伊勢物語3…第十段〜第十五段

                            第十段

 むかし、をとこ、武蔵のくにまでまどひありきけり。さて、そのくににある女をよばひけり。ちゝはこと人にあはせむといひけるを、はゝなんあてなる人に心つけたりける。ちゝはなほびとにて、はゝなんふぢはらなりける。さてなん、あてなる人にと思ひける。このむこがねによみておこせたりける。すむ所なむ、いるまのこほりみよしののさとなりける。
   みよしののたのものかりもひたぶるに
    きみがかたにぞよるとなくなる  
                             (一三)
むこがね、返し、
   わが方によるとなくなるみよしのの 
    たのものかりをいつかわすれん  
                            (一四)
となむ。人のくににても、猶、かゝることなんやまざりける。

                            『通釈』
昔、男がいたのである。その男は、武蔵の国まで試行錯誤しながら歩き廻っていたのである。そのように歩き廻って、その武蔵の国にいる女を求めたのである。その女の父は娘を他の男と結婚させたいと言っていたのだが、母が高貴な人に執心していたのである。父は普通の家柄の人であって、母が藤原氏なのであった。そうであるゆえに、高貴な人に婚(あ)わせたいと思っていたのである。その母が、この聟(むこ)の候補者に歌を詠んで贈って来たのである。女たちの住んでいる所は、入間郡三好野の里なのであった。
   三好野の田の面の雁もかたすらにあなたの方に寄ると言って鳴いているようでありますよーあなたを信じる我が娘も、あなたのおそばにいたいと言っているようでありますよ。
婿の候補者が返した歌、
   私の方に寄ると言ってと鳴いているようである三好野の田の面の雁をいつ忘れようか、いつまでも忘れはしませんよ。お嬢さんのことずっと忘れませんよ。
と詠んだのである。他国においても、やはりこのようなこしはやまなかったのである。

                            『語釈』
※武蔵の国→大化の改新の時に定められた国制。今の東京都、埼玉県、神奈川県にまたがる国。
※まどひありきけり→「まどふ(惑)」は、道に迷うの意の「まよふ(迷)」と違って、どうしてよいか困惑しつつ行動すること。試行錯誤すること。「〜ありく」は「〜し廻る」の意。
※よばひけり→結論を前に言っておくのである。なお、「よばひけり」については、第六段の「よばひわたりける」参照。
※こと人→当該の人と異なった人。
※あてなる人→本来は@家柄のよい人の意だが、A高貴な人、B優美な人、のように、人品や人柄を表わすようになる。ここは@の意。第四十一段参照。
※なほびと→「あて人」の反対。「位短くて人げなき、また、なほ人の上達部などまで、なりのぼりたる」(源氏物語・帚木)、「おのづからやんごとなき人の御けはひのありげなるやう、なほ人の限りなき富といふめる勢ひにはまさりたまへり」(源氏物語・東屋)のように、「雅び」の対極にある者として軽視されていた。
※母なん藤原なりける→国司となって赴任した藤原氏が現地の妻に生ませた女であろう。ちなみに、武蔵の国の守または介になった藤原氏には、介=従五位下藤原道雄(延暦十七年ー十九年)。守=従三位藤原内麻呂(大同元年ー二年)、守=従四位下藤原真夏(大同二年)、介=従五位下藤原?麻呂(弘仁六年ー)、介=従五位下藤原大瀧(斉衡三年ー)、守=従五位下藤原忠雄(貞観四年ー)、権介=従五位下藤原房守(貞観十四年ー)などが数えられるが、遥任の場合もあって、現地におもむいたか否か定かではないので、一人の人物に特定できないし、特定すべきでもない。
※聟がね→「后がね」は后の候補者であり、「聟がね」は聟の候補者。聟になるべき人。
※住む所なむ、入間の郡、みよし野の里なりける」→「いるまのこほりみよしのゝさと」は、昭和三十年四月一日に埼玉県川越市に編入された入間郡芳野村が考えられるがそれ以前の昭和十四年十二月一日に同じく川越市に編入された田面沢村も、この段の「みよしのたのむのかり」という歌に由来していると考えられる。これを含めて、現川越市の西方を想定してよかろう。ちなみに、川越城中にある三芳野天神は、川越城の西一里の旧入間郡芳野村上戸にあったと伝えられるが、そのあたりは『倭名類聚抄』が伝える武蔵国入間郡安刀郷であった。一方、同じ入間郡の三芳町は、明治二十二年に藤久保村、竹間沢村、北永井村、上富村と合併し、三芳村となった。川越市からは南になる。『伊勢物語』の「みよし野」をそのいずれとするか、決定することはできず、決定する必要もないが、物語に採り上げられたのは、大和の「み吉野」と同じ名だつたからである。
※たのむの雁→諸本「たのむの雁」とするが、「たのも(田面)」でなければ意が通じない。「む」の草体「无」と「も」の草体「尤」を混同したと考えることもできるが、「聟(むこ)を『新撰字鏡』では「毛古(もこ)」と読んでいることを思えば、「む」と「も」は発音上通ずる面があったようである。特に『萬葉集』の東歌において、「U音」が「O音」になることが多いことは『国語学字典』や『時代別国語辞典 上代編』に説かれている通りである。「田の面の雁」と「頼むの雁」を掛けて、東国的な雰囲気を出そうとしたと見ることができよう。本来「田の面(たのも)の雁」で、田の面に下りている雁を言っているのだが、「あなたをたのむ(たよりにする)わが娘」の意を掛けて、みごとな効果をおさめていると評価してよいと思う。
※ひたぶるに→他のことを考えずにひたすらに。田の面にふさわしい「ひた(引板)」(鳴子のこと)を掛けているが、面に出して訳す必要はない。「ひた引き鳴らす音もをかしく」(源氏物語・手習)
※となむ→「となむよみける」の略。
※人の国→他国。京都のある山城以外の国。
※かかること→このようなこと。女を「よばふ」こと。色好みを中心とする雅び。

