伊勢物語18第七十九段〜第八十一段

第七十九段

 むかし、うじのなかに、みこうまれ給へりけり。御うぶやに、ひとびと哥よみけり。御おほぢかたなりけるおきなのよめる。
   わがかどにちひろあるたけをうゑつれば
     夏冬たれかかくれざるべき     
                               (一四一)
 これはさだかずのみこ。時の人、中将の子となんいひける。あにの中納言ゆきひらのむすめのはらなり。

                                  【通釈】
 昔、在原氏の中に、王子(みこ)がお生まれになったのである。その出産祝いに、人々がやって来て、歌をよんだのである。御祖父方に属する翁が昔詠んだ歌、
   わが家の門に千尋もある影を作る竹を植えておいたから、夏も冬も、いったい誰がこの蔭に隠れないことがあろうか。一門の皆が、その庇護を蒙ることであるよ。
これは貞数親王のこと。その頃の人は、この親王を業平中将の子だと言っていたのである。兄の中納言行平のむすめの腹に生まれた子なのであるよ。

                                  【語釈】
※氏の中に王子(みこ)生まれ給へりけり→在原氏の中に親王が生まれたのである。
『三代実録(清和・陽成・光孝の三代の天皇の記録を集めている)』貞観十八年三月十三日の条に「皇子貞数ヲ親王ニ為ス。年ニ歳。母更衣参議太宰権帥従三位在原行平女也」とあるので、誕生はその前年の貞観十七年(875)であることがわかる。
※御うぶやに→出産は一種の汚と認識されていたので、上代には別棟に産屋を作り、出産後その産屋で行われる行事・儀式である「うぶ屋の騒ぎ」(『枕草子』二十五段)「うぶ屋の儀式(『源氏物語』柏木)などを「うぶ屋」と省略して言った。ここは「うぶやのやしなひ」すなわち「うぶやしなひ(産養)」のこと。誕生後の第三夜、第五夜、第七夜に(時には第九夜にも)親族から産婦や新生児の衣服などの品を贈り、誕生をことほぐ行事。『うつほ物語』『紫式部日記』『栄花物語』のほか、『中宮御産部類記』などによって、その様子が知られる。
※御祖父方なりける翁→貞数親王の外祖父にあたる在原行平方(がた)に属する業平。『三代実録』元慶六年(882)二月二十七日の条によれば、二条后高子の四十賀に、貞数親王が「陵王」を舞った時、「上下観者感而垂涙。舞畢、外祖父参議従三位行治部卿在原朝臣行平候舞台下、抱持親王、観躍而出。親王于時年八歳。太政天皇(清和)第八之子也」とあり、行平自慢の親王であったことがわかる。この段が書かれたのは、貞数親王がこうじた延喜十三年(913)より後のことかも知れないが、このような行平の喜びを伝え聞いていた人物が書いたのであろう。
※わが門に千尋ある影を植ゑつれば→底本始め定家本の多くは「千尋ある影を」とするが、別本の時頼本、真名本、広本系の阿波国文庫本や歴博本などは「ちひろあるたけを」とする。「かげを植える」とは言わないので、「か」は「た」の誤写で「たけを植ゑつれば」とあるべきであろう。
※夏冬誰か隠れざるべき→夏は暑い日差しから身を隠し、冬は寒い雪から身を隠すことができると言っているのである。貞数親王の庇護により、在原氏は安泰だと言っているのである。
※時の人、中将の子となんいひける→業平が群を抜いた色好みであるというイメージが定着してから、この部分が書かれたのであろう。「…なん…ける」で出てくる文章は蛇足的に伝えられた。
※千尋→「尋」は両手を広げた長さ。

                           第八十段
 
 昔、おとろへたる家に、ふぢの花うゑたる人ありけり。やよひのつごもりに、その日、あめさほふるに、人のもとへ、をりてたてまつらすとて、よめる。
    ぬれつゝぞしひてをりつる年の内に
       はるはいくかもあらじとおもへば 
                            (一四ニ)   

