伊勢物語2…第七段〜第九段


                     第七段

 むかし、をとこありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに、
伊勢・尾張のあはひのうみずらをゆくに、浪のいとしろくたつを見て、
    いとゞしくすぎゆくかたのこひしきに
     うらやましくもかへるなみかな    
           (七)
となむよめりける。

               『通釈』
 昔、男がいたのである。京都にいることがつらくなって、東国に行ったのだが、
伊勢、尾張の間の海辺を行く時、波がひどく立っているのを見て、
    過ぎ去った過去が、この上なく恋しく思われるのに、
    うらやましいことに、立ってもまた元に戻る波であることよ、あれは。
と、よんだのであった。

                       『語釈』
京にありわびて→「わぶ」は失意・落胆・困惑・憶脳などを表わす語。「ありわぶ」は「生活しているのがつらくなる」 という意。「−わぶ」は「−することがつらくなる」こと。「住みわびぬ」(五十九段)は、住むのがつらくなること。「こひ わぶ」(五十七段)は恋に苦しむこと、「待ちわぶ 」(二十四段)は待つことに苦しんでいること。「念じわぶ」(二十一 段)は我慢するのがつらくなること。
伊勢・尾張のあはひの海づら→京都から逢坂の関を通って近江(滋賀県)に出て、伊賀・伊勢(共に三重県)を  通っ て尾張(愛知県)に出る東路(東海道)を東へ行くのであるが、その三重県と愛知県の境あたり。「あはひ」は「 間(あ いだ)」。「海づら」は「海に面している所」「海に連なっている所」
かへる波→「かへる」は「帰る」「還る」「返る」「反る」などの字があてられるが、一旦定まった状態が元に服する事 。「波の〜立つを見て」とあったように、波立ってもすぐ元へ返ることをうらやましがることによって、過去の都での生 活に帰りたがっているのである。都を棄てる思いと懐かしむ思いの相克。


                   第八段
 
 むかし、をとこ有りけり。京やすみうかりけん、あづまの方にゆき
てすみ所もとむとて、ともとする人ひとりふたりしてゆきけり。しな
ののくに、あさまのたけに、けぶりのたつを見て、
    しまのなるあさまのたけにたつ煙
     をちこち人の見やはとがめぬ  
             (八)

                   『通釈』
 昔、男がいたのである。京都が住みづらかったのであろうか、東の国
に行って住む所を探そうと考えて、友としている人一人二人と一緒に行ったのである。
信濃の国の浅間の嶽に煙が立っているのを見て、
    信濃にある浅間の嶽に立っている煙は、遠くにいる人も、近くにいる人も、
    誰もが見とがめるほどに目立つことであるよ。私も燃える恋の思いが露見して、
    思いもかけない所に来てしまったことであるよ。
   
                       『語釈』
※住みうかりけむ→住みづらかったのだろうか。
※ともとする人ひとりふたり→「ともとする人」は「友とする人」の意と「「供とする人」両意が考えるが、第九段に「もとより友とする人ひとりふたり」とあり、その中の一人が「ある人のいはく『かきつばた』といふ五文字を句の上に据ゑて旅の心をよめ」と言ったので主人公がよんだと書かれているのだから「供」とは解せない。親しい人が集まって旅に出た形をとっているのである。
※信濃の国浅間の嶽→長野県と群馬県との境にある2542メートルの火山。
※信濃なる浅間の〜→表面の意は「通釈」に示したとおりだが、釈然としないものが残る。「咎む」の用例を見ると、「いで我を人な咎めそ大舟のゆたのたゆたに物思ふ頃ぞ」(古今・恋一)「限りなき思ひのままに夜も来たむ夢路をさへに人はとがめじ」(同・恋三)「下にのみ恋ふれば苦し玉の緒の絶えて乱れむ人なとがめそ」(同・恋三)というように、許されぬ恋の思いが表出するのを見咎めることを言うのが普通である。また歌枕としての「浅間山」は、「信濃なる浅間の山も燃ゆなれば富士の煙のかひやなからむ」(後撰・き旅)「何時とてか我が恋やまむちはやぶる浅間の嶽の煙絶ゆとも」(拾遺・恋一)のように燃える思いの象徴としての富士山にも負けないほどの熱烈な恋の思いの比喩としてよまれたり、「雲晴れぬ浅間の山のあさましや人の心を見てこそやまめ」(古今・俳諧歌)「恨みてもしるしなけれど信濃なる浅間の山のあさましや君」(古今六帖)というように、「予想外で、がっかりだ」とか、「思うようにならないで不快なことよ」の意の「あさまし」を裏に持っている。このように考えると、「浅間の嶽に立つ噴煙のように誰にも隠せない我が恋。にもかかわらず、思いもかけぬこんな所に来てしまって、がっかりだ」と嘆いていると見ることもできるのではないかと思うのである。
※見やはとがめぬ→見咎めないのだうか、必ず見咎めるよ。「やは」は反語


