伊勢物語23第九十五段〜第九十九段

 第九十五段

 むかし、二條の后につかうまつるをとこ有りけり、女のつかうまつるを、つねに見かはして、よばひわたりけり。「いかで、物ごしにたいめんして、おぼつかなく思ひつめたること、すこしはるかさん」といひければ、女、いとしのびて、ものごしにあひにけり。物がたりなどして、をとこ、
    ひこぼしにこひはまさりぬあまの河
     ほだつるせきをいまはやめてよ  
                       (一六八)

※この段は段全体が後から加えられた。歌の作者が解らない。

【通釈】

 昔、二条の后にお仕え申しあげる男があった。女が同じようにお仕え申しあげているのを、常に顔を合わせて、婚を求め続けていた。「何とかして、物越しにでも対面して、悶々と思い詰めていることを、少し晴らしたい」と言ったので、女はひどく人目を気にしながら物越しに会ったのである。あれこれと話をして、男がよんだ歌、
    私の思いは、年に一度しか会えない彦星以上になっております。天の川ではないが、二人を隔てるこの関所を、今となっては取り払ってくださいよ。
女は、その歌に感心して婚を許したのであった。

【語釈】

※二条の后に仕うまつる男有りけり。女の仕うまつるを、常に見交して、よばひわたりけり→「昔、男、宮仕へしける女の方に、御達なりける人をあひ知りたりける」とある第十九段の延展として作られたのであろう。
※二条の后に仕うまつる男有りけり→物語の虚構。
※物越しに対面して→几帳・簾などを隔てて会うこと。「かばかりの物越しにても、御声をだに、いかならむついでに聞かむ」(源氏物語・藤袴)
※たいめん→元々は漢語。
※おぼつかなく→はっきりと確認できずに、とりとめもない状況。
※思ひつめたること→物思いで胸がいっぱいになっていること。
※物語などして→雑談なんかをして、「あひがたき女に会ひて、物語りなどするほどに」(第五三段)「酒飲み物語して」(第八二段)。
※彦星に恋はまさりぬ→年に一度、七月七日の夜に会う彦星よりも、恋い慕う思いはまさってしまった。「恋」は離れている相手を恋い慕うこと。
※天の河へだつる関→二人の間を隔てる関となっている天の河。
※この歌にめでて、会ひにけり→女はこの歌に感激して二人は交わりを持ったのである。
※歌徳説話→歌の力によって出来ない事が出来るようになる。徳→力。

第九十六段

 むかし、をとこ有りけり。女をとかくいふこと月日へにけり。いは木にしあらねば、「心くるし」とや思ひけん、やうやうあはれと思ひけり。そのころ、みな月のもちばかりなりければ、女、身に、かさひとつふたついできにけり。女、いひおこせたる、「今は、なにの心もなし。身にかさも、ひとつふたつ、いでたり。時もいとあつし。すこし秋風ふきたちなん時、かならずあはむ」といへりけり。あきまつころほひに、こゝかしこより、「その人のもとへいなむずなり」とて、くぜちいできにけり。さりければ、女のせうと、にはかにむかへにきたり。されば、この女、かへでのはつもみぢをひろはせて、うたをよみて、かきつけておこせたり。
    秋かけていひしながらもあらなくに
     この葉ふりしくえにこそありけれ  
                      (一六九)
とすきおきて、「かしこより人をおこせば、これをやれ」とて、いぬ。さて、やがて、のち、つひにけふまでしらず。よくてやあらむ、あしくてやあらん。いにし所もしらず。かのをとこは、あまのさかてをうちてなむ、のろひをるなる。むくつけきこと、「人ののろひごとは、おふ物にやあらむ、おはぬ物にやあらん、いまこそは見め」とぞいふなる。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、ある女をあれこれと口説くことで月日が経ってしまっていたのである。女も、木石ではないので、かわいそうだと思ったのだろうか、次第にいとおしく男を思うようになったのである。その頃は六月の十五日頃であったので、女は体に汗疹が一つ二つできたのである。その女が言ってよこしたことは、「今は、あなたのおっしゃることに何の異存もありません。しかし、私の身に湿疹が一つ二つできております。また時節もたいそう暑い。ですから、少し秋風が吹き始めるであろう時に、必ずお会いしましょう」と言っていたのである。
 秋を待つ時期になって、あちこちから「あの女は、誰それのもとへ行こうとしているようだ」という非難がなされるようになった。そこで、この女の兄が、にわかに女を迎えに来た。そこで、この女は、楓の初紅葉を召使いに拾わせて、歌をよんで、その紅葉に書いて付けて、男のもとによこして来た。
    「秋を期待していてください」と言ったのにご期待通りにならなくて、このように木の葉が降り頻るような、はかない縁だったのですね。二人の間は。
と書いて、そこに置いて、「あちらから、使いの人をよこしたら、この歌を持たせてください」と言って、そこを立ち去ってしまった。
 そのようにして、そのまま時がたった後のことは、遂に今日まで知らない。女は、よい状態で生活しているのだろうか、悪い状態で生活しているのだろうか。行ってしまった所も私は知らない。
 一方、かの男は、あまの逆手を打って女を呪詛しているということである。気味の悪い話であるよ。人の呪いの言葉は、呪われた人の身に及ぶものであろうか、及ばないものであろうか。それでも、男は、「今となっては、きつと直接顔が見られるだろう」と言っているとのことである。

