伊勢物語…第十六段〜第十九段

                                第十六段

 むかし、きのありつねといふ人有りけり。三代のみかどにつかうまつりて、時にあひけれど、のちは、世かはり、時うつりにければ、世のつねの人のごともあらず。人がらは心うつくしく、あてはかなることをこのみて、こと人にもにず。まづしくへても、猶、むかしよかりし時の心ながら、よのつねのこともしらず。としごろあひなれたるめ、やうやうとこはなれて、つひにあまのなりて、あねのさきだちてなりたるところへゆくを、をとこ、まことにむつましきことこそなかりけれ、「いまは」とゆくを、いとあはれと思ひけれど、まづしければ、するわざもなかりけり。おもひわびて、ねむごろにあひかたらひけるともだちのもとに、「かうかう。『いまは』とてまかるを、なにごとも、いさゝかなることもえせでつかはすこと」とかきて、おくに、
      手ををりてあひ見し事をかぞふれば
        とをといひつゝよつはへにけり
                                    (二三)
かのともだち、これを見て、いとあはれと思ひて、よるの物までおくりてよめる。
      年だにもとをとてよつはへにけるを
        いくたびきみをたのみきぬらん
                                    (二四)
かくいひやりたりければ、
      これやこのこあまの羽衣むべしこそ
        きみがみけしとたてまつりけれ
                                    (二五)
よろこびにたへで、又、
      秋やくるつゆやまがふとおもふまで
        あるは涙のふるにぞ有りける
                                     (二六)

【通釈】

  昔、紀有常という人がいたのである。その人は、三代の天皇にお仕えして、栄えた時期があったのだが、後には、帝が変わり、脚光を浴びることもなくなったので、世間一般の人の程度でもない生活ぶりになってしまった。しかし、人柄は純粋で、優美な趣味を持っていて、世間一般の人とは異なっているところがあった。貧しく過していても、やはり昔恵まれていた時の心のままで、俗世の日常的なことに無関心であった。
 何年も慣れ親しんだ妻が、しだいに夫婦の関係を疎遠するようになって、妻は遂に尼になって、姉が先立って仏門に入っている所へ行くことになったのだが、夫は前述したように今では睦まじい仲とは言えなくなっていたのだが、「今は、お別れ」と言って出て行く女を見て、たいそう気の毒に思ったのだけれども、貧しいので、どうすることもできなかった。思い苦しんで、心底から親しくしている友達のもとに「こういう次第です。『今は、お別れ』と言って出て行くのですが、わたしは、何をするにも、ちょっとしたこともしてやれずに出て行かせることが心残りでして」と書いて、その最後に、
   「十年たった」と繰り返し言っているうちに、さらにまた四年、都合十四年を過してしまったことですよ。
例の友達の男が、これを見てたいさらにそう感じ入って、女の夜着まで贈って詠んだ歌、
   年だけでも十年経ったと言っているうちに、四年がたってしまったのだが、その間、あの人は、何度あなたを頼りになさってこられたことでしょうか。
このように詠んで贈ったところ、紀有常は、
   これがまあ、尼になった妻にいただいた着物なのですね、だから、雲の上人であるあなたがお召しになっていらっしゃったのですね。
とよんだのだが、さらに感激に耐えない思いで、もう一首、
   秋が来たのか、だから露が置いたのか錯覚するほどに袖が濡れているのは、私の感謝の涙が降ったものでありましたよ。

※第十六段は男同志の友情をテーマにしている。有常が死んでから後の物語。
有常が落ちぶれているが、状況が変わっていても業平の変わらない心をテーマにしている。
愛を過去の愛として過ぎ去ったものを懐かしむ気持ち、同時に変わらない心。愛情表現が顕著に現れる。
※業平以外の実在の人物の実名を出している段→16段・43段・77段・78段・81段・82段・101段。