 【参孝】  『俊頼髄脳』
    み吉野のたのむの雁もかたぶるに君がゝたにぞよるとなくなる
返し
    我かたによると鳴くなるみ吉野のたのむの雁をいちか忘れむ
是は伊勢物語の歌なり。昔をとこ武蔵の國にまどひいきけり。その國にはべりける女をすばひけり。ちゝはこと人にと思ひけるを母なむ藤原なりける。さてあてなる人にと思ひをりけり。すむ所武蔵の國の入馬の郡みよしのゝさとなりけり。
    雲居りも聲きゝがたき物ならばたのむのかりもちかく鳴きなむ
返し
    ことづてのなからましかば珍しきたのむの雁に知られざらまし
このたのむの雁といへることはよの人おぼつかなき事なり。此頃ある人かやうのこと知りがほにいへる人あり。如何申すとたづねしかば、ひんがし國に鹿がりするに、たのもしのかりとてかたみによりあひて、狩をして、その日とりたる鹿をあるかぎりむねと行ひたる人に取らすなり。さて後の日かたみごとにてたがひにするをたのむのかりしはいふなりとぞ申すめる。されどその心この歌どもにかなはず。かの伊勢物語の歌は、母はこのあて人にと思ひ、父はこと人にむことらむとしけるを聞きて、むすめのすゝめておこせたりける歌なり。なくなるとよめる雁がねとこそ聞こえたれ。鹿狩とは聞こえず。ものをいつか忘れむとよろこびたれば、本歌の同じ心なり。次の歌は、大蔵史生豊景とかけるは一条攝政の御集也。その集の中におほゐの御門の邊に住みける人に通ひけり。さやうにかよふ所おほかる中に、この女の家の前をおとづれもせずすぎにければ、女いかゞいひたりけむ、かくよめり。これもなほ雁がねをよめるとこそ聞こえたれ。しゝがりとは聞えぬものを。
    さかこえてあべのたのもにゐるたづのともしき君はあすさへもがも
萬葉集にかくよめり。雁の歌ならねども心をえあはするになほ雁がねとぞ聞えたる。しゝがりと心うべき歌みえず。たのかりのあまたみるにみな雲井にはなかせでまぢかくなきたるよしをよめる、たのむといへるはなほ田おもてといへることなめり。たのむといひて雲井に鳴くなどよめる歌のあらばぞひが事なるべし。
    
     一条摂政御集注釈
 とよかげ。おほゐのみかどわたりなるけるひとにかよひける。ひと」おほかりけるなかに、をとこの、いへのまへをつねにわたりて、ものもいはざりければ、女
     8 くもゐにはわたるときけどとぶかりのこゑききがたきあきにもあるかな
をとこかへし
     9 くもゐにてこゑききがたきものならばたのむのかりもちかくなきなむ
また、たちかへり、女
    10 ことづてのなからましかばめづらしき」たのむのかりもしらでぞあらまし
とよかげこずやなりにけん、女
    11 おもふことむかしながらのはしばしらふりぬるみこそかなしかりけれ


