伊勢物語異本章段(小学館「新編日本古典文学全集」による)
異一 雨の音
雨のいみじうふり暮して、つとめてもなほいみじうふるに、ある人のがりやりし。
ふりくらしふりくらしつる雨の音をつれなき人の心ともがな
返し、
ややもせば風にしたがふ雨の音をたえぬ心にかけずもあらなむ
(阿波文庫本)
※伊勢物語を写した人が作った文章。読者が作者になりうる。
※「むかし…」がないのがおかしい。
※がりやりし→「がり……し」の「がり」は元に、所へ。「し」は自分で経験した過去。「し」を使っているのはこの段のみ。
写していた女の人の状態が「がり……し」し書いたのではないか。
※「ふりくらし」→伊勢物語にはない。
※阿波文庫本→阿波国文庫本。徳島蜂須賀家に伝わった本。現在宮内庁所蔵。
異二 清和井(せがゐ)の水
むかし、女をぬすみてゆく道に、水のある所にて、「飲まむや」と問ふに、うなづきければ、坏なども具せざりければ、手にむすびてくはす。さいのぼりにければ、もとの所にかへりゆくに、かの水飲みし所にて、
大原やせがゐの水をむすびつつあくやと問ひし人はいづらは
といひて、消えにけり。あはれあはれ
(阿波文庫本)
※六段の後に置いている。
※清和井→「せかゐ」と清音で読むべき。「和」=「か」
※むかし、女をぬすみて…→「むかし」の後に「男ありけりその男」主語が抜けている。主語が抜けているのは、一般化してから付け加えられたと考えられる。
※大原やせがゐの水をむすびつつあくやと問ひし人はいづらは→女の歌。「つつ」は動作の繰り返し。問ひし→「し」は過去の助動詞の連体形。終止形は「き」。自分が体験した過去。「けり」は自分が体験していない過去。
※あはれあはれ→語り手の言葉。
異三 かつ見る人
むかし、男女、おきふしものをいひて、いかがおぼえけむ、
男、
心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるべき
(阿波文庫本)
※心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるべき
わりなき→訳のわからないもの。
かつ→一方では何々。
恋→目の前にいない人を恋慕う。
異四 雲居の峰
むかし、西の院といふ所にすむ人ありけり。市になむいでたりける、女車のありけるに、とかくをかしきことなど
いひつきて、「御すみかはいづくぞ」といひければ、かくなむいひたりける。
わが家は雲居の峰したかければ教ふとも来むものならなくに
男、
かりそめにそむる心し深ければなどか雲居もたづねざるべき
といひて、別れにけり。
(泉州本)
※西の院→正しくは西院(さいいん)
※市になむいで→貴族の男が…。市は東り市と西の市があった。
※とかく→とやかく、あれやこれやと。
※「御すみかはいづくぞ」→男が女に言った。
※泉州本→戦争で消失して現在は残っていない。昭和14、15年に境から出て来た。
異五 中 空
むかし、男、ある人に忍びてあひ通ひければ、この男にある人、
中空にたちゐる雲のあともなく身のはかなくもなりぬべきかな
(泉州本)
※雲→雲は山から出て山に帰る。
異六 時 雨
むかしありける色好みなりける女、あきがたになりにける男のもとに、
いまはとてわれに時雨のふりゆけば言の葉さへぞうつろひにける
返りごと、
人を思ふ心の花にあらばこそ風のまにまに散りもみだれめ
(泉州本)
異七 咲ける咲かざる
むかし、男、奈良の京に、あひしりたりける人とぶらひにいきけるに、友だちのもとには消息をして、文をやらざりける人に、
春の日のいたりいたらぬことはあらじ咲ける咲かざる花の見ゆらむ
(泉州本)
異八 玉くしげ
むかし、男、女のうひ裳着けるを心ざして、よみてやりける。
あまたあらばさしはするとも玉くしげあけむをりをり思ひいでなむ
(泉州本)
異九 撫 子
むかし、男、え得まじかりける人を恋ひわびて、
わが宿にまきしなでしこいつしかも花に咲かなむよそへつつ見む
(阿波文庫本)
※撫子→撫でるように大事にした若い子、子供。
※え得まじ→「え」は「よ…しない」。
※わびて→辛く思う。
※わが宿にまきしなでしこいつしかも花に咲かなむよそへつつ見む 万葉集1448(大伴家持)
やど(宿)→屋の外=やと。万葉集では「や」は建物。
咲かなむ→咲いて欲しい。
この段は万葉集の歌をそのまま利用した安易な作り方。
異十 すずろなる道