                      第九段

 むかし、をとこありけり。
そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、「京にはあらじ。あづまり方にすむべきくにもとめに」とて、ゆきけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。みちしれる人もなくて、まどひいきけり。みかはのくに、やつはしといふ所にいたりぬ。そこをやつはしといひけるは、水ゆく河のくもでなれば、はしをやつわたせるによりてなむやつはしといひける。そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、かれいひくひけり。そのさはに、かきつばたいとおもしろくさきたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふいつもじをくのかみにすゑて、たびの心をよめ」といひければ、よめる。
    から衣きつゝなれにしつましあれば
      はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
              (九)
とよめりければ、みな人、かれいひのうへになみだおとしてほとびにけり。
ゆきゆきて、するがのくににいたりぬ。うつの山にいたりて、わがいらむとするみちは、いとくらうほそきに、つた・かへではしげり、物心ぼそく、すゞろなるめを見ることゝ思ふに、す行者あひたり。「かゝるみちは、いかでかいまする」といふを見れば、見しひとなりけり。「京にその人の御もとに」とて、ふみかきて、つく。
   するがなるうつの山べのふつゝにも
      ゆめにも人にあはぬなりけり                 (一〇)
ふじの山を見れば、さ月のつごもりに、雪いとしろうふれり。
   時しらぬ山はふじのねいつとてか 
      かのこまだらにゆきのふるらん
その山は、こゝにたとへば、ひえの山をはたちばかりかさねあげたらんほどして、
なりはしほじりのやうになんありける。
 猶ゆきゆきて、武蔵のくにとしもつふさのくにとの中に、いとおほきなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、おもひやれば、「かぎりなくとほくもきにけるかな」とわびあへるに、わたしもり「はやふねにのれ。日もくれぬ」といふに、のりて、わたらんとするに、みな人、物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、しろきとりの、はしとあしとあかき、しぎのおほきさなる、みづのうへにあそびつゝ、いををくふ。京には見えぬとりなれば、みな人見しらず。わたしもりにとひければ、「これなん宮こどり」といふを、きゝて、
   名にしおはばいざ事とはむ宮こ鳥  
      わがおもふ人はありやなしやと                (一一)
とよめりければ、舟こぞりてなきにけり。

