伊勢物語第27…第百十八段〜第百二十五段

第百十八段

 昔、をとこ、ひさしくおともせで、「わするゝ心もなし。まゐりこむ」といへりければ、   
    玉かづらはふ木あまたになりぬれば
     たえぬ心のうれしげもなし
                           (一九八)

※この段は主人公は女。女を中心としている。

【和歌の他出】

*『古今集』恋四・709
      (題しらず)                  (よみ人しらず)
    玉かづらはふ木あまたになりぬればたえぬ心のうれしげもなし

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、長い間、便りもしないで、「あなたを忘れるというような心はありません。そちらに参上しましょう」と言って来たので、女が詠んだ歌、
    蔓草が伸びて行ってまといついてゆく木がたさんあるように、あなたには、御発展になるお相手が今やたくさんにいらっしゃいますので、絶えることなく通って行くとおっしゃるせっかくの御心も嬉しいというような情況ではございません。

【語釈】

※参り来む→歌の作者である女の側に立ってまとめられているので、「参り」と言い、「来む」と書かれているのである。
※玉かづら這ふ木あまたになりぬれば→「玉かづら」の「玉」は美称の意を添える接頭語。「かづら」は蔓草の総称。蔓草(つるくさは)が這ってかかっていく木が他にもたくさんあるので。他に通っていらっしゃる女が多くなったので。
※絶えぬ心のうれしもなし→思うことが絶えないとおっしゃるお心も、嬉しいという気持ちにはなりませんよ。「げ」は雰囲気。




第百十九段

 むかし、女の、あだなるをとこの、かたみとておきたる物どもを、見て、
    かたみこそ今はあたなれこれなくは
     わするゝ時もあらましものを
                           (一九九)

※この段は女の立場が強く出ている。

【和歌の他出】

*『古今集』恋四・746
      題しらず                     よみ人しらず
    形見こそ今はあたなれこれなくは忘るゝ時もあらましものを
*『小町集』
    形見こそ今はあたなれこれなくは忘るゝ時もあらましものを
  『小町集』→小町の歌をもとにして、小町らしい歌(古今集のよみ人しらずの歌)を増補して小町集をふくらませていった。

【通釈】

 昔、女の移り気なのがいた。男が次に会うまでの形見だと言って、残しておいた物などを見て詠んだ歌、
    次に会うまでの記念という形見が、今となってはかえって敵であるよ。これがなければ、離れて行ったあの人を忘れる時もあろうと思われるので。

【語釈】

※女のあだなる、男の→「女のあだなる男の…」と句読点をつけて、「あだなる」を「男」にかかる修飾と見て、「昔、女が浮気な男が形見だと言って残して置いた物どもを見て」と解するのが通説であるが、疑問がある。「女」が中心になっている、「の」は「あだなる」の連体形と対応している。
※形見とて置きたる物どもを見て→「かたみ」は、死んだ人、別れた人を思い起こさせる記念の物。
※形見こそ今はあたなれ→「あた」は、「しらぬひ 筑紫の国は あた守る おさへの城(き)そと…」(萬葉集・巻二十・4331)のように「敵」の意。転じて「なにのあたにか思ひけむ」(第三十一段)のように「敵意」「恨み」の意となる。ここもその例。なお、「あた」は『名義抄』の諸本や室町時代のキリシタン物の資料を含めて、江戸時代初期までは、「た」は清音であったが、江戸中期からは「敵討(あだうち)」のように「た」を濁るようになった。
※「あた」→敵。「あだ」→変わりやすい。
※キリシタン物→平家物語
※イソ本→イソップも物語を日本語に訳してローマ字で書いている。
※これなくは忘るゝ時もあらましものを→この形見がなければ、あの男のことを忘れることもできるのに。「まし」は事実に反する。

第百二十段

 昔、をとこ、女のまだ世へずとおぼえたるが人の御もとにしのびてものきこえてのち、ほどへて、
    近江なるつくまのまつりとくせなん
     つれなき人のなべのかず見む
                         (二〇〇)

