伊勢物語24…第百段〜第百四段

第百段

 むかし、をとこ、後涼殿のはさまをわたりければ、あるやむごとなき人の御つぼねより、わすれぐさを、「しのぶぐさとやいふ」とて、いださせたまへりければ、たまはりて、
    忘草おふるのべとは見るらめど
     こはしのぶなりのちもたのまん  
                     (一七四)

【通釈】

 昔、男がいたのである。後涼殿を貫く廊下を通っていると、ある高貴な方の御部屋から、忘れ草を、「あなたは、これをしのぶ草だと言うのですか」と、女房に差し出させなさったので、それをいただいて、
    私を、忘れ草が生えている野辺のようなもの。だから、すぐに忘れるのだと見て、この草をお示しのようですが、これは、忘れ草ではなく、もっと荒廃したところに生えるしのぶ草なのです。しかし、しのぶ草ですから、今はあなたを偲び申しあげるだけにして、後にお逢いすることでも期待していましょう。(言葉の高級なやりとりで解りにくい言い方をしている)

【語釈】

※後涼殿のさまを渡りければ→「後涼殿」は清涼殿の西、陰明門の東に位置する殿舎。「はさま」は後涼殿の中を東西に通っている廊下。「わたり」は時間、人が移動する事。
※忘草を「しのぶ草とや言う」とて出ださせたまへりければ→忘れ草を示して、「あなたの所では、これを、しのぶ草というのですか」と言って、「やんごとなき人」が、忘れ草を女房に差し出させたのである。すなわち、「私を忘れているのではなく、今偲んでいるなんておっしゃるのですか」と言っているのである。
※忘れ草生ふる野辺とは見るらめど→男の歌である。あなたは、私を忘れ草が生えている野辺のように見ていらっしゃるようですが、−つまり私があなたを忘れているかのようにお思いのようですが、−と言っているのである。なお、「忘れ草」は、本来「萱草(かんぞう)のことで、憂いを忘れさせてくれる草のことであったが、ここでは「人を忘れる草」の意で用いられている。また、「野辺」は、野の端の方、「野辺の送り」「野辺の煙」などのように葬送に関連して用いられることもあるように、人里離れた所の意。自己のことを言う場合は卑下の意で用いる。ここの「忘れ草生ふる野辺」がまさにその例である。
※野原→「野」は人が住もうと思えば住める場所。「原」は人が住める場所ではなく荒れ果てている。
※こはしのぶなり→これは「忘れ草」ではなく、人を偲ぶという意を持つ「しのぶ草」ですよ。私はあなたをお忍び申しあげているのですよ…と言っているのである。「しのぶ草」は荒廃した所に生えるシダ類。「野辺」に劣らずひどい場所であると言って卑下しているのである。
※のちもたのまむ→過去のように、今後も再び逢うこともあるかと、後を期待しようと言っているのである。

