伊勢物語19…第八十二段〜第八十三段

第八十二段

 むかし、これたかのみこと申すみこおはしましけり。山ざきのあなたに、みなせといふ所に宮ありけり。年ごとのさくらの花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右のむまのかみなりける人を、つねにゐておはしましけり。時世へて、ひさしくなりにければ、その人の名、わすれにけり。かりはねんごろにもせで、さけをのみのみつゝ、やまとうたにかかれりけり。いまかりするかたののなぎさの家、そのゐんのさくら、ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝ををりてかざしにさして、かみ・なか・しも、みな歌よみけり。うまのかみなりける人のよめる。
     世の中にたえてさくらのなかりせば
       はるの心はのどけからまし 
                                 (一四三)
となむよみたりける。又、人のうた、
     ちればこそいとどさくらはめでたけれ
       うき世になにかひさしかるべき  
                              (一四五)
とて、その木のもとはたちてかへるに、日ぐれになりぬ。

 御ともなる人、さけをもたせて、野よりいできたり。「このさけをのみてむ」とて、よき所をもとめゆくに、あまの河といふところにいたりぬ。みこに、むまのかみ、おほみきまゐる。みこののたまひける、「『かた野をかりてあまの河のほとりにいたる』を題にて、うたよみて、さかづきはさせ」とのたまうければ、かのむまのかみ、よみてたてまつりける。
     かりくらしたなばたつめにやどからむ
       おまのかはらに我はきにけり 
                                (一四六)
みこ、うたをかへすがへすずんじたまうて、返しえしたまはず、きのありつね、御ともにつかうまつれり。それが返し、
     ひととせにひとたびきます君まてば
       やどかす人もあらじとぞ思ふ   
                               (一四七)

 かへりて宮にいらせ給ひぬ。夜ふくるまで、さけのみ、物がたりして、あるじのみこ、ゑひていりたまひなむとす。十一日の月もかくれなむとすれば、かのむまのかみのよめる。
    あかなくにまだきも月のかくるゝか
       山の端にげていれずもあらなん   
                             (一四八)
みこにかはりたてまつりて、きのありつね、
    おしなべて峯もたひらになりななむ
       山の端なくは月もいらじを   
                                 (一四九)

                                 【通釈】
 昔、惟喬親王と申し上げる皇子がおいでになったのである。山崎の向こうにある水無瀬といふ所に、お持ちの御殿があったのである。毎年の桜の花盛りには、その御殿においでになったのである。その時には、右馬頭であった人を、いつも引き連れていらっしゃっていたのである。時間経ってずっと昔の世界のことになってしまったので、その人の名は忘れてしまったことであるよ。狩は熱心にはしないで、酒ばかりを次々と飲んで、和歌をよむのに専念したのである。
 ちょうどその時に狩をしていた交野の渚の家、そこの院の桜は格別にすばらしい。その木の下に馬から下りて坐って、桜の枝を折って、髪挿(かんざし)に挿して、身分の高い人から、中位の人、下位の人と、みんなで歌を詠んだのである。
  その時、馬頭であった人がよんだ歌、
    この世の中に、まったく桜というものが存在していないのであったならば、散る心配をしないですむから、春の私たちの心は、どんなにかのどかなことであっただろうか。
とよんだのであった。
  またその時に人がよんだ歌、
    そうはおっしゃいますが、散るからこそ、桜はすばらしいのですよ。このいやな世に、いったい何がいつまでもあるのでしょうか。そんなものありませんよ。
とよんで、その木の下は立って帰ったのであるが、ちょうど日没時になってしまっていたことであるよ。

 御供である人が、従者に酒を持たせて、野を通って現れた。「この酒を飲んでしまおう」と言って、酒を飲むのに適したすぐれた場所を探しながら行くと、天の河という所に到着した。親王に、馬頭が大御酒を注いでさしあげる。親王のおっしゃるには、「『交野で狩をして、天の河のほとりに到着する』という題で、歌をよんで盃をさしなさい」とおっしゃるので、例の馬の頭(かみ)が読んで奉った歌、
    一日中狩をして暮らしたので、今夜はここの棚機(たなばた)様に宿を借りましょう。棚機様が会うという天の川の川原ならぬ天野川の川原に私どもは来たのですからねえ。
親王は、この歌を繰り返し詠誦なさって、御返歌をお詠みになることができない。紀有常が、その時御供として従駕していた。その有常の返歌、
    その棚機つ妻は、一年に一度いらっしゃる彦星様を待っているので、他に宿を貸す人なんてあるまいと思いますよ。