                                 【語釈】

※むかし、きのありつねといふ人ありけり→紀有常については【参孝】参照。ここでは、実名を出している。
※三世のみかど→仁明(八三三〜八五〇)・文徳(八五〇〜八五八)・清和(八五八〜八七六)と考えるべきであろう。【参孝】参照。
※時にあひけれど→「時」は時運。「時なりける人の、俄かに時なくなりて嘆くを見て…」(古今集・雑下・九六七詞書)。
「時にあひけれど」は、「時勢にあって時めいていたのだが」の意。
※年ごろあひなれたる妻(め)→「年ごろ」は数年来。二年から5年。「十四年」でもそうだか、「四十年」には特にふさわしくない言い方。
※とこはなれて→当時の用例は見い出せないが、「寝所を共にしなくなって」の意であろう。
※まことにむつまじきことこそなかりけれ→「まことに」は「真言に」の意で、文脈指示語として用いられる場合は「先刻述べたように」の意。ここでは「床はなれて」と書かれていたことを言う。床離れするぐらいだから、現在はそれほど愛し合っているわけではなかったのである。
※今は→「今はお別れの時」と言ったのである。「今はとてわするゝ草のたねをだに人の心にまかせずもがな(二十一段参照)
※手ををりてあひ見し事をかぞふれば→指を折って夫婦として会ったことを数えてみると。「あひ見しこと」
は「相見しこと」で、互いに見ること。また「会ひ見しこと」とも解せる。男女が「会ふ」というのは結婚することだが、「見る」はその前の段階(第七五段参照)。どちらにしても、夫婦としての生活をしていたことを言うが、「へにけり」と言っているのだから、「あひ見しこと」の「こと」は、回数ではなく、「へにける年」と同じく、共に過した年数を言っているのであろう。
※とをといひつゝよつはへにけり→一般には四十年と解しているが、一条兼良の『伊勢物語愚見抄』、荷田春満の『伊勢物語童子問』などは十四年説をとっている。「としごろあひなれたる妻」とある「年ごろ」という表現は四十年にふさわしくない。「一緒になってもう十年経ったね」という感慨をお互いに繰り返して言っているうちに、「さらに四年が経った」と言っているのである。
※これやこの→『百人一首』で有名な「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」(『後撰集』雑一・一〇八九、蝉丸『百人一首』では第三句「別れては」)の「これやこの」のように「これがまあ、……なのだなあ!」という意。「これがまあ、あまの羽衣なんだなあ!」と驚き、納得しているのである。
※あまのは衣→天人が着る「天(あま)の羽衣」と尼が着る衣の意の「尼(あま)の羽衣」を掛けて言っている。
※むべしこそ→「なるほど」「道理で」の意の「むべ」に、強意の助詞の「し」と「こそ」が加わった形。
※きみがみけしとたてまつりけれ→「みけし」の「み」は「御」の意の接頭語。「けし」は、動詞「けす(着す)の連用形の名詞化。『萬葉集』巻十四の東歌の「筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君がみけししあやに着欲しも」(三三五〇)のように上代には用いられたが、『伊勢物語』の時代には使われない古い語であって、友人に対する歌で何故このような仰々しい語を用いたのか疑問が残る。また、「君がみけしとたてまつりけれ」の「たてまつる」は、身分の高い人に「献上する」という謙譲語としての用法が一般的であったが、ここは友達の男(物語の主人公で業平らしき人物)に対する尊敬語として用いられているものと見て、「これが天の羽衣というものなのですね。なるほど天人ともいうべきあなた様がお召物としてお召しになったものと思われます」という意。友人同士の関係で「着る」の尊敬語としての「たてまつる」を用いるのは、感謝を通り越して卑屈にさえ思われる。主人公を絶対視するようになった後代の追加であろう。