※男の歌であるが女が中心の段。
※「とくせなん」は歌ことば的。

【和歌の他出】

*『拾遺集』雑恋・1219
      (題しらず)                   (よみ人しらず)
    いつしかもつくまの祭はやせなんつれなき人のなべの数見む

※平安初期から筑摩の祭に関連してあった歌。
※「はやせなん」は口語的。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、まだ男ずれがしていないと思われた女が、ある人の御方の御もとにこっそりとお便りを申しあげて、後、しばらく経ってから、それを知って、女に歌を贈ったのである。
    近江にある筑摩神社の祭を早くしてほしい。私に対してはつれない女(ひと)が、どれだけ浮気をしているのかを示す鍋の数を確認したいと思うので。

【語釈】

※昔、男→ここも「昔、男ありけり。その男」の略である。「のち、ほどへて」女に歌を贈ったのである。
※女のまだ世へずとおぼえたるが→前後の「女のあだなる」と同じく名詞(女)+「の」+「連体形(「女のまだ世へずとおぼえたる」)の形。まだ世間のことを十分に経験していないと思われる女」の意。この場合の「世」は「男女の間」のこと。「世のありさまを人は知らねば」(第二十一段)「たのみしかひもなき世なりけり」(第百二十二段)と同じ。
※人の御もとにしのびて物聞こえて→「人の御もとにしのびて物聞こえ」たのが誰なのか、わかり難い文脈であり、また女から身分ある人に「しのびて物聞こえ」とするのに、少し抵抗もあるが、「まだ世へずとおぼえたる」女の意外な行動と見ておく。
※のち、ほどへて→女が人の御もとにしのびてもの聞こえていたのに、この主人公の男は「まだ世へ」ぬ女だと安心していて、うかつにも、かなり長い間知らなかったのである。だから、「のち、ほどへて」と言っているのである。
※近江なる筑摩の祭→滋賀県米原市朝妻筑摩神社の祭。女が、浮気した男の数に相当する数の鍋をかぶって歩くという風習があったと言われる。今も毎年五月三日に、狩衣姿の少女八人が鍋をかぶって筑摩神社まで行列して歩く「鍋冠祭」が行われている。
※つれなき人の鍋の数見む→自分につれない人がどれだけ多くの男と浮気をしているのが、筑摩祭での鍋の数を見て確かめたいと言っているのである。




第百二十一段

 むかし、をとこ、。梅壷より雨にぬれて人のまかりいづるを、見て、
    うぐひすの花をぬふてふかさも哉   
     ぬるめる人にきせてかへさん
                          (二〇一)
返し、
    うぐひすの花をぬふてふかさはいな
     おもひをつけよほしてかへさん
                         (二〇二)

※この段だけで見れば「返し」が無いほうが、風流な詠み方で良いが、百二十段との続きから見ると「返し」がある方が良いと考える事が出来る。

【和歌の他出】

なし。

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男が、梅壷から雨に濡れて退出する人を見てよんだ歌、
    鶯が青柳を片糸にして撚るという梅の花笠がほしいよ。もしそれがあれば、雨に濡れて退出するように見える女(ひと)に着せて帰らせようと思っているのです、
返し、
    鶯が青柳で梅の花を縫いあげるという笠は、いただかなくて結構です。それよりも、あなたの「思ひ」の「火」をこちらにつけてください。それがあれば、あなたは、その火で、この濡れた着物を乾かして私を無事に帰らせることができるでしょうよ。

