伊勢物語22…第八十八段〜第九十四段

第八十八段

 昔、いとわかきにはあらぬ、これかれ、ともだちども、あつまりて、月を見て、それがなかに、ひとり、
    おほかたは月をもめでじこれぞこの
     つもれば人のおいとなる物
                        (一六〇)

【通釈】

 昔、たいそう若いわけではない人が、この人あの人と、友だちどもが集まって、月を見て、その中の一人の男が、
    深く考えないで、おおまかに月を賞美しないでおこう。これがまあ、積み重なってゆくと、人の老いになるのだから。

※この段は歌の内容から言葉を書いている。

【語釈】

※これかれ→その場にいる、この人あの人。
※それが中に一人→「それを見て、かのゆく人の中に、ただ一人よみける」(第六十七段)。
※おほかたは→並々のさまには。平々凡々には、ここは「特別の思い入れもなく、何も考えないで」の意。
※これぞこの→以前に聞いていたことを詠嘆的に確認する表現。「これがまあ、…であるのだなあ」。第十六段や第六十二段の「これやこの」に近い。
※つもれば人の老いとなるもの→「この月を重ねて何度も見ていると、即、老いになるのだが…」と言っているのである。太陰暦では空の月が直結していたので、このような言い方が成り立ったのである。

第八十九段

 むかし、いやしからぬをとこ、我よりはまさりたる人を思ひかけて年へける。
    ひとしれず我こひなしばあぢきなく
     いづれの神になきなおほせん  
                      (一六一)

【通釈】

 昔、身分の低からざる男があった。その男は自分より身分の高い人を懸想して、そのまま年が経っていた。そんな時に詠んだ歌。
    あなたに知られないままに私が恋い死にしたならば、どうしょうもないことながら、どこかの神様に、「祈っても効のない駄目な神様だ」と、無実の汚名を押しつけることになるだろうよ。

※この段は相手にしてくれなくて恨んでいる。

【語釈

※いやしからぬ男→業平を意識している。
※身分の高い人→二条の后をイメージしている。
※年経ける→自分より身分の高い人であったので、受け入れてもらうのに、一年以上かかったのであろう。
※人知れず→「世間の人が知らない」という意で用いられることもあるが、ここは「相手の人(女)が知らないままに」の意。
※いづれの神に→数多くの神の中のどの神に、わが命を救えなかったかという無実の罪を負わせるのだろうか。
※無き名おほせん→ほんとうは神のせいでなく、願いを聞いてくださらなかったあなたのせいであるのに、どこの神の責任にするのだろうか、ほんとうは、すべてあなたのせいですのに、と言っているのである。

第九十段 

 むかし、つれなき人を、「いかで」と思ひわたりければ、あはれとや思ひけん、「さらば、あす、ものごしにても」といへりけるを、かぎりなくうれしく、又、うたがはしかりければ、おもしろかりけるさくらにつけて、
    さくら花けふこそかくもにほふとも
     あなたのみがたあすのよのこと 
                      (一六二)
といふ。心ばへもあるべし。

【通釈】

 昔、男がいた。その男は、自分に対してつれない人を、何とか自分のものにしたいと思い続けていたので、その女も、かわいそうだと思ったのだろうか、「それならば、明日、物越しにでも、お会いしましょう」と言ったので、されを限りなく嬉しいと思うものの、一方で疑わしく思われたので、すばらしく咲いている桜の枝に自分の思いを託して、
    桜花は、今日は、このように確かに咲き輝いているが、ああ期待し難いよ。明日の夜のことは。
と言う。表に出ない意もあるようだ。