【参考】

「忘れ草」は[萱草」のこと。ユリ科の宿根草。葉は線状で先端が垂れている。七月ごろに花茎を出し、黄赤色の、百合に似た花を開く。『倭名抄』に「兼名苑云、萱草。一名忘憂。萱、喧、漢語抄云、和須礼久佐(わすれくさ)」とあるように、本来は「憂さを忘れさせる草」の意であって、「かたときも見てなぐさめよ昔よりうれへ忘るる草といふなり」(兼輔集・107)ともよまれていたが、特に「恋の苦しみを忘れさせてくれる草」の意でよまれることが多かった。「道知らば摘みにもゆかむ住の江の岸に生ふてふ恋忘れ草」(古今集・墨滅歌・1111)。一方、「しのぶ草」は、シダ類。樹皮・岩石・軒端などに生える。葉は厚く深緑色で舌状。『倭名抄』は苔類として「垣衣 本意云垣衣、一名烏韮。和名、之乃布久佐(しのぶくさ)」とある。「垣衣」は土塀に生えた草。なお、同じシダ類であるが、観葉植物として軒の下に吊り下げたりするノキシノブとは異なる。『古今集』時代の「しのぶ草」は、「わが宿の しのぶ草生ふる 板間粗み 降る春雨の 漏りやしぬらむ」(古今集・短歌・1002)のように荒れ果てた屋の表象として詠まれるか、「一人のみながめふる屋のつまなれば人をしのぶの草ぞ生ひける」(古今集・恋五・769)のように荒れ果てた所で「昔ヲ偲ブ」「昔ノ人ヲ思慕スル」してよむことが一般的であった。
「しのぶ草」は、このように、土塀なども生える苔のようなシダ類の植物であり、古い家屋・荒廃した陰湿な場所のシンボルとして歌によまれることが多く、宮廷の更衣の曹司に持ち込んで人に贈るものではない。『伊勢物語』第百段では、「忘れ草を」→「出ださせたまへりければ」→「賜はりて」という文脈の中で、贈られたのは「忘れ草」だけであり、女は「あなたは、この忘れ草を偲ぶ草だとおっしゃるのでしょうか。しかし、何と言っても、これは、やはり忘れ草。私のことなど忘れていらっしゃって、偲んでいらっしゃるはずはありません」と言いかけたのである。
 それに対して、主人公の男は、「自分のことを忘れ草が生えている野辺のように思っておられるようですが、私はもっとひどいしのぶ草の生えているところにいるのです。だから、じっとあなたを偲んでいるのです」と申しあげたのである。野辺どころか、私の所は破屋です…とみずからを卑下して言上しているのは、女をわざわざ「あるやむごとなき人の御つぼね」にいる人と言ったのと照応しているのである。
 これが、もし『大和物語』が言うように、「忘れ草」と「しのぶ草」が同じ物であるなら、このやりとりは成り立たない。そもそも右に述べたように「忘れ草」と「しのぶ草」は全く別の物だったのである。『伊勢物語』の異伝として載せる『大和物語』の文章は、安易な合理化ともいうべき蛇足的説明というほかない。
        『大和物語』百六十二段
また、在中将、内裏にさぶらふに、御息所の御方より、忘れ草をなむ、「これは何とかいふ」とて賜へりければ、中将、
    忘れ草生ふる野辺とは見るらめどこましのぶなりのちもたのまむ
同じ草を、しのぶ草、忘れ草といへば、それによりなむ、よみたりける。

※兼輔→紫式部の曽祖父。

第百一段

 むかし、左兵衛督なりける在原のゆきひらといふありけり。その人の家に、よきさけありときゝて、うへにありける左中弁ふぢはらのまさちかといふをなむ、まらうどざねにて、その日はあるじまうけしたりける。なさけある人にて、かめに花をさせり。その花のなかに、あやしきふぢの花ありけり。花のしなひ三尺六寸ばかりなむありける。それをだいにてよむ。よみはてがたに、あるじのはらからなる、あるじしたまふときゝてきたりければ、とらへてよませける。もとより、うたのことはしらざりければ、すまひけれど、しひてよませければ、かくなん、
    さく花のしたにかくるゝ人をおほみ
     ありしにまさるふぢのかげかも  
                     (一七五)
「など、かくしもよむ」といひければ、「おほきおとゞの栄花のさかりにみまそがりて、藤氏のことにさかゆるをおもひてよめる」となんいひける。みな、ひと、そしらずなりにけり。