【語釈】

※梅壷より雨に濡れて人のまかり出づるを見て→「梅壷」は凝華舎(ぎょうかしゃ)のこと。凝舎は清涼殿の北西に位置する飛香舎(ひぎょうしゃ)の北、内裏の西北隅にあたる襲芳舎(しうほうしゃ)の南にあった。庭に梅が植えてあったので梅壷と呼ばれたのである。ただし、この場合は、梅壷の女御その人ではなく、仕える女房が、雨の日に退出するのを見かけて、男が歌を贈ったのであろう。「まかり出づ」は、退出するという意の謙譲語。
※うぐひすの花を縫ふてふ笠もがな→「鶯が梅の花を縫うという笠」とは、『古今集』巻二十・1081の「神遊びの歌」に見える「返し物の歌」(催馬楽のこと)の
    青柳を片糸に撚りて鶯の縫ふてふ笠は梅の花笠
によって作られたものであり、「青柳を片糸に、梅の花をもう一つの片糸にして鶯が編みあげた笠は、まさしく梅の花笠と言ってよいものであるよ」とよんだのである。つまり、「そこは梅壷だから、鶯が青柳を片糸にし梅の花を片糸にして撚って編みあげたという梅の花笠を、濡れて帰るあなたに着せて帰らせてあげたい」と言ったのである。
※返し→広本系の阿波国文庫本・国立歴史民俗博物館本や略本系の伝民部卿局筆本には返歌がない。本来は返歌はなかったのだが、後から付加した返歌は、雨に濡れて退出する女が、あなたの「思ひ」の「火」をいただきたいと大胆にも求愛した返歌ということになるが、「思ひ」の「火」で、私の濡れた着物を乾かして帰らせることになるのですよ…と言っているのであるから、まだ帰り着いてはいない、帰る途中での応答ということになり、落ち着かない。色めいた女を登場させたかったのかも知れないが、やはり返歌がない方が自然である。
定歌本では返歌がついている。昔の人は増補はしても省くことはない。本来は無かったのではないか。
※うぐひすの花を縫ふてふ笠はいな→「いな」は、相手の要求や勧誘などを拒絶する感動詞。あなたがおっしゃる「うぐひすの花を縫ふてふ笠は」結構です。要りませんと言っているのである。
「縫ふてふ」は「縫ふという」が縮んだもの。
※思ひをつけよほして帰さん→「思ひ」は「思ひ」と「火」を掛ける。あなたの御愛情の「思ひ」の「ひ(火)」を私につけてください。その火で雨に濡れた衣を「乾(ほ)して帰らせることになるでしょうから…」と言っているのである。贈歌の「着せて帰さん」に合せて「ほして帰さん」としたのであるが、男の立場からの動詞の使い方に疑問を感じて、「ほして帰らむ」と改めて読む説もある。「思ひ」に「火」や「日」を掛けることは、「思ひあらば」(第三段)、「思ひのみこそしるべなれけれ」(第九九段)など、例は多い。




第百二十二段

 むかし、をとこ、ちぎれることあやまれる人に、
    山しろのゐでのたま水てにむすび
     たのみしかひもなきよなりけり  
                       (二〇三)
といひやれど、いらへもせず。 

【和歌の他出】

二〇三 山城のゐでの玉水手にむすびたのみしかひもなき世なりけり
 *『古今六帖』第五「いまはかひなし」三一二五
  山しろのゐでの玉水手にくみてたのみしかひもなきよなりけり
 *『新古今集』恋五・一三六八(題しらず よみ人しらず)
  山城の井手の玉水手にくみて頼みしかひもなき世なりけり

【通釈】

 昔、男がいたのである。約束してあったことを違(たが)えている女(ひと)に、
    山城の井手のすばらしい水を手で掬って手飲みならふ頼みにしていた効(かい)もない二人の関係でありましたねえ。
と言ったが、女は返答もしない。

