伊勢物語26第百十一段〜第百十七段

第百十一段

 昔、をとこ、やむごとなき女のもとに、なくなりけるをとぶらふやうにて、いひやりける。
    いにしへはありもやしけん今ぞしる
     まだ見ぬ人をこふるものとは 
                     (一八八)
返し、
    したひものしるしとするもとけなくに   
     かたるがごとはこひずぞあるべき 
                  (一八九)
又、返し、
    こひしとはさらにもいはじしたひもの  
     とけむを人はそれとしらなん  
                     (一九〇)

【通釈】

 昔、男がいた。その男は、どうしようもないほどに高貴な女のもとに、亡くなった人を弔問するような様子で、歌を贈ったのである。
    さまざまな不思議がある昔にもこのようなことはあったのでしょうか。まだ直接に会ったことのにない人を恋い慕うということがあろうとは。
返歌、
    下紐が解けるのを恋い慕ってくださるしるしだというのに、解けないのですが…。あなたは、まだ見ぬ人を恋い慕うとお話になっているほどに恋い慕っていらっしゃるわけではないのですね。
また、男の返歌
    あなたは「私が語るほどに恋い慕っていないようだ」とおっしゃいますが、私は「恋しい」というような、大それたことを申しあげようとは思っていませんよ。やはりあなたには、下紐が解けるかどうかによって、私が恋しているということを知っていただきたいものです。

※業平とは関係のない他人(後の時代の人)の歌を利用して作っている。
※歌三首を繋ぎ合わせている。説明不足で解りにくい。
※後撰集では伊勢物語百十一段の返歌と次の男の返歌を反対においている。この方が素直な形である。
伊勢物語は後撰集と同じに出来ないために逆に作った。其の為に解りにくくなっている。

【語釈】

※やむごとなき女のもとに→「やむごとなし」は、「二、三日侍りて、やむごとなき事によりて、まかり立ちければ」(後撰集・羇旅・1354)のように「やめることのできない」という意であったが、「やむごとなき高き所より問はせ給へりけれど」(後撰集・雑二・1188)のように「尊い」「高貴な」という意になった。「あるやむごとなき人の御つぼねより」(第百段)も同じ。
※なくなりけるをとぶらやうにて言ひやりける→この「なくなった人」は「やむごとなき女」の縁者であろう。その「女房」とする説が有力でもある。
※いにしへはありもやしけん→「昔もこんなことはあっただろうか」と疑問の形をとっているが、実は、「さまざまな不思議があった昔も、このようなことはなかったと言いたいのである。「ちはやぶる神世も聞かず…」(第百六段)というのも同じ言い方。
※まだ見ぬ人を恋ふるものとは→「なくなりにける人」はよく知っていたが、この「やむごとなき」「まだ見ぬ人」を恋い慕ってしまったと言っているのである。
※下紐のしるしとするもとけなくに→相手が自分を恋してくれていると、自分の下紐が解けると思われていたのである。「我妹子(わぎもこ)し我を偲ふらし草枕旅の丸寝に下紐解けぬ」(万葉集・巻十二・3143)
※語るがごとは恋ひずぞあるべき→「語る」は「言ふ」と違って、まとまりのある内容を口にすること。
※恋しとはさらにも言はじ下紐の解けむを人はそれと知らなん→あなたは「語るがごとは恋ひずぞあるべき」とおっしゃるが、私は「あなたのような、やんごとなき人に対して、「恋しい」というような大それたことを申しあげようとは思いません。あなたは、下紐が解けることによって、私が恋しているということを知っていただきたいものです。


第百十二段

 むかし、をとこ、ねむごろにいひちぎりける女の、ことざまになりにければ、
    すまのあましほやく煙風をいたみ   
     おもはぬ方にたなびきにけり  
                    (一九一)

【参考】

 『古今集』恋四・708の「題しらず よみ人しらず」の歌をそのまま利用。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男が、心をこめて契りを交わしていた女が、他の人に心を寄せるようになってしまったので、
    須磨の海人の塩を焼く煙が、風がきついので、思いも寄らぬ方向にたなびいてしまったよ。あの女(ひと)の心も、あの煙と同様に思わぬ方へなびいてしまったことだよ。

