伊勢物語8…第三十九段〜第四十二段

第三十九段

 むかし、西院のみかどと申すみかどおはしましけり。そのみかどのみこ、たかいこと申すいまそがりけり。そのみこうせさせ給ひて、おほんはふりの夜、その宮のとなりなりけるをとこ、御はふり見むとて、女ぐるまにあひのりていでたりけり。いとひさしうゐていでたてまつらず、うちなきてやみぬべかりけるあひだに、あめのしたの色ごのみ源のいたるといふ人、これも、もの見るに、このくるまを、女ぐるまと見て、よりきてとかくなまめくあひだに、かのいたる、ほたるをとりて、女のくるまにいれたりけるを、くるまなりける人、「このほたるのともす火にや見ゆらん。ともしけちなむずる」とて、のれるをとこのよめる。
    いでていなばかぎりなるべみともしけち
       年へぬるかとなくこゑをきけ
                               (七四)
かのいたる、返し、
    いとあはれなくぞきこゆるともしけち
        きゆる物とも我はしらずな
                               (七五)
あめのしたの色ごのみのうたにては、猶ぞありける。いたるは、したがふがおほぢ也。みこのほいなし。

【通釈】

 昔、西院のみかどと申しあげる帝がおいでになった。その帝の皇女の崇子(たかいこ)と申しあげる方がいらっしゃった。その皇女がお亡くなりになって、御葬送の夜、その宮邸の隣に住んでいた男が、後葬送を見ようと思って、女の車に女と共に乗って出かけて行ったのである。たいそう長い間、門から引き出し申しあげずに、邸内で泣いていたのが終わるまでの間に、天下無双の色好みと称する源至という人が、この人も見物していたのであるが、この車を女の車であると思って、近づいて来て、あれこれと懸想するそぶりを見せている間に、その至が、蛍を捕って、女の車に入れたのを、「車にいる人が、この蛍のともす火で見られているだろう。蛍の火を消してしまおう」と思って、同乗している男のよんだ歌、
    葬送の棺が出て行ったならば、すべては終りになってしまうでしょうから、蛍の光を消して、「まだお若いのに、お亡くなりになって」と言って、泣いている声を聞いていなさい。
例の至が返歌をした歌、
    ほんとうにお気の毒。おっしゃるように、泣いている声が聞こえます。しかし、蛍の火を消して、内親王様のお命まで消えるものであるとは私は知らなかったことでありますよ。
天下無双の色好みの歌としては、平凡であったよ。
至は、順の祖父である。この歌では、内親王のことを悼む本来の気持ちはない。