※女に捨てられて相手にされないことが解る段である。

【語釈】

※契れることあやまれる人に→「契れること」は約束してあること。「今宵あはむと契りたりけるに」(第二十四段)。「あやまる」は「誤」で、他動詞。違背すること。
※山城の井手の玉水→「山城」は現在の京都府の中で京都市以南の地を言う。井手は今の京都府綴喜郡井手町。JR奈良線の駅名「玉水」は、この『伊勢物語』の歌に拠る地名と見てよいが、「井手」は、もともとは『古今集』春下・一二五の「かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」によって、「かはづ」と「山吹」の名所として知られる有名な歌枕となった。
※手に結び→手のひらを丸くして水を受けること。「袖ひちて結びし水のこほれるを春立今日の風やとくらむ」(古今集・春上・二・紀貫之)は有名であった。
※たのみしかひもなき世なりけり→「たのみしかひ」は「手飲(たの)みし匙(かひ)むと「頼みし効(かひ)」を掛ける。「世なりけり」の「世」は男女の間のこと。「世のありさまを人は知らねば」(第二十一段)「思ふかひなき世なりけり」(同)、「誰かこの世をたのみはつべき」(第五十段)」「女のえうまじうなりての世」(第五十五段)参照。
※いらへもせず→「いらへもせず」は「返事もしない。

【参考】

なお、『大和物語』第百六十九段に、次のような物語が見られる。
 昔、内舎人なりける人、大神(おほうわ)の御幣使(みてぐらづかひ)に、大和の国に下りけり。井手といふわたりに、清げなる人の家より、女ども、童べ出で来て、この行く人を見る。きたなげなき女、いとおかしげなる子を抱きて、門のもとに立てり。この稚児の顔の、いとをかしげなりければ、目をとどめて、「その子、こち率(ゐ)て来(こ)」と言ひければ、この女、寄り来たり。近くて見るに、いとをかしげなりければ、「ゆめ、異男(ことをとこ)したまふな。我に婚(あ)ひたまへ。大きになりたまはむほどに参り来む」と言ひて、「これを形見にしたまへ」とて、帯を解きて取らせけり。
さて、この子のしたりける帯を解きて取りて、持たりける文に引き結ひて、持たせて往(い)ぬ。この子。とし六、七ばかりありけり。この男、色好みなりける人なれば言ふになむありける。これをこの子は忘れず思ひ持たりけり。男は早う忘れにけり。かくて、七、八年ばかりありて、また同じ使に指されて、大和へ行くとて、井手のわたりに宿りゐて、見れば、前に同じ井なむありける。それに水汲む女どもあるが、言ふやう、
とある。物語の文章は当然この後に続いていたはずであるが、続く丁を落丁してしまったのであろう。現存本はすべて中途半端なままに終っている。

※清ら→最高の美しさ。
※清げ→「清ら」より一段落ちる人。




第百二十三段

 むかし、をとこありけり。深草にすみける女を、やうやうあきがたにや思ひけん、かゝるうたをよみけり。
    年をへてすみこしさとをいでていなば
     いとゞ深草野とやなりなん    
                        (二〇四)
女、返し
    野とならばうづらとなりてなきをらん
     かりにだにやは君はこざらむ    
                      (二〇五)
とよめりけるに、めでて、「ゆかむ」と思ふ心なくなりにけり。

【通釈】

 昔、男がいたのである。深草にいっしょに住んでいた女を、次第に厭きる気持になったのだろうか、このような歌をよんだのである。
    何年もの間、共に住んで来たこの里を私が出て行ったならば、この里は、深草の里という名以上に、いつそう草深い野となってしまうだろうか。
女が返歌する。
    おっしゃるように、ここがこれ以上に草の深い野となったならば、私はここの名物の鶉になって鳴いていることでしょう。そうしていると、たとえかりそめの心からでも、狩をすると言って、あなたがいらっしゃらないことがあるでしょうか。きっといらっしゃると思いますので。
と詠んだことに感じ入って、出て行こうと思う心がなくなったのである。