                    『通釈』
昔、男がいたのである。その男は、我が身を役に立たないものと思い込んで、「都にはおるまい。東の方に住むことのできる国を求め行こう」と思って出かけたのである。道を知っている人もなくて、試行錯誤しながら出かけたのである。三河の国八橋という所に着いた。そこを八橋と言ったのは、水の流れる河が蜘蛛の手のように八方に広がっているので、八橋と言ったのである。その沢の木の蔭に、馬から下りて座って、乾飯(かれいい)を食べたのである。その沢には杜若が、たいそう心引かれるように咲いていた。それを見て、そこにいる一人が言うには、「か・き・つ・ば・た、という五文字を、歌の句の上に置いて、旅の心を詠みなさい」と言ったので、男が詠んだ歌、
   慣れ親しんだ妻が都にいるので、遥々とやって来た旅をいっそうしみじみと感じることであるよ。
と詠んだので、そこにいる人はみな同感して、涙を落とし、それによって乾飯がほとびたのである。
さらに道を行って、駿河の国に到着した。宇津の山に着いて、自分が入ろうとする道を見ると、その道は、たいそう暗く細いうえに、蔦・葛が生い茂り、何となく心細く、ぞっとするような目にあいそうだと思っていると、修行者が現れた。「このような道に、あなたは、なぜいらっしゃるのですか」と言うのを見ると、合ったことのある人であった。そこで、「京都にいる誰それさんのもとへ届けてください」と言って、手紙を書いてことづける。
その手紙には、
   駿河にある宇津の山辺に来ているから言うわけではないが、現(うつつ)にも、夢にも、あなたにお会いしないことでありますよ。 ※宇津の山辺→序詞(言いたい事を言うためにつけた言葉)
富士の山を見ると、五月の末であるのに、雪がたいそう白く降っている。(そこで、詠んだ歌、)
   時節を知らぬ山は富士の嶺であるよ。いったい今をいつと思って、このように雪が降っているのだろうか。
その山は、ここ京都に喩えると、比叡山を二十ほど重ね上げたと思える高さで、姿は塩尻のようだったのである。
さらにまた道を行って、武蔵の国と下総の国との中に、たいそう大きい川があったのである。それを隅田川という。その川の川辺で群がるように座って、「都へ思いを馳せてみると、ずいぶん遠くまでやって来たものだなあ」と言って、嘆き合っていると、渡し場の船頭が「早く舟に乗れ。日も暮れてしまう」と言うので、乗って、川を渡ろうとすると、人は皆、なんとなくつらい気持ちになって(どうしようもない)。誰もが、京に思う人がないわけではないからである。ちょうど
その時、白い鳥で、嘴と脚が赤くて、鴫の大きさであるのが、水の上に遊びつつ魚を喰っている。都では見ることのできない鳥であるので、皆、人は知らない。船頭に問うと、「これが、あの有名な都鳥なのだ」と言うのを聞いて、
   都鳥という名を背負っているのなら(都のことはよく知ってはずだから)、さあ、質問しよう。私が思いを寄せているあの人は健在であるか否かと。
とよんだところ、舟に乗っている人すべてが感じ入って、泣いてしまったのである。
(注1)『古今集』羇旅(四一一)と重出
 武蔵の国と下総の国との中にある墨田河のほとりに到りて、都のいと恋しうおぼければ、しばし河のほとりにおりゐて、「思ひやれば、かぎりなく遠くも来にれるかな」と思ひわびて、ながめをるに、渡し守「はや舟に乗れ。日暮れぬ」と言ひければ、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に、思ふ人なくしもあらず。さる折に、白き鳥の嘴と脚と赤き、河のほしりに遊びけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見知らず。渡し守に「これは何鳥ぞ」と問ひければ、「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きてよめる。
   名にしおはばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと (在原業平朝臣)
(注2)伝民部卿局筆本の末尾増補
 その河渡すぎて京にみし、あひて物語して、「ことづてやある」といひければ
   みやこ人いかゞととはゞやまたかみはれぬ雲井にわぶとこたゑよ