                   第十一段

 昔、をとこ、あづまへゆきけるに、友だちどもに、みちより、いひおこせる。
    わするなよほどは雲ゐになりぬとも
      そらゆく月のめぐりあふまで
                                 (一五)

                        『通釈』
 昔、男がいたのである。その男が東国へ行った時に、友達に、途中から送って来た歌、
   忘れないでよ。我々の隔たりは雲のいる所のように遠いものになってしまっても、空を行く月がもう一度めぐって帰って来るように、私が帰って来るまで、(一日も)忘れないでくださいよ。

                    【余説1】<後補された第十一段>
※伊勢物語が出来てから後に出来た。伊勢物語で一番新しい段。
※業平が亡くなり70年〜100年経ってから出来た。
この段の「忘るなよ…」の歌は、『拾遺集』
    橋のたゞもとが、人の妻(め…女をくずした字)に、しのびて物言ひ侍りけるころ、「遠き所にまかり侍る」とて、この女のつかはしけるもとに言ひつかはしける
    わするなよほどは雲ゐになりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで
とあり、その『拾遺抄』(10巻)を増補した『拾遺集』(20巻)雑上(四七〇)にも、
    たちばなのたゞもとが、人のむすめにしのびて物言ひはべりけるころ、「遠き所にまかり侍る」とて、この女のもとにいひつかはしける
    わするなよほどは雲ゐになりぬとも空行く月のめぐりあふまで
という歌を『伊勢物語』が利用していることは疑いない。『拾遺抄』(源氏より以前)が長徳二年(996)十二月から長徳三年七月までの間に成立し、『拾遺集』(紫式部の時代)が寛弘二年(1006)六月から寛弘四年一月の間成立しているから(堀部正二『中古日本文学の研究』<昭和十八年、教育図書刊>、三好英二『校本拾遺抄とその研究』<昭和十九年、三省堂刊>)、『伊勢物語』が、『拾遺抄』、もしくは『拾遺集』からこの歌を採ってこの段を形成したと考えれば、この段の成立は、在原業平が没した元慶四年(880)から百二十数年も後のことになる。
 もっとも、この第十一段の成立を『拾遺抄』や『拾遺集』の成立以後と見る必要は必ずしもない。作者の橘忠幹は『尊卑分脈』に示すように、『古今集』九二七番歌の作者である橘長盛の息であり、天暦三年(949)に文章博士、天徳年間(957〜960)に式部大輔となった橘直幹の弟であるが、生没年は未詳。しかし、『朝野群載』によれぱ、天暦十年(956)六月二十一日に、当時横行していた賊に殺害されたとあるから、天暦の頃、九五〇年前後に活躍した人物であることが知られるから、『拾遺抄』や『拾遺集』に採歌される前でも、天暦の頃(950年前後)以降であれば、『拾遺抄』『拾遺集』の成立以前であっても、『伊勢物語』に取り込まれた可能性はある。
 しかし、いずれにしても、この段が『古今集』以前から存在していた原形『伊勢物語』より、ずっと後になって加えられたことは否定できないのである。

                【余説2<狩の使本の末尾>
 冷泉家時雨亭叢書所有の藤原定家の建仁二年六月書写本の物語本文が終わった所に、
    此物語事
       高二位成忠卿本  始起春日野若紫事  終迄于昨日云々  朱雀院塗籠本是也。
       業平朝臣自筆本  始起名のみ立歌   終迄于昨日今日云々  自本是也。
       小式部内侍本   始起君やこし歌  終迄于程雲井歌  小本是也。
と書かれている小式部内侍本が、狩使本と言われるのにふさわしく「君や来し我やゆきけむ」という狩の使の段、すなわち第六十九段から始まることは一般にも知られていることであるが、その最終章段が「程は雲ゐになりぬとも」の歌を持つこの第十一段であったことは注意されてよい。ちなみに、狩使本(小式部内侍本)は主人公の元服から辞世に至る一代記的な配列とは違って雑纂的な構成であったと思われるが、果たしてそうであれば、その末尾にあった「忘るなよ程は雲ゐになりぬとも…」の歌を持つこの段は、『伊勢物語』の生成過程の最終段階になって加えられた章段であったと考えてよいのではないかと思うのである。
 ちなみに冷泉家時雨亭叢書所収の『素寂本私家集』の『業平集』は、鎌倉時代中期に法性寺少将雅平本、三条三位入道本、小相公本、九条三位入道本を校合した、まさしく『校本業平集』と言ってよいものであるが、小相公本によって補われた部分の最後に、
     身ノウレヘ侍りて、アヅマノカタヘナカリテ、トモダチノモトヘイヒヲクリ侍
   ワスルナヨホドハクモヰニナリヌトモソラユク月ノメギリアフマデ
という歌が置かれている。ということは、小相公本が他ならぬ小式部内侍本『伊勢物語』を材料にして歌を集めたものであることを示していると思われるのである。