 水無瀬に帰って、離宮にお入りになった。またまた夜がふけるまで酒を飲み、あれこれと語り合って、主の親王が、酔って、寝所にお入りになろうとされる。折しも、十一日の月も西の山に隠れようとするので、例の馬頭がよんだ歌、
    まだ満足していないのに、何とこんなに早く月が隠れるのか。山の端よ、どこかに逃げて行って、月を入れないでほしいことだよ。親王様を寝所に入れないでほしいことだよ。
親王に代わり申しあげて、紀有常がよんだ歌、
    一様に峯も平らになってしまってほしいことだよ。山の端というものがなければ、月も入らないであろうから。

                                  【語釈】
※惟喬親王→文徳天皇第一皇子。母は刑部卿正四位下紀名虎の娘静子(更衣か)。承和十一年(844)誕生。天安元年(857)十二月一日元服。貞観六年(864)任常陸大守、二十一歳。貞観十四年(872)二月任上野大守、同七月十一日、出家、二十九歳。法名算延。業平没後十七年にあたる寛平九年(897)二月二十日に、五十四歳でコウ去。
※山崎のあなたに水無瀬といふ所→「山崎」は、山城の国(京都府)のさき(先端)。「水無瀬」は摂津(大阪府)となる。大阪府三島郡島本町。なお、「山崎のあなたに」の「に」は、「にある」の意。第九段の「京にその人の御もとに文書きてつく。(京とにいる誰それさんの御もとに手紙を書いて託した)」と同じ用法。
※その時、右の馬頭なりける人を常に率ておはしましけり→在原業平の事績と思わせるための記述。業平は惟喬親王が常陸大守となった貞観六年(864)の翌年の三月九日から親王が出家した貞観十四年(872)まで右馬頭の任にあった。
※時世へて、久しくなりにければ、その人の名、忘れにけり→語り手が韜晦した書き方。業平自身が昔のことを回想して語っているように見せる方法をとっているのである。
※狩はねんごろにもせで、やまと歌にかかれりけり→鷹狩りだけが「狩」ではなく、「桜狩」「紅葉狩」「薬狩」など、桜や紅葉を見るためにをも「狩」とする説もあるが、「狩はねんごろにもせで」「桜の木のもとに下りゐて」「酒をのみのみつつ、やまと歌に」専念したと言っているのであるから、「狩」が花の下での遊楽でないことは明らか。桓武天皇の時代から、水無瀬・交野は、鷹狩りがよく行われた所である。
※狩する交野の渚の家、その院の桜→交野は今の大阪府交野市だけではなく、今の枚方市交野市を含む河内国交野郡を言った。渚の家は、「淀川の渚にある家」という意。だから「その院の桜、ことにおもしろし」と言い直したのである。現在、京阪電車の「御殿山駅」の近所に渚本町、渚元町という地名が残っている。「院」は『箋注倭名抄』に「院 別宅也。垣院、謂庭館有垣牆」とあって、ここも、皇室所有の別邸であろうか。
※上、中、下、みな歌よみけり→身分の高い人、中の人、低い人がこぞって。『土佐日記』に「船路なれど、馬のはなむけす。上、中、下、酔ひ飽きて、いとあやしく潮海のほとりにてあざれあへり」(十二月二十二日条)、「仲麻呂の主『わが国にかゝる歌をなむ、神代より神も詠ん給び、今は、上、中、下の人も、かうやうに別れを惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時に詠む』とて」(一月二十日)のように用いられている。『古今集』の古い写本では「なかりせば」が「さかざらば」となっているものが多い。
※又、人の歌→作者未詳歌を用い、業平の歌と唱和しているかのように見せている。この憂き世に久しく続くものなどない、すべては空しく散ってしまうのだ、消えてしまうのだと無常を達観しているかのように詠みなしているのである。
※とて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ→「日暮れになりぬ」と書くことによって、次の「天野川といふ所にいた」った時の時間が、牽牛と織女が会う「天の川」にふさわしいものになる。

