間違えたままでよんだのである。その歌は、
    山が、皆、移動して来て、今日の法事の日に会うということは、春を惜しむのと同じく、女御様との別離を惜しんでやって来たということでありましょうよ。
と詠んだのであったが、今、この歌を見れば、特によくもないなあと思う。しかし、当時は、これが他の歌よりまさっていたのであろうか、みな深く感じ入ったのである。

                            【語釈】
※田邑のみかど→文徳天皇の崩御後の『三代実録』天安ニ年(858)九月二日条に、「至山城国田邑卿真原岡、定山陵之地」とあるように、田邑卿の真原岡に御陵が作られたゆえに「田邑のみかど」と呼ばれた文徳天皇のこと。現在の右京区太秦三尾町にあたる。
※女御多賀幾子→右大臣良相の娘。天安ニ年(858)十一月十四日こう。
※安祥寺→山城国宇治郡。現在の京都市山科区山科の北の山寄にある古義真言宗の寺。嘉祥元年(848)に五条の后藤原順子の発願によって創建された。上寺と下寺があったが、今は、下寺のごく一部だけが残っている。
※捧げ物→「ささぐ」の連用形に「物」がついた「さしあげ物」の約である。神仏や貴人に献上する物。「かかる事(宇多上皇の六十の賀)なむせんと思ふ。ささげ物一枝だにせさせ給へ」(大和物語第三段)とあるように、木の枝につけて奉ることが多かった。平安時代は十年毎にお祝いをしていた(40、50、60)。
※それを→「山もさらに堂の前に動き出でたるやうになん見えける」を承けている。
※右大将にいまそかりける藤原常行→右大臣藤原良相の長男。亡くなった女御多賀幾子の兄。『三代実録』によれば、貞観六年正月(864)右大将。
※講→漢音では「こう」と書くべきであるが、『新撰字鏡』は「江(かう)」と同じとし、『名義抄』も「カウ」としているように、仮名で書く場合は「かう」と表記されていたようである。
※今日の御わざを題にて、春の心ばへある歌、奉らせたまふ→「御わざ」の「わさ゜」は、「事」。ここは法事のこと。
※右の馬頭(うまのかみ)なりける翁→当時右馬頭であったこの翁。業平が右馬頭であったのは、貞観七年(865)三月から元慶元年(877)十一月に右近衛中将になるまでの十二年間か。
※目は違ひながら→たくさんの捧げ物を山が堂の前に動いて来たかと見誤ったままで。
※山のみなうつりて今日にあふ事は→山がみな移動して来て今日のこの法要の場に出会うということは。
※春の別れをとふとなるべし→春の別れをするためにやって来たのであるに違いない。「春の別れ」は三月尽日の「春との別れ」の意と、「春、女御と別れる」意を掛ける。
※女御→父親が大臣になっている事が最大の条件。

◇伊勢物語の多く(100段ほど)は男女の恋物語。数は少ないが恋愛と関係のない話もある。
◇この段は人の心を見るのに重要な段。主人公の心が表れている。歌で心を表している。「宮び」ー雅(みやび)
 「雅」の反対は「俗」打算によって動く。
◇この段は良相、常行、多賀幾子に焦点を当てている。

第七十八段

 むかし、たかきこと申す女御おはしましけり。うせ給ひて、なゝ七日のみわざ、安祥寺にてしけり。右大将ふぢはらのつねゆきといふ人いまそかりけり。そのみわざにまうでたまひてかへさに、山しなのぜんじのみこおはします。その山しなの宮に、たきおとし、水はしらせなどして、おもしろくつくられたるに、まうでたまうて、「としごろ、よそにはつかうまつれど、ちかくはいまだつかうまつらず。こよひは、こゝにさぶらはむ」と申したまふ。みこ、よろこびたまうて、よるのおましのまうけさせ給ふ。さるに、かの大将、いでて、たばかりたまふやう、「みやづかへのはじめに、たゞなほやはあるべき。三条のおほみゆきせし時、きのくにの千里のはまにありける、いとおもしろきいしたてまつれりき。おほみゆきののち、たてまつれりしかば、ある人のみざうしのまへのみぞにすゑたりしを、しまこのみ給ふきみ也。このいしをたてまつらん」とのたまひて、みずいじん・とねりして、とりにつかはす。いくばくもなくて、もてきぬ。このいし、きゝしよりは、みるはまされり。「これを、たゞにたてまつらば、すゞろなるべし」とて、人々にうたよませたまふ。みぎのむまのかみなりける人のをなむ、あおきこけをきざみて、まきゑのかたに、このうたをつけて、たてまつりける。
     あかねどもいはにぞかふる色見えぬ
       心を見せむよしのなければ   
                                (一四〇)
となむよめりける。