                        【語釈】
※ほどは→相互の距離は。
※雲ゐ→雲の居る所。遠い所の意。ゐ→居る。

                             第十二段

 むかし、をとこ有りけり。人のむすめをぬすみて、むさしのへゐてゆくほどに、ぬす人なりければ、くにのかみにからめられにけり。女をばくさむらのなかにおきて、にげにけり。みちくるひと、「この野はぬす人あなり」とて、火つけむとす。女、わびて、
    むさしのはけふはなやきそわかくさの
       つまもこもれりわれもこもれり                                 (一六)
とよみけるを、きゝて、女をばとりて、ともにゐていにけり。

                         【通釈】
 昔、男がいたのである。その男が人さまの娘を盗んで武蔵野へつれて行く時に、やはり盗人であったので、国守に捕えられてしまった。女を叢の中に置いて、男は逃げてしまった。道をやって来る人が「この野には盗人がいるようだ」と言って、叢に火をつけようとする。女はつらがって、
    武蔵野は今日は焼かないでほしい。私の夫も隠れているし、私も隠れていますので。(女の歌)
と詠んだのを聞いて、女をつかまえ、男ともども連行して行ったのである。
※オペラ・ミュージカルの形式。
※この歌は古今集では「よみ人知らず」なので男の歌か女の歌か分からない。

                              【語釈】
※盗人なりければ、くにのかみにからめられにけり→まだ逮捕されていないが、黙って人の女を連れて行ったのだから盗人に違いないので、逮捕されたという結果を前に書くのは物語的書き方である。最後に、男と女を一括して「女をばとりて、ともにゐていにけり」というように「女」で二人を代表させて説明を終わるのである。
※若草のつまも篭れリ我も篭れリ→「若草の」は『萬葉集』の時代から「つま」の枕詞。その場合、「つま」はとうぜん女をいう場合が多いが、「…若草の 嬬(つま)の 思ふ鳥立つ…」(巻二・一五三)「…若草の その嬬の子は…」(巻二・二一七)「若草の 夫(つま)かあるらむ」(巻九・一七四二)の場合、当該の文字だけは原文のままに示したが、「嬬」という字を用いている場合も「夫(つま)」の場合と同様に、夫(おっと)のことを言っており、やはり夫(おっと)のことを言っている『伊勢物語』第十二段の当該歌が萬葉集時代に通じる古い表現をとっていることを知り得るのである。
一方、この歌は『古今集』春上(一七)の『題しらず よみ人しらず」の歌「春日野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の改作もしくは異伝であることは疑いないが、『古今集』の場合は「よみ人しらず」だから、作者が男であるのか女であるのか、また「つま」が女を言うのか男を言うのかわからない。しかし、『伊勢物語』に取り込む段階で『古今集』においては女のことであった「つま」を『萬葉集』の時代に戻して男を言うように転換したとは考え難く、『古今集』の歌の段階、あるいはそれ以前の段階で、「つま」を男と見る享受が行われていたのではないかと思うのである。
※「春日野は今日はな焼きそ…」の春日野→「古今集」は春日野。「伊勢物語」は武蔵野。現代解釈では東下りに合うように直して利用。鎌倉・室町時代は「古今集」「伊勢物語」とも各々正しい、春日野の中に武蔵野があったという説。
※この段は「結論」から「過程」を書いている。人物の移動については、目的地を含めた結論を書いて、それから過程を書いている。源氏物語の明石の段も同じ。
※人さまの娘→大切にされている人の娘。
※武蔵野→東京・埼玉・神奈川の一部。
※「夫(つま)」→隣に添えてあるもの。