※この段は俊成の歌に影響を与えている。
※俊成の和歌の代表歌が『伊勢物語』の歌からきている。

【語釈】

※深草に住みけめ女→「住む」は、「女はらから住みけり」(第一段)「西の対に住む人ありけり」(第四段)のように、現代語と同じく一定の場所で暮らすことをいうが、「業平の朝臣、紀有常がむすめに住みけるを」(古今集・恋五・784)のように、男が夫として女のもとにやって来て泊る、夫婦として共に生活する、という場合も、平安時代には多い。「深草に住みける女」も、「男が深草で夫婦として暮らしていた女」の意。「懸想じける女」(第三段)「物言ひける女」(第三十二段)「思ひかけたる女」(第五十五段)「年ごろおとづれざりける女」であるのと同じように、「男が深草で同棲していた女」の意である。「深草」は京都市伏見区深草。稲荷山の南西の地。『古今集』哀傷歌831の詞書に「堀河の太政大臣(おほきおほいまうちぎみ)、身まかりける時に、深草の山におさめてけるのちによみける」とあるように、堀河太政大臣基経をはじめ、深草から木幡に至る地は藤原氏の墓が広がっている荒寥たる地であった。
※やうやう飽きがたにや思ひけん→次第に厭きる方向になったと思ったのだろうか。
※年を経て住み来し里を出でていなば→何年もの間、共に住んで来た里を出て行ったならば。
※いとゞ深草野とやなりなん→「いとど」は「いっそう」。いっそう深く草が生えた野になってしまうだろうか。
※野とならばうづらとなりて鳴きをらん→あなたのおっしゃるように、私の里が草の深い野となったなら、私は鶉になって鳴いていましょう…と言っているのである。
※かりにだにやは君は来ざらむ→「かりに」は「狩」と「仮」を掛ける。男が「狩りために草深い野へ行く」という意と、「かりそめに(いいかげんな気持で)やって来る」という意を掛ける。
※めでゝ→「めでて」は「褒めて」「賞して」。
※ゆかむと思ふ心なくなりにけり→女に対して厭きを感じていたが、この歌に感じ入って夫婦としてもっと住み続けようと思ったのである。
※里→人が住んでいる。
※野→人が住まなくなったら里は野になる。
 

【参考】

 『千載和歌集』秋上・258の藤原季道朝臣の歌の詞書「百首歌たてまつりける時、秋の歌とてよめる」を承けた、次の259番の藤原俊成の歌、
    夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里
は、俊成の代表作であるが、『慈鎮和尚自歌合』に俊成自身が「崇徳院御時百首の内に侍り。これ又ことなる事なく侍り。ただ伊勢物語に、ふか草の里の女の『うづらとなりて』といへる事をはじめてよみいで侍りしを、かの院にもよろしき御気色侍りし…」とあって、重出する『古今集』ではなく、『伊勢物語』第百二十三段の物語世界をイメージして詠んだと言っているのである。
 事実、『古来風躰抄』に取られている俊成の自作はこの歌だけであるし、鴨長明の『無名抄』には、
               俊成自讃歌事
  俊恵云、五条三位入道ノ許ニマウデタリシツイデニ、「御詠ノ中ニハイヅレヲカスグレタリトオボス。人ハヨソニテヤウヤウニ定メ侍レド、ソレヲバモチヰ侍ベカラズ。マサシクウケタマハラムト思フ」ト聞エシカバ、
    「ユフサレバ野辺ノ秋風身ニシミテウヅラナクナリ深草の里
コレヲナム、身ニトリテノオモテ歌ト思給フル」トイハレシヲ、俊恵又云、「世ニアマネク人ノ申シ侍ルハ、
    面影ニ花ノスガタヲサキダテテイクヘコエキヌ峯ノ白雲
是ヲスグレタル様ニ申シ侍ルハイカニ」ト聞ユレバ、「イサ、ヨソニハサモヤ定メ侍ラン。知リ給ハズ。ナホミヅカラハ、サキノ歌ニハイヒクラブベカラズトゾ侍シ」ト語リテ、コレヲウチウチニ申シハ、「カノ歌ハ、『身ニシミテ』トイフ腰ノ句。イミジウ無念ニオボユルナリ。コレホドニナリヌル歌ハ、景気ヲイヒナガシテ、タダソラニ身ニシミケムカシトオモハセタルコソ、心ニククモ、優ニモ侍レ、イミジクイヒモテユキテ、歌の詮トスベキフシヲ、サハサハトアラハシタレバ、ムゲニ事アサクナリヌルトゾ。