【語釈】

※西院のみかど→淳和天皇のこと。淳和天皇(786-840。在位は823-833)は、桓武天皇の第三皇子。兄の嵯峨天皇のあとを継いで平安時代第四代の天皇となる。『令義解(りょうのぎのげ)』の編纂や『経国集』の撰進のほか、治績は大きい。天長十年(834)に西院(淳和院ともいう)に移り、仁明天皇に譲位した。
※令義解→令は法律、義解は意味を解釈する。
※たかい子→定家の天福二年本の書入れに孝崇子内親王、母橘船子、正四上清野女、承和十五年五月十五日コウ」とあるが、『続日本後紀』承和十五年五月十五日条に「無品崇子内親王コウ。淳和太政天皇之皇女也。母橘氏云々。遣兵部大輔従四位下豊江王井五位三人、監護葬事」とある。
※そのみこうせさせ給ひて、おほんはぶりの夜→前項の承和十五年(848)五月十五日の夜。その時、実在の業平は二十四歳。
※その宮の隣なりける男→物語の主人公。史実であるかどうかは別として業平。
※女車にあひ乗りて→「女車」は女性用の車。少し後のものだが、車の装飾が華美になることを防ぐという意味で、「内親王、三位已上内命婦、及更衣已上」だけには「庇のある糸葦車や緋の牛鞦(牛や馬にかける皮紐)を用いた車に乗ること許す」と『延喜式』に書かれていることを思えば、女性が好む派手な車を用いていたのであろう。また女性の「出衣(いだしぎぬ)」が車から見えていたのであろう。
※いとひさしうゐて出でたてまつらず→「いと久しう居て、出でたてまつらず」と読む説もあるが、それなら「出だしたてまつず」となるはずだから、「率(ゐ)て出(い)でたてまつらず」と読むべきであろう。「外へ誘導申しあげない」の意。
※あめのしたの色好み源の至といふ人→「あめのした」は「天下」の訓読語。源至は、嵯峨天皇の皇子である大納言源定の息。(851)十一月二十六日、文徳天皇の即位にともなって紀有常らと共に叙爵、斎衡三(856)年七月十三日に侍従となり、天安二年(858)十一月二十五日に右兵衛佐、その後、仁和元年(885)正月十六日には従四位下中務大輔となっていた至が右京大夫に任じられている。没年は未詳だが叙爵した仁寿元年(851)を十五歳とすれば、崇子内親王のコウじた承和十五年(848)は、それ以前の十二歳の頃となり、この段の叙述は事実とは遠いものと言わざるを得ない。
※とかくなまめくあひだに→「なまめく」は、「そのみこ、女をおぼしめして、いとかしこうめぐみつかう
たまひけるを、人なまめきてありけるを、」(四十三段)の場合と同じように、親しい関係にある男女の間に第三者が登場して懸想めいたふるまいをすること。
※車なりける人、この蛍のともす火にや見ゆらむ→同車していた男(業平)が「この車に乗っている女人が、この蛍のともす火にや見ゆらむ」し思ったということ。「見ゆらむ」は「見られるだろう」という意。「ゆ」は受身の意を表す。
※ともし消ちなむずる→「灯火を消してしまおう」という意。「むする」は「マサニ…スル」の意の「むとする」が縮まった形。「まさに消してしまおうぞ」
※出でていなばかぎりなるべみ→棺が出て行ったならば、すべてが終わりになるだろうから、
※ともし消ち→蛍の灯火を消して。
※年へぬるかと泣く声を聞け→出棺まで、この蛍の「ともし」を消して、「そんなにも長生きしたのか、そうではなく、ほんとうに若く亡くなられたこと」と言って泣いている人々の声を静かに聞いていなさい」と言っているのである。
※とも消ち消ゆる物とも我は知らずな→蛍の火を消すよことをすれば、あの内親王のお命まで消えるものだとは私は知らなかったよ。
※なほぞありける→底本に「猶ぞありける」あるが、「猶」は「直」の方がよい。素直。平凡。
※至は順がおほぢ也→『尊卑分脈』によれば、「嵯峨天皇ー源定ー至ー挙ー順」という関係。源順は、延喜十一年(911)ー永観元年(983)。天暦七年(953)に文章生となり、康保四年(967)従五位下、和泉守。天元二年(979)従五位上、能登守。天暦五年(951)『万葉集』の訓釈と『後撰集』の撰進に従事、『倭名類聚抄』を編纂するなど、当代随一の知識人であり、歌人であった。ここに誰もが知っているという書き方で源順の名が見えるのは、『伊勢物語』のこの段のこの部分が、少なくとも900年代後半に書かれたということになる。
※みこのほいなし→古来『伊勢物語』の中で特に難解とされている。まず「みこ」を誰とするかが問題になる。第一に考えられるのは、@「みこ」を崇子内親王とする説であるが、この場合は、直訳すると、「みこ(崇子内親王)」が生前に思っていたことがむなしくなったということになるが、これでは意が通じないので、「みこ(に対する)本意」と意訳して、「内親王に対する哀悼という本来あるべき意(心)は見られない」と解釈できないことはない。もう一つは、Aこの「みこのほいなし」という叙述が「至は、順(したがう)が祖父也」とまで述べた後、最終のまとめとして出てくることから、この段全体のまとめとして、「みこのほいなし」の「い」を「ハ」の誤写と見て、「みこの本ハなし」、つまりこの段は「みこの本には無い」と最後に注していると見る説も無視できない。現存の諸本においても、伝民部卿局筆本はこの段を持っていないことを思えば、「この段は、みこの本にない、と注していることになり、まったく可能性のない推論とも思えない。では、その「みこの本」の「みこ」は誰かと言えば、六条の宮(村上天皇皇子の具平親王)をあてることも可能なのではないか。鎌倉時代の注釈書である『冷泉家流伊勢物語抄』の冒頭に、「抑、此物語に七本の差別有。一には業平自筆の本、二には具平親王の本。三には阿倍の師安の本、四には賀茂の内侍の本、五には高二位の尼の本、六には伊勢中書の本、七には長能が狩の使の本也」と記されているが、その二の具平親王本がそれにあたる。また寛永廿年刊の『真名本伊勢物語』には「真名伊勢物語六條宮御撰」と冒頭に書かれている。いずれも信ずるに足るものではないが、いつの頃からか、六条宮具平親王(964-1009)が『伊勢物語』の伝流に関与したという伝承ができていたということだけは確かであろう。