                           【余説@】
【語釈】でも述べたように、『古今集』では、「よみ人知らず」とされているこの歌は『萬葉集』において十一例も見られる「わかくさのつま」という表現を用いている古い歌である。『古今集』の春上に、初句「春日野は」として見えるのが古体であり、「この季節いつも畑を焼いているが」夫し自分が睦れ合っている「今日だけは焼かないでください(今日はな焼きそ)」と言っているのを見ると、農耕行事としての畑焼きの中に成立した歌という感じが強く、「火を付けようとした」のを止める言い方ではない。『古今集』の歌の地名を替えて『伊勢物語』に流用したと見るのが、やはり自然である。
 しかし、中世を代表する『伊勢物語』の古注『冷泉家流伊勢物語注』では、「春日野は…」とする『古今集』も正しい、「武蔵野は…」とする『伊勢物語』も正しいとして、春日野の中に武蔵野と呼ばれる箇所があるのだということを由緒説話を交えて説く。
   文武天皇の御時、小野美作吾いふ人、武蔵守にて多年在国したりけるに、京にのぼりて病ひしける時、子を呼びていはく、「我、武蔵の国にて果てなんと思ひしに、思ひのほかにここにて死なむこと、心にかかれり。されば、我をば武蔵の国に送るべし」と言う。死後に武蔵へやらずして、春日野の中に埋みぬ。後にたたりをなしければ、武蔵より土を運びて、墓をつきて武蔵塚と言ひて、宣旨をよみかけたり。そのほとりを武蔵野といふ。されば、実には春日野にてあるゆゑに、『古今』には『春日野』と書けり。
見た通りの、とんでもないコジツケだが、中世(鎌倉、室町)には、この理解が有力な説だったのである。

                         第十三段

 昔、武蔵なるをとこ、京なる女のもとに、「きこゆければ、はづかし。きこえねば、くるし」とかきて、うはがきに、「むさしあぶみ」とかきて、おこせてのち、おともせずなりにければ、京より女、
    むさしあぶみさすがにかけてたのむには
       とはぬもつらしとふもうるさし                              
(一七)
とあるを見てなむ、たへがたき心地しける。
    とへばいふとはねばうらむむさしあぶみ
        かゝるをりにやひとはしぬらん              
                (一八)

                               【通釈】
 昔、武蔵にいる男がいた。その男は、京都にいる女のもとに「手紙をさし上げるとなると、身の置き所がない気持ちです。しかし手紙をさしあげねば、胸のうちが苦しいことです」と書いて、表書きには「武蔵あぶみ」と書いて、贈って来た後、音もしなくなってしまったので、京都から、女が、
     武蔵で他の女に逢う身だとおっしゃいます。しかしそうはおっしゃっても、心に掛けて結ばれることを期待する私にとりましては、お便りをくださらないのもつれない感じですし、お便りを下さるのも迷惑なという感じがいたします。
と手紙に書いてあるのを見て、男は堪えきれない気持ちがしたのであった。※「むさしあぶみ」は「さす」の枕詞、また「かく」の縁語。
そこで男が詠んだ歌、
    お便りをすると、「迷惑だ」とおっしゃる。そうかと言って、お便りをしなければ、「つれない」とお恨みになる。武蔵で逢う身ならぬ、武蔵鐙の縁でいうわけではありませんが、かかる折に、人はどうしょうもなくなって、死ぬのでありましょうか。私も死にたい思いです。※「むさしあぶみ」は、「かかる」にかかる序詞。
※この段までが武蔵の国。

                          【語釈】
※聞こゆれば→申し上げると。お手紙をさしあげると。
※はづかし→相手に対して身の置きどころがなくなる意が本義。現代語の「羞恥」という意とは少し異なる。
※上書きに→手紙の外面に。包紙があればその表紙に。なければ手紙をたたんだ外側、すなわち紙背に。
※むさしあぶみ→言いたいことは、「武蔵逢ふ身」、すなわち「自分は武蔵の国にて他の女に逢う身」だという現状報告だが、武蔵の名産である「武蔵鐙」に託し、「鐙」の縁語の「さす(が)」「かけて」に続けたのである。『有識故実大字典』によれば、「武蔵鐙」は、公家や武家の晴れの時に用いる「大和鞍」に対応して用いられる鐙。これは鐙と力皮の連結に鎖を用いず、透しを入れた1枚鉄にホ具(革緒の留め金)を設け、力皮(鐙をぶらさげる革)の穴に直接通す刺金を取り付けるのを特色とした。「さすがに」「かけて」と続くのはそのためである。
※さすがにかけて→「そうはいうものの」「というが、しかし」の意の「さすがに」に、前条の「刺鉄(さすが)」を掛ける。「かけて」は「心に掛けて」の意だが、馬の背から鐙をかけるという意を掛けて「鐙」の縁語になっている。
※とはぬもつらし→「とふ」は便りをすること。「つらし」は、現代語の「つらい」と違って、「つれないと恨む」意。
※うるさし→現代語の「うるさし」とすこし違う意。「やっかいだ」「迷惑だ」「面倒だ」という意。「歯黒め、さらにうるさし、きたなしとて、つけ給はず」(『堤中納言物語』虫めずる姫君)。枕草子にも出てくる。
※とへば言ふ→「とへば『うるさし』と言ふ」の略。
※かかる折→進退窮まって悩む折。「かかる」も鐙の縁語である。