※この段は相手が反応を示してくれた。

【語釈】

※あはれとや思ひけん→「しみじみと感じるものがあったのだろうか」というふうに解すべき場合が多いが、「かわいそうだと思ったのだろうか」と解してもよい。
※さらば→「さあらば」の約。「それほどまで言うのなら」という意。
※物越しにても→「物越し」は「簾」などを隔てて言葉を交わすこと。第九十五段参照。
※おもしろかりける桜につけて→「つけて」は、『古今集』の仮名序に「心に思ふことを見る物、聞く物につけて言ひ出だせるなり」と同じく「託して」の意。しかし、「桜の枝につけて」と解することもできる。
※託→名義抄には「ツク」と振り仮名をつけている。
※短冊→鎌倉時代に出来た。
※にほふ→美しく咲いている状態。輝くように美しい状態。
       万葉集の「にほふ」は視覚的に捉えている。目で見た美しさ。
※といふ心ばへもあるべし→中世以来、「『あな、たのみがた明日の夜のこと』といふ心ばへもあるべし。」と読解するのが通説であったが、従えない。「心ばへ」は「心延へ」、「延展された意」であるから、「…といふ。」で終止し、「歌の心ばへもあるべし。」としなければならない。表面は「明日の夜になると、桜花ははかなく散るだろう」と言っているのであるが、発展して「あなたはあてにならない、すぐ心変わりするのではないか」という意になると言っているのである。初段・第七十七段参照。
※心ばへもあるべし→語り手のコメント。

第九十一段   

 むかし、月日のゆくをさへなげくをとこ、三月つごもりかたに、
    をしめども春のかぎりのけふの日の
     ゆふぐれにさへなりにける哉   
                      (一六三)

【通釈】

昔、事もあろうに、月日が過ぎてゆくことまで歎く男が、三月の末ごろに、
    ゆく春をこんなに惜しんでいるのに、その春の最後の最後という今日の日の、しかも夕暮れにまで至ってしまったことであるよ。

※春を惜しむ→春は人生で1番素晴らしいものだ=青春
平安時代の人に春を惜しむ事が非常に強かった。三月の末に春を惜しむ歌を詠むのが白氏文集から強かった。

【語釈】

※月日のゆくをさへなげく男→「なげき」の語源に「長息(ながいき)」を想定するように、「溜息をつく」こと。「歎き」には「感歎」と「愁歎」があるが、『伊勢物語』の「歎き」は、「花にあかぬ歎きはいつもせしかども…」(第二十九段)「心一つに歎くころかな」(第三十四段)、「女嘆きて寝とて」(第六十三段)というように「愁歎」ばかりである。なお、「月日のゆくをさへなげく」とある「さへ」は、人生いろいろと歎くことが多いのに、「月日のゆくことまでなげく」と言っているのであって、恋について歎くことだけを前提にしているわけではない。
※三月→「さんがつ」「やよい」と二通りに読んでいた。
※三月尽日→春が終りになる日を惜しむ。

第九十二段

 昔、こひしさにきつゝかへれど、女にせうそこをだにえせで、よめる。
    あし辺こぐたなゝしを舟いくそたび
     ゆきかへるらんしる人もなみ
                         (一六四)

【通釈】

 昔、男がいた。その男は、恋しさに何度もやって来ては帰るのだけれど、目当ての女に来意を告げることが出来なくて、詠んだ歌、
    葦辺を漕ぐ棚無小舟のように、どれほど多く行き帰りしているのだろう。蘆に隠れてそのことを知ってくれる人もないために。

【語釈】

※恋しさに来つゝ帰れど→「つつ」は動作の繰り返しを表す副助詞だから、女恋しさに何度も訪ねて来たのであろう。
※消息(せうそこ)をだにえせで→ここの「消息(せうそこ)」は手紙のことではなく、女のもとにやって来て、来意を告げるという程度の意であろう。「人の家あり。すだれのもとに女出でゐたるに、檣(かき)のもとに男立ちて、消息云ひ入る。(西本願寺本『貫之集』252<屏風歌ノ詞書>)、
※棚無し小舟→舟棚(舟ノ舷側ノ横板)のない貧弱な小舟。「刳舟(くりぶね)」のことかと言う。「いづくにか舟船泊(ふなは)てらすむ安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無小船」(『万葉集』巻一・五八)
平安時代では実体はないが言葉だけ残っていた。自分を卑下して喩えとして使っている。
※いくそたび→「そ」は「十」で、「幾十度」ということになるが、「どれほど多く」「数知れず」という意の成語と見てよい。
※知る人も無み→蘆に隠れているので、人に知られない。この場合の「人」は相手の女。「無み」は、「ないので」という理由を表す。
※無し→存在、動作を表す動詞。「うれい、かない」と同じ、形容詞。状態を表している。

第九十三段

 むかし、をとこ、身はいやしくて、いとになき人を思ひかけたりけり。すこしたのみぬべきさまにやありけん。ふして思ひ、おきておもひ、思ひわびてよめる。
    あふなあふな思ひはすべしなぞへなく
     たかきいやしきくるしかりけり 
                       (一六五)
むかしも、かゝることは、世のことわ(は)りにやありけん。

