伊勢物語21…第八十六段〜第八十七段

第八十六段

 昔、いとわかきをとこ、わかき女をあひいへりけり。おのおの、おやありければ、つゝみて、いひさしてやみにけり。年ごろへて、女のもとに、猶、心ざしはたさむとや思ひけむ、をとこ、うたをよみてやれりけり。
    今までにわすれぬ人は世にもあらじ
      おのがさまざま年のへぬれば
                          (一五五)
とて、やみにけり。をとこも女も、あひはなれぬ宮づかへになん、いでにける。

【通釈】

 昔、たいそう若い男がいたのである。その男は、若い女と思いを述べ合うようになっていたのである。それぞれが親のある身であったので、その思いを抑えて、途中の段階で、中断していたのである。
 何年か経って、女のもとに、やはり愛情を達成しようと思ったのであろうか、男は、歌をよんで贈ったのであった(が、女は、)
    何年も経った今まで相手のことを忘れずにいる人なんてまさかこの世にいないでしょうよ。お互いに様(さま)の変った生活をして年を経て来たのですから。
と言って、二人の関係は終わってしまったのである。
 男も女も、お互い離れているわけではない宮仕えに出たのであった。

【語釈】

※あひ言へりけり→互いに思いを述べ合った。
※おのおの親ありければ→おのおの監督する親があったので。
※つゝみて、言ひさしてやみにけり→「つゝみて」は「抑えて」「外に出さないようにして」という意。「−さす」は、していることを途中で中断すること。「勉強しさしで遊ばないように」というような形で、昭和初期まではよく使われていた。
※つゝみて→「つつしむ」のつながったもの。
※年ごろへて、女のもとに、なほ心ざし果たさむとや思ひけむ、男、歌をよみてやれりけり→やや文章が乱れている。「年ごろへて、なほ心ざし果たさむとや思ひけむ、女のもとに、男、歌をよみてやれりけり」と整えて見れば、ここは納得できるが、続く歌は「なほ心ざし果たさむと」と思ってよんだ男の歌にふさわしくない。しかし、非定家本系統の「年ごろへて、女のかたより、『なほこの事とげむ』といへりければ、をとこ、うたをよみてやれりけり」(阿波国文庫旧蔵本)であっても変らない。この歌は、やはり「年ごろへて、なほ心ざし果たさむとや思」って歌を贈って来た男に対する女の歌と見るべきであり、そのように読んでこそ、「とて、止みにけり<と言って、終りになってしまったのである>」の「とて」が納得できるのではないか。なほ心ざし→「ざし」…目指す本来の意志で成就したいと思ったのだろうか。
※猶、心ざしはたさむとや思ひけむ→気持ちの説明を物語の作者が書いている。
※制度的には平安時代は一夫一妻制であった。親の監督で結婚した最初の人が妻。
 紫式部の時代は一夫多妻であったが原則として正妻のみが財産贈与を受けることが出来た。
 妻妾→妻…正式の妻。妾(しょう)…それ以外の妻。