                        【余説@】
 第十段は、武蔵の国の女と結婚した話であったが、この第十三段は、「武蔵鐙=武蔵逢ふ身」、すなわち「自分は武蔵で武蔵の女と結婚した身」であることを「京なる女」に報告せざるを得なかった男の苦しみを描いている。第九段に「京にその人の御もとにとて文書きてつく」とか「京に思ふ人なきにしもあらず」と記されていた男であるから、当然困惑と苦渋がある。この段は男のその困惑と苦渋を、それ以前の和歌にはよまれたことのない「武蔵鐙」を詠み込んで、表現しているのである、原初形態の『伊勢物語』からあったわけではなく、かなり後に加えられた章段であるが、第十段などの武蔵の女との出合いを受けて、武蔵での男の困惑と苦渋を「武蔵鐙」生かしてまとめあげた章段形式のみごとさに関心するのである。

                             【余説A】 
 後の歌「とへばいふとはねばうらむ…」の歌、物語文には歌の作者が書いてない。歌の順番から見て、男の歌とするのが自然だが、歌の前の
   とあるを見てなむ、たへがたき心地しける。
という「なむ」を使った行文から見て、当初はここで結ばれていた可能性も否定できない(第一段、第十段参照)。とすれば、前歌の「むさしあぶみさすがにかけてたのむには…」の歌をまねて、「とへばいふとはねばうらむ…」という歌を付加したのではないかとも思われる。歌の増補については、第二十一段において詳しく述べたい。

                              第十四段
 むかし、をとこ、みちのくににすゞろにゆきいたりにけり。そこなる女、京のひとはめづらかにやおぼえけん、せちにおもへる心なんありける。さて、かの女、
    中なかに恋にしなずはくはこにぞ
      なるべかりけるたまのをばかり  
                             (一九)
うたさへぞひなびたりける。さすがにあはれとやおもひけん。いきてねにけり。夜ふかくいでにければ、女、
    夜もあけばきつにはめなでくたかけの
       まだきになきてせなをやりつる                               (二〇)
といへるに、をとこ、「京へなんまかる」とて、
    くりはらのあねはの松の人ならば
       みやこのつとにいざといはましを 
                             (二一)
といへりければ、よろこぼひて、「おもひけらし」とぞいひおりける。

                         【通釈】
 昔、男がいたのである。その男は、陸奥の国まで何となく行ってしまったのである。そこに住んでいる女が、都の人はめったに会えないすばらしい人だと思ったのであろうか、切実に思いを寄せる心があったのである。そこで、その女が、
    なまじっか恋死したりしないで、蚕になるべきであるようだ。たとえ僅かな間しか生きられなくても。
御当人はもとより、歌までが田舎くさかったのである。しかし、そうはいうものの、同情したのであろうか、その夜は女のもとに行って共寝したのである。
    夜も明けたならば、水槽にぶち込んでやろう。老いぼれ鶏が、こんなに早く鳴いて、あの夫を帰してしまったことだよ。
と言ったのを聞いて、(うんざりして)、男は「私は都へ出かけさせていただきます」と言って、
    この栗原にある姉歯の松が、もし人であったならば、都への土産に、「さあ、一緒に行こう」と言うのだが、これではとても連れて行けないので、どうしようもない。
と言ったところ、どう誤解したのか、女は喜び続けて「あの夫は、やはり私のことを思っていたらしい」と言っていたのであった。
※この段から奥羽地方に入る。
※伊勢物語は「みやび」と「ひなび」の対比。
※「みやび」→第二段に一箇所出てくる。
※「ひなび」→この段・第十四段に出てくる。