※御供なる人、酒を持たせて、野より出で来たり→「御供なる人」は主語であって「御供である主人公が(従者に)酒を持たせて野より出で来たり」と言う形で、この物語の主人公のことを言っているのである。「〜より」は「〜を通って」という意。野を通ってこの天の川原に登場したと言っているのである。惟喬親王の移動の様子を語らないで、急に場面を展開させる手法。後述の第八十七段の芦屋の里が主人公が別宅を持っている場所であったように、この交野のあたりも物語の主人公のテリトリーであったことを意識した書き方。
※天の河といふ所に至りぬ→現在京阪電車の枚方市駅のそばを通っている天野川の川原。
※交野を狩りて天の河のほとりに至る→これが歌題である。現実の川の名である「天野川」を牽牛織女で有名な天の川に見立てて、「交野で狩をして、なんと!天の川原にやって来たよ」喜ぶ心を主題として、当意即妙の和歌をよむ歌会を催したのである。
※狩り暮らし→暮れるまで狩をして。
※たなばたつめに宿借らむ→「たなばたつめ」は「機を織る妻」の意。年に一度牽牛と会うという織女のこと。
※親王、歌をかへすがへし誦んじ給うて、返しえしたまはず→惟喬親王は業平の歌に感じ入ってしまって、返歌がよめなくなったと言っているのである。
※紀有常→第十六段参照。
※一年(ひととせ)に一度(ひとたび)来ます君待てば…→「たなばたつ妻(め)」は一年に一度、七月七日にいらっしゃる夫(せ)の君を待っているので、他に宿を貸すお方は考えられないだろうと、冗談ぽく答えて、「もう帰りましょう」と、暗に言ったのである。

※帰りて、宮に入らせ給ひぬ→「宮」は、この段の冒頭に「山崎のあなたに水無瀬といふ所に宮ありけり」と紹介された水無瀬の離宮のこと。淀川西岸の交野から、東岸の水無瀬へ船で渡って帰って来たのである。
※夜ふくるまで、酒飲み、物語して→交野の渚の院での酒宴と、交野の天野川の川原での二次会に続いて、三次会である。「物語して」は、多く「あれこれと世間話をして」と訳してよい。「あひがき女にあひて、物語などするほどに、鳥の鳴きければ」(第五十三段)「いとしのびて物越しにあひにけり。物語などして」(第九十五段)という例がある。
※主の親王(みこ)→「この宮の主人である親王様」の意。
※十一日の月も隠れなむとすれば→「十一日の月」は「十五日の月」よりも早く出て、早く隠れるので、「まだきも月の隠るるか」と言ったのである。桜の頃であるので、おそらくは陰暦の二月十一日であろう。
※あかなくに→まだ十分に語り合っていないのに、
※まだきも月の隠るるか→こんなに早く月が隠れるのか。親王が寝所に入られるのを惜しむ心を、山の端に入る月を惜しむ心と重ね合せて表現したのである。
※親王に代り奉りて、紀有常→惟喬親王の立場に立って紀有常がよんだのである。
※おしなべて峯も平らになりななむ→「おしなべて」は「平らになりななむ」に続く。「高い峯も低い峯も、おしなべて平らになってほしい」と言っているのである。
※山の端なくは月も入らじを→月は山に入るから、「山(の稜線)がなければ、月は隠れないだろうよ」と言っているのである。業平は寝所に入るのを月が山に入ることに喩えてよんだのに対して、この歌は月のことだけをよんでいる。

※この段は三つのテーマからなっている。
@身分の高い人、中の人、低い人も一緒になって歌を詠んでいる理想的な世界。
A「たなばたつめ」惟喬親王と業平の別れ難い気持ちが強くなっている。
Bいつまでも楽しい時を一緒に過したいという気持ちがテーマになっている。

この段は惟喬親王が出家するので親しく付き合っていた親王と別れないといけない人の心情をとらえている。
翁(業平)の昔語りのポーズ。

平安時代の文学は「待つ心」「惜しむ心」がテーマになっている。
待つ心→春が来て花が咲くのを待つ、花を待つ心。恋人を待つ心。
惜しむ心→なくなってしまうことを惜しむ。桜の花の散るのを惜しむ。恋人が来なくなるのを惜しむ。

第八十三段

 むかし、みなせにかよひ給ひしこれたかのみこ、れいのかりしにおはします。ともに、うまのかみなるおきなつかうまつれり。日ごろへて、宮にかへりたまうけり。御おくりして、「とくいなん」とおもふに、「おほみきたまひ、ろくたまはむ」とて、つかはさざりけり。このむまのかみ、心もとながりて、
    まくらとて草ひきむすぶこともせじ
      秋の夜とだにたのまれなくに
                                (一五〇)
とよみける。時は、やよひのつごもりなりけり。みこ、おほとのごもらで、あかし給うてけり。(ここまでが前半)
 かくしつつ、まうでつかうまつりけるを、おもひのほかに、御ぐしおろしたまうてけり。む月に、「おがみたてまつらむ」とて、小野にまうでたるに、ひえの山のふもとなれば、雪いとたかし。しひて、みむろにまうでて、おがみたてまつるに、つれづれと、いと物がなしくておはしましければ、ややひさしくさぶらひて、いにしへのことなど、思ひいできこえけり。「さてもさぶらひてしかな」とおもへど、おほやけごとどもありければ、えさぶらはで、ゆふぐれに、かへるとて、
    わすれてはゆめかとぞ思ふおもひきや
       ゆきふみわけて君を見むとは
                              (一五一)
とてなむ、なくなくきにける。