第八十七段

 むかし、をとこ、津のくに、むばらのこほり、あしやのさとに、しるよしして、いきてすみけり。むかしのうたに、「あしやのなだのしほやきいとまなみつげのをぐしもささずきにけり」とよみけるぞ、このさとをよみける。ここをなむ、あしやのなだとはいひける。このをとこ、なまみやづかへしければ、それをたよりにて、ゑふのすけども、あつまりきにけり。このをとこのこのかみも、ゑふのかみなりけり。その家のまへの海のほとりにあそびありきて、「いざ、この山のかみにありといふぬのびきのたき見にのぼらん」といひて、のぼりて見るに、そのたき、物よりこと也。ながさ二十丈、ひろさ五丈ばかりなるいしのおもて、しらぎぬにいはをつゝめらんやうになむありける。さるたきのかみに、わらうだのおほきさして、さしいでたるいしあり。そのいしのうへにはしりかゝる水は、せうかうじ・くりのおほきさにてこぼれおつ。そこなる人に、みな、たきの哥よます。かのゑふのかみ、まづよむ。
    わが世をばけふかあすかとまつかひの 
     なみだのたきといづれたかけん 
                        (一五六)
あるじ、つぎによむ。
    ぬきみだる人こそあるらし白玉の
     まなくもちるかそでのせばきに  
                        (一五七)
とよめりければ、かたへの人わらふことにや有りけん、この哥にめでて、やみにけり。
 かへりくるみちとほくて、うせにし宮内卿もちよしが家のまへくるに、日くれぬ。やどりの方を見やれば、あまのいさり火おほく見ゆるに、かのあるじのをとこよむ。
    はるゝ夜のほしか河辺の螢かも
     わがすむかたのあまのたく火か
                         (一五八)
とよみて、家にかへりきぬ。
 その夜、雨の風ふきて、浪いとたかし。つとめて、その家のめのこども、いでて、うきみるの、なみによせられたる、ひろひて、いへの内にもてきぬ。女かたより、そのみるを、たかつきにもりて、かしはをおほひていだしたる、かしはにかけり。
    渡津海のかざしにさすといはふ藻も
     きみがためにはをしまざりけり  
                        (一五九)
ゐなか人のうたにては、あまれりや、たらずや。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は摂津の国菟原郡芦屋の里に領地を持っている関係で、行って住んだのである。昔の歌に、
    芦屋の灘で塩を燒く海人は、仕事が忙しくて時間がないので、黄楊の小櫛もささずに私の所へやって来たことであるよ。
とよまれているのは、この里をよんだものであった。ここを芦屋の灘と言ったのである。
 この男は、宮仕えと言えないほどの宮仕えをしていたものだから、それを手づるにして、衛府の次官たちが、集まってやって来たのである。この男の兄も衛府督(えふのかみ)だったのである。
 その芦屋の家の前の海辺で遊びまわって、「さあ、この山の上手にあるという布引の滝を見に登ろう」と言って、登って、見ると、その滝は普通の物に比べると、異様に大きい。長さ二十丈、広さ五丈ほどの石の表面は、白絹に岩を包んだようであったのである。
 そのような滝の上手に、円座の大きさをして突き出している石がある。その石の上に激しく落ちかかる水は、まるで小柑子や栗の大きさで、こぼれ落ちる。
 そこにいる人のすべてに、滝の歌をよませる。前述した衛府督が、第一に詠む。
    我が世が、今日来るか明日来るかと思って待っている効がないので流している私の涙の滝と、この布引の滝は、どちらが高くから多量に落ちているだろうか。
 この芦屋の舘の主が、次に詠む。
    緒を引き抜いて散乱させる人がいるらしい。白玉が間を置かずに散ることよ。それを包む私の袖はこんなに狭いのに。
と詠んだものであるから、傍らの人は、それを聞いて、笑う表現であったのだろうか。そうではなくて、この歌に感じ入って、その歌の場は終わってしまったのである。
 帰って来る道は遠くて、亡くなった宮内卿もちよしの家の前まで来ると、日が暮れてしまった。泊まっている所の方をはるかに見やると、漁師の漁火がたくさん見えるのだが、それを見て、例の接待役の男が詠む。
    あれは、晴れた夜空の星だろうか、河辺を飛ぶ蛍だろうかなあ。あるいはまた、私が住んでいる方の漁師が焚く篝火であろうか。
 その夜は、南の風が吹いて、浪がたいそう高い。その翌朝、その家の女たちが海辺に出て、水に浮いている海松(みる)が浪によって浜辺に寄せられているのを拾って、家の中に持って来た。この別荘の女主人のいる方から、その海松を高坏(たかつき)に盛って、柏の葉で覆ってさしだした。その柏の葉に歌が書いてあった。
    海神がかんざしに挿すということで聖なるものとして尊重して来たこの海松ではありますが、あなたのためには惜しみはしないことでありますよ。どうぞお召しあがりください。
田舎の人の歌としては、水準を超えているだろうか、あるいは水準以下であろうか。