【通釈】

 昔、男がいた。その男は我が身は賤しかったが、なったく二人といないほどに高貴な人を懸想したのであった。ほんの少し期待できそうな様子があったのであろうか、臥せっていてもその人を思い、起きていてもその人を思いという状態で、思うことが苦しくなって、詠んだ歌。
    身分の釣り合っている人同士で懸想はすべきであるよ。身分相応ではなく、一方が高貴で、一方が下賎である懸想は苦しいことであるよ。
今と同じく、昔もこのようなことは、人の世のさだめであったのであろうか。

【語釈】

※身はいやしくて→「身」は「我が身」のこと。「いやし」は、「身は賤しながら、母なむ宮なりける」(第八十四段)のように、出自の賤しさではなく、官位が低いことを言う。
伊勢物語は自分自身を語っているので自分を卑下して言っている。業平は身分は高いが大臣・大納言ではないので。三位以上が貴族。業平は上達部ではなく殿上人であった。
※いとになき人を思ひかけたりけり→「になき人」は、ここだけ見れば「似なき人(似つかわしくない人)と解することもできそうだが、『うつほ物語』に多く見られる「生ひ出づるままに、いとになくうつくしげ(可愛らしい)なり」(俊蔭巻)、「になき声にしらべて」(俊蔭巻)、「いとになき行ひ人(行者)なり」(忠こそ巻)、「吹上の宮(和歌山県牟婁郡)は、いとになき所なりけり」(吹上上巻)を見ると、「二つとない」「最高の」という意であることは明らか。「似なし」ではなく、「二なし」とすべきであろう。
※すこしたのみぬべきさまにやありけん→身分の差は大きすぎるが、少しだけは期待できそうな様子があったのだろうか」の意。
※臥して思ひ、起きて思ひ→横になっていても思い、起きていても思い。
※思ひわびて→「わびて」はつらくなること。思い悩む。苦しく思う。
「わぴ」→苦しい状態。「さび」→寂しい状態。「わび・さび」→当時は非常に寂しい・苦しいことを言った。
※あふなあふな→他には全く用例を見ず、納得できる解を得ない。古語辞典の類は、真名本に、「随分」とあることを理由にして、@「分にあった」「身分相応の」と解することが多く、結論は正しいかとも思われるが、中世の真名本表記者による解釈本文であって、真名本を根拠にすること論理的に無理がある。むしろ下旬の「高きいやしき」というような関係の反対として、「身分が吊り合っている」という意だと言うべきではないか。ということで、「あふなあふな」は「身分の合う人と身分の合う人で」「身分が釣り合う人同士で」の意ではないか。「な」は接尾語。
A「おほなおほな」平凡な恋愛をすべきである。凡(おほ)にー(源氏物語によく出てくる、伊勢物語には出てこない)Aの解釈でも意味が通じる。
「あぶなあぶな」→鎌倉時代…「あふなあふな」は後に続いていかない。
※なぞへなく→「なぞへ」は万葉集時代には「ナソヘ」と清音であったが、平安時代には濁音になっていた。『名義抄』に「ナ``スラフ」「准ナ``スラフ」とあるが、共に「ス」に濁音を示す声点が付されている。
「へ」を「え」と読むのは鎌倉末期から平安時代。
※声点→``。声の点。中国語の影響で声点が出来た。

※昔も、かゝることは世のことわりにやありけむ→この物語が、自分の知らない「昔」のことを語っているという体である。「〜ありけむ」という過去推量が印象的である。「かゝること」は、身分違いの恋愛に苦しむこと。

第九十四段

 むかし、をとこ有りけり。いかゞありけむ、そのをとこすまずなりにけり。のちにをとこありけれど、こあるなかなりければ、こまかにこそあらねど、時々ものいひおこせけり。女かたに、ゑかく人なりければ、かきにやれりけるを、いまのをとこの物すとて、ひとひ・ふつかおこせざりけり。かのをとこ、いとつらく、「おのがきこゆる事をば、いままでたまはねば、ことわりとおもへど、猶、人をばうらみつべき物になんありける」とて、ろうじて、よみてやれりける。時は秋になんありける。
    秋の夜は春日わするゝ物なれや
     かすみにきりやちへまさるらん
                       (一六六)
となんよめりける。女返し、
    千々の秋ひとつの春にむかはめや
     もみぢも花もともにこそちれ  
                       (一六七)