【語釈】

※ことざまになりにければ→「ことざまになる」は、常と違った様子になること。「(女三宮が)かくことざまになり給へる、いと口惜しく」(源氏物語・若菜上)と同じく、他の人に心を移してしまうこと。
※風をいたみ→「いたみ」は形容詞「いたし」に接尾語「み」がついて理由を述べる形。「風がきついので」「風が激しいので」。
※思はぬ方へたなびきにけり→予想もしない方へ煙がたなびくように、ねんごろにいひちぎりける女が予想もしない男にたなびいたと嘆いているのである。


第百十三段

 昔、をとこ、やもめにてゐて、
    ながゝらぬいのちのほどにわするゝは
     いかにみじかき心なるらん
                        (一九二)

【通釈】

 昔、男がいたのである。共に住む女がいなくなってやもめ暮らしをしていて詠んだ歌、
    長くもない人生の間に、契りを結んだ私のことを忘れてしまうとはなんと続かないお心なのでありましょうか。

【語釈】

※やもめにていて→「やもめ」の「め」は本来「女」を言ったと思われるので、「かぐや姫のやもめなる嘆かしければ、よき人にあはせむと思ひはかれど」(竹取物語)は納得できるが、この「昔、男、やもめにゐて」は明らかに「男」である。『倭名抄』が「鰥夫」を「釈名云、無妻曰鰥。和名、夜無乎」とあるので、「やむを」の誤りだという説もあるが、『うつほ物語』の藤原の君の巻に「おきな、やもめにて、つきなくおぼゆれば、殿の若き御たち父ぬしに申さむとなん思ふ」とあって、妻のない男をも「やもめ」と言ったことは明らかである。
※長からぬ命のほどに忘るるは→どんなにか短いあなたのお心なのでしょうか。「短き心」は、「せっかちな心」「こらえ性のない心」、「すぐ忘れてしまう心」をいう。「長からぬ命のほど」と対比して「短き心」と言っているのである。


第百十四段

 むかし、仁和のみかど、せり河に行幸たまひける時、いまはさることにげなく思ひけれど、もとつきにける事なれば、おほかたのたかがひにてさぶらはせたまひける。すりかりぎぬのたもとに、かきつけれる。
    おきなさび人なとがめそかり衣
     けふばかりとぞたづもなくなる   
                    (一九三)
おほけやけの御けしきあしかりけり。おのがよはひを思ひけれど、わかゝらぬ人はきゝおひけりやと。

【参考】

『後撰和歌集』雑一(1075〜1076)
仁和のみかど、嵯峨の御時の例にて、芹河に行幸したまひける日
                                      在原行平朝臣
    嵯峨の山みゆき絶えにし芹河の千世の古道あとはありけり
同じ日、鷹飼ひにて、狩衣のたもとに、鶴の形を縫ひて書きつけたりける
    翁さび人なとがめそ狩衣今日ばかりとぞたづも鳴くなる
行幸の又の日なん致仕(ちじ)の表奉りける。
※致仕→現役引退。
※兄の行平の歌を利用して伊勢物語(業平を主人公の歌物語)として付け加えた。

【通釈】

 昔、男がいたのである。仁和のみかど(光孝天皇)が芹川に行幸なさった時、老い果てた齢になった今は、このような事は似つかわしくないと思ったけれど、以前に従事していたことであるので、大鷹狩を管轄する人として仕えさせなさった。その時着ていた摺狩衣の袂に書きつけてあった歌、
    まさに翁そのものである私が、狩衣を着ることを、皆さんお咎めなさるな。この狩衣の袂には、今日は狩だと鶴も鳴いているようです。こんな私の姿も、まさしく今日だけだということなのです。すぐに退場いたしますよ。
 天皇の御機嫌は悪かったことである。歌の読み手は、自分の年齢を思って「翁」と詠んだのであったが、若くない御方は、御自分のことと受け取って「今日ばかり」という言い方にご機嫌が悪くなられたということであるよ。