                             【語釈】
※みちのくに→陸奥の国。「道の奥」東海道・東山道の奥。今の福島県・宮城県・岩手県・青森県がこれに該当する。
※めずらかに→動詞「めづ(愛づ)」に接尾語「らか」がついたので、本来はすばらしいことに言う場合が多かった。「普通には見られないほどにすばらしい」という意で、「珍奇な」という意だけではなかった。
※かの女→「この女」とか「その女」と言わずに、「かの女」と言ったのは、物語手が「女」と距離をおいているからである。
※なかなかに……の歌→『萬葉集』巻十二・三〇八六「なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり」の異伝もしくは改作であろう。物語作者が『萬葉集』を手にしてそこから引用し改作したと考えるより、万葉集の一部が当世風に整えられて一般に流布していたのであろう。なお、「死なずは」は、この『萬葉集』の歌のように、「ず」の連用形「ず」に続く強意の係助詞「は」と解して、「死なないで」と訳するのが一般的であり、ここでもそのように訳したが、平安時代の用法としては、仮定の意を持つ接続助詞「ば」と解して「(恋死したいのだが、)もし死なないのであれば、いっそ蚕になってしまいたい。生きている期間がたとえわずかな間であっても、」と訳すこともできる。なお、「桑子」は、桑を食べる子の意で「蚕(かいこ)」のこと。「玉の緒ばかり」は、玉に通した緒は玉と玉の間が短いので、短い時間の喩えとしてよく詠まれた。「さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと」(萬葉集・巻十四・三三五八)。
※蚕→オスとメスが同時に同じ繭に籠もる。
※恋ふらく→名詞化、……ことは。
※歌さへぞ→人柄はもとより歌までも。
※ひなびたりける→「ひなぶ」の連用形。「みやび」の反対。田舎風で洗練されていないこと。『伊勢物語』における用例はこれ一つだけであって、この段の女がいかに特殊であるかがわかる。『源氏物語』玉鬘の巻の「山がつめきて生ひ出でたれば、ひなびたること多からむ」いう例などが参孝になる。
※さすがに→この時代の用例は「そうは言うものの」と訳せる。
※あはれとや→「あはれ」は一般的に感情が動くことを言うが、ここは女に対する情が動いたのである。永年親しんだ妻が去ってゆくのを「いとあはれと思ひけれど」(第十六段)、「いにしへよりあはれにてなむ通ひける」(第二十二段)などの例に近い)。
※「夜もあけばきつにはめでな…」の歌→「きつ」を「狐」のこととする江戸時代中期までの通説と「水槽」の意の奥羽方言とする説があるが、後者による。なお、「狐」説の場合は「食わせてしまおう」の意。「水槽」説の場合は「ぶちこんでしまおう」の意となる。なお、「はめなで」は「はめなん」の誤写と見る説と陸奥の方言と解する説がある。【孝説】参照。
※水槽→「きつ」又は「きっち」(木で作った容器、例…防火用水、お櫃。)
※くたかけ→「くた」は「朽つ」と同根。老いた鶏。「かけ」は、藤原定家の天福二年本『伊勢物語』の行間勘物に「東国之習、家をクタト云。家鶏也」と記され、その後もこの説が尊重されているが、語源的には鶏の鳴き声を擬して生れた方言であろう。「コケコッコウ」→「カケコッコウ」
※行間勘物→行間に書き込まれている「注」。
※まだき→その時期でないのに、こんなに早く。
※せな→女から愛する男を言う語。「背の君」。『萬葉集』でも東歌や防人歌に集中的に用いられているので、上代の東国方言か。平安時代には見られない、古めかしい田舎風の語であろう。
※京へなんまかる→「まかる」は、話をしている聞き手を尊敬して言う謙譲の敬語動詞。
※くりはらのあはの松→宮城県栗原郡金成町沢辺に何代目かの松が現在もある。奥州街道の岩手県に近い所に位置していて古くから交通の要衝であったと思われる。
※よろこぼひて→「ひ」は上代に用いられた継続の意の助動詞「ふ」の連用形。ずっと喜んでいたのである。男が聞き手尊敬の「まかる」を用いたので、女は幻惑され、別れのつらさに思い至らなかったのであろう。都と鄙の言語意識の落差を示していて興味深い。
※言ひをりける→「をり」は「をり給ふ」とは言わないように、動作の主体を低く見る意を示し、対者に用いる時は蔑視の意を含む。ここは後者。男は「まかる」という謙譲語を用いたのに対し、語り手は「をりける」を用いて、陸奥の女を笑い者にしてこの段をまとめているのである。