【語釈】

※津の国、菟原の郡→第三十三段参照。
※芦屋の里→『倭名抄』に見える「兎原郡」の八郷の一つに「葦原」と見えるのがこれであろう。
※しるよしゝて、行きて住みけり→「しるよしして」は、「ならの京、春日の里にしるよしして狩にいにけり」(第一段)、「昔、男、津の国にしる所ありけるに、」(第六十六段)に例があるが、「世の中をしりたまふべき右のおとどの御いきほひは」(源氏物語・桐壷)のように、「統括している」、もしくは「領有している」という意である。「よし」は、「縁故」「由緒」「口実」と訳して足りる。
※芦の屋の灘の塩焼き…→『万葉集』巻三(278)に、石川少朗子(君子)の「然之海人者軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久爾(しかのあまはめかりしほやきいとまなみくしげのをぐしとりもみなくに)」の類想であり、『伊勢物語』の改作と見るべきであろう。
※とよみけるぞ、この里をよみける→これほどまでに、海人が忙しく働いている里だと都の人に説明しているのである。
※ここをなむ、芦屋の灘とは言ひける→「灘」は風波が荒く舟が難渋するところ。普通名詞である。「ひぢきのなだ」(万葉集・巻十七・3893)、「和泉の灘」(土佐日記)などという地名になっている所もあるので、「芦屋の灘」と言ったのである。現在も芦屋から西のかなり広い海域に面した所を「灘」と呼んでいる。芦屋と隣接している神戸市東灘区、から灘区にまたがる日本酒の産地を「灘五郷」と呼んでいる。
※なま宮仕へ→「心ある女」まで至らない女を「なま心ある女」(第十八段)というように。「なま」は、その状態に至りきらぬことを示す接頭語。「なま宮仕へ」は「中途半端な宮仕え」「宮仕えとも言えないような宮仕え」の意。謙遜している。この文章は業平に繋がりのある人物が書いたと言うポーズを示そうとしている。
※それをたよりにて→「たより」は「手がかり」「手づる」。「言ひ出でむもたよりなさに」(第六十三段)
※衛府の佐ども→「衛府」は近衛府・衛門府・兵衛府。それぞれ左右があったので「六衛府」と言った。「佐」は次官。近衛中将、衛門佐、兵衛佐。
※この男のこのかみも衛府の督なりけり→この場合の「このかみ」は、『倭名抄』に「兄爾雅云、男子先生為兄。一云、昆、和名、古乃加美」とあるように「兄」のことだが、『名義抄』では、「姉」をも「コノカミ」と読んでいる。この場合は兄で、行平は貞観六年三月に左兵衛督、同十四年八月に左衛門可督になっている。
※その滝、物よりことなり→この「物」は、「取り上げるに値するもの」の意で、現在でも、「物の数ではない」とか、「あの男は物になる」というような言い方をする。「右のおとどの御勢ひは、物にもあらずおされ給へり」(源氏物語・桐壷)。「ことなり」は、「他と異なっている」「格別だ」という意だから、「物よりことなり」は「取り上げるに値する何物に比べても格別である」ということである。
※長さ二十丈、広さ五丈→「丈」は「尺」の十倍。「尺」は約三〇センチだから、二十丈は六〇メートル。五丈は一五メートルとなる。現在の布引の滝の雄滝は、高さ四五メートルとされている。
※さる滝の上に→「さる」は「さある(そのような状態である)」の約。すなわち、「長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる」なる「物より異な」る滝の上手の方に。
※わらうだの大きさして→「わらうだ」は『倭名抄』に「円座 和良布太 円草褥(しとね)也」とあるように、「わらふだ」が本来の表記。藁のほか、菅(すげ)や藺草(いぐさ)で渦巻き状にまるく編んだ座ぶとん。
※小柑子・栗の大きさにて→「柑子」は今の蜜柑よりも小さかったのに、「小」をつけているのだから、「栗」とあまり変らない大きさだったのであろう。
※そこなる人に、みな滝の歌よます→少人数の即興の歌会になったのである。
※わが世→当時の用例としては「(残り少ない)自分の人生」という意で用いられているものが圧倒的に多いが、ここはそれでは通じない。「自分が時めいている世」の意。
※待つかひのなみだの滝→「待つかひが無い」の「無み」と「なみだ(涙)」の「なみ」を掛ける。また「効(かひ)なし」の「かひ」と「峡(かひ)」の「かひ」を響かせる。
※無み→「なし」の形容詞、状態を現す。
※あるじ→芦屋の別荘に人々を招待して饗応している人。「あるじも客人(まらうと)も」(土佐日記)。
※ぬき乱る人こそあるらし→「玉の緒」を引き抜いて乱れるようにする人があるらしい。「乱る」は他動詞で「乱す」の意。「わが挿せる柳の糸を吹きみだる風にか妹が散るらむ」(万葉集・巻十・1856)。