※俊成の歌の理想は「幽玄」である。

※俊恵→藤原俊成の弟子。鴨長明の先生。
※人ハヨソニテ→関係のないところで。
※ヤウヤウ→様々。
※マサシクウケタマハラム→あなたの意見を聞く。
※身ニトリテ→私にとって。
※世ニアマネク人ノ申シ侍ルハ→世間の多くの人達が申すには。
※面影ニ花ノスガタ→イメージとして桜の花。
 面影ニ花ノスガタヲサキダテテイクヘコエキヌ峯ノ白雲→春(花)を待つ気持を表現した歌。
※イサ→さあ、どうだろうか。
※腰ノ句→三句目。
※景気→風景。「気」は感じられる雰囲気。
※身ニシミケム→説明的。雰囲気を説明している。
※事アサク底の浅い。



第百二十四段

 むかし、をとこ、いかなりける事を思ひけるをりにか、よめる。
    おもふこといはでぞたゞにやみぬべき
     我とひとしき人しなければ
                            (二〇六)

【通釈】

 昔、男がいたのである。その男が、どんなことを思っていた折であったのだろうか、よんだ歌、
    思っていることは言わないで、ただそのままに終わってしまうべきであろうよ。口に出して言ったところで、私と全く等しい人なんて、この世にいないので、わかってもらえるはずがないのだから。

※この段は第百二十五段との関連において読まなければいけない。

【語釈】

※いかなりける事を思ひけるをりにか→「いかなりける事を思ひけるをりにか」と朧化しているが、終焉の段(百二十五段)の前に置いているのだから、やはり人生をおおむね終えた段階における述懐として採られているのであろう。
※思ふこと言はでぞ→自分が思っていることを言わないで。「ぞ」は強意の係助詞。
※たゞに止みぬべき→「ただに」は、「何もしないで」「むなしく」という意。「朝露のおくる思ひにくらぶればただに帰らむ宵はまされり」(『和泉式部日記』)。『伊勢物語』第七十八段の「これをただにたてまつらば、すずろなるべし」も同じ。「何も加えないで献上したのでは物足りない結果になるだろう」と言っているのである。
※我とひとしき人しなければ→「ひとし」は、「この神の形貌(カタチ)恰然(ヒトシクテ)相似レリ」(『日本書紀』神代下)のように、元は一つであるかのように相似していること。「自分と全く同じというような人はこの世に存在しないのだから」と言っているのである。

【参考】

 山本周五郎の長編小説『樅(もみ)の木は残った』は、伊達騒動において、悪の張本人とされていた原田甲斐の苦しい行き方を描いた傑作であるが、その原田甲斐が自分の苦しい胸の内を「思ふこと言はでぞただにやみぬべき 我と等しき人しなければ」という『伊勢物語』のこの歌に託して、みずからを納得させようとする場面は、印象深いものがあった。



第百二十五段

 むかし、をとこ、わづらひて、心地しぬべくおぼえければ、
    つひにゆくみちとはかねてきゝしかど
     きのふけふとはおもはざりしを  
                       (二〇七)

【通釈】

 昔、男がいた。病にかかって、死にそうな気持になったので、
    これが、人生の最後に行く道だとは以前から聞いてはいたが、昨日から続く今日のこの日のことだとは、思いもしなかったのだけれども……。