【語釈】

※女をとかく言ふこと月日経にけり→「女に」と言わずに「女を」と言ったことについて論議がある。女を目指してとかく言うのである。「とかく」は、「あれこれ」。
※岩木にしあらねば→『勢語臆断』が言うように、「木石」は、『白氏文集』巻四・諷諭四・新楽府・の「李夫人」に「人非木石皆有情 不如不遇傾城色」とあるのが出典であろう。ちなみに、『源氏物語』蜻蛉の巻に、薫が「人木石にあらざればみな情あり」と、これを朗詠している場面がある。
※心苦し→現代語と違って、「気の毒に思う」という意。
※やうやうあはれと思ひけり→次第に心が動かされて、すきだと思うようになった。「あはれ」→愛情を持つ事。同情する。共感する。
※瘡疹一つ二つ出で来にけり→『倭名抄』に「瘡 加佐」とある。「瘡(かさ)」は「瘡患(かさや)ミ給フ」(日本書紀「敏達紀」)とあるように単なる「あせも」の類ではなく、「できもの」であろう。対する「疹(も)」は単独では用いず「瘡疹(かさも)」「汗疹(あせも)」のような形で皮膚病であることを示す。なお、「も」を助詞と見て、「瘡も一つ二つ出でたり」と読むこともできる。「瘡」「疹」は一つづつの名詞。
※水無月祓い(禊)→六月末(今の八月下旬)海に入って体を清める。
※秋待つ頃ほひに→「秋立つ頃ほひに」という本文もあり、これだと立秋の頃となるが、「秋待つ頃ほひ」の場合は、「もうすぐ立秋という頃」の意になる。
※その人のもとへいなむずなり→「その人」は、「今、話題にしているその人」の意。
※いなむず→「いなんとするなり」が縮まった。「むとす」=「むず」
※口舌(くぜち)出で来にけり→「口舌」は、『令(当時の法律)』の第四「戸令(家族の法律)」に、「凡ソ妻棄テムコトハ七出ノ状有ルベシ。一ニハ子無キ、二ニハ淫、三ニハ舅姑ニ事(つか)ヘズ、四ニハ口舌、五ニハ盗竊、六ニハ妬忌(とき)、七ニハ悪疾」とあり、「口舌」も離婚されるほどの咎であったことが知られる。単なるおしゃべりが罰せられるということではなく、いわゆる言葉の暴力が罰の対象になるのであろう。ここの場合は「激しい非難」と訳してよかろう。
※口説→口々に言う事。
※歌をよみて、書をつけておこせたり→「紅葉の葉」に歌を書いたとするのが一般的であるが、紅葉した葉を拾って箱に入れ、歌を書いた紙を添えたのであろう。地上に落ちていた葉に直接歌を書き、「男の使いが来たら渡せ」と言ったとは考え難い。なお、「歌をよみて、書きつけて、おこせたり」、つまり、女から主人公の男にこの歌が贈られて来たと言っておきながら、歌の後に「と書き置きて、『かしこより人おこせば、これをやれ』とていぬ」とあるのは、矛盾というほかない。この段の本来の形は、「秋かけて…」の歌で終っていたのではないかと思うのである。
※秋かけて言ひしながらもあらなくに→「秋かけて」は、「秋を期待して」の意。「梅が枝に来ゐる鶯春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ」(古今集・春上・五)の「春かけて」と同じ。「あらなくに」は、「別れてふことは色にもあらなくに心にしみてわびしかるらむ」(古今集・離別・三八一)と同じく、「秋を期待していてと言ったのに、そうならなくて」の意。
※木の葉降りしくえにこそありけれ→「降りしく」は「降り頻(しき)る」。なお、「木の葉降り敷く」と読むこともできるが、第六十九段(一二八番)の短連歌「かち人の渡れるぬえにしあれば」のように「渡る」とか、「濡る」という語と共に詠まれていれば、「木の葉降りしく」を「木の葉降り敷く」と解し、「えにし」の「え」に「江」を掛け「浅い」という意を導き出すこともできるが、当該歌の場合は、「江」を掛けるのは無理。その結果、「降り頻るように散ってしまうような、はかない縁であったと読むほかない。「降り頻(し)く」の例は、「ひさかたの雨は降りしく思ふ子が宿に今宵は明かして行かむ」(万葉集・巻六・一〇四〇)、「松が枝に降りしく雪を葦たづの千代のゆかりにふるかとぞ見る」(貫之集・二七八)などがあり、木の葉が散る「はかない関係」という言いには、「人を思ふ心の木の葉にあらばこそ風のまにまに散りも乱れめ」(古今集・恋五・七八三・小野貞樹)などの例がある。
※あまの逆手を打ちて→『古事記』上巻の「事代主神の服従」の項に「『かしこし、此国は天つ神の御子奉らむ』と言ひて、即ち其の船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りき。」とあり、諸注「天の逆手を打ち成す」を「呪術の一種」としているが、おそらくは『伊勢物語』の当該章段の「呪いをるなる」によって解釈しているのであって、実体はわからない。なお、「呪ひをるなる」「とぞ言ふなる」の「なる」は、いわゆる伝聞の助動詞。「……ということである」という意。
※天の逆手→呪う時の仕草。
※天つ神→天から下りて来た神。
※むくつけきこと→「むくつけし」は「気味が悪い」こと。「言はむかたなくむくつけげなるもの出で来て、食ひかからむとしき」(竹取物語)。「むくつけきこと」は、「人の呪ひ言は負ふものにやあらむおはぬものにやあらむ、今こそは見めと」言っている男の動作を「むくつけきこと」と批判的に見ているのである。
※今こそは見めとぞ言ふなる→「今度こそはっきりと確認できるだろう」と解する説と「今度こそ女に会えるだろう」と解する説があり得る。