第四十段

 昔、わかきをとこ、けしうはあらぬ女を思ひけれ。さかしらするおやありて、「思ひもぞつく」とて、この女をほかへおひやらむとす。さこそいへ、まだおひやらず。人のこなれば、まだ心いきほひなかりければ、とゞむるいきほひなし。女もいやしければ、すまふちからなし。さるあひだに、おもひはいやまさりにまさる。にはかに、おや、この女をおひうつ。をとこ、ちのなみだをながせども、とゞむるよしなし。ゐていでていぬ。をとこ、なくなくよめる。
     いでていなば誰か別(わかれ)のかたからん
        ありしにまさるけふはかなしも
                              (七六)
とよみて、たえいりにけり。おや、あわてにけり。猶、思ひてこそいひしか、いとかくしもあらじとおもふに、しんじちにたえいりにければ、まどひて願たてけり。けふのいりあひばかりにたえいりて、又の日のいぬの時ばかりになん、からうじていきいでたりける。むかしのわか人は、さるすける物思ひをなんしける。いまのおきな、まさにしなむや。

【通釈】

 昔、若い男がいたのである。その男は、悪くはない女を恋慕したのであった。やかましく口出しする親がいて、「ひょっとして恋慕の思いがついてしまっては……」と思って、この女を他に追いはらおうとする。そうはいうものの、まだ追い出してはいなかった。男は、親がかりの子であったので、自分の考えを押し通す力がなかったので、女を留めておく力がない。女も賎しい身の上なので、それに異を唱える力もない。そんなことをしている間に、男の思いはいよいよ激しくなってゆく。
 俄かに、親はこの女を放逐する。男は血の涙を流して悲しむのだが、引き留める方途もない。そのようにして、女を連れて出て行く。男が泣く泣く詠んだ歌、
    女の方から出て行ってしまうのなら、誰が別れ難いことがあろうか。しかし、そうでないのだから、これまで以上に、いとおしく思われることであるよ。
と詠んで悶絶してしまったのである。親はあわててしまった。「そうは言っても、自分は子供のことを思って言ったのだ」「それにしても、まさかこれほどではあるまい」と思っていたのに、実際に悶絶してしまったので、訳がわからなくなって、神仏に願を掛けた。今日の日没頃に悶絶して、翌日の戌の刻(午後八時)ぐらいに、やっとのことで生き返ったのである。
 昔の若い人は、このような一徹な恋の苦しみをしたものである。今の翁には、こんなこと出来るだろうか。いや、出来るはずもないよ。