                    『語釈』
※身をえうなきまのに思ひなして=底本は「えうなき」とあるので、「要なき」の意とされているが、「要なし」の当時の語例は見あたらない。阿波国文庫本・伝民部卿局筆本では「ようなき」ね歴博本では「よふなき」とあるのを見ると、「用なし」の仮名違いとも考えられる。平安時代後期になると、「よう」と「えう」は混同されていて、たとえば『関戸家本古今集』では「逍遥(せうえう)」を「せうよう」と書いている。「ようなき」の場合は、「ようなきありきはよしなかりけり」(竹取物語)など例は多い。漢語「無用」の訓読で、「用いられない」の意で、「要なき」の場合と意は変らないが、「無要」とい漢語の例がないので、「用なし」とすべきであろう。
※もとよりともとする人一人二人して行きけり=「とも」と仮名書きしている本に従って「供」と解する説もあるが、「それを見て、ある人のいはく、『かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心をよめ』と言ひければ」とあるので、「供」ではなく、対等の人でなければいけない。なお、嵯峨本などの江戸時代の版本が供人二人ほどを描いているのは、「供とする人一人二人」とする説の影響かも知れないが、業平の時代に、業平程度の身分の人の東国下向であれば、供人は少なくとも十人以上従っていたと見るべきであろう。
※三河の国、八橋=「三河の国」は今の愛知県の東部。八橋は、現在は名古屋鉄道三河線に「三河八橋」という駅があり近くに臨済宗妙心寺派の無量寿寺のむかきつばた庭園をその遺跡としているが、江戸時代に作られたものである。また近くには在原寺、在原業平供養塔などもあるが、いずれも後のもので、平安時代の八橋がこの地にあったとする根拠は乏しい。しかし、ここから遠くない刈谷市井ケ谷町小堤西池は天然記念物にもなっている燕子花(かきつばた)の群落である。三万二千七百平方メートルの池の一面に燕子花が咲いている。このあたりは低湿地が多いのか、その花の季節には、あちらこちらに燕子花や花菖蒲が咲いているのが目につく。小堤西池に特定はできないが、このあたりが燕子花の名所であったことは確かなようである。なお、西暦千三百年過ぎに、二条という女房が書いた『とはずがたり』の巻四には、
   八橋といふ所に着きたれども、水ゆく川もなし。橋も見えぬさへ、友なき心地して、「われはなほ蜘蛛手に物は思へどもその八橋は後だにもなし」 (蜘蛛の手は八つある)
とある。鎌倉時代の後期、既に遺跡はなくなっていたのである。
※おりゐて=馬から降りて、すわって。
※かれいひ食いけり=「かれいひ」は、旅行中の携帯食料。飯を干したもの。湯または水をかけて食べる。『新撰字鏡』には「粮 乾飯也 食也、加礼伊比、 又保志比」とあり、また『名義抄』には「粮 カレイヒ」とある。
※かきつばた=あやめ(菖蒲)と区別がつけにくいが、あやめ(菖蒲)の葉は蒼白に近く、幅五〜十ミリであるのに対して、かきつばたの葉は緑色で、幅は紫色で、幅は二十〜三十ミリ、直立して花茎より高くなる。また花は本来種は紫色。
※旅の心をよめ=旅情を主題にして歌をよめ。
※から衣きつつなれにし……=和歌の修辞技法の限りを尽くしているのに、それを感じさせないのがこの歌の特徴。業平の人柄であろう。その修辞技法は、@折句ーか・き・つ・は・た の五文字を句の頭に詠み込む。A枕詞ー「韓衣(衣の美称)」で、「きつつ」の「き(着)」にかかる。B縁語ー「衣」の縁で用いられたことば。「着る」「萎る」「褄」「張る」。
※掛詞(懸詞)、「来ー着」「馴れー萎れ」「妻ー褄」「遥々ー張々」「来ー着」がそれにあたる。
※旅をしぞ思ふ=旅をしみじみと思う。「〜しぞ思ふ」は、熟語的表現で、「しみじみと思う」の意。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」(古今集・羇旅・四〇九)と同じ用法。
※みな人、かれいひの上に涙落としてほとびにけり=旅の苦しさをそのまま物語化するのではなく、あえてオーバーな表現を用いて「滑稽化」の効果を表現しているのである。
※駿河の国=現在の静岡県中部。東は相模の国、西は遠江の国。※近い海→おうみ  遠い海→とうみ
※宇津の山=駿河の国安倍群と志太群の境にある山。わかりやすく言えば、静岡市の西方の丸子と志太群岡部町の境に位置する海抜170メートルの小さな峠だが、小夜の中山とともに東海道の難所とされていた。
※つた、かへではしげりて=「かへで」を「かづら」の誤写と見ると「つた(蔦)」は蔓によって延びるもの。「かづら(葛)」も蔓によって延びるものであるから、さまざまな蔓草がからまって生えている状況を表わし、だから「物心細く、すずろなるめ」を見ると続けていると見ることもできる。それに対して、「かへで」の場合は蔓のない木を代表させて、蔓草の代表である葛と対比させたと見るべきであろうが、「かへで」は「紅楓」という語があるように、「かへでのもみじ」(第二十段)という形で使われるの一般的であったし、「楓」が蔓のないものの代表になる理由もわからない。「かつら」と仮名で書かれていたものが「かへで」と誤写された。つまり「へ」は「つ」の誤写、「て」は「ら」の誤写と見れば納得できる。しかし、「かづら」を「かつら」と読み、「楓」の字をあてたのが「かへで」読まれたと考えられる。『万葉集』巻四・六三二の「目には見て手には取られぬ月の内の楓の如き妹をいかにせむ」の「楓」は「かつら」と読まれている。このように、「楓」の字はもともとは「かつら」と読まれていたが、後(中世か)に「かへで」と読まれるようになったので、「つた・かづら」を「つたかつら」と誤って「蔦楓」と書いたのを「つた・かへで」と読んでしまったと考えるのである。
※すずろなるめ=『名義抄』は「漫」を「スズロニ」と読み、『前田家本名義抄』は「情」『徒」「無端」などの字をあてるように、広く「意識した通りにならない情況」を言う。「意外な」「あてもない」「思慮のない」などの訳語があり得るが、ここは、「思いもかけぬ嫌なめに会う」意である。
※修行者あひたり=修行者が主語。修行者が主人公に会った。
※京にその人の御もとに=「御もとに」とあるので、修行者に託した歌の受け手が「貴人」であることがわかる。
※文書きてつく=「つく」は、『名義抄』が「詫」の字を「ツク」と読んでいるように、「託す」こと。「言づける」の「つける」である。
※うつつにも夢にも会わぬなりけり=当時は、自分が思っているから恋する相手を夢に見るという場合と、相手が思ってくれているから夢に見えるという場合の二つがあった。「思ひつつ寝ればや夢の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを」(小野小町の歌)が前者の例であり、「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものを頼みそめてき」が後者の例である。ここは後者の場合であり、都の女人が思っていてくれないからか、自分の夢にも現れないと言っているのである。
【参考】国立歴史民族博物館本に付加されている小式部内侍自筆本
むかし、おとこ、すゞろなるみちをたどりゆくに、するがのくに、うつのやまぐちにいたりて、わがいらんとするみちに、いとくらうほそきに、つたかへではしげり、物こゝろぼそくおもほえて、すゞろなるめをみる事と思ふに、すぎゆくにさしあひたり。「かゝるみちには、いかでかいまする」といふをみれば、みし人なりけり。京にその人のもとにとて、ふみかきてつく。
   なかぞらにたちゐる雲のあともなく身のいたづらになりぬべきかな
とてなんつけたる。かくておもひゆくに、
   するがなるうつみの山のうつゝにもゆめにも人にあはぬなりけり
とおもひゆきけり。

