『竹取物語』を読む


  ※あしや文学同好会で受講した「竹取物語」を纏めたものです。

  ※講師は片桐洋一先生(大阪女子大学名誉教授)です。

  ※「竹取物語 高松宮蔵」(新典社版原典シリーズ6 編者 片桐洋一 )を参孝にしています。


T 一 @ 竹取の翁の紹介とかぐや姫の出生
    *さる時よりなむ、「よばひ」とはいひける。

U 二 A五人の求婚者と難題の提示
     B石作の皇子と仏の御石の鉢
    *面なきことをば、「はぢをすつ」とはいひける。

   三 Cくらもちの皇子と蓬莱の玉の枝
    *これをなむ「たまさかに」とはいひはじめける。

   四 D阿倍の右大臣と火鼠の皮衣
    *これを聞きてぞ、とげなきものをば、「あへなし」といひける。

   五 E大伴の大納言と龍の頸の玉
    *といひけるよりぞ、世にあはぬことをば、「あな、たへがた」とはいひはじめける。

   六 F石上の中納言と燕の子安貝
    *それを見たまひて、「あな、かひなのわざや」とのたまひけるよりぞ、思ふに違うことをば「かひなし」といひける。   
    *それよりなむ、すこしうれしきことをば、「かひあり」とはいひける。

V 七 G御狩の御幸
     Hかぐや姫の昇天
     I富士の煙の由来
    *士どもあまた具して山へのぼりけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。


『大朝物語年表』

元 号 西 暦 物 語 関 係 事 項
延   歴 13 794 長岡京より平安京に遷都。
嘉   祥 3 850 仁明天皇没。文徳天皇即位。
仁明・文徳のサロンで仮名文学興隆
『竹取物語』第一次本このころ成立か。
元  慶 4 880 在原業平没
在原業平作の『伊勢物語』第一次本これ以前に成立。
延  喜 5 905 『古今和歌集』第一次本成立。
承  平 5 935 『土佐日記』この年成立か。
天  歴 5 951 『後撰和歌集』撰集開始。
『大和物語』第一次本このころ成立か。
康  保 2 965 『平中物語』このころ成立という説あり。
天  延 2 974 『蜻蛉日記』この年以降しばらくの間に成立。
永  観 2 984 『三宝絵』(源為憲)成立。
『公任集』によれば、円融天皇の時代(970〜984)に『宇津保物語』第一次本成立。
長  保 2 1000 『落窪物語』これ以前に成立。
『枕草子』このころ成立。
寛  弘 5 1008 『紫式部日記』によれば、『源氏物語』の1部、このころ流布。
『和泉式部日記』このころ成立か。
長  元 5 1032 『栄華物語』正篇、この年までに成立か。
天  喜 3 1055 六条斎院物語歌合。『堤中納言物語』の一篇「逢坂越えぬ権中納言」は、このときの新作。
康  平 3 1060 『更級日記』このころ成立か。
菅原孝標女の作と伝える『浜中納言物語』『夜の寝覚』このころ成立か。
延  久 5 1073 六条齋院に仕えた女房宣旨の作と伝える『狭衣物語』このころ成立か。
寛  治 6 1092 『栄華物語』続篇、この年以降に成立。
永  久 3 1115 『大鏡』このころに成立か。