【通釈】

 昔、左兵衛督であった在原行平という人がいたのである。その人の家に、よい酒があると知られていたので、殿上の間にいた左中弁藤原良近(まさちか)という人を正客として、その日は、饗宴をしたのであった。
 主人の行平は、風情を解する人であって、瓶に花を挿してあった。その花の中に、異様な藤の花があったのである。花の垂れ下がりが、三尺六寸ほどもあったのである。それを題にして一同歌を詠む。詠み終る頃に、主人の兄弟である男が、饗宴をなさっているということを聞いて、やって来たので、つかまえて詠ませたのである。この男は、元来歌のことは知らなかったので、辞退したのであるが、無理に詠ませたので、このように詠んだのである。
    咲く花の下に隠れている人が多いので、以前にまさる藤の大きさであることよ。
 主人の男が「どうして、このように詠んだのだ」と聞いたところ、「この巨大な藤の花と同様に、太政大臣がまさしく栄華の盛りでいらっしゃって、その大きな蔭で藤氏が格別に栄えている現状を思って、このよう詠んだのです」と答えたのである。それを聞いて、なぜこんな歌を詠んだのかといぶかしく思っていた人たちも、皆、納得して、けちをつけなくなったのである。

【語釈

※左兵衛督なりける在原の行平→『日本三代実録』や底本の勘物によれば、行平が左兵衛督であったのは貞観六年(864)三月から、蔵人頭・左衛門督になった貞観十四年(872)八月までの間。第八十七段参照。
※近衛=天皇を守る。衛門府=門を守る。兵衛府=宮中で1番外、京都全体を守る。
※その人の家に、よき酒ありと聞きて→「その人の家」は行平の家だが、「聞きて」は誰が聞いたのかわからない文脈になっている。「藤原良近」を含む「上にありける人」が聞いて、話題になったので、行平が「あるじまうけした」という経過が整理されずに書かれているのであろう。
※上にありける左中弁藤原良近→『日本三代実録』の貞観十七年九月九日条に「神祇伯従四位下兼行美濃権守藤原朝臣良近卒ス。良近者太宰員外帥正三位吉野之第四子也。容儀観ルベク、風望清美ナリ。学術無シト雖モ、政理ヲ以テ推サル」とある。
※まらうどざねにて、その日はあるじまうけしたりける→「まらうどざね」は客人の中心となる人。正客。第六十九段の「使ひざね」参照。「あるじ」は接待する人。「まうけ」は準備。
※情ある人にて、瓶に花を挿せり→客を迎えるために瓶に花を挿すのを「情ある人」の行為としているのに注意。
※あやしき藤の花ありけり→花房のしなひが三尺六寸(一メートル余)もあったことを「あやしき(異様な)」と言っているのである。
※あるじのはらからなる→主人の行平の「はらから」と言って、業平を暗示する書き方。
※もとより歌のことは知らざりければ、すまひけれど→在原業平が六歌仙の一人で、『古今集』を代表する歌人であるのを表に出さないように意識した書き方。『伊勢物語』は業平自信が語っているというポーズで書かれている章段が多い。(第四十段参照)
※咲く花の下に隠るゝ人をおほみ→今咲いている大きな花の下に隠れる人が多いので、以下に述べるように、咲いている大きな藤の花に太政大臣藤原良房の栄華を喩え、「その下に隠れているが、今日の正客の良近のように縁の下の力持ちが多いからだと言って、正客である良近を賛美しているのである。
※ありしにまさる藤の蔭かも→「ありし」は「以前」「従前」の意。「在(原)氏」を掛けるという説もあるが、「藤原氏」を「藤氏」というのと違って。「在原氏」を「在氏」と言った例がないので疑問が持たれる。
※などかくしもよむ→「藤」の歌と言えば、「紫ににほふ藤」とか「松にかかる藤」などと詠むのが一般的であるのに、ここでは、そこに集う人々を「咲く花の下に隠るる人」などと言っているのが不審だったからである。
※おほきおとどの栄花のさかりにみまそかりて、藤氏のことに栄ゆるを思ひてよめる→「おほきおとど」は太政大臣藤原良房。良房が太政大臣になったのは天安元年(857)、コウじたのは貞観十四年(872)であって、藤原良近が左中弁になった貞観十六年には、良房は既にコウじていた。歴史的事実ではない。
※皆人そしらずなりにけり→普通と違う藤花の詠み方だが、やはり藤原氏を賛美しているのだとわかって、誰も非難しなくなったと言っているのである。