※白玉の間なくも散るか袖のせばきに→「白玉」は袖に包むものであった。「あかずして別るる袖の白玉を君がかたみとつつみてぞ行く」(古今集・離別・400・よみ人しらず)なお、「袖のせばきに」について、『新釈』が「『袖のせばきに』とは、賎しき人の布の衣は袖などもせばきものなればいへるにて、時にあはず、官位のひききをなげく心あるべし」と言ってから、官位の低いことを嘆く気持ちを表していると読むのが通説になっているが、貴族の間では官職や位階によって袖の大きさが異なるわけではないので、「袖のせばきに」でそこまで言えるかどうかは疑問である。藤原氏に圧倒されて在原氏が逼塞(ひっそく)していたと考える立場からの深読みとすべきであろう。
※かたへの人笑ふことにや有りけん、この歌にめでて、やみにけり→「かたへの人」は「傍にいる人」の意。「笑うほどにおかしな歌だったのだろうか、いやそうではなく、他の人にはこれ以上の歌が詠めないので、この歌に感心して、この場での小歌会はお開きになった」と解すべきであろう。
※失せにし宮内卿もちよしが家の前来るに→「失せにける」と書かないで「失せにし」と言っているのは、語り手も読者も「宮内卿もちよし」を知っているという書き方である。『伊勢物語』の登場人物で実名を記されている場合は、たとえば、「惟喬親王」「紀有常」「藤原敏行」など、すべて実在人物である。ここも実在人物であってほしいが、「もちよし」という人物はいない。しかし、伝民部卿局筆本と最福寺本には「もとよし」とある。また鎌倉時代の『伊勢物語』注釈書である『和歌知顕集』では、「もちよしは、陸奥の守に二度(ふたたび)なりて、武隈の松うへたりし人なり」と記している。これは『後撰集』雑三・1241に
    陸奥守にまかりくだれりけるに、武隈の松の枯れて侍りけるを見て、小松を植ゑ継がせ侍りて、任果ててのち、また同じ国にまかりなりてかの前(さき)の任に植ゑし松を見て         藤原元善の朝臣
    植ゑし時契りやしけん武隈の松をふたたび逢ひ見つるかな
とあり、『勅撰作者部類』に「元善 四位宮内卿。右京大夫藤原是法男。至承平七年」とある人物を思わせる。「もちよし」ではなく、「もとよし」で、この人のこととすれば、「失せにし宮内卿」とあるのだから、この部分は、承平七年(937)以降に書かれたことになる。
※陸奥(みちのく)→江戸時代になると細分化すると六つに分かれるので「むつ」と呼んだ。青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県。
※侍り→「…ます」(丁寧語)
※勅撰作者部類→勅撰和歌集に出た作者の伝記を簡単に書いたもの。
※武隈の松→仙台より南。現存する松。
※家に帰り来ぬ→布引の滝から芦屋の別荘に帰って来たのである。
※つとめて→翌早朝。
※その家のめのこども→「めのこ」は「男(を)の子」に対する語。使われている女。『日本書紀』では、「婦女」を「メノコ」と読む。
※をの子→男の中の子。軽蔑したような言い方。使われている男と言う意。
※浮海松の浪に寄せられたる→海松は、浅い海の岩石に着いている20センチほどの海藻だが、生えている葉の部分が松に似た形状を示しているので「海松」という漢字をあてている。それが激しい浪によって岩石から離れ浮いている状態になったので、「浮海松」と言ったのであって、「浮海松(うきみる)」という種類の海松があるわけではない。
※女方より→「男、女がたゆるされたりければ」(第六十五段)や、「女がたより出だすさかづきの皿に」(第六十九段)のように「女性、特に高貴な女性がいらっしゃる場所」を言う場合が多いが、「女がたに絵書く人」(第九十四段)のように、この屋敷の女主人という意で用いられる場合もある。こは「この屋敷の女主人の方から」の意。次の歌は、さの女主人の歌である。物語の主人公と夫婦関係を持つ現地の妾と見るべきであろう。
※その海松を高坏に盛りて柏をおほひて出だしたる→柏の葉は、上代に祭祀の折、神に供える酒や食べ物を盛る時に用いた。またそれから転じて、一般に祭祀に用いる食膳一般のことをも言ったが、ここは前者、供え物に用いる柏の葉と見てよい。その葉に歌を書いたのである。
※わたつみのかざしにさすといはふ藻も→「わたつみ」は「海」を言う場合が多いが、ここは「海神」のこと。『名義抄』に「海神 ワタツミ」とある。「かざし」は「かんざし(髪挿し)。「いはふ」は、神聖なものとして大切にすること。寿ぐこと。「はふりらがいはふ社のもみち葉も標縄越えて散るといふものを」(万葉集・巻十・1301、「はふり」は神官のこと)。
※田舎人の歌にとは、あまれりや、たらずや→第三十三段の「津の国菟原の郡」の女の歌について、「ゐなか人の言にては、よしや、あしや」と語り手がコメントしたのと同じ言い方。主人公の男に近い立場に立って、現地の妾が詠んだ歌について謙辞を述べているのである。