                   【参孝】紀有常の閲歴とその描き方ー(  )内は西暦ー
*承和十一(八四四)年正月十一日、右兵衛大尉。
*嘉祥三(八五〇)年四月二日、左近将監、四月蔵人。五月十七日、兼近江権大掾。
*仁寿元(八五一)年七月二十六日、兼左馬助。十一月甲子(二十六日)従五位下。
*仁寿二(八五二)年二月二十八日には、但馬介を兼任。
*仁寿三(八五三)年正月十六日には、右兵衛佐(『文徳実録』)。
*仁寿四(八五四)年正月十六日には、讃岐介を兼任。また右京亮に転じる。
*斉衡元(八五四)年十一月二日には、右近衛少将となる。兼官の讃岐介は継続。
*斉衡二(八五五)年正月七日、従五位となる。
*斉衡二(八五五)年正月十五日、左近衛少将となる。兼官の讃岐介は継続。
*天安元(八五七)年五月八日、伊勢権守となる(『文徳実録』)。
*天安元(八五七)年九月二十七日、少納言となる。兼官の伊勢権守は継続。
*天安二(八五八)年二月五日、肥後権守となる(『三代実録』)。
*貞観五(八六三)年三月二十八日、業平とともに次侍従となる。
*貞観七(八六五)年三月九日、刑部権大輔となる。
*貞観九(八六七)年二月十一日、下野権守を兼ねる。
*貞観十二(八七〇)年二月十五日、従五位上下野権守として深草山陵に新羅寇賊之状を奉告。
*貞観十七(八七五)年六月二十三日、正四位下行周防権守紀朝臣有常卒。卒時年六十三。
卒した時の『日本三代実録』の卒伝によれば、性は清(すがすがしく)警(行き届いていて、)儀望すなわち姿貌(すがたかたちもすばらしい)人であったとされる。嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)の生れ、在原業平よりちょうど十歳年長であることもわかる。
 また「少年侍奉仁明天皇」とあることから、『伊勢物語』のこの段の「三世のみかどにつかうまつりて、時にあひけれど」が、仁明・文徳・清和の三代を意識して書かれていることがわかる。しかし、それに続く「のちは世かはり、時うつりにければ、世のつねの人のごともあらず。(中略)まづしくへても、猶、むかしよかりし時の心ながら、よのつねのこともしらず」から見ると、仁明・文徳・清和の三代の帝に仕えて羽振りがよかったが、最後の陽成天皇の代になって落ちぶれたという理解になってしまうが、陽成天皇の時代を一ヶ月しか生きていない有常にはこの解釈は成り立たない。だから、一代ずつ遡らせて、淳和(八二三〜八三三)→仁明(八三三〜八五〇)→文徳(八五〇〜八七六)に仕えて「時にあ」ったが、次の清和天皇の御代(八五八〜八七六)になって逼塞したのだという一条兼良(一四〇二〜一四八一)の『伊勢物語愚見抄』のような理解になる。
 一条兼良だけではなく、室町時代の注釈はすべてそのような理解であったが、これを仁明・文徳・清和と訂正したのは、契沖の『勢語臆断』である。契沖(一六四〇〜一七〇一)によれば、
  「三代の帝」とは、仁明・文徳・清和なり。或説に、淳和・仁明・文徳の三朝につかへ奉りて、清和天皇の朝に至りておとろへたるよし見えたれど、これは国史をよく考へずして強て此段にかなへていへる也。(中略)(仁明天皇の)承和元年は有常十九歳なれば、「少年侍奉仁明天皇」といへるにかなひて、淳和天皇にはつかへ奉らざる事、明けし。
と述べて、「国史をよく考へずして強て此段にかなへて」説こうとしている室町時代の旧注の説を否定しているのである。
 契沖の言うように、史実を無視して物語の文脈だけで説くのは確かに問題であるが、史実に拘泥し過ぎて、物語の本意を無視してしまうのも、実は足りないものがあるように思われる。
 ちなみに、この「三世のみかどにつかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり、時うつりにければ、世のつねの人のごともあらず。(中略)まづしくへても、猶、むかしよかりし時の心ながら、よのつねのこともしらず」という叙述は、前掲の有常の履歴を見れば、事実としてあり得ないことであり、物語の虚構というほかないのである。
 ここでは実在の紀有常の姿を借りてはいるが、実在の紀有常をそのままに描くのではなく、やさしい「心」、打算では動かない「雅」の心を追究しようとしているのである。『伊勢物語』は、写実からは遠く離れたところにある「心」を描く文学だったということがあらためて確認されるのである。

                           第十七段

 年ごろおとづれざりける人の、さくらのさかりに見にきたりければ、あるじ、
    あだなりとなにこそたてれ桜花
      年にまれなる人もまちけり  
                                      (二七)
返し、
    けふこずはあすは雪とぞふりなまし
       きえずはありとも花と見ましや  
                                   (二八)

【通釈】

 数年来訪問しなかった人が、桜の花盛りに見に来たので、主人が、
    浮気っぽく、変わりやすいという定評が出来ているけれども、桜の花は、めったに姿をお見せにならない人をも、散らずに、ずっと待っていたことでありますよ。
返歌、
    そうはおっしゃるが、今日やって来なかったら、明日は雪となって降ってしまっていたことでしょう。そうすると、消えないで残っていたとしても、そんなもの、誰も花だとは思わないでしょうよ。