むかし、男、すずろなる道をたどりゆくに、駿河の国宇津の山口にいたりて、わが入らむとする道に、いと暗う細きに、つたかへでは茂り、もの心ぼそく思ほえて、すずろなるめを見ることと思ふに、すぎゆくにさしあひたり。「かかる道にはいかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人のもとにとて、文書きてつく。
中空にたちゐる雲のあともなく身のいたづらになりぬべきかな
とてなむつけける。かくて思ひゆくに、
駿河なるうつみの山のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
と思ひゆきけり
(小式部内侍本)
※小式部内侍本→和泉式部の娘本。現在はない。
※この段は九段と関係がある。
※すずろ→そぞろ。なんとなく目的をもたずに道を辿って行く。
※宇津→静岡の西側。
※すぎゆくに→誤写。第九段では「すぎやうざあひたり」である。修行者。
※見し人→自分が経験をした過去。
※その人→不特定。だれそれさん(京にいる恋人)
※つく→言付ける。
異十一 すずろなる所
むかし、男、すずろなる所にゆきて、夜明けてかへりけるを、人々いひさわぎければ、
月しあれば明けむものとはしらずして夜ぶかく来しを人見けむかも
(泉州本)
異十二 在原の行平
むかし、在原の行平といふ人みまそかりけり。女のもとに、
思ひつつをればすべなしむば玉の夜になりなばわれこそゆかめ
女、
来ぬ人をいまもや来ると待ちし夜のなごりに今日も寝られざりけり
(小式部内侍本)
異十三 朝 影
むかし、男ありけり。わりなきことを思ひて、ある所にいひやりける。
夕月夜あかつきがたの朝影にわが身はなりぬ恋のしげきに
(阿波文庫本)
異十四 虫の音
むかし、もの思ふ男、目をさまして、外の方を見いだしてふしたるに、前栽のなかに、虫の声々鳴きければ、
かしかまし野もせにすだく虫の音やわれだにものはいはでこそ思へ
(阿波文庫本)
※かしかまし野もせにすだく虫の音やわれだにものはいはでこそ思へ
野もせ→「せ」は狭い意。
すだく→集る。
われだに→私にさえ。
異十五 のどけき春
むかし、色好む人ありけり。男もさまかはらず、同じ心にて、色好む女を、かれをいかで得てしがなと思ひたるを、女も念じわたるを、いかなるをりにかありけむ、あひにけり。男も女もかたみにおぼえければ、われもいかですてられじと、心のいとまなく思ふになむありける。なほ女、いでていなむと思ふ心ありて、
いざ桜散らばちりなむひとさかりあり経ば人に憂き目みえなむ
と書きてなむいにける。男来て見ればなし。いとねたくてをりけり。
いささめに散りくる桜なからなむのどけき春の名をも立つめり
(阿波文庫本)
※この段は特に拙い段である。
※色このむ人→女。
※かれ→それ。
※念じ→辛抱する。
※わたる→続けること。
※かたみ→互いに。男性語。
※いざ桜散らばちりなむひとさかりあり経ば人に憂き目みえなむ
みえなむ→見られる(受身)、見える(可能)の場合とある。ここは見られる。
※ねたく→くやしい、心残り。
※いささめに散りくる桜なからなむのどけき春の名をも立つめり
いささめ→軽々しく。
異十六 かはたけ
むかし、すき者ども集まりて歌よみけるに、かはたけを、ある男、
小夜ふけてなかばたけゆく久かたの月ふきかへせ秋の山かぜ
(泉州本)
異十七 色 革
むかし、男、はるかなるほどにゆきたりけるに、筑紫のつと、人のこひたりけるに、色革やるとて、
筑紫よりここまで来れどつともなしたちのをかはのはしのみぞある
所の名なるべし。
(阿波文庫本)
※つと→土産。
※筑紫よりここまで来れどつともなしたちのをかはのはしのみぞある
たち→昔の武士が吊るしている刀。
※を→「を」で吊るす。
※たちのをかは→熊本県の小川の名。
異十八 夢としりせば
むかし、色好み、絶えにし人のもとより、
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを
(阿波文庫本)
異十九 ことぞともなく
むかし、男、来てかへるに、秋の夜もむなしくおぼえければ、
秋の夜も名のみなりけりあふとあへばことぞともなく明けぬるものを
(阿波文庫本)
※異十八、異十九は小野小町の歌を利用している段。安易な段である。
※異本→訳の分からない段が多い。
※章段→色々なものが入っている。写した人のコメントなど。つまらない段。