※ここにたとえば=物語が京都で語られていた事を示している。
※しほじり=海浜で製造する時に用いる砂山。これに海水をかけ、日にあたって浮き出てくる塩を砂と分離するという。
墨田河=現在の隅田川は東京都の中央区と江東区の間を流れていて、武蔵の国(東京都)と下総の国(千葉県)の間を流れるのは旧江戸川であるが、いずれも利根川の下流であり、往時は荒川や江戸川も一つの流れであったらしい。早く『類聚三代格』の承和二年(八三五)の官符に「武蔵・下総両国堺、住田河、崖岸広違、不得造橋」とあり、室町時代の歌僧尭恵の『北国紀行』には、「文明十八年二月のはじめ、鳥越の翁、船よそひして、隅田川泛びぬ。東岸は下総、西岸は武蔵野に続けり。利根・入間の二河落ち合へる所に、かの古き渡りあり。」とある。
※「思ひやれば」=ここからは、登場人物の詞や会話を「  」に入れて訳してみた。
※「みな人、物わびしくて」=「て」の後に説明が省略されているとも解せるが、「みな人、物わびしくて」という文脈と「みな人、京に思ふ人なきにしもあらず」という文脈が合体し合流してしまったとも解せる。
※「みやこ鳥」=ユリカモメのこととするのが通説。東光治『続萬葉動物考』によれば、「鳩よりも少し細めで、嘴と脚は美しい暗赤色である。広くアジア、ヨーロッパに分布し、我国には冬鳥で、夏カムチャッカ、樺太、千島の方面で繁殖し、秋に来て冬は南方台湾にまで渡り、翌春に北に帰る。主に海上に群棲し、海が荒れると河川を遡って山間地方にも飛来する」「東京付近では毎年十月末頃から姿を現して翌年四月中旬までいる」と述べておられる。なお、前の部分の富士山の「五月のつごもり」にこだわる必要はなく、独立させて考えてよい。
※「ありやなしやと」=健在であるか否か。「あるかなきかに消え入りつつ物し給ふを」(源氏物語・桐壷)なども同じ言い方。
※とよめりければ、舟こぞりてなきにけり=伝民部卿局筆本を除けば、この大きな章段はここで終わるわけだから、この「泣きにけり」の内容が、この段のテーマであると言える。八橋の場面で「から衣きつゝなれにし…」の歌によって「みな人、かれいひの上に涙おとしてほとびにけり」というのと同じく「泣く」「涙」がこの段のテーマになっているのだが、何故に泣くのかと言えば、前者では、「なれにしつましあれば」であり、後者では「わが思ふ人はありやなしやと」と問いかける思いの切なるゆえである。『伊勢物語』は、やはり男女の物語、恋の物語なのである。

☆「むかし、をとこありけり」→伊勢物語本来の書き方である。古い書き方で、尊重されている。
☆この段は六段、二十三段とともに高校の教科書に出てくる。この九段は特に多く使っている。
☆民部卿→藤原定家の娘。
☆韓衣(からころも)→中国、韓国から入ってきた。色が落ちない。平安時代は日本(草木染)でも作っていた。