                            【通釈】
 昔、多賀幾子と申し上げる女御がいらっしゃったのである。お亡くなりになって、その四十九日の法事を安祥寺で行われたのである。
 また、右大将藤原常行という人がいらっしゃったのである。その法事にお参りになって、帰りしなに、山科の禅師の親王という人がいらっしゃったのだが、その親王がいらっしゃる山科の宮に、滝を落とし、遣り水に水を走らせるというように、風流に作られているその宮に参上して、「年ごろ、離れた状態でお仕え申しあげてはおりましたが、まだおそば近くはお仕えしたことはありません。今宵は直接ここでお仕えさせていただきましょう」と常行の大将は申しあげなさる。親王は、お喜びになって、夜の御座所の準備をなさる。
 そのようにしている時に、例の大将が、親王の御前から出て来て、相談なさることは、「御奉行の始めに、何の計画もなくてよいだろうか。三条の大御幸があった時、紀伊の国の千里の浜にあった、たいそうすばらしい石を、土地の人が父藤原良相に献上した。しかし、間に合わずに、大御幸の後に献上したものだから、ある人の御曹司の前の溝に据えておいたのを、「この親王様は、島のある池の庭を好んでいらっしゃるお方だよ。その庭にこの石を献上しよう」とおっしゃって、御随人や舎人に命じて、取りに行かせなさる。どれほどの時間も経たないうちに、持って来た。この石は、聞いていたよりは、実際に見ると、すばらしい。「これを、何の趣向もなく献上するなら、さみしいことになるだろう」と言って、参上していた人々に歌をよませなさる。
 その時、右馬頭であった人の歌を、青い苔を刻んで、蒔絵のように、石の表面にこの歌を付着させて献上したのである。
     これで十分というわけではありませんが、あなた様を思う私の心の硬さは、岩で代用して奉らせていただきます。色によって示せない私の心をあなた様にお見せするてだてがございませんので。
と詠んだのであった。

                               【語釈】
※七七日のみわざ→前段に述べたように、女御多賀幾子の没は天安ニ年(858)十一月十四日であるから、その七七日、すなわち四十九日は、一月十日頃になるが、前段の歌の「春の別れ」と矛盾がある。
※山科の禅師の親王→仁明天皇第四皇子人康(さねやす)親王とするのが通説。『一代要記』仁明天皇の項に「人康親王 四品弾正尹。母同(女御藤原澤子)。貞観□年三月出家。同十四年五月五日こう、年四十二。号山科宮」とある。人康親王が仁明天皇の第四皇子であることから、山科盆地の東北部の地を四宮(村)と呼び、京阪電車京津線の駅名にもなっている。『平家物語』『宇治拾遺物語』に「四宮河原」とあって、古い地名であったことが知られる。
※年ごろ、よそにはつかうまつれど→「よそにはつかうまつれど」は抽象的、精神的なものではなく、なにがしかの経済的な奉仕を蔭ながらしていたとも考えられるのであろう。
※「今宵は、こゝに候はむ」と申したまふ→「たまふ」という尊敬語がついているので、常行の大将の言葉であることがわかる。
※三条の大御幸せし時→『三代実録』によれば、貞観八年(866)三月二十三日に、右大臣藤原朝臣良相の西京第に桜花を観るために行幸あり、百花亭を題とした詩を賦し、庭で鵠を射たが、席に預かる者四十人、伶官奏楽し、童十二人が舞い、夜分の後に輿に乗って還御あったと記し、従駕した従四位上参議右近衛中将兼備前守藤原朝臣常行、従四位上参議左近衛中将兼伊豫守藤原朝臣基経を正四位に加階した。これすなわち三条の大行幸であるが、女御多賀幾子の没より九年も後であるのが問題になる。
※紀の国の千里の浜→今の和歌山県日高郡南部町の海岸。今も千里の浜と呼ばれている。
※ある人の御曹司の前→右大将常行の縁者の御息所の曹司とするならば、多賀幾子がまず第一に思い出される。
※島好み給ふ君也→庭園は池を中心として、その池に石をおいて「島」の形を表わすのが一般的であったから、庭園のことを「島」と言った。明大和の国高市郡明日香にあった蘇我馬子の邸宅が庭の泉水が立派であったゆえに「島の宮」と呼ばれていたのが有名。
※御随身・舎人して→「御随身」は近衛舎人の中から選ばれた衛護の士。
※これをたゞに奉らば、すゞろなるべし→「すずろ」は、予想できぬ事態が現出すること。
※蒔絵の形→蒔絵と同じような形状にして。
※岩にぞかふる→自分の堅い心を岩で代用させて表わすと言っているのである。
※色見えぬ心→「赤心」などの色彩の比喩というよりも、「目で見て確かめられない心」の意。