【語釈】

※若き男→「男」と言わないで「若き男」と言ったのは、男の若い時のエピソードを語るためで、段末の「昔の若人」と呼応している。
※けしうはあらぬ女→「けしう」は形容詞「けし」の連用形「けしく」のウ音便。「尋常でない」「変だ」という意。したがって、「けしうはあらぬ」は、「変だというわけではない」→「悪くはない」という意であるが、褒め言葉に近い意で用いられることもあった。
※さかしらする親→利口ぶって口出しする親。親について言われている形容。「いとさかしらなる御親心なりかし」(源氏物語・胡蝶)
※思ひもぞつく→「もぞ」は懸念を表す。「ひょっとして……だったら困る」。
※人の子なれば→「人の子」が一語。まだ親が監督している子だから。
※心いきほひなかりければ→「心いきほひ」は「心に思って〜しようとする力」。「主張を通すだけの勢い」。
※すまふ力なし→対抗して争う力がない。「すまふ」は「相撲」の語源。負けまいとして争うこと。
※追ひうつ→『類聚名義抄』に、「逐」を「シタカフ、オフ、オヒウツ」とする。放逐する。語源的に言えば、「うつ」は、上代に用いられた動詞で「捨てる」の意であるから、「追ひうつ」は、追い出して捨ててしまうこと。
※ちのなみだ→中国の「血涙」からとっている。漢語的表現。日常生活では使っていない。
※いでていなば→女が出て行ってしまうのであれば。広本系や真名本の「いとひては」であれば、「女が嫌がって出ていくのであれば」という意になる。
※誰か別れの難からむ→誰が別れの難しいことがあろうか。誰でも難なく別れられる。
※ありしにまさる今日はかなしも→「ありし」は、過去から現在に至るまでの自分が経験した状態。「かなし」は、ここでは「いとおしい」という意。「わがかなしと思ふ娘」(源氏物語・夕顔)。
※しんじち→漢語的表現。日常生活では使っていない。
※今日のいりあひ許に→「いりあひ」は日没時。
※いぬの時→午後八時を中心とした二時間。すなわち午後七時から午後九時までの間。
※いきいでたりける→「生き出でたりける」。蘇生する。
※昔の若人は、さるすける物思ひをなんしける→「すける」は動詞「好く」の己然形「すけ」に、存在・完了の助動詞「り」の連体形が接続したもの。「好く」は恋愛を含めた風流事に熱中すること。「すき者」の「すき」も同じ。「物思ひ」は精神的に苦しむこと。恋に悩む場合場合が多い。
※今の翁まさにしなむや→「今の翁は、まさにこのような熱烈な恋の苦しみをするだろうか、しはしないよ」の意。「今の翁」は、「昔の若人」と対にして言っているのであるが、落ちつかない。何故かと言えば、「昔」「今」にかかわらず、「若人」は熱烈な恋の苦しみをするのにふさわしいが、「翁」は「昔」でも、「今」でも、熱烈な恋の苦しみをするというのにふさわしくない。「昔の若人は熱烈な恋に苦しんだが、今の若人はそんなことはしない。そのような元気もないのが嘆かわしい」と言うのならわかる。また「昔は年寄りでもここまで恋に苦しんだのだが、今の若人は何と覇気のないことよ」と嘆くのでも、よくわかる。およそ比較を成り立たせるためには、共通点を前提にして、相違点を問題にしなければならぬはずであるが、この場合は、「若人」と「翁」も対立概念。「さるすける物思ひ」をするかしないかも正反対。比較の前提になる共通概念がまったくない。
 そこで、比較の前提になる共通点を、あえて求めると、この「昔の若人」が、実は「今の翁」であるということになるのではないか。「私も、昔、若人の時には、こんなに熱烈な恋をしたんだ。しかし、今は、こんな爺さんになってどうしようもないよ」と言っていると見れば納得できる。つまり、この段は、まさしく翁がみずからの若き日を回想して語る「翁語り」として書かれていると見るべきだと思うのである。
※昔語り→語り手が昔の自分の話をしている。この段と似ているのが一段=四十二段とも関係。

【余説】

阿波国文庫旧蔵本・国立歴史民俗博物館本・伝民部卿局筆本や真名本には、
  をんな、かへる人につけて、
    いづこまでおくりはしつと人とはばあかぬわかれのなみだがはまで
という女の歌があるが、この歌は『堤中納言物語』の一編「はいずみ」にもある。いずれかが、いずれかを利用したのであろう。