第百二段

 むかし、をとこ有りけり。うたはよまざりけれど、世の中を思ひしりたりけり。あてなる女のあまになりて、世の中を思ひうんじて、京にもあらず、はるかなる山ざとにすみけり。もとしぞくなりければ、よみてやりける。
    そむくとて雲にはのらぬ物なれど
     世のうきことぞよそになるてふ
                       (一七六)
となんいひやりける。斎宮の宮なり

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、歌はよまなかったが。世の中のことをよく知っていたのである。高貴な女が、尼になって、世の中をいとわしく思って、京にいることをやめて、はるか遠い山里に隠棲したのである。もともと親族であったので、男は歌を詠んで贈ったのである。その歌は、
    世の中を背くと言っても、仙人になって雲に乗るということはないのですが、山里に隠れ住むと、世の中のいやなことは無縁になると言いますが、いかがですか。
と言い贈ったのである。この女は、斎宮の宮なのである。

【語釈】

※歌はよまざりけれど→実際は歌を詠んで贈ったのだから、「歌はよまざりけれど」は一種の謙辞。「歌人と言えるほどの歌人ではいが…」という程度の気持ち。
※世の中を思ひ知りたりけり→「世の中」は「世間」の意であるが、そのうち、特に「男女の間のこと」と解し得る。
※あてなる女の尼になりて→「父はこと人にあはせむと言ひけるを、母なんあてなる人に心つけたりける。父はなほ人にて、母なん藤原なりける」(第十段)とあるように、「あてなる」は、氏素性のよい女。「斎宮の宮なり」という後書きがなくても、それに近い「あてなる人」を想定し得るのである。
※世の中を思ひむじて→「思ひうむ」は「嫌になる」「やる気がなくなる」という意。
※京にもあらず、はるかなる山里に住みけり→京都に住むことをやめて、遠くの山里ー移り住んだのである。
※山里→当時は北は賀茂川、西は桂川を渡ると洛外であった。東山区、山科区は当時の京には入らない。
※もとしぞくなりければ→もともと親族であったので。底本をはじめとして諸本には「しぞく」とあるが、「しンぞく」の「ン」を撥音無表記にして「しぞく」と書いたのであろう。「何ばかりのしぞくにかはあらむ、いとよく似通ひたるけはひかな」源氏物語・浮舟)を見れば「氏族」でないことは明らか。
※そむくとて雲には乗らぬ物なれど→「そむく」は、「俗世に背を向ける」こと。「雲に乗る」は仙人になって、雲に乗り、自在に遊ぶこと。契沖の『勢語臆断(憶測的な判断)』は『荘子(そうじ…本として言う場合は書名「そうじ」と読む)』「逍遥遊第一」に「藐姑射之(はこやの)山ニ有リテ神人居リ。肌膚ハ氷雪ノ若ク。綽約タルコト処子ノ如シ。五穀ヲ不食(くらわず)、風ヲ吸ヒ露ヲ飲ム。雲気ニ乗リ、飛竜ヲ御シ而乎四海之外ニ遊ブ。」とあるのを引く。
※世のうきことぞよそになるてふ→俗世の嫌なことが遠く離れた存在になるということだよ。
※斎宮の宮なり→この人は、伊勢の斎宮にいた宮様であるよ。第六十九段の伊勢の狩の使の段の後日譚であるという書きぶりである。『古今集』恋五(784)の詞書「業平の朝臣、紀有常がむすめに住みけるを…」や、その影響を受けたかと思われる『尊卑文脈』等の系図によれば、業平の妻は紀有常の娘であり、伊勢斎宮恬子内親王は有常の妹の紀静子の娘であるから、業平の妻と伊勢斎宮は従姉妹同士ということになる。「もと親族なりければ」という言い方は、かっては親族であったことになり、右の『古今集』の詞書が「うらむることありて…」と続くように、今では有常娘と疎遠になってしまっていたゆえに「もと親族なりければ」と言ったのであろう。