第九十七段

 むかし、ほり河のおほいまうちぎみと申すいまそがりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりけるおきな
    さくら花ちりかひくもれおいらくの
     こむといふなるみちまがふがに 
                        (一七〇)

【通釈】

 昔、堀河の大臣と申しあげる人がいらっしゃったのである。この大臣の四十の賀を九条の家において催しなさった日に、当時中将であったこの翁が、
    桜花よ。散り乱れて、目の前が見えなくなるほどの花で曇らせよ。あの「老い」がやって来るという道がわからなくなるほどにしてほしいのだよ。

※四十賀のお祝いの場で桜花の散る歌を詠んだのは何故かと昔から疑問視されている。

【語釈】

※堀河のおほいまうちきみ→後に摂政太政大臣になった藤原基経(836-891)のこと。
第六段に「(二条后の)御せうと堀河のおとど」とあるように、二条后の父である中納言藤原長良の息であったが、伯父の太政大臣良房を嗣ぐ。「堀河のおほいまうちきみ」とあるのは、『拾芥抄』に「堀河院 二条南 堀河東 南北一町。昭宣公家。忠義公伝領」とあるように、五条堀河の堀河院に住んでいたから。なお、伝領した「忠義公」は藤原兼通のこと。おそらくは基経→忠平→師輔→兼通と伝領されてきたのであろう。
※四十賀→天福本の勘物に「貞観十七年」とあるが、右に揚げた年齢と合致する。
※天福本勘物→藤原定家が注記したものである。
※九条の家にてせられける→基経の孫にあたる師輔が伝領した九条殿はこの九条殿であろう。師輔の日記『九暦』に「九条大臣」と記されているのは、基経のこと。師輔もこの九条殿に住んでいたので「九条右大臣」と呼ばれた。
※中将なりける翁→天福本勘物には「業平 十九年中将 不審」とある。業平が近衛権中将になったのは元慶元年(877=貞観十九年)正月十五日のことであるから、基経の四十賀が行われた貞観十七年(875)に「中将なりける」ということ不審だと定家は言っているのである。
※桜花散り交ひ曇れ→「ちり交ふ」は「あちこちに乱れて散る」こと。「春の野に若菜摘まむと来しものを散りかふ花に道はまどひぬ」(古今集・春下・116)どこが道かわからないほどに「あちこちに乱れて散る」のである。
※老いらくの来むといふなる道まがふがに→「老いらく」は「老ゆ」を名詞化して擬人化的表現したもの。同じような表現に「老いらくの来(こ)むと知りせば門(かど)さしてなしと答へてあはざらましを」(古今集・雑上・895・よみ人しらず)という詠がある。なお、「がに」は、「橘の林を植ゑむほととぎす常に冬まで住みわたるがね」(萬葉集・巻十・1958)のように文末にあって「……することができるように」という意を表す。平安時代になっても、「泣く涙雨と降らなむ渡り川水まさりなば帰り来るがに」(古今集・哀傷・829)などの例がある。