『三宝絵』

(前略)碁(ゴ)ハ、コレ日ヲ送ル戯(タハブレ)ナレド、勝負(カチマケ)ノイドミ端(アヂキ)ナシ。琴(コト)ハ、マタ夜ヲ通ス友ナレド、音ニメズル思ヒ発(オコ)リヌ可(ベ)シ。又、物語ト云ヒテ女ノ御心ヲヤル物、大荒木ノ森ノ草ヨリモ茂(シゲ)ク、荒磯海(アリソミ)ノ浜ノ真砂(マサゴ)ヨリモ多カレド、木草山川鳥獣魚虫ナド名付ケタルハ、物イハヌ物ニ物ヲイハセ、情(ナサケ)ナキモノニ情ヲ付(ツ)ケタルハ、只(タダ)海(アマ)ノ浮木(ウキギ)ノ浮ベタル言(コト)ヲノミ言(イ)ヒ流シ、沢ノマコモノ誠(マコト)ナル詞(コトバ)ヲバ結ビオカズシテ、「伊賀専女(イガノタラメ)」「土佐大殿(トサノオトド)」「今メキノ中将」「長居(ナガヰ)ノ侍従」ナド言ヘルハ、男女ナドニ寄セツツ、花ヤ蝶ヤト言ヘレバ、罪ノ根、言葉ノ林(ハヤシ)ニ露ノ御心モトドマラジ。何ヲ以テカ貴キ御心バヘヲモハゲマシ、静カナル御心ヲモナグサムベキト思フニ、昔、龍樹菩薩(リュウジュボサツ)ノ禅陀迦(ゼンダカ)王ヲ教ヘタル偈(ゲ)ニイハク、「モシ絵ニカケルヲ見テモ、人ノ言ハムヲ聞キテモ、或ハ経トフミトニ随ヒテ自ラ悟リ念(オモ)ヘ」ト言ヘリ。此ニヨリテ、アマタノ貴キ事ヲ絵ニカカセ、マタ経ト文(フミ)トノ文ヲ加ヘ副(ソ)ヘテ奉ラシム。其ノ名ヲ「三宝」トイフコトハ、……(後略)。
※三宝絵→仏教の話を絵にしたもの。正しくは「三宝絵詞」
※碁ハ→日々。
※御心→「御」は敬語。姫君。
※ヤル→なぐさめる。

『竹取物語』五つの難題

 五 契沖はその著『河社(かわやしろ)』に、『西城記』の「波剌斯国(はらしこく)に…釈迦仏の鉢、此の王宮に在り」と『南山住持感応伝』の「世尊初めて成道の時、四天王、仏に石の鉢を奉る。唯(ただ)世尊のみ用ゐるを得て、余人は持つこと能(あた)はず。如来(にょらい)滅しての後、鷲山(じゅせん)に安じ白毫(びゃくごう)の光とともに利益となす」という記事を引く。また田中大秀が引いている『水経注』にも、「西域に仏の鉢有り。今、猶(なほ)存す。其の青紺にして光れり」とある。
 六 『列子』の「湯問」第五に、「渤海(ぼっかい)之東ニ五ノ山有り。幾億万里ナルヲ知ラズ。…一ハ岱輿(たいよ)ト曰ヒ、二ハ員?(ゐんけう)ト曰ヒ、三ハ方壺(はうこ)ト曰ヒ、四ハ瀛州(えいしう)ト曰ヒ、五ハ蓬?(ほうらい)ト曰フ。…其ノ上ノ台観皆金玉、其ノ上ノ禽獣皆純縞(じゅんかう)。珠?(しゅかん)之樹皆叢生ス…」とある。中国の古代人が考えた仙郷である。
 七 「なり」は伝聞の助動詞。ふつう「あなり」と撥音無表記で「あんなり」と読む。「あるなり」の表記は珍しい。
 八 『名義抄』や『日葡辞書』では、清音で「シロカネ」と読む。
 九 まだ三人残っているのに、「いま一人」はおかしい。求婚者が三人であった古い形の物語の名残をとどめている。
 十 『和名抄』には、『神異記』を引いて、「其の毛ヲ取リ、織リテ布ト為ス。若シ汚ルレバ、火ヲモッテコレヲ焼キ、更ニ清潔ナラシム」と記す。火で焼いても燃えないのである。また『捜神記』にいう「火浣布(かかんふ)もこの類であったらしい。
十一 『荘子』雑篇に「ソレ千金ノ珠(たま)ハ必ズ九重ノ淵ニシテ驪龍(りりよう)ノ頷(あぎと)ノ下ニ在リ」とある。
十二 「子安貝」は、宝貝の一種。長さ二、三寸。貝殻は黒褐色で美し斑紋があるという。その形が女陰に似ているゆえに、古くから安産のお守りに用いてひの名がある。子安貝に燕から生ずるものがあるということは出典未詳。ただし諸注が引く『三才図会』の「石燕ハ零陵郡ヨリ出ヅ。形ハ蚶(きさがひ)ニ似テ小サシ。或云、山ノ洞ノ中ニ生ズルモ雷雨ニ因(よ)リテ則チ沙上ニ飛出デ、化シテ石ト為ル。今、人、生ムコトヲ催シ、婦ノ産ヲスルトキニ両手ニ各々一枚ヲ握ラシムルニ、須臾(しゆゆ)ニシテ子(こ)即下ス。採ルニ時ナシ」という記述は、安産の守りであるゆえに関係があろう。