【語釈】

※仁和のみかど→光孝天皇。元慶八年(884)二月二十三日、五十五歳で践祚。翌年閏三月に改元して仁和元年となったので「仁和のみかど」と呼ばれた。その前の清和・陽成と幼帝が続いたので、五十五歳で帝位についたのは話題になったはずである。二年後の仁和三年(887)八月二十六日に崩御。
※芹河に行幸したまひける時→『三代実録』仁和二年(886)十二月十四日条に芹川野行幸の記事がある。「芹河(芹川)」は京都市伏見区下鳥羽の鳥羽離宮の身波を流れていた川。
※今はさること似げなく思ひけれど、もと就きにける事なれば→主人公を在原業平と見れば没後七年のこと。在原業平の事績を利用して業平の物語にしたのであろう。行平はこの時、六十九歳。
※大鷹の鷹飼ひにてさぶらはせたまひける→「大鷹」は「大鷹狩」。秋に鶉や雀を取る「小鷹狩」に対し、「大鷹狩」は冬に雉、雁、鴨などを取る。「鷹飼ひ」は「狩」を管理する役人。
※摺狩衣のたもとに、書きつけける→「摺狩衣」は、草木の葉の汁でプリントした衣。その袂に歌を書きつけたのである。
※翁さび→「翁さび」の終止形は「翁さぶ」だが、まさしく翁らしくすること。『万葉集』に「をとめさび」「神さぶる」などの例がある。
※今日ばかりとぞたづも鳴くなる→「今日はかりとぞたづも鳴くなる」と読み、「今日は、古式を復活させた由緒ある狩の日だ、めでたいことだと鶴も鳴いていることですよ」という意と、「<このように年寄くさい私めが、狩衣を着て、晴の行事である狩に従事するのも「今日ばかり(今日だけ)です」と言っているのである。
※今日ばかり→今日は今日ばかりは掛詞。
※おほやけの御けしきあしかりけり→「昔、おほやけおぼして使うたまふ女の色ゆるされたるありけり」のように、「おほやけ」は天皇。「けしき」は「気色」。機嫌。
※おのが齢(よはひ)を思ひけれど、若からぬ人は、聞き負ひけるとや→光孝天皇はこの時五十七歳。人生五十年の頃の五十七歳だから「若からぬ人」であることは確か。「聞きおふ」は「常のことぐさに言ひけるを、聞きおひける男」(百八段)と同じ。自分のこととして聞く。


第百十五段


むかし、みちのくににて、をとこ、女、すみけり。をとこ「みやこへいなん」といふ。この女、いとかなしうて、うまのはなむけをだにせむとて、おきのゐで、みやこじまいといふ所にて、さけのませて、よめる。
    おきのゐて身をやくよりもかなしきは
     みやこしまべのわかれなりけり     
                 (一九四)

※奥羽地方へ男が行った段。
※後から加えられた段。

【和歌の他出】

*『古今集』墨滅歌(すみけたうた・すみべちうた)
     おきの井  みやこじま                     小野小町
    おきのゐて身をやくよりもかなしきはみやこしまへの別れなりけり

※隅滅歌→藤原俊成が墨で線を引いて見えないように消してあるので墨滅歌と言う。定家が断りながら入れている。定家が写した系統の定家本。古今集の後に纒られている。無い本もある。
※この歌は小野小町が題を与えられて宮中で詠んだ歌。
※「おきの井」と「宮古島」の地名をおり込んだ「物名歌」
※おきの井→題詠(だいえい)…題に従って詠んだ。
※この歌を伊勢物語に取り入れたので「小野小町と業平」、「小野小町と奥羽地方」の伝説が出来上がった。
※第二十五段とこの段のみ小野小町の歌を利用している。

【通釈】

 昔、陸奥国において、男と女が夫婦として住んでいたのである。男が「都へ行こうと思う」と言う。この女は、ひどく悲しがって、「せめて餞別の宴だけでもいたしましょう」と言って、おきの井、宮古島という所で、酒宴を設けてよんだ歌、
   燠火(おきび)がくっついて我が身を焼くよりも悲しいのは、都と島辺の遠い別れでありますよ。

【語釈】

※昔、陸奥にて、男、女済住みけり→第十四段。第十五段の陸奥章段から派生したものの、第十五段の後には入れ難く、増補付加の形で、ここに置かれたのであろう。
※馬のはなむけをだにせむ→「あがたへゆく人に、むまのはなむけせむとて」(第四十四段)、「むまのはなむけせんとて、人を待ちけるに」(第四十八段)参照。
※うま→むま。「む」は「う」に限りなく近かった。
※おきのゐで、みやこ島といふ所→「おきのゐで」も地名であろうが、どこかわからない。「興の井堤」をあてるべきであろうか。「みやこ島」もわからないが、今の岩手県宮古市の宮古湾につき出た半島と考えておく。
※酒飲ませて、よめる→酒宴をして、小さな歌会を行ったのである。
※おきのゐて身を焼くよりもかなしきは→「おき」は「燠(おき)」。赤くおこった炭火。「ゐて」は「坐って」という意であるから、「燠火の上に座って」と解したいところであり、事実「高欄(こうらん)にをしかかりてながめおはしまして、思ほすことさらにも言はず、をきの上にゐる心地して、いやますますにおぼさるるに」(『うつほ物語』嵯峨院)という例もあるが、「燠の上にゐて」ではなく、「燠のゐて」となっているのは不審。「燠」を主語として「燠がじっと傍にいて」「燠が身にくっついて」の意と解しておく。
※みやこ島へのわかれなりけり→物名としては地名の「宮古島」を読み込んでいるのであるが、歌の意としては、「都」と「島辺」の別れ、つまり「都へ帰るあなた」と「この島辺」に残る私との別れであるよ……と言っているのである。
「みやこ島へ」の「へ」は端の方。ここでは島の端。「みやこ」は宮殿のある場所。