〔業平歌か行平歌か?〕

 『古今集』の中で、平安時代書写の元永本・筋切本・伝公任筆本のほか、雅俗山荘本・静嘉堂文庫本・六条家本・永治本・前田家清輔本・天理図書館清輔本・右衛門切・伝寂蓮筆本・伏見宮本など、俊成本・定家本以外のほとんどの本は業平ではなく、兄の在原行平の作となっている。『伊勢物語』が行平の歌を利用し、俊成や定家は『伊勢物語』にあるから在原業平の歌としたのではないかと思われる。

第九十八段

 昔、おほきおほいまうちぎみときこゆるおはしけり。つかうまつるをとこ、なが月ばかりに、むめのつくりえだにきじをつけてたてまつるとて、
    わがたのむ君がためにとをる花は
     ときしもわかぬ物にぞ有りける  
                        (一七一)
とよみて、たてまつりたりければ、いとかしこくをかしがり給ひて、使にろくたまへりけり。

【通釈】

 昔、太政大臣と申しあげる方がいらっしゃったのである。お仕えしている男が、九月頃に、梅の造り枝に、雉をつけて奉るということで、 
    わたくしが頼りにしております御主君様のためにと考えて折る花は、季節なんて問題ではなく、いつも変らないものでありますよ。
とよんで、奉呈したところ、まったく畏れ多いまでに感心なさって、使者に禄をくださったのであった。

【語釈】

※おほきおほいまうちきみと聞こゆる→太政大臣と申しあげる人。天福ニ年本に見られる定家の勘物には、「忠仁公 天安元年二月十九日、太政大臣五十五。四月九日、従一位。ニ年十一月、摂政。清和外祖」とある。「忠仁公」は藤原良房。天安元年(857)に太政大臣となったが、翌二年十一月、孫にあたる清和天皇が九歳で即位するに及んで摂政を兼ねた。太政大臣になった時、業平は三三歳。
※外祖→祖父。
※仕うまつる男→お仕えしている男。「男」は、とうぜん物語の主人公の「男」を思わせる書き方である。前項参照。
※長月ばかりに→九月の頃に。陰暦では、九月は秋の終りの月。
※梅の作り枝に雉をつけて→「梅」は陰暦の春の初めの一月に咲く。九月に梅があるはずはないので、作り枝を用い、自分の心はいつでも変らないと強調したのである。
※ときしもわかぬ物にぞ有りける→「し」も「も」も強意の助詞。だが、「ときしも」に「きじ(雉)」を隠した隠題(かくしだい)の歌になっている。雉を取る狩は冬に行う大鷹狩。まだ梅の花は咲いていないし、九月とはまったく異なる季節であるために、「ときしもわかぬ」と言ったのである。
※大鷹狩には雉を使う。 小鷹狩は雀。
※かしこくをかしがり給ひて→「かしこし」は、本来「畏れ多い」の意であったが。その畏敬の念から、「すぐれている」「能力が高い」というような貞越した属性を言うようになり、さらに連用形「かしこく」の場合は、「ひどく」「すごし」というような程度の甚だしさを表す語ともなっている。