                             【通釈】
昔、零落している家に、藤の花を植えている人があったのである。三月の月末頃に、その日、ちょうど雨がしょぼしょぼ降っている時に、ある人のもとに、藤の花を、折って献上するということで、よんで添えた歌、
    何度も濡れながら、無理をして、折ったのですよ、この藤の花は、今年の内に、もう春は幾日も残っていないと思っていますので。

                             【語釈】
※おとろへたる家に→前段に続いて、在原氏を思わせる書き方、その「おとろへたる家」から藤の花を贈られる相手としてイメージされるのは、藤原氏であるが、受け手を藤原氏とする根拠はない。『古今集』の業平の歌を利用して、「おとろへたる家」と栄たる家とのギャップをイメージさせたのであろうが、『古今集』春下(133)では、「やよひのつごもりの日、雨の降りたければ、藤の花を折りて、人につかはしける 在原業平朝臣」とあって、「奉らす」とは言っていない。当時、漢詩でもよく詠まれていた「三月尽日」のテーマでよまれた「惜春」の歌を、歌を愛し、風流を楽しむ友に贈ったと見るのが自然であろう。しかし、『伊勢物語』では、それを「折りて奉らす」として、「衰えたる家(在原氏)」と「栄えたる家(藤原氏)」を際立たせたのは注意される。
※やよひのつごもりに→「つごもり」は月が「こも(隠)る」を語源とすると言われる。陰暦り月の終りには月が見えなくなるので「月隠り(つごもり)」と言ったのであろう。文字通り「一か月の最後の一日」をいう場合と、「最後の一、ニ日」をいう場合がある。
『伊勢物語』でも『古今集』でも、異本系では、「春は今日をしかぎりとおもへば」となっており、これによれぱ、三月の最後の日ということになる。
※雨そほ降るに→「そほふる」と書く古写本も多いので、「ほ」は清音。「そぼふる」ではない。しかし、現代語の「しょぼしょぼ降る」にあたり、「しっとりと降る」意である。
※人のもとへ、折りて奉らすとて、よめる→藤の花を折って、それに添えて歌を贈ったのである。「奉らす」とあるので、相手は高貴な人。当然藤原氏であってもよい。
※年の内に春は幾日もあらじと思へば→「年の内に(1年内に)」というのは大げさだが、三月尽日の歌の特徴を示している。

七十九段・八十段は藤原氏対在原氏の意識が出ている。

                                 第八十一段

 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。かも河のほとりに、六條わたりに、家をいとおもしろくつくりて、すみたまひけり。神な月のつごもりがた、きくの花うつろひさかりなるに、もみぢのちくさに見ゆるをり、みこたちおはしまさせて、夜ひとよ、さけのみし、あそびて、よあけもてゆくほどに、このとののおもしろきをほむるうたよむ。そこにありけるかたゐおきな、いたじきのしたにはひありきて、人にみなよませはてて、よめる。
    しほがまにいつかきにけむあさなぎに
        つりするふねはこゝによらなん 
                               (一四三)
となむよみけるは、みちのくににいきたりけるに、あやしくおもしろき所々おほかりけり。わがみかど六十よこくの中に、しほがまといふ所ににたるところなかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、「しほがまにいつかきにけむ」とよめりける。

                             【通釈】
 昔、左大臣がいらっしゃったのである。鴨川のほとりである六条付近に、家をたいそう魅力的に作って住んでいらっしゃったのである。
 十月の末の頃、菊の花が色を変えて美しい盛りである時、また紅葉が色とりどりに見える折、親王たちを御招待して、一夜中、酒宴をし、管絃を楽しんで、次第に夜が明けてゆく頃に、一同、この御殿のすばらしさを賛美する歌をよむ。折しも、そこにいた、この賎しい翁が、板敷の下に、身をかがめるようにして歩きまわって、列席の人々皆に詠み終わらせてから、最後によんだ歌、
    塩竃の浦に、私は、何時の間にやって来たのだろう。この朝凪に釣をする舟は、皆、ここに寄ってほしいことであるよ。
とよんだのであったよ。
 陸奥に行ったことがあったのだが、考えられないほど魅力的な所が所々に多かったのである。我が日本の六十余国の中に、塩竃という所に比べられるようなすばらしい所はなかったのである。だからこそ、例の翁は、改めてここを賛美して、「塩竃に、いったいいつの間に来てしまっていたのだろうか」とよんだのである。