第百十六段

 むかし、をとこ、すゞろに、みちのくにまで、まどいひにけり。京におもふ人に、いひやる。
    浪まより見ゆるこじまのはまひさぎ(し) 
     ひさしくなりぬきみにあひ見で    
                   (一九五)
 「なにごとも、みな、か(よ)くなりにけり」となんいひやりける    

※はまひさぎ→「ぎ」は「し」の誤写
※かくなりにけり→「か」は「よ」は「か」の誤写
※自然と親しんで自由に生きたいという人々の願いがあった。(中国文化の影響)
※奥羽地方へ男が行った段。後から加えられた段。 

【和歌の他出】

*『万葉集』巻十一・2753
 浪間従(なみのまゆ) 所見小嶋之浜久木(みゆるこじまのはまひさぎ) 久成奴(ひさしくなりぬ) 君尓不相四手(きみにあはずして)
*『拾遺集』恋四・856(題しらず よみ人しらず)
 波間より見ゆる小島の浜ひさ木ひさしくなりぬ君にあはずして
*『伊勢物語』は『拾遺集』より前に出来ている。この歌は当時から親しまれていたので、『拾遺集』でも詠まれた。

 【通釈】

 昔、男がいたのである。特に目的を持つこともなく、陸奥国まで、さまようように出かけて行ったのである。京都にいる恋しく思う人に歌を言い送ったのである。
    浪が立っている間から見える、あの小島の浜庇の家、その語呂合せで言うわけではないが、あなたにお会いしなくなって、久しくなってしまったことであるよ。
「何事もみなこのように遠い存在になってしまったよ」と言い送ったのであった。

【語釈】

※すゞろに、陸奥国まで、まどひいにけり→「昔、男、陸奥國にすゞろにゆきいたりけり」(十四段)の場合と同じく、「すゞろに」は「目的もなしに」という意。また「わが入らむとする道はいと暗うほそきに、蔦、かへでは茂りて、物心細く、すずろなるめを見ることと思ふに」(九段)の「すずろなるめ」は、「予想もしないケース」という意であるが、あらかじめ……しない」という点で共通している。
※京に思ふ人に言ひやる→「『京にその人の御もとに』とて文書きてつく」(九段)と同じく、「都にいる人で、男がずっと思いを寄せている人」の意。「京に」と一度言って。「思う人に」と反復したと見るのではなく、「に」は存在を表わす助動詞「なり」の連用中止の形と見るべきであろう。
※浪間より見ゆる小島の浜びさしひさしくなりぬ→『伊勢物語』では「「はまびさし」とする本が圧倒的に多いが、本来は「はまひさぎ」であろう。

※伊勢物語七段 東下り 十五段 ・十六段 陸奥
 東海道を海岸沿いに行く→滋賀県の草津から伊勢に出る→三重県を海岸沿いに出る→愛知県に入る。海岸沿いに行く→東山道(今の中仙道)→三河国八橋(愛知県)→駿河国うつの山(静岡県)→武蔵国を過ぎて下総(今の千葉県)→墨田川→埼玉県入間市→武蔵野(東京・埼玉の広い範囲)→あずまの国(神奈川県・東京・埼玉等の東国)→陸奥(福島県より北)・第十四段・十五段は奥羽地方、陸奥国になる。異文化…文化・センスの違う奥羽地方の女性。
→第百十五・百十六段で何故、陸奥国が二つ出て来たか。本当なら十五段の後に入れるべきだが、入れられなかったので後の段階になって後のほうに付録的に付け加えられた。 