【通釈】

 昔、男がいた。どういう事情だったのだろうか、その男は女のもとに居着かなくなったのである。後に新しい夫ができたのだが、前の男とは子供がいる仲であったので、愛情こまやかというわけではなかったが、女の方から時々何かを言って来ていたのである。女の方に、その女は絵を描く人であったので、絵を描くようにと依頼したのであったが、現在の夫の物をしているのでと言って、一日二日、描いた絵を届けて来なかったのである。
 例の主人公の男は「まったく薄情なことで…。自分がお願いする事を今までくださらないので、それも道理だとは思うものの、やはりあなたを恨んでしまう気持ちであることですよ」と言って、冗談めかして歌を詠んで送ったのであった。時は、ちょうど秋だったのである。
    秋の夜には、春の昼間のことなんて忘れるものなんだなあ。春霞よりも、秋霧の方が幾重にもまさって、私のことなんか見えなくなっているのだろうよ。
と詠んだのであった。女の返歌、
    幾千もの秋でも、一つの春に対抗できましょうかしら。と言っても、秋の紅葉も、春の花も、結局はどちらも散ってしまうものなのですけれども。

【語釈】

※住まずなりにけり→「住む」は、「ずっと通って来る」ような場合を含めて、夫婦生活が続くこと。
※こまかにこそあらねど→「こまかに」は「心が細かい所まで行き届いているさま」「きわめて親密であるさま」。現代語の「愛情こまやか」の「こまやか」と同源。
※女方(をんながた)に→女主人公とその従者を一括した表現。「女の室」と訳してもよい。第六十九段・第八十七段参照。この女が一人で絵を描く仕事をしていたのではなく、工房の主のような存在であったのだろう。なお、「女方に」は「かきにやれりけるを」に続く。
※今の男の物すとて→「物す」は、「人物の動作や存在などを明確な表現を避けて漠然と表す代動詞のようなものとして、@ある。いる。A行く。来る。などとして、「新しく通う男が来ていると言って」と解するのが通説であるが、「今のおとこの」のように「の」が主語格になる場合は、結びは「物する」という連体形になるはずだから不審である。
 ところで、『大和物語』第百五十九段に、「染殿内侍といふ、いますかりけり。それを能有のおとどと申すなむ、時々住みたまひける。物をよくしたまひければ、御衣どもをなむあづけさせたまひけるに、綾どもを多くつかはしたりければ、『雲鳥の紋の綾をや染むべき』と聞こえたりしを、」とあるように、この染殿内侍に、在中将住みける時に、中将のもとに、よみてやりける。(歌二首省略)。かくて、住まずなりてのち、中将のもとより、衣(きぬ)をなむ、しにおこせたりける。」と記されている。これらに見られる「物をよくしたまひければ」や「今の男の物をす」と解する可能性が思われる。
※物をよくしたまひければ→大和物語は女房が書いたポーズをとっているので敬語をよく使っている。
※つらく→つれなく。
※今まで給はるば→今までくださらないので。
※ことわりと思へど→道理だと思うけれども。あなたの立場から考えれば理がかなっていると思うけれども。
※ろうじて→からかって。冗談めかして。
※嘲弄する→相手をおちょくる。からかう。(現代に残っている。)
※秋の夜は春日忘るゝ…→今、女の所に来ている新しい男を「秋の夜」に喩え、以前に通って来ていた男がみずからを「春の日」に喩えているのである。
※霞に霧や千重(ちえ)まさるらん→霞は春のもの、霧は秋のもの。「時は秋になんありける」とあるように、過去に来ていた男、すなわち春の男は卑下して、「霞に霧や千重まさるらん」と言ったのである。「霧や霞に千重にまさるらん」のほうが良い。
※むかはめや→対抗する事が出来るだろうか、出来はしない。
※花も紅葉も共にこそ散れ→春の花も秋の紅葉も長続きせずに散ってゆくもの…男なんて所詮はかなく別れてゆくもの、と軽くいなしたのは、「弄じて」言って来た男に対して、同じく「弄じて」見事に切り返したのである。

※鎌倉時代の伊勢物語は各々の人物は名前を当てはめている。だから、謡曲は名前が入っている。
※大和物語と伊勢物語は共通点がある。大和物語の影響をかなり受けている。