第百三段

 むかし、をとこ有りけり。いとまめにじちようにて、あだなる心なかりけり。ふか草のみかどになむ、つかうまつりける。心あやまりやしたりけむ。みこたちのつかひたまひける人を、あひいへりけり。さて、
    ねぬる夜の夢をはかなみまどろめば
     いやはかなにもなりまさる哉 
                       (一七七)
となんよみてやりける。さるうたのきたなげさよ。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、たいそうまじめで実直な人であって、うわついた心がなかった人である。深草のみかどにお仕えさせていただいていたのである。心得違いをしたのであろうか、親王方の使い人と直接愛情を交わすようになったのである。そのような状態になって、
    共寝した夜のことを、夢の中のことのようにはかないものだと思いつつ帰って来て、またうとうとまどろんでいると、昨夜のことが、さらにあとかたもないほどはかないものになってゆく気持ちがすることであるよ。
とよんで贈ったのである。このようにしてよんだ歌の、何と、ぱっとしないことよ。

【語釈】

※いとまめにじちようにて→「まめ」は「まじめ」の意だが、「まめ男」(第二段)や「心もまめならざりけるほどの家刀自」(第六十段)のように女性関係について言っていると見てよい。室町時代の旧注は、「じちよう」に「実要」という字をあて、「まめ」と同じことを重ねて書いたのだと言い、「文選のかたちよみのごとし」(『闕疑抄』)と言っている。「文選のかたちよみ」とは、いま言う「文選読み」のことであるが、当時、漢文を学ぶ時、音で読んだ後に訓釈して読む読み方であり、たとらば「細細腰支」を「さいさい(細細)と細やかなるようし(腰支)のこし」と読むような読み方をいうのであるが、「〔音読み〕と〔訓読み〕」のうち、音読みを先にして「ト」で続けて、その後に訓読みを書く注釈法であり、これをこの「いとまめに実用にて」にあてはめると、「〔実用〕ト〔いとまめなり〕」とならなくてはならないから、これには該当しないのではないか。
※あだなる心なかりけり→「あだなる」は、「名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島…」(第六十一段)、「花よりも人こそあだになりにけり」(第十七段)のように、「一定しない」「変わりやすい」「移り気だ」という意で、「まめ」の反対語。
※深草のみかどになむ仕うまつりける→仁明天皇。「深草のみかど」は、深草に御陵が作られたゆえの称。京阪電車藤森駅下車、東へ一キロ。仁明天皇の時代から日本風。
嵯峨天皇の時代から中国風になっている。椅子生活。800年代後半から中国文学の影響を受けている。
※心あやまりやしたりけむ→「心あやまり」は、「ひとふしうしと思ひ聞こえさせし心あやまりに、この御息所も、思ひ移して別れ給ひしに」(源氏物語・須磨)などによって、「心得違い」「考え違い」「とんでもないことを考えること」などと訳すのが通説であるが、「本性はいと静かに心よく、こめき給へる人の、時々は心あやまりして、人にうとまれぬべきことなむうちまじり給ひける」(源氏物語・真木柱)のように、本性からはずれて、心が正常でなくなるような、「乱心」と訳してよいような場合をも含んでいる。ただし、ここは「乱心」の状態までは行かず、「心得違いをしたのであろうか」と訳す程度に解しておけばよい。
※親王たちの使ひたまひける人をあひ言へり→「使ひたまひける人」は、高貴な人の側近く仕える召使いの職にありながら、その高貴な人、もしくは高貴な人の夫と直接の肉体関係を持っている女。「使ひ人」、もしくは「召し人」と言う。
法律上は一夫一妻制。財産贈与は妻のみ受ける。喪に服するのも妻のみ。妾(しょう)=第二・第三婦人。
「あひ」→お互いに。
※寝ぬる夜の夢をはかなみ→共寝をした夜は、すぐ明けてしまう、夢のようなはかない逢瀬だったと嘆きつつ。
※まどろめばいやはかなにもなりまさるかな→朝になって帰宅した後、うとうとすると二人の逢瀬がさらに遠い過去のもののように思えて、ますますはかないものに思われてくるよ…と言っているのである。
※さる歌→「さある歌」の約。このようによんだ歌。
※きたなげさよ→「きたなげさ」は、「不潔である」ということではなく、「みすぼらしい」「ぱっとしない」というような意。「きたなげなる所に、年月を経て物し給ふこと」(竹取物語)や「きたなげなる褶(しびら)引き結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり」(源氏物語・末摘花)のように「ぱっとしない」という訳語が最も適切である。語り手が登場人物と一体化して卑下謙退した書き方である。第七十七段・第百一段参照。主人公(業平)自身が書いたというポーズをとっている。