第百十七段

 むかし、みかど、住吉に行幸したまひけり。
    我見てもひさしくなりぬ住吉の
     きしのひめ松いくよへぬらん  
                      (一九六)

おほん神、げんぎゃうし給ひて、
    むつましと君は白浪みづかきの  
     ひさしき世よりいはひそめてき
                       (一九七)

【和歌の他出】

 一九八  我見てもひさしくなりぬ住吉の岸の姫松幾代へぬらん
  *『古今集』雑上・950
      (題しらず)                 (よみ人しらず)
    我見てもひさしくなりぬ住吉の岸の姫松いくよへぬらむ

【参考】

  *『古今集』雑上・906
      (題しらず)                 (よみ人しらず)
    住吉の岸の姫松人ならば幾世(いくよ)か経(へ)しと問(と)はましものを

【通釈】

 昔、帝が住吉神社に行幸なさったのである。その時の御歌、
    わたくしが見てからでも、ずいぶん久しくなった。住の江の岸の姫松は、いったい幾世代を経ているのであろうか
住吉の御神が形を現わしなさって、
    むつましい関係だとあなたはご存じなかったでしょうか。わたくしはずいぶん久しい昔から、あなたのことを、ずっとお守りして来たのですよ。

※在原業平が帝に付いて行って歌を詠んだ。業平の歌を神が感動した。
※神と人間の代表である天皇がお互いに支えあっている目出度い歌。

【語釈】

※我見てもひさしくなりぬ→私(歌のよみ手)が見てからでもずいぶん時が経った。
※住吉の岸の姫松→「姫松」は、若い松ということではなく、種類であろう。松=不老長寿の樹木。
※御神、現形し給ひて→底本は「げぎやう」とあるが、「げんぎやう」の「ん」が無表記になっているのであろう。「現形」であろう。「形を現わしなさって」。
※むつましと君は白浪→「君は白浪」は「君は知らなみ」の意を掛ける。「なみ」は助動詞「ず」の未然形「な」に接尾語「み」を付した形。「知らないで」という意。
※みかづきのひさしき世よりいはひそめてき→「白浪」の縁で、「水(みづ)」を「瑞々(みづみづ)し」に掛け「瑞垣の」と続けた。「瑞垣の久しき時ゆ恋すれば我が帯ゆるぶ朝夕ごとに」(萬葉集巻十三・3262)のように神垣は永遠に朽ちないゆえに「瑞垣の」が「久し」に掛かる枕詞として用いられた。「いはふ」は本来吉事を願って身を慎むことである。

【参考一】

※阿波国文庫本や国立歴史民俗博物館本に付載されている小式部内侍本では、右の本文に以下の文章が続いている。
 この事をきゝて、ありはらのなりひら、すみよしにまうでたりけるついでに、よみたりける。
    すみよしのきしのひめまつひとならばいくよかへしととはましものを
とよめるに、おきなのなりあ(や)しき、いでゐて、めでゝ、かへし、
    ころもだにふたつありせばあかはだの山にひとつはかさまし物を
 すなわち、底本の定家本をはじめ、普通本は、「昔、帝、住吉に行幸したまひけり」で始まるが、「我見てもひさしくなりぬ…」という歌が、誰の歌かわかり難い。素直に読めば、帝の歌だが、それでは何故『伊勢物語』にあるのかわからないから、行幸に従駕した物語の主人公(在原業平)が帝の代作をしたと見るべきであろう。物語の主人公(在原業平)の歌に感応した住吉明神が「…みづかきのひさしき世よりいはひそめてき」と返したと解するのである。
 しかし、そのように解し得ずに、この物語が何ゆえに『伊勢物語』にあるのかわからないと不審に思った享受者は、「この事をきゝて、ありはらのなりひら、すみよしにまうでたりけるついでに、よみたりける」以下の第二部分を付け加えなければならなくなったのであろう。写本時代の物語は、享受者(読者)もまた、第二、第三の作者に変身し得るのである。    

【参考二】

 『日本書紀』の神功皇后紀や『萬葉集』に見られるように、住吉明神は海上安全の神であったが、平安時代末期から鎌倉時代になると、住吉明神は、柿本人麿と並ぶ和歌神になっていたのであるが、その契機は、『伊勢物語』のこの章段にあると言われている。
※住吉明神が業平と歌のやり取りをしたという『伊勢物語』第百十七段から出発している。
※佐竹本三十六歌仙絵巻   上段の最初は柿本人麿   下段の最初は住吉明神