第四十一段

 昔、女はらからふたりありけり。ひとりは、いやしきをとこのまづしき、ひとりはあてなるをとこもたりけり。いやしきをとこもたる、しはすのつごもりに、うへのきぬをあらひて、てづからはりけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、うへのきぬのかたを、はりやりてけり。せむ方もなくて、たゞなきになきけり。これを、かのあてなるをとこきゝて、いと心ぐるしかりければ、いときよらなるろうさうのうへのきぬを、見いでて、やるとて、
    むらさきの色こき時はめもはるに
     野なる草木ぞわかれざりける  
                        (七七)
むさしのの心なるべし。

【通釈】

 昔、二人の姉妹がいたのである。一人は身分が低くて貧しい男を、もう一人は高貴な男を夫に持っていた。身分の低い夫を持っている女が、十二月の月末に、袍を洗ってみずから張ったのである。誠意は充分に尽したのであるが、そのような下賎な仕事にも馴れていなかったので、袍の肩の部分を張っていて破ってしまった。どうしようもなくて、ただ泣きに泣いていた。
 このことを、例の高貴な男が聞いて、はなはだ気の毒に思ったので、最高にすばらしい緑衫(りょくさん)の袍を見つけ出して贈るということで、
    紫草の根で染めた色が濃い時は、目も遥々と見遥かされる同じ武蔵野にある多くの草木も同様に、それと区別できないと思われることであるよ。−愛する人への思いが濃い時は、それにつながる人も、同じようにいとおしく思われることであるよ。
「武蔵野の草はみながら…」という有名な歌の心を取って詠んだものであろう。    

※この段から紫のゆかりの構想。一段と繋がる。
 四十一段が先に出来て後に一段が出来た。
※源氏物語、「桐の花→紫→藤壷→紫上」繋がっている人の愛情。

【語釈】

※いやしき男のまづしき→「女のえ得まじかりける」(六段)と同じ文構造。「いやしき」は「あて」の反対語として用いられている。「高貴でない」「下賎な」というような意。
※あてなる男→「あてなり」は血筋がよくて上品なこと。普通は「上品な」の方が表面に出るが、ここは「賎しき」と対立するように書かれているので「血筋がよい」「高貴な」の方に重点がかかっている。
※ろうさうのうへのきぬ→「うへのきぬ」は、『倭名類聚抄』の装束部、衣服具に、「揚子漢語抄云。袍 薄交反、宇倍乃岐沼、一云朝服」とあるように、「袍」のことであり、公事に着る衣冠束帯の上衣のことである。「ろうさう」は「緑衫」。『令義解』六・衣服によれば、一位(深紫)、ニ・三位(浅紫)、四位(深緋)、五位(浅緋)、六位(深緑)、七位(浅緑)、八位(深縹)、初位(浅縹)、無位(浅縹)と決められている。
※張りけり→糊をつけて引っ張って干し、生地に張りを持たせるのである。
※心ざしはいたしけれど→「心ざし」は心がある方向に一途に向って行くこと。「愛情」と訳してよい。「いたしけれど」は、「力を尽くしたが」「がんばって…したが」。「斧の声の聞ゆる方に、疾き脚をいたして、剛き力を励みて、海川峰谷を越えて……」(うつほ物語・俊蔭)というように、やや和文脈から離れた時に用いられているし、『源氏物語』でも「大日如来そらごとし給はずは、などてか、かくなにがし(自分)が、心をいたして仕うまつる御脩法に、しるしなきやうはあらむ」(夕霧)というように、律師の言葉として用いられているだけである。
※ならはざりければ→習熟していないので。
※張り破りてけり→張り物をして破ってしまったのである。心苦しかりければ→現代語と違って「気の毒だったので」の意。
※紫の色濃き時は→表面は「紫草の色が濃い時は」ということだが、紫草の花は紫ではなく白色であり、紫色は紫草の根を用いて染めるものであるから、「紫草の根で染めた色が濃い時には、…」ということである。一方、『古今集』恋三・652の読み人知らず歌「恋しくは下にを思へ紫歌の根摺りの衣色に出づなゆめ」のように、「思ひ」を「色に出づ」、すなわち、自分の「思ひ」を紫草の根で染めたように「色に出づ」という把握から、「紫草で染めた色が濃く表れる時は」、すなわち愛する女への「思ひ」が強く表れる時は」の意となるゆえに「我が愛する人への思いが濃い時には、」という意になる。
※めもるに→『古今集』恋ニ・604の貫之の歌「津の国の難波の葦もめもはるにしげき我が恋人知るらめゆ」と同じく、「芽が張る」が本義だが、『土佐日記』の「松原、めもはるばるなり」と同様に「目を見張って遥々と見通す」の意を掛ける。
※わかれざりける→区別できないよ。「れ」は可能の助動詞「る」の未然形。
※武蔵野の心→『古今集』雑上(867)の「紫の一本(ひともと)ゆゑに武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る<自分の好きな紫草が一本生えているゆえに、武蔵野の草は皆どれでも、愛情がそそがれる>」という歌の心を踏まえている。

