伊勢物語20…第八十四段〜第八十五段

第八十四段

 むかし、をとこ有りけり。身はいやしながら、はゝなむ宮なりける。そのはゝ、ながをかといふ所にすみ給ひけり。子は京に宮づかへしければ、まうづとしけれど、しばしばえまうでず。ひとつごにさへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、しはすばかりに、とみのこととて、御ふみあり。おどろきて見れば、うたあり。
     老いぬればさらぬわかれのありといへば
         いよいよ見まくほしきはみかな
                          (一五二)

かの子、いたううちなきてよめる。
     世の中にさらぬわかれのなくも哉
          千よもといのる人のこのため
                          (一五三)

【通釈】

 昔、男がいたのである。その身は賎しかったが、母は宮様だったのである。その母は長岡という所に住んでいらっしゃったのである。子の方は、京で宮仕えしていたので、母の所に参上しようとしていたのであるが、頻繁には参上できない。かけがえのない一人子でさえあったので、とてもかわいがりなさっていた。 
 そのような状態であったのだが、十二月頃に、至急の用事だと言ってお手紙があった。驚いて見ると、歌が書いてある。  
    年をとってしまうと、避けることができない別離があると言うので、ますますお会いしたくなるあなたでありますよ。

その子がひどく泣いてしまって詠んだ歌、
    この世の中に避けることのできない別れなんてなければよいのに、千世も生きていてほしいと祈っている我々子供のために…。

※親子の愛情を語っているのはこの段のみ。
※この段は業平自身が書いたというポーズをとっている。

【語釈】

※身はいやしながら、母なん宮なりける→母は桓武天皇第八皇女伊都内親王。伊都内親王の母は従三位中納言乙叡の娘従五位下藤南子。「伊都」は『三代実録』に「伊登」と書き、『本朝皇胤紹運録』は「伊豆」をあてるが、「伊都内親王願文」(御物、橘逸勢筆)には伊都と自署している。「身はいやしながら」と言ったのは謙遜の辞である。当事者もしくはそのゆかりの者がこの物語を語っているというポーズをしているのである。
※三代実録→朝廷の正式の記録。清和天皇・陽成天皇・光孝天皇。
※本朝皇胤紹運録→日本の天皇家の系図。
※逸勢(はやなり)→三筆(弘法大師・嵯峨天皇・逸勢)の一人。
※その母、長岡といふ所に住み給ひけり→『続日本後紀』嘉祥元年(848)七月二十九日条によって、伊都内親王の家宅は洛中にあったことがわかるが、長岡に遷都した桓武天皇の娘であるから、長岡にも別邸を持っていた可能性はあって、虚構とばかりは言い切れない。
※子は京に宮仕へしければ→前段の「おほやけごと」と同様に、『伊勢物語』において「宮仕へ」は、人間らしい愛情を
阻碍するものとして語られている。
※一つ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけり→『本朝皇胤紹運録』の「在原行平」の注記には「母伊豆内親王」とあり、同じく「業平」の注記には「母、同行平」とあって、業平と行平を同腹の兄弟としているが、そうではない。二人の父親である阿保親王は、延暦十一年(792)の生まれ、薬子(くすこ・くすりこ・やくし)の変に連座して弘仁元年(810)に十九歳にて太宰権帥に貶され、天長元年(824)父平城上皇の崩御後、嵯峨上皇の勅によって入京を許された。息の在原行平は弘仁九年(818)の生まれであるから、九州退去中に生まれた子であって、伊都内親王の息ではあり得ない。業平は天長二年(825)の生まれであるから、その前年の天長元年(824)に許されて帰京し、すぐに伊都内親王と結婚し、業平を生んだのであろう。ちなみに、貞観三年(861)九月十九日に伊都内親王がコウじた翌年の一月七日に行平は従四位下(じゅしいげ)から従四位上に進んでいることを思えば、行平は伊都内親王がコウじた時に喪に服していないことになり、やはり伊都内親王の息ではなく、業平と同母兄弟でないということになる。
※しはすばかりに、とみのこと→当時は数え年であったから、正月が来るということが、年をとるということであった。「とみ」は、字音語の「頓(とん)」の仮名表記。「とみのこと」は「にわかのこと」「急なこと」。「『あからさまに物し給へ。とみなること』とあれば」(『うつほ物語』国譲上)。「あからさまに」は「こっそりと」という意。現代語と逆の意。

第八十五段

 昔、をとこ有りけり。わらはよりつかうまつりけるきみ、御ぐしおろしたまうてけり。む月には、かならずまうでけり。おほやけのみやづかへしければ、つねには、えまうでず。されど、もとの心うしなはでまうでけるになん有りける。むかしつかうまつりし人、ぞくなる、ぜんじなる、あまたまゐりあつまりて、む月なれば、事たつとて、おほみきたまひけり。ゆきこぼすがごとふりてひねもすにやまず。みな人、ゑひて、『雪にふりこめられたり』といふをだいにて、うたありけり。
    おもへども身をしわけねばめかれせぬ
        ゆきのつもるぞわが心なる
                              (一五四)
とよめりければ、みこ、いといたうあはれがりたまうて、御ぞぬぎて、たまへりけり。