※この段は業平自身が纏めたものではない。死後に追加。

【語釈】

※わづらひて→「心を悩ます」「苦しむ」「難渋する」などの意の場合もあるが、ここは「病気になって苦しむ」という意。「心地などわづらひて臥したるに、笑(ゑ)うち笑ひ、ものなど言ひ、思ふことなげにて歩みありく人見るこそ、うらやましけれ」(『枕草子』第一五三段)「御息所はかなき心地にわづらひて」(『源氏物語』桐壷)。次の「心地死ぬべくおぼえければ」も、「死にそうな苦しさになったので」の意。
※つひにゆく道とはかねて聞きしかど→「つひに」は「最後に」の意。「年ごろあひなれたる妻(め)、やうやう床離れて、つひに尼になりて」(第十六段)、「つひに本意のごとくあひにけり」(第二十三段)。死別というものは誰しも最後には行く道だと聞いていたが」と言っているのである。床離れ→夫婦生活を止めること。平安時代に良く使われた言葉。
※昨日今日とは思はざりしを→「昨日」に連続している今日という意である。「明日」に連続している「今日明日」ではなく、生き続けて来た「昨日」に連続している「今日」ということなのである。

【参考 1】

 『日本三代実録』元慶四年(880年)五月の条に、
  〇廿八日辛巳、従四位上行右近衛権中将兼美濃権守在原朝臣業平卒。
とある。実在の在原業平の閲歴については、本書の総説にのべたので再説しないが、この年業平は数え年五十六歳であった。
 『伊勢物語』の伝本の大部分を占める定家本系統と古本系統の諸本では、主人公が男として初めて女に思いを懸けて歌を贈った初冠(元服)の段を冒頭に第一段として置き、この「心地死ぬべくおぼえて」述懐の歌を詠んだ終焉の段を最末尾に置き第百二十五段としているから、物語全体が主人公の男の一代記として読むことを物語作者(編者)は望んでいたと見られる。

【参考 2】

 〔伝民部卿局筆本『伊勢物語』〕
 昔、男、みやこをいかゞおもひけむ、東山にすまむとおもひいきて、
    住わびぬいまはかぎりとのやまざとに身をかくすべきやどもとめてむ
なむどよみをりけるに、ものいたうやみて、しにいりたりければ、おもてにみづそゝきなむどして、いきいでゝ、
    我うゑにつゆぞをくなるあまの河とわたるふねのかひのしづくか
といひてぞ、いきいでたりける。
まことにかぎりになりける時、
    つひに行みちとはかねてきゝしかどきのふ今日とはおもはざりしを
とてなむたゑいりにけり。

※伝民部卿局筆本『伊勢物語』→山形県酒田市 本間美術館所蔵。115段しかない。纏めた段があるので115段になっている可能性がある。
※東山にすまむとおもひきて→当時は賀茂川迄が都であった。東山は都の外であった。東山に住む→隠遁生活。
※我うゑにつゆぞをくなるあまの河とわたるふねのかひのしずくか→死に掛かっていても風流なんだという事を現そうとしている。
※つひに行みちとはかねてきゝしかどきのふ今日とはおもはざりしを→125段とまとめている。面白くしようとして作り直している。生き返ってから死んだ。                 

【参考 3】

 『大和物語』第百六十五段には、
 水の尾のみかどの御時、左大将のむすめ、弁の御息所とていますかりけるを、みかど御髪(みぐし)おろいたまうてのちに、ひとりいますかりけるを、在中将しのびてかよひけり。中将病いとおもくしてわづらひけるを、元の妻(め)どももあり。これは、いとしのびてあることなれば、え行きもとぶらひたまはず、しのびしのびになむとぶらひけること、日々にありけり。さるにとはぬ日なむありける。病もいとおもりて、その日になりにけり。中将のもとより、
    つれづれにいとど心のわびしきに今日はとはずて暮らしてむとや
とておこせたり。弱くなりにたりとて、いといたく泣き騒ぎて、返り事などもせむとするほどに、「死にけり」と聞きて、いといみじかりけり。
死なむとすること、今々となりて、よみたりける。
    つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
とよみてなむ絶えはてにける。
とある。
 『大和物語』の第百六十段から第百六十六段までの七章段は、「在中将」という名で在原業平が登場する。本書の第三段、第七十六段、第百段、第五十一段、第五十二段などにおいて述べたように、これらは『伊勢物語』の異伝として読まれるべき作り方になっている。この段の場合も、「今々となりて、よみたりける。…」から後、すなわち「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」と詠んだということは『伊勢物語』や『古今集』にも見えて、誰もが知っていることであるが、その前の「弁の御息所」の話は『大和物語』にのみ見られる異伝である。『大和物語』の業平説話が、『伊勢物語』を前提とした異伝であることは、ここでもはっきりしているのである。