【語釈】

※年ごろづれおとざりける人の→普通本『伊勢物語』の中で「昔〜」という形で始まらぬ唯一の章段であり、古くから疑問とされて来たが、「昔」の脱落と見るほかあるまい。
※あだなりと→「あだ」は、変わりやすいこと。浮気っぽい。「あだにちぎりて」(二一段)「この男をあだなりと聞きて(四七段)などの例がある。
※年にまれなる→正直にとれば「年に数度しか来ない」ということになり、「年ごろおとづれざりける人」(数年来ない人)と矛盾するようだが、それほど厳密に考えなくてよい。
※名にこそ立てれ→「名に立つ」は「評判になる」こと。「おほぬさと名にこそ立てれ」(四七段)。「こそ…巳然形」は、「…だけれども」というように逆説的に後に続く。
※桜花→主語になっている。桜の花が「年にまれなる客人」を待っているのである。
※今日こずは〜降りなまし〜消えずはありとも花と見ましや→「ずは…まし」の「まし」を二つ重ねているのが特徴的。業平らしい表現と言ってよい。

【参孝】

鎌倉時代後期に作られた『冷泉家流伊勢物語注』に、
 ○「年ごろおとづれざりける」といふは、業平宮仕へに京へ行きて、かの二条の后のことゆゑに東山に押し籠められて、三とせ来ねば、「年ごろ」といふなり。又云、貞観十三年の花盛りに京へ行きたりしが、二条の后の事によりて、東山に押し籠められて、三年まで有常が娘のもとに行かぬを「年ごろ」と云ふ。
 ○桜の盛りとは、貞観十五年三月、花盛りに、勅勘許りて、有常が娘のもとへ行きたりけるを、年ごろおとづれざりける人の花盛りに来るしは云ふなり。
と記しているように、「あるじ」を紀有常の娘とし、二条の后との密通ゆえに刑罰として三年の間「東山に押し籠められて」いたが、「勅勘許りて」足掛け二年ぶりに、有常の娘のもとに来たのだと注釈している。
 ところで、世阿弥の作った謡曲『井筒』は、この『冷泉家流伊勢物語注』によって、『伊勢物語』の主として二十三段・二十四段の女を紀有常の女として作り上げたものであるが、この第十七段の女をも、
  シテ/あだなりと名にこそ立てれ桜花 年に稀なる人も待ちけり。かやうに詠みしもわれなれば、人待つ女とも言はれしなり。(新潮古典集成『謡曲集』)
とある。『伊勢物語』の影響は、このように大きいのである。

第十八段

 むかし、なま心ある女ありけり。をとこ、ちかう有りけり。女、うたよむ人なりければ、心見むとて、きくの花のうつろへるををりて、
    紅ににほふはいづら白雪の
       枝もとをゝにふるかとも見ゆ  
                                     (二九)

をとこ、しらずよみによみける
    紅ににほふがうへのしらぎくは
        をりける人のそでかとも見ゆ 
                                     (三〇)

【通釈】  

 昔、中途半端に風流心のある女がいた。物語の主人公の男が近くに住んでいた。女は、相手が歌をよむ人であるので、その風流心を見ようと思い、菊の花が色づいているのを折って、歌をつけて男のもとへ送る。
    紅に色変りしているのはどこですか。白雪が枝もたわむほどに降ったかと思われるほどに菊は真っ白で、色めいたお心は、まったく隠されておりますよ。
男は、女が何を言おうとしているのか知らない顔でよんだのである。
    紅に色変りした白菊の上に降りかかって真っ白に見せる白雪は、まるで、菊を折ったあなたの袖の白さかと思われますよ。あなたの袖こそ、白の下に紅、すなわち色めいたお心が隠されていると思いますよ。(「白菊」を「白雪」と校訂して訳した)。