※後の人が作った段であるが、伊勢物語の特徴である「変らない心」を強く表現している。
※惟喬親王かそうでないかという曖昧さをもって読む。「元の心」「変らない心」を失わないで読んでいく。
※歌は業平より後の人の歌を利用して作っている。

【通釈】

 昔、男があったのである。子供の時からお仕えしていた主君が、剃髪なさってしまわれたのである。その君に、正月には、かならず年賀に参上していたのである。天子様に対する宮仕えをしているので、普段は参上しようにも参上できない。しかし、それでも、当初からの敬慕の心をうしなうことなく、正月には参上していたのである。
 昔、惟喬親王の出家前にお仕えしていた人は、俗のままでいる人や、僧侶になっている人が、数多く参り集まって、正月であるので、寿言を言おうということで、御酒を賜わったのである。雪が上から落ちて来るように降って、一日中やまない。そこにいる人が、みな酔っ払って、「雪に降り籠められている」という題で、即興の歌会が始まる。
    宮様のことをずっと思っているのですが、我が身を二つに分けることは出来ないので、普段はなかなかお訪ねすることが出来ないのですよ。今日、帰れないように、雪が積もっているのは、まさしく、ずっとお会いしていたいという私の心の表れでありますよ。

【語釈】

※童より仕うまつりける君、御ぐしおろし給うてけり→「昔、男ありけり」の「男」を在原業平と考え、「御くしおろしたま」うた「君」を惟喬親王と考えるために、承和十一年(844)生誕の惟喬親王よりも十九歳年長の在原業平(天長二年・825生まれ)が「童より仕うまつ」っていたとし考えるのはおかしいとして、「(惟喬親王)」とする解釈が、室町時代以降行われて来たのであるが、文脈的に見ても、適切ではない。実在の惟喬親王と在原業平の年齢を前提にして考えるのではなく、ここは物語として、素直に「男が童の時からお仕えしていた君」と解すべきであろう。
※睦月にはかならずまうでけり→年賀のことであろう。
※おほやけの宮仕へしければ、つねにはえまうでず→「おほやけわたくし」(源氏物語・帚木)という言い方があるように、「おほやけ」は「公的なもの」「朝廷のこと」と解されていて、それはそれでよいが、『伊勢物語』における「おほやけ」は、「おほやけおぼして使うたまふ」(第六五段)、「おほやけの御気色あしかりけり」(第114段)のように、天皇その人を言う場合がある。そのように読めば、『源氏物語』の「おほやけ」も多くは「天皇」の意である。ここも親王に対する宮仕えと区別すべく、天皇に対する宮仕えと書いているのであろう。
※もとの心失はでまうでけるになん有りける→親王出家以前に仕えていた時と同じ心で仕えていると言っているのである。「変らない心」が『伊勢物語』全体を貫くテーマなのである。
※昔、仕うまつりし人→出家剃髪する前の惟喬親王に仕えていた人。
※俗なる、禅師なる→「俗なる」は物語の主人公のように官人生活を続けている人。「禅師なる」は親王とともに出家した人のことであろう。「禅師」は「禅定門(ぜんじょうもん)に入った人」、すなわち出家して仏門に入った人のこと。
※む月なれば、ことたつ字をあてるならば、「言立つ」をあてるべきであろう。「言立つ」は、現代人には難解だが、言霊が感応するように、特別の言葉を意識して言うこと。普段と違ったことを言うこと。「海ゆかば 水漬(づ)く屍(かばね) 山ゆかば草むす屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みはせじとことだて」(万葉集・巻十八・4094)のように「誓言を言う」という意の場合も多いが、ここは正月にふさわしく寿言(よごと)をいう意と解すべきであろう。
※雪こぼすがごと降りて、ひねもすにやまず→「こぼす」は、『名義抄』が「覆」「溢」という字を読んでいるように「あふれ出る」ことであろう。水、酒、涙について言う場合は多いが、「雪」について言うのは珍しい。
※みな人酔ひて「雪に降り籠められたり」といふを題にて、歌ありけり→集まった人々で催した即興の小歌会。すぐ小歌会が開かれるような雅な人々ばかりなのである。
※思へども身をし分けねば目離(めか)れせぬ雪の積もるぞわが心なる=『古今集』離別歌(372)の「東の方(かた)へまかりける人によみてつかはしける」という詞書を持つ「伊香子淳行(いかこのあつゆき)」の歌「思へども 身をしわけねば 目に見えぬ 心を君にたぐへてぞやる」によって、後人が作った歌であろう。
「目離る」は「目を離す」「見ることをやめる」の意。第四十六段に「『あさましく対面せで、月日の経にけること。忘れやし給ひけんといたく思ひわびてなむ侍る。世の中の人の心は、目離るれば、忘れぬべき物にこそあめれ』といへりければ、よみてやる」という詞書で、「目離るとも思ほえなくに忘らるる時しなければおもかげに立つ」とある。「目かれせぬ雪」は目の前から離れない雪。
※御衣脱ぎて賜へりけり→自分が着ている衣を脱いで直接下賜するというのは、最高の待遇。ただし、出家して僧の姿になった親王が「御衣脱ぎて賜へりけり」というようなことをするのかどうか疑問ではある。