                    第十五段

 むかし、みちのくににて、なでふことなき人のめにかよひけるに、あやしう、さやうにてあるべき女ともあらず見えければ、
    しのぶ山しのびてかよふ道も哉
      人の心のおくも見るべく   
                                 (二二)
女、かぎりなくめでたしとおもへど、さるさがなきえびすごゝろを見てはいかゞはせんは。

                              【通釈】
 昔、男がいたのである。その男は、陸奥の国にて、何というほどのこともない程度の人の妻に密通していたのだが、その女は、不思議なことに、田舎のつまらない男の妻であるべき女ではないようにも見えたので、
    あの信夫山ではないが、忍んで通う道がほしいものである。陸奥(みちのく)ー道の奥ならぬ、あなたのお心の奥まで見ることができるように。
女は当然その歌を「限りなくすばらしい」と思ったけれども、このようなセンスの乏しい田舎女の心を見て、どうしようと言うのであろうか。(語り手の立場からの発言)。

                         【考説】
 前段における都の男と鄙の女とのギャップが続いてテーマになっている。前段においては、語り手も主人公側の「みやび」の立場から、鄙の女を突き放して語っていたが、この段においては、主人公の女に対する姿勢と語り手の女に対する姿勢が異なっている。主人公は、女を「あやしう」といぶかりながらも、「さやうにてあるべき女ともあらず見えければ」という姿勢であり、「しのびてかよふ道もがな」と求めてゆくのであるが、語り手は「さるさがなきえびす心を見てはいかがはせんは」と男の行動を揶揄する語り口を見せるのである。並んでいて、テーマも共通しているかに見える章段においても、このように語り口が異なっているのである。

                         【語釈】
※なでふことなき人の妻→何というほどのこともない人妻。「人のめ」で一語。人妻。語り手の評価であって主人公の「男」からの評価ではない。前段と同様に、語り手は都の貴族の価値観によって冷静に語っているポーズである。
なでことなき→「ふ」は「う」が正しい。
※あやしう→不思議なことに。
※さやうにてあるべき女→陸奥で、「なでふことなき人の妻」として生活しているような女と見えなかったので。
※しのぶ山…の歌→「しのぶ山」は東北新幹線福島駅の正面に見える信夫山。同音を反復させて「忍びて」に続く枕詞とした。また「人の心の奥」は、道の奥(陸奥)の女という意を響かせて言っている。
※しのびてかよふ道もがな→「もがな」は、希望の意を詠嘆的に表現する終助詞。ほしい。「みよし野の山のあなたに宿もがな世のうき時の隠れ家にせむ」(古今集・雑下・九五〇・よみ人知らず)
※さがなきえびす心→「さがなき」は、「さがなう、心こはく、なまめかしきけも侍らず」(うつほ物語・楼の上、上巻)や「着給へる物どもをさへ言ひ立つるも、物言ひさがなきやうなれど」(源氏物語・末摘花)のように、都会的、文化的な洗練された姿勢に欠けることをいう形容詞。要するに「みやび」とは遠いと言っているのである。
※心こはく→心が硬い。気が強い。やんわりした気ではない。
※えびす心→えびすの心。「えびす」は「えみし」が「えみす」「えびす」と転じた。「蝦夷」。古代東北地方に住み、大和朝廷に服従しなかった人たちを移民族視して言った語。『古今集』の仮名序の古注(平安時代中期から注がついていた。)に下照姫の歌を「えびす歌」と論評しているが、『日本書紀』では同じ歌を「夷曲」と書いて「ヒナブリ」と書いている。要するに都の貴族の洗練されたみやびな歌ではなく、いかにも「鄙」の歌、いかにも時代遅れの歌と思わせる素朴なものだったのであろう。だから、「えびす心」は、「みやび」とは縁のない、洗練されていないセンスのことなのである。
「日本書紀」では「えびす」を異民族視した神様。日本独特の宗教感覚。
※いかゞはせんは→どうしょうか、どうにもならないよ。「せんは」の「は」は係助詞の終助詞的用法で、会話的雰囲気が強い。要するに、「女、かぎりなくめでたしと思へど、…」以下は、物語り手(作者)の立場からのコメントである。

※第七段から第十五段が東下りの段。この段で東下りは終わっている。
※中仙道を通って東下りした説。東の地名を求めて歩いている。
※十五段までに入りきらなかったものも残っている…第一一五段・第一一六段。