【語釈】

※なま心ある女→「心ある女」に接頭語「なま」がついた形。「なま宮仕へ」(八十七段、「宮仕へと言えないような中途半端な宮仕え」の意)、「なま翁」(百十四段、生半可な翁。翁とも言えないような翁)。また阿波国文庫本などの四十五段に「ほたるのなまたかうとびあがるを、このおとこみをりて」とある。定家本などでは「ほたるたかくとびあがる」とある所だが、「なまたかう」で中途半端な高さで飛んでいることを示しているのである。「心あり」は、<情趣を解する>、<風流心がある>という意である。
※男ちかうありけり→【校異の問題点】において述べたように、「男とかういひけり」では「なま心ある」言われている女の特徴が消えてしまう。「ちかうありけり」という定家本等によるべきであろう。「おんな」をまず紹介した上で、「男」を登場させ、しかも「男」とあるだけで物語の主人公であることが納得されなければならないのであるから、この章段は『伊勢物語』が「男」の物語としてかなり形をなし、かなり定着した後に、加えられたものと見るべきであろう。
※うたよむ人なりければ→「女が歌をよむ人であったので」とも、「男が歌をよむ人であったので」とも解せるが、「男」と解すべきであろう。「なま心ある人」というようなパーソナリティーの人であれば、みずから歌をよみたがるであろうから、「うたよむ人なりければ」というような説明をわざわざ挿入する必要はない。また物語の主人公の「男」が歌に熟達していることを読者は知っているが、「なま心ある女」は男が「うたよむ人なりければ」という程度の認識しかなかったのである。だいいち、「うたよむ人なりければ」が「なまこころある人」と同じではおかしい。
※菊の花のうつろへる→「菊の花うつろひさかりなるに」(八十一段)のように、当時は白菊が寒さのために赤く変色してゆくのを好んで賞美したのであるが、「うつろふ」は、浮気心の形容にも用いたので、以下の菊の花の色変りはすべて「浮気心がつく」意を含んで用いられている。
※くれなゐににほふはいづら→「春の苑くれなゐにほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」(萬葉集・巻十八・四一三九)のように、「にほふ」は、色づくこと。前述したように、当時は白菊が赤みを帯びてくるのを好んで賞美したが、これを「うつろふ」と言うのが一般的であり、「くれなゐににほふ」というのはオーバーに過ぎる。こういうところが、この「なま心ある女」の特性であったのだろう。「いづら」は、よびかけ。当然口語的に用いられた。
※白雪の枝もとををに降るかとも見ゆ→「とををに」は「をりて見ば落ちぞしぬべき秋萩の枝もとををに置ける白露(『古今六帖』第一・五八〇)「秋萩の枝もとををに露置きて寒くも時のなりにけるかな」(同・五八三)「いづれをかわきて折らまし梅の花枝もとををに降れる白雪」(同・第六・四一三七・躬恒)のようによまれているが、平安時代にはあまりよまれず、やや古い表現であった。「なま心ある女」の好みであったのであろう。歌全体の意は、「白っぱくれていらっしゃるが、まっ赤な心をお持ちのはず。
それを見せなさいよ」と言っているのである。
※知らずよみによみける→相手の女の意図を無視して、詠んだのである。
※紅ににほふが上の白菊は折りける人の袖かとも見ゆ→底本のままだと、上句は「紅にほふ白菊の上の白菊は」という意になってしまって辻褄が合わない。そこで非定家本に従って「白菊」を「白雪」と校訂し、「紅ににほふ白菊の上に降る白雪は」と解した。また下句の「折りける人の袖かとも見ゆ」も難解。「まるで折ったあなたの袖のように思われますね。あなたの袖も、白の下に紅を隠しているのでしょう。真っ白な心に見せながら、下に色めいた心を隠しているのでしょう」と解してみた。

第十九段

 昔、をとこ、宮づかへしける女の方に、ごたちなりける人をあひしりたりける、ほどもなくかれにけり。おなじところなれば、女のめには見ゆる物から、をとこは、「ある物か」とも思ひたらず。女、
    あま雲のよそにも人のなりゆくか
       さすがにめには見ゆる物から  
                                  (三一)
とよめりければ、をとこ、返し、
    あまぐものよそにのみしてふることは
       わがゐる山の風はやみ也    
                                  (三二)
とよめりけるは、又、をとこある人となんいひける

 【通釈】

 昔、男がいたのである。その男は、宮仕えしていた女の所で、御達である女と互いに知り合ったのであるが、間もなく離れてしまったのである。しかし、宮仕え先が同じ所であるので、女の目には自然に男の姿が見えるのであるが、男は、女がそこにいるのかということも意識している様子ではない。女が、
    天の雲のような遠い存在にあなたはおなりになったのでしょうか。そうは言っても、天に浮かぶ雲と同様に、私の目にはちゃんと見えるのですけれども。
と詠んだので、男は返事をする。
    天の雲のように、遠く離れた所で時を過しているのは、私が落ち着く山の風が激し過ぎるからなのです。
と詠んだのは、その女が、別に男がいる人だと人々が言っているからである。