第九十九段

 むかし、右近の馬場のひをりの日、むかひにたてたりけるくるまに、女のかほの、したすだれより、ほのかに見えければ、中将なりけるをとこのよみてやりける。
    見ずもあらず見もせぬ人のこひしくは
     あやなくけふやながめくらさん   
                       (一七二)
返し、
    しるしらぬなにかあやなくわきていはん
     おもひのみこそしるべなりけれ   
                       (一七三)
のちは、たれとしりにけり。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、右近の馬場の騎射の日、向かいに立っていた車に、女の顔が下簾を通して、ちらりと見えたので、中将であった男が詠んで贈ったのである。
    全然見ないわけでもなく、かと言って、はっきりと見たわけでもないようなあなたが恋しくて、わけもなく、今日一日をぼんやりと物思いをして暮らすのでしょうか。
返歌、
    知っているとか、知らないとか、どうしてわけがわからない状況で区別しておっしゃるのでしょうか。私に対する「思い」をお持ちなのでしょうか。
そんな「思い」を持っていたのか、後には、相手に会って、誰であるかを知ったのである。

【語釈】

※右近の馬場の日折の日→顕昭(歌の学者)が『袖中抄(しゅうちゅうしょう)…袖の中に入る小さな本ー謙遜の意で名を付けた』などで言っているのに従えば、左右の近衛府の舎人が、五月五日と六日に馬場で行なった競射。五日は左近の真手結(競射の本番)、六日は右近の真手結。この真手結の時の騎手の装束が褐衣の尾を袴より前の方へ引き出して折って挟んだ姿であったために「ひをりの日」と言ったとする説が有力であるが、わからない。「右近の馬場の日、檻の日向かひに立てりける車」と読んで「檻」を、囲われている「馬の走路」のこととする説もある。
※右近の馬場→今の北野天満宮の境内に当たる。
※真手結→「真」は本番。「手結」は手合わせ。
※下簾→牛車の屋形の簾の内側に掛けて、車外に垂らす長い布。
※中将なりける男→「近衛中将」であった男。在中将業平を意識させる書き方。
※見ずもあらず見もせぬ人→見ていないわけでもなく、また見ることもしていないあなた。「人」は歌を贈った相手の人。
※あやなく→「あやなし」は「説明がつかない」という意。「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはるる」(古今集・春上・四一)。ここの「あやなく」は「説明がつかないままで一日ぼんやりと過ごすのだろうか」という意。「ながめ暮らさん」は「夕暮れまでぼんやりと過ごすのだろうか」。「知る知らぬ何かあやなくわきて言はん」は、「私のことを見たから知っているとか、見ていないから知らないとかいうように、理由もなく、二つのケースにお分けになるのですか」と言っているのである。
「あや」→筋が通っているのが「あや」
※思ひのみこそしるべなりけれ→「過去に見たので知っているとか、見なかったから知らないなんてことは問題ではない、私に対する「思ひ(熱情)」だけが、会いに来るための道しるべになるのですよ。「思ひ」の「ひ」に「灯(ひ)」を掛ける。
※後は誰と知りにけり→結局、その後は、直接顔を見る関係になったので、はっきりと認識できるようになったと言っているのである。

【参考】 『大和物語』第一六六

 在中将、物見にいでて、女のよしある車のもとに立ちぬ。下簾のはさまより、この女の顔いとよく見てけり。ものなどいひかはしけり。これもかれもかへりて、朝(あした)によみてやりける。
    見ずもあらず見もせぬ人の恋しきはあやなく今日やながめ暮さむ
とあれば、女、返し、
    見も見ずもたれと知りてか恋ひらるるおぼつかなみの今日のながめや
とぞいへりける。これらは物語にて世にあることどもなり。


【通釈】
 在中将が、見物に出かけて、女の人の乗っている、どこかただならぬ感じの、りっぱな車のもとに立っていた。下簾のすきまから、この女の顔をたいそうよく見てしまった。そして、あれこれと、ことばなどをいいかわした。こちらも、あちらの女も帰って、あくる朝、歌を詠んでおくった。
    見ずもあらず……(見ないわけでもなく、といってよく見たのでもない人が、恋しく思われる私は、わけもなく今日一日じっと物思いにふけって暮らすことでしょう)
とあったので、女は返事に、
    見も見ずも……(見たにしても、見ないにしても、私をだれと思って恋い慕いなさるのですか。それもご存じないのでしたら、今日の物思いとやらも頼りないことです)
といった。これらは物語として世に知られていることである。

【語釈】
※物見→右近の行事。
※よしある→趣のある。
※これらは物語にて→伊勢物語。
※朝によみてやりける→男女が関係を持って次の朝に歌を贈ると二人の関係は続く。歌を贈らなければ男女の関係は続かない。
※きぬぎぬの歌→シルクの着物を分けて別れる。

物語は伝承文学である。口で伝わってくる間に変わってくる。
異伝→異なった伝承。解りやすくする為に変わってくる。