         小学館刊行 新編日本古典文学全集
                  『竹取物語・伊勢物語・大和物語・平中物語』による。

『求婚者の名前と実在人物』(『日本古代氏族人名事典』)
 
 布勢朝臣御主人(ふせのあそんみうし)
635〜730 七世紀後半の公卿。布勢麻呂古臣の子。阿倍朝臣とも阿倍普勢臣ともみえる。
『日本書紀』によると、朱鳥元年(686)九月、天武天皇の崩御に際し、太政官の事を誄(しのびごと)した。時に直大参。持統元年(687)正月、殯宮(もがりのみや)で誄した。時に納言。同二年十一月、天武の葬送の日にね大伴宿禰御行とたがいに進み誄した。同四年正月、持統天皇の即位の儀に丹比(たじひ)真人嶋と賀騰極を奏した。同5年正月、封八十戸を増され、三百戸となった。時に直大壱。同八年正月、正広肆を授けられ、封二百戸を増し、五百戸となり、氏上(うじのかみ)となった。同十年十月、阿部朝臣とみえ、正広肆・大納言として八十人の資人を仮賜された。次いで「続日本紀」によると、文武四年(700)年八月、正広参を授けられ、大宝元年(701)三月、正従二位に叙せられ、右大臣に任ぜられた。また右大臣・従二位として、?(あしぎぬ)五百疋、糸四百?、布五千段、鍬一万 、鉄五万斤、備前・備中・但馬・安芸国の田二十町を賜った。同三年閏四月、こうじた。文武天皇は石上(いそのかみ)朝臣麻呂らを遣わして弔 せしめた。慶雲元年(704)七月、御主人の功封百戸の四分の一を子の従五位上阿倍朝臣広庭に伝えさせた。天平四年(732)二月、中納言従三位広庭の?伝に「右大臣従二位御主人の子なり」とみえ、天平宝字五年(761)三月、参議正四位下阿倍朝臣嶋麻呂の卒伝にも、「藤原朝右大臣従二位御主人の孫、奈良朝中納言従三位広庭の子なり」とみえる。『公卿補任』持統天皇条に「元年正月中納言。(中略)初任の年未詳。後に阿倍朝臣とな為る。今、案ずるに阿倍御主人朝臣是か。布勢麻呂古臣の男」とみえ、大宝元年条に「三月廿一日に正三位に叙し、大納言に任ず。元中納言。同日従二位に叙し、右大臣に任ず。本姓布勢。大臣に任ずるの後大納言を兼ねるの由扶桑記に見ゆ」とあり、大宝三年条にこう年六十九と記し、「阿倍氏陰陽の先祖なり」とみえる。