【語釈】 

 ※宮仕へしける女の方に→男が宮仕えしている女の所に。「女」とだけ言って敬語を用いていないが、男が、「宮仕へ」していたと書かれているのだから、皇后宮、皇太后宮などに仕えていたのであろう。『冷泉家流伊勢物語注』などの古注は、染殿の后に仕えていたと言っているが、もちろん根拠はない。
※ごだち→本来は皇后・皇太后など高貴な女性に仕える高級な女性を言ったようであるが、次第に広く用いられるようになり、「女房」という言い方と大した違いのないものになった。『伊勢物語』ではこの例のほか、三十一段の「宮の内にて、あるごたちのつぼねの前を渡りけるに」の例があり、「宮の内」に「つぼね」を持っている女性のことを言っている。また『大和物語』においても、「故后の宮のごたち」(百七十段)、『伊勢物語』のこの段の場合も、「宮仕へしける女の方に」と言って、女主人に敬語を用いていないが、男がある高貴な女性のもとに宮仕えして、そこに仕える「ごたち」と深い仲になったと見るほかはない。「ごたち」は、やはりランクの高い宮仕え人を言う語であったのだろう。なお「ごたち」に「後達」という字をあてる古注釈書もあるが、やはり「御達」をあてるべきであろう。「伊勢の御」「出羽の御」「伊予の御」「五条の御」「桧垣の御」(いずれも『大和物語』)などの「御」の複数形で一般化したのであろう。しかし、この「御達」という語は、時代とともに、次第に「女房」という語に代わられてゆくようである。『うつほ物語』では、「御達」八十四例に対して「女房」は九例、それもその九例中の六例は、後の成立と見られている「楼の上」の上下巻にある。ちなみに、この両巻に「御達」は二例しかない。同じように『落窪物語』でも、「御達」は二十一例見られるのに対して「女房」は四例しかない。「御達」より「女房」が多く用いられるようになるのは『枕草子』『源氏物語』以降のことである。
※あひしりたりける→「あひ知る」は、お互いに知り合うことであるが、男女がお互いに知り合うということは、深い関係になることであった。
※かれにけり→「かる」は「離る」。日頃見ていた物から離れること。男が関係を持った女に近づかなくなることを言う場合が多い。「あひ思はでかれぬる人をとどめかね」(二四段)「かれなであまの足たゆく来る」(二五段)「里をばかれずとふべかりける」(四八段)のように和歌に用いられることが多く、また「刈る」と掛けることも多かった。
※ものから→「なほうとまれぬ思ふものから」(四十三段)のように逆接の接続助詞。
※天雲のよそにのみしてふることは→「雲のよそ」ということばがあるように、雲のように遠く離れている所を言う。「よそ」は遠く離れている所。「わがゐる山」は「私が居ついている山」。風が激しいので、雲は山にかかれないと、みずからを「雲」に喩えて言っているのである。
※又、男ある人となん言ひける→「なん…ける」は草子地、すなわち語り手の立場からのコメントに用いられた。「言ひける」は世間の人々が言っていたということである。

【参孝】

 前述したように、『古今集』恋五(七八四)では、「業平の朝臣、紀有常がむすめに住みけるを」というように、通い住む夫婦としての生活をしていたと述べ、「しばしの間、昼は来て、夕さりは帰りのみ」するようになっていた時に詠んで贈った歌だと言っている。それに対して『伊勢物語』では、二人が同じ宮の内に出仕していたとさらにわかりやすく説明しつつも、『古今集』では、「紀有常女」と女の名を明記していたのを「女」と書くだけにして名を示さない方法をとることによって物語らしくするとともに、『古今集』に名が示されていることを知っている読者には、裏づけのない他の章段についても、あたかも事実の裏づけがあるかのように思わせる、みごとな「虚構の方法」となっているのである。
 一方、男の返歌は、『古今集』の「ゆきかへり」の場合は、「行くつ戻りつしながら、雲が山にかかれないで空で時を過しているのは、あなたに近づき難いものがあるからです」と言っていることになるのに対して、『伊勢物語』では相手の言葉「天雲の」をそのまま受けて「お言葉のように〜」と言っている。会話的やりとりの趣きが強く出ているのである。しかし、『古今集』の場合に比べて、物語に必要な場面性が強く出ていると思うのである。
 なお、末尾の草子地「又、男ある人
となん言ひける」は、当初からあったと思えないが、前段の「なま心ある女」や二十五段・二十八段・三十七段・四十二段の「色好みの女」の場合と同様に、女を悪く扱うという、ある段階に付加形成された『伊勢物語』の特徴を反映していると思われるのである。