                                  【通釈】

昔、水無瀬に毎年通っていらっしゃった惟喬親王が、いつものように狩をしにいらっしゃったのである。その御供に、その時馬頭(うまのかみ)であったこの翁がお仕え申しあげていたのである。
 数日を経て、京の宮殿にお帰りになったのである。このように宮様をお送りして、すぐに帰ろうと思っていたのに、御酒をくださり、禄をくださるということで、なかなか帰してくださらなかったのである。この馬頭は、いつもと違う親王のご様子が気がかりになって、
     旅寝の枕にすると言って草を引き抜いて丸くまとめるようなこともしないでおきましょう。−ここで寝るということもしないでおきましょう。永い秋の夜であっても、安心していることは出来ないが、まして、今は春の終り、貴重な時間なのですから、寝ないで、共にいつまでも語り合いましょう。
とよんだのである。時節は三月の末の頃であった。この歌に感激した親王は、寝所にお入りになることもなく、そのまま明かされたのである。
 このようなこと何度も繰り返しながら伺候していたのであるが、親王は、思いもかけず御剃髪してしまわれたのである。正月の御年賀を申し上げようとして小野に参上したのだが、比叡山の麓であるので、雪がたいそう高く積もっている。無理をして御庵室まで参上して、年賀の御挨拶を申しあげたのだが、何も手につかぬ感じで、ひどく物悲しそうな御様子でいらっしゃったので、やや長い間、お傍に控えいて、過ぎ去った日のことなど、あれこれと思い出してお話申しあげた。「そのまま、もっとお傍にいたいなあ」と思ったのだが、明日はまた公務があれこれとあったので、そのままお仕えしていることも出来ないで、夕暮れに帰るということで、よんだ歌、
    今の実情をつい忘れてしまって、これは夢かと思ってしまいますよ。実際、この場所に雪を踏み分けてやって来て、あなた様にお会いしょうとは思ったでしょうか。まったく思いもしませんでしたよ。
とよんで、ずっと泣きながら、帰って来たことであるよ。

【語釈】

※昔、水無瀬にかよひ給ひし惟喬親王→前段(第八十二段)の「昔、惟喬親王(これたかのみこ)と申す皇子(みこ)おはしましけり。山崎のあなたに水無瀬といふ所に、宮ありけり。年毎の桜の花盛りには、その宮へなむおはしましける」を受けている。
※例の狩しにおはします→「例の」は「いつものように」。同じく前段を受けている。
※供に馬頭(うまのかみ)なる翁仕うまつれり→前段の「その時、右の馬頭なりける人を常に率(ゐ)ておはしましける」を受ける。なお「馬頭なる翁」と言っているりは、同じく前段の「時世へてひさしくなりにければ」と対応している。「当時馬頭であったこの翁」の意。
※日頃経て、宮に帰り給うけり→「宮」は京都にあった小野宮。『拾芥抄』などによれば、大炊御門南、烏丸西にあった(現在の京都市中京区松竹町。地下鉄丸太町駅西)。