                                  【語釈】
※左のおほいまうちきみ→左大臣。『名義抄(平安後期に出来た漢和辞典)』に「大臣 オホイマウチキミ」、『倭名抄(平安中期に出来た広辞苑のようなもの)』にも「大臣 於保伊万宇知岐美」とある。
※鴨川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろくつくりて、住みたまひけり→この左大臣が『日本紀略』寛平七年(895)八月ニ十五日の条に「従一位行左大臣源朝臣融、コウ於東六条第。年七十四」と記されている河原左大臣源融であることがわかる。東六条第は、河原院とも呼ばれた融の邸。『拾芥抄』には、「六条坊門南、万里(まで)小路東の八町を占める大きさであったとされる。北の「六条坊門」は今の五条通。西の「万里小路(までのこうじ)」は今の「柳馬場通(やなぎのばんばどおり)」。南は六条まで、東は賀茂川の河原まであったと見てよかろう。今の河原町五条のバス停のそばに「本塩竃町」という地名のあるあたり。今の渉成園(枳穀邸)をその跡地とするのは誤り。
※菊の花、うつろひさかりなるに→当時は白菊が寒さにあって、変色するのが見所とされていた。
※もみぢの千種に見ゆる折→一色ではなく、さまざまな色に見えるのである。
※夜明けもてゆくほどに→「もてゆく」は「しだいに…してゆく」の意。「かくて、夜もふけもてゆくままに、歌うたひ…」(うつほ物語・嵯峨院)
※この殿のおもしろきをほむる歌よむ→秋にふさわしく「紅葉」や「菊」を主題にするのではなく、河原の院のすばらしさを賛美することがテーマになっているのだから、おそらくは河原院竣工を祝う宴であったのだろう。
※そこにありけるかたゐ翁→招待された正客ではなく、たまたまそこにいたという書き方。「かたゐ」は本来は道の片側に座って「物貰い」をする乞食。『倭名抄』に「乞児 加多井」とあり、『日本霊異記』上に「片岡ノ村ノ路の側ニカタヰアリテ、病を得テ臥セリ」と詠む。しかし、ここは、乞食そのものではなく、『土佐日記』(二月四日)の「ひねもすに、浪風立たず。この楫取りは、日もえはからぬ〔天候モ見定メラレナイ〕かたゐ〔どうしようもない野郎〕なりけり」のような蔑視表現を自卑に転用したものであろう。「使い道のない爺(しじい)」とでも訳すべきであろう。
※だいしきの下に這いありきて、人にみなよませ果ててよめる→底本には「たいしき」とあるが「いたじき(板敷)」の誤写であろう。「台敷」という語例は見出せない。
客として招待されるような立場なら、建物に上がって歌会に参加するが、「かたゐ翁」と自卑しているぐらいであるから、客人が皆歌をよみ終わってから、板敷の下を這うようにしてうろうろして、へりくだって詠んだと言っているのである。
伊勢物語は業平が書いたというポーズをとるためにへりくだってている。と言う事は業平が作っていないという事。
この書き方が100段まで続く(対藤原氏意識)
※朝凪に釣する舟はこゝに寄らなん」と言ったのであるが、「このすばらしい河原院のあるじ融公のもとに、人々が集まってほしい」と言っているのである。
※となむよみけるは→「となむよみけるは……だ」と、後文に続ける読みもあり得るが、ここは語り手の追加的コメントと見るべきであろう。その場合は、「は」終助詞。感動・詠嘆の意を表す。「さるさがなきえびす心を見てはいかがはせむは。」(第十五段)