※水の尾のみかど→清和天皇。
※実際は業平が天皇より先に亡くなっている。 業平→880年5月 清和天皇→880年12月
※弁の御息所→実際は誰か分からない。元は天皇の奥方であった。
※大和物語→異伝(異なった話を語ろうとしている)。新しい伝承で語る。伊勢物語より後に出来た。歴史的事実と違う。文章も拙いが伊勢物語ではない部分を語っている。

〔補説〕

 『伊勢物語』の伝本の大部分を占める定家本系統と古本系統の諸本では、主人公が男として初めて女に思いを懸けて歌を贈った初冠(元服)の段を冒頭に第一段として置き、この「心地死ぬべくおぼえて」述懐の歌を詠んだ終焉の段を最末尾に置き第百二十五段
としているから、物語全体が主人公の男の一代記として読むことを物語作者(編者)は望んでいたと見られるが、その間には@『古今集』によって在原業平の真作と判断できる歌を中心として構成されて章段(二段・四段・五段・九段・十七段・十九段・二十五段・四十一段・四十七段・四十八段・五十一段・六十九段・七十六段・八十段・八十二段・八十三段・八十四段・八十七段・八十八段・九十九段・百三段・百六段・百七段・百二十三段・百二十五段)、つまり実録的要素が濃厚な章段もあれば、A同じく『古今集』の和歌を用いていても在原業平以外の人の歌を用いて作られている章段(十二段・二十一段・二十三段・四十三段・五十八段・五十九段・六十段・六十三段・六十五段・九十八段・百九段・百十二段・百十七段・百十八段・百十九段)や。B『万葉集』所載歌、もしくはその異伝と言える歌によって作られている章段(十四段・二十一段・二十三段・二十四段・三十三段・三十五段・三十六段・三十七段・七十三段・七十四段・百十六段)、C『後撰集』に在原業平作とある歌によって作られている章段(四十五段・五十九段・六十六段)、D同じく『後撰集』にあるが、在原業平の作ではなく、他人の歌によって作られた章段(七段・五十四段・六十一段・八十二段・九十段・百十一段・百十四段)、E『貫之集』の歌によって作られた章段(七十五段・百八段)などの、さまざまな成立過程を思わせる章段があるが、それが、いずれも初段の「初冠(ういこうぶり)」の段と、この「終焉」の段の間に配置されているのであるから、在原業平が「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」と詠んで世を去ったこの章段よりも時間的に後に詠まれたこと明らかな歌を含む章段であっても、この「昨日今日」よりも前の時空でのこととして語られているのである。成立過程とは関係のない「物語の世界」の「虚構の時空」が『伊勢物語』を支えているのである。

※一時期に出来たものではなくて、貫之・古今集・よみ人知らず・萬葉集の歌を利用してつけ加えて作っている。
※萬葉集の歌を利用→主人公とやり取りする田舎の女の歌に利用。相手の男の歌など言葉遣いが古いと思わせる為に利用。
※元服から死ぬまで業平の一生を他人の歌を利用して作っている物語。業平らしき人物の恋によって彼の一生を語っている。
※古い物語として読む場合業平の歌として読まないといけないのではないか。
※100年近く経って今の伊勢物語は出来た。付け加えて定着したものと、定着しなかったものがある。