※この馬頭、心もとながりて→通説では「この馬頭はお許しが待ちどおしく心せいて」(新編日本古典文学全集)、「早くお許しが出ないかとじれったくて」(新日本古典文学大系)と解しているが、これでは、主人公が、親王を置いて自分だけ帰宅を急いでいることになって適切ではない。ここは、前段において「夜ふくるまで酒飲み物語して、あるじの親王酔ひて入り給ひなむとす」とあったのと対照的に、親王が「酔ひて入り給ひなむとす」ることもなく、「おほみき給ひ、禄給はむとて」帰らせてくださらないと言っているのである。要するに、第八十二段に描かれている親王の日常と全く逆の状態を見て、「右の馬頭」であった「男」は、「心もとながりて」、見捨てて帰りもならず、一夜を共にしたということなのである。
※枕とて草引き結ぶこともせじ→「枕にするために草を引いて丸めるようなことはしないつもりだ」「旅寝などしないつもりだ」という意。
※秋の夜とだにたのまれなくに→長いはずの秋の夜であってもゆっくり話し合うほどの時間はない。まして、今は「やよひのつごもり」だから、すぐ明けてしましますから」と言っているのである。た゜から、親王は「おほとのごもらで明かし給うてけり」と言っているのである。
※かくしつゝ、まうで仕うまつりけるを→このように親しく近侍していたのに、ここからが、この段のメイン・テーマ。
※思ひのほかに御ぐしおろしたまうてけり→惟喬親王の出家剃髪は、貞観十四年(872)七月十一日、親王二十九歳の時のこと(『三代実録』)。その時、業平は四十八歳。
※睦月に、拝みたてまつらむとて→正月の年賀のために参上したのである。
※小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば→比叡山西麓にあたる大原三千院の東、来迎院のあたりを古くから小野山と呼んでおり、また惟喬親王墓と伝える五輪如塔が大原上野町にあるが、小野妹子の息の小野毛人の墓が上高野西明寺山で発見され、古歌にもよまれている小野の氷室跡が同じく上高野にあることを思えば、修学院・高野から八瀬・大原にかけての地を広く「小野」と言ったとする『大日本地名辞書』の説明が納得されるのである。
※つれづれと、いと物がなしくておはしましければ→「つれづれと」は「つれづれと年ふる宿はぬばたまの夜も日もながくなりぬべらなり」(貫之集・巻四)の場合のように「なすこともなく退屈な状態」をいうこともあれば、「春暮れてさびしき宿はつれづれと庭しろたへに花ぞ散りけり」(躬恒集)のように、「さびしく閑散なさま」をいう場合ももあるが、ここはそれらを一体化した雰囲気、強いて言えば後の意に近いと言ってよかろう。
※思ひきや雪踏み分けて君を見むとは→倒置法的行文。「雪踏み分けて君を見むとは思っただろうか、思いはしなかった」と言っているのである。
※小野→山に繋がっている小さな野。
※小野山→野になっているが少し高地になっている。

【参孝】
※惟喬・惟仁位争いについて
 『平家物語』巻第八「名虎」や『曾我物語』巻第一「惟喬・惟仁の位争ひの事」によれば、文徳天皇は天安二年八月二十三日にコウじたが(実は二十七日)、第一親王惟喬と第二の親王惟仁(実は第四親王)のいずれを帝位につかせるべきか決し難く、公卿僉議(くげせんぎ)して競馬と相撲によってこれを決めることになった。惟喬方には東寺の真潸(しんせん)僧正が、惟仁方には叡山の恵亮和尚がつき、それぞれ祭壇を設けて勝利を祈った結果、惟仁方が勝って清和天皇となった。
 『平家物語』はここで終っているが、『曾我物語』ではさらに続けて、失意の惟喬親王はそのまま京へ帰らずに、比叡山の麓の小野に隠遁した。十月の末頃、在五中将在原業平が、雪を踏み分けて、一人庵室を訪ねて、懐かしい昔の思い出を語り合って、たまらなくなって、「わすれては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけてきみを見むとはむとよんだと言っているのである。『曾我物語』は、『平家物語』に紹介された惟喬・惟仁位争い説話と『伊勢物語』第八十三段に見える業平が雪を踏み分けて惟喬親王を訪問したという話をまとめて一つにしているのであるが、貞観十四年(872)七月十一日の惟喬親王出家の後、あまり時間をおかずに業平に小野の庵室を訪問させたために、業平の訪問を「十月の末頃」となった。だから、「雪踏み分けて…」という状況とは、いささかちぐはぐになってしまっているのである。陰暦では、七月から秋、三か月後の十月からは冬。業平の気持ちを表そうとすれば、三か月後の訪問が限界だったのであろうが、「雪踏み分けて」というには時節が早過ぎるのではないか。
 ところで、このような伝承を先入感に持って、この段の「思ひのほかに御ぐしおろしたまうてけり」の「思ひのほか」を「第一の御子なれば、儲君になり給ふべきが、清和のみかどにひきたがへられて」(一条兼良『伊勢物語愚見抄』…伊勢物語の注釈書)帝位につけなかったことを「予想に反して」と言ったのだとする解釈が、室町時代からごく最近まで続いていたのであるが、惟仁親王が皇太子になったのは惟喬親王出家(874年)の二十四年前の850年、帝位について清和天皇となったのは十六年前の858年のことであって、位争いに敗れて失意のあまり出家隠遁したというようなことはあり得ない。
 ここは、第八十二段と第八十三段前半の主従の親しい人間関係が惟喬親王の出家隠遁によって、思いもかけず離れなければならなくなった、「あのすばらしい時よ、もう一度という懐旧の思いとままならぬ人生を嘆く心がテーマになっていると見るだけでよい。