第百四段

 むかし、ことなることなくて、あまになれる人有りけり。かたちをやつしたれど、物やゆかしかりけむ、かものまつり見にいでたりけるを、をとこ、うたよみてやる。
    世をうみのあまとし人を見るからに
     めくはせよともたのまるゝ哉
                         (一七八)
これは、斎宮の物見たまひけるくるまに、かくきこえたりければ、見さして、かへり給ひにけりとなん。

【通釈】

 昔、特別の事情がなくて、尼になっている人がいたのである。姿を尼姿にして派手さを捨てているが、物見高さは捨て切れなかったのであろうか、賀茂の祭を見物に出かけていたのを見て、男は、歌を詠んで贈ったのである。
    俗世を厭うあまり、尼になられたお方だと知ると、すぐに海人ではなく尼であるのに、「海布を食わせて」「目配せをして」と期待されることでありますよ。
 これは、斎宮が見物なさっていた車に、男がこのように申しあげたので、途中で見物をやめて、お帰りになったということなのである。

※この段は百ニ段の後に置きたかったが、百三段が出来上がっていたので百三段の後に置いた。
 百二段の後に、「斎宮の宮なり」と書いたのは、この段を読んで書いたのではないか。

【語釈】

※異なることなくて→格別なことなくて。
※かたちをやつしたれど→華やかな姿から目立たない姿に変わること。現代の「やつす」とは違う。
ここは「世の中なべてはかなく、厭ひ捨てまほしきことを聞こえかはし給へど、なほやつしにくき御身のありさまどもなり」(源氏物語・鈴虫)というような例が参考になる。
※物やゆかしかりけむ→「ゆかし」は、「物を見て心を満足させたい」。「見たい」。
※賀茂の祭見に出でたりけるを→「賀茂の祭」は、上賀茂神社・下賀茂神社の祭。いわゆる葵祭。陰暦四月第二の酉の日に行われた。その祭見物の様子は、『源氏物語』葵の巻、には有名な車争い場面をはじめ詳細な記述が見られる
し、『栄花物語』初花の巻には道長の祭見物の場面が記されている。
※世をうみのあまとし人を見るからに→「世を倦(う)み」と「海の海人」を掛ける。また「見る」と海藻の「海松(みる)」を掛ける。うみ→厭になって捨てる。憂鬱になる「憂し」からきている。
※めくはせよともたのまるゝかな→「めくはせよ」については、『名義抄』に「目旬旬マジロク メクハス」、また「睚眦 ニラム メクハス」とある「目配せをする」という意と海藻の「和布(め)食わせよ」の意を掛ける。
※見さして→見物を途中でやめて、接尾語「さす」は、「〜を途中でやめて」の意。第八十六段の「おのおの親ありければ、つつみて、言ひさしてやみにけり。」の「言ひさす」と同じ。