 大伴宿禰御行(おおとものすくねみゆき)
〜701 七世紀後半の上級官人。大伴連長徳の子。弟に安麻呂、子に御依がいる。高市大卿ともよばれた。壬申の乱に大海人皇子(のちの天武天皇)側の将として活躍した。天武四年(675)兵部大輔になり、同十三年には連から宿禰となる。持統朝には氏上(うじのかみ)に任ぜられ、さらに大納言となる。文武四年(700)八月、賞されて正広参に進み、翌五年正月、こうじた。死後、正広弐右大臣を贈られた。同年七月、壬申の功臣として功封百戸を賜わり、中功として四分の一を子に伝えさせた。『万葉集』に歌がある(19-4260)。妻紀朝臣音那はその貞節の故に和銅五年(712)に邑五十戸を贈与されている。

 石上朝臣麻呂(いそのかみのあそんまろ)
640〜717 八世紀初めの公卿。氏姓は初め物部連。物部朝臣とも称した。衛部大華上宇麻呂の子で、乙麻呂の父。天武元年(672)の壬申の乱で近江方につき、大友皇子が山背国山前(京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町山崎にかけての一帯か)で縊死した時には麻呂と一、二の舎人しか従う者がいなかったという。同五年十月に遣新羅大使となり、唐と戦って大同江以南を統一した新羅をつぶさに実見して翌年帰国。時に大乙上。同十三年十一月、八色の姓の制定に改めた。朱鳥元年(686)天武天皇崩御に伴う殯宮(もがりのみや)で石上朝臣と称し、法官のことを誄(しのびごと)した。時に道広参。持統三年(689)九月、筑紫に遣わされ、太宰帥に位記を送るとともに新城の監察に当った。翌四年正月、持統天皇の即位式に際して宮に大盾を樹て、名負いの氏としての職責を果たしている。朱鳥六年(持統六年のことか)持統の伊勢行幸に従い、「石上大臣駕に従ひて作れる歌」を詠んだ(『万葉集』1ー44)。同十年、直広壱に叙せられ、資人五十人の仮賜をうけた。以後、筑紫総領・中納言、さらに大納言兼任の太宰帥を経て、大宝四年(704)正月、右大臣となった。時に従二位。前年の閏四月に右大臣阿倍朝臣御主人(みうし)がこうじたあとを襲ったもので、後継首班として廟堂の頂点に立った。同四年正月に封戸二千百七十戸を賜与され、殊遇をうけてもいる。さらに和銅元年(708)正月、正二位に叙せられ、同年三月、左大臣に進んだが、霊亀三年(717)三月、?じた。

『今昔物語集』
 巻第三十一 竹取ノ翁、見付ケシ女ノ児(ちご)ヲ養ヘル語(こと)第三十三

 今ハ昔、□(欠字)天皇ノ御世(みよ)ニ一人ノ翁有(おきなあり)ケリ。竹ヲ取テ籠(こ)ヲ造(つくり)テ、要スル人ニ与ヘテ其ノ功(く)ヲ取(とり)テ世ヲ渡(わたり)ケルニ、翁籠(おきなこ)ヲ造ラムガ爲ニ篁(たかむら)ニ行キ竹ヲ切ケルニ、篁ノ中ニ一ノ光(ひかりあ)リ。其ノ竹ノ節(ふし)ノ中ニ三寸許(ばかり)ナル人有(あり)。翁(おきな)、此(こ)レヲ見テ思ハク、「我(わ)レ、年来(としごろ)竹取(とり)ツルニ、今此(かか)ル物ヲ見付(つけ)タル事」ヲ喜(よろこび)テ、片手ニハ其ノ小(ちひさき)人ヲ取リ、今、片(かたへ)ニ竹ヲ荷(になひ)テ家ニ返(かへり)テ、妻(め)ノ嫗(おうな)ニ、「篁(たかむら)ノ中ニシテ、此(かか)ル女ノ児(ちご)ヲコソ見付(つけ)タレ」ト云(いひ)ケレバ、嫗(おうな)モ喜(よろこび)テ、初ハ籠(こ)ニ入レテ養(やしなひ)ケルニ、三月許(ばかり)養(やしなは)ルル、例ノ人ニ成(なり)ヌ。其ノ児(ちご)漸ク長大スルママニ、世ニ並(ならび)無ク端正(たんじやう)ニシテ、此ノ世ノ人トモ不思(おぼ)エザリケレバ、翁(おきな)、嫗(おうな)弥(いよい)ヨ此(こ)レヲ悲(かなし)ビ愛シテ傳(かしづき)ケル間ニ、此ノ事世ニ聞(きこ)エ高ク成(なり)ニケリ。
 而(しか)ル間、翁(おきな)、亦(また)竹ヲ取ラムガ爲ニ篁(たかむら)ニ行(ゆき)ヌ。竹ヲ取ルニ、其ノ度(たび)ハ竹ノ中ニ金(こがね)ヲ見付(みつけ)タリ。翁(おきな)此(こ)レヲ取(とり)テ家ニ返(かへり)ヌ。然(しか)レバ、翁忽(たちまち)ニ豊(ゆたか)ニ成(なり)ヌ。居所(きよしよ)ニ、宮殿、楼閣(ろうかく)ヲ造(つくり)テ、其レニ住ミ、種々(くさぐさ)ノ財(たから)庫倉(くら)ニ充(み)チ満(み)テリ。眷属(くゑんぞく)泉多(あまた)ニ成(なり)ヌ。亦此(こ)ノ児(ちご)ヲ儲(まうけ)テヨリ後(のち)ハ、事ニ触(ふ)レテ思フ様(やう)也。然(しか)レバ弥(いよい)ヨ愛シ傳(かしづ)ク事無限(かぎりな)シ。
 而(しか)ル間、其ノ時ノ諸(もろもろ)ノ上達部(かんだちべ)、殿上人(てんじやうびと)消息(せうそく)ヲ遣(やり)テ仮借(けさう)シケルニ、女更(さら)ニ不聞(きか)ザリケレバ、皆(みな)心ヲ尽(つく)シテ云(いは)セケルニ、女、初ニハ、「空ニ鳴ル雷(いかづち)ヲ捕ヘテ持来(もてきた)レ。其ノ時ニ会ハム」ト云(いひ)ケリ。次ニハ、「優曇花(うどんぐゑ)ト云フ花有(あり)ケリ。其レヲ取(とり)テ持来(もてきた)レ。然ラム時ニ会ハム」ト云(いひ)ケリ。後(のち)ニハ、「不打(うたぬ)ニ鳴ル鼓(つづみ)ト云フ物有リ。其レヲ取(とり)テ得(えさ)セタラム折(をり)ニ自(みづか)ヲ聞(きこ)エム」ナド云(いひ)テ、不会(あは)ザリケレバ、仮借(けそう)スル人々、女ノ形ノ世ニ不似(に)ズ微妙(めでた)カリケルニ耽(たしび)テ、只(ただ)此(か)ク云フニ随(したがひ)テ、難堪(たへがた)キ事ナレドモ、旧(ふる)ク物知(しり)タル人ニ此等(これら)ヲ可求(もとむべ)キ事ヲ問ヒ聞(きき)テ、或(あるい)ハ家ヲ出(いで)テ海辺(うみのほとり)ニ行キ、或(あるい)ハ世ヲ奇(すて)テ山ノ中ニ入リ、此様(かくやう)ニシテ求(もとめ)ケル程ニ、或(あるい)ハ命ヲ亡(ほろぼ)シ、或(あるい)ハ不返来(かへりきたら)ヌ輩(ともがら)モ有(あり)ケリ。
 而(しか)ル間、天皇、此ノ女ノ有様ヲ聞(きこ)シ食(め)シテ、「此ノ女世ニ並(ならび)無ク微妙(めでた)シト聞ク。我(わ)レ行(ゆき)テ見テ実(まこと)ニ端正(たんじやう)ノ姿ナラバ、速(すみやか)ニ后(きさき)トセム」ト思(おぼ)シテ、忽(たちまち)ニ大臣、百官ヲ引将(ひきゐ)テ、彼(か)ノ翁ノ家ニ行幸(みゆき)有(あり)ケリ。既(すで)ニ御(おはし)マシ着(つき)タルニ、家ノ有様(ありさま)微妙(みめう)ナル事、王ノ宮ニ不異(ことなら)ズ。女ヲ召出(めしいづ)ルニ既チ参レリ。天皇此レヲ見給(たまふ)ニ、実(まこと)ニ世ニ可譬(たとふべ)キ者無ク微妙(めでた)カリケレバ、「此(こ)レハ我ガ后ト成ラムトテ、人ニハ不近付(ちかづか)ザリケルナメリ」ト喜(うれし)ク思(おぼ)シ食(めし)テ、「ヤガテ具(ぐ)シテ宮ニ返(かへり)テ后ニ立テム」ト宣(のたま)フニ女ノ申サク、「我(わ)レ、后ト成(な)ラムニ無限(かぎりな)キ喜ビ也ト云ヘドモ、実(まこと)ニハ己(おの)レ人ニハ非(あら)ヌ身ニテ候フ也」ト。天皇ノ宣(のたまは)ク、「汝(なん)ヂ、然(さ)ハ何(いかなる)者ゾ。鬼カ神カ」ト。女ノ云(いは)ク、「己(おの)レ鬼ニモ非(あら)ズ、神ニモ非(あら)ず。但(ただ)シ己(おのれ)ヲバ只今(ただいま)空ヨリ人来(きたり)テ可迎(むかふべ)キ也。天皇速(すみやか)ニ返(かへ)ラセ給(たま)ヒネ」ト。天皇此(こ)レヲ聞(きき)給テ、「此(こ)ハ何(いか)ニ云フ事ニカ有ラム。只今(ただいま)空ヨリ人来(きたり)テ可迎(むかふべ)キニ非ズ。此レハ只我(わ)ガ云フ事ヲ辞(いな)ビムトテ云(いふ)ナメリ」ト思給(おぼしたまひ)ケル程ニ、暫許有(しばしばかりあり)テ、空ヨリ多(おほく)ノ人来(きたり)テ輿(みこし)ヲ持来(もてきたり)テ、此ノ女ヲ乗セテ空ニ昇(のぼり)ニケリ。其迎(そのむかへ)ニ来(きた)レル人ノ姿、此ノ世ノ人ニ不似(に)ザリケリ。
 其ノ時ニ天皇、「実(まこと)ニ此ノ女ハ只人ニハ無キ者(ものに)コソ有(あり)ケレ」ト思(おぼ)シテ、宮ニ返リ給(たまひ)ニケリ。其ノ後(のち)ハ、天皇、彼(か)ノ女ヲ見給(たまひ)ケルニ、実(まこと)ニ世ニ不似(に)ズ、形(かた)チ、有様微妙(めでた)カリケレバ、常ニ思(おぼ)シ出(いで)テ破(わり)無ク思(おぼ)シケレドモ、更(さら)ニ甲斐(かひ)無ク止(やみ)ニケリ。
 其ノ女遂(つひ)ニ何者(いかなるもの)ト知ル事無シ。亦(また)翁ノ子ニ成(なれ)ル事モ何(いか)ナル事ニカ有(あり)ケム。惣(す)ベテ不心得(こころえ)ヌ事也(なり)トナム世ノ人思(おもひ)ケル。此(かか)ル希有(けう)ノ事ナレバ、此(か)ク語(かた)リ伝ヘタルトヤ。

『海道記所載、竹取説話
 海道記
 貞応ニ年(1223)頃の成立。鴨長明(1155〜1216)、あるいは源光行(1163〜1244)の作とする説もあったが、前者は時代的に成り立ち得ず、後者も疑問が残る。