【余説】

*『古今集』雑上・868
    妻のおとうとをもて侍りける人に、えへのきぬをおくるとてよみてやりける
                                       業平朝臣
    紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかけざりける
※妹→女性に用いる。
※おとうと→男女に用いる。下に生まれた人。はるかに見通せる。
※めもはるに→目も

第四十二段

 昔、をとこ、色ごのみとしるしる女をあひいへけり。されど、にくくはたあらざりけり。しばしばいきけれど、猶、いとうしろめたく、さりとて、いかではたえあるまじかりけり。なほはたえあらざりけるなかなりければ、ふつかみかばかり、さはることありて、えいかで、かくなん。
    いでてこしあとだにいまだかはらじを
     たがかよひぢと今はなるらん 
                         (七八)
ものうたがはしさによめるなりけり。

【通釈】

昔、男がいたのである。その男は、色好みであるとよく知りながら、その女を相手にして愛を語らっていたのである。しかし、色好みだからと言って、女が憎いというわけでは、なかったのである。女のもとへしばしば出かけて行っていたのであるが、色好みの女ゆえ、やはり、とても気がかりで、そうでは言っても、やはり出かけて行かずにはおられないようであった。そうは言っても、やはり、そのままには済まされない関係であったので、二、三日の間、差し障りがあって、行くことができないで、(辛抱し切れずに)このように詠んだのであった。
    私が出て来た足跡さえまだ変っていないのに、その道が、今は誰の通路になっていることであろうか。
物疑わしさに詠んだ歌なのであった。
※物→何となく(疑わしい)。何が原因なのか解らないが(疑わしい)

【語釈】

※知る知る→動詞「知る」の終止形を重ねて、その意を強調する言い方。十分に知りながら。
※女をあひいへりけり→「若き女をあひいへりけり」(第八六段)、「親王たちの使ひ給ひける人をあひいへりけり」(第一〇三段)のように、当該人物を「と」ではなく、「を」で承けるのが特徴。「〜をあひいふ」は「〜を相手にして言う」「〜を相手にして睦み合う」の「を」に相当する。
※にくくはたあらざりけり→「はた」は、ある一面を認めながら、別の一面を述べようとする時に用いられる副詞。語源的には「端(はた)」とつながりがあり、「そうは言うが、その一方で」という意。ここに「はた」が三回も繰り返されるのは、語りの調子を示しているのであろう。特に最後の「なほ、はたえあらざりける仲なりければ〜」の「えあらざりける」は、内容的には直前の「行かではたえあるまじかりけり」の繰り返しである。
※しばしば出かけて→通っている結婚。正妻ではない。
※うしろめたく→気がかりで。不安で。「昔、男、色好みなりける女にあへりけり。うしろめたくや思ひけん」(三七段)は同じようなケースで用いられている例である。
※いかではたえあるまじかりけり→「行かでえあるまじかりけり」に前述の「はた」が加わった形。「そうは言ってもやはり、行かないではいられなかったようである」の意。
※はた→又。話題を変える場合。
※出でて来しあとだに→私が出て来たその足跡すらも。
※ものうたがはしさによめるなりけり→語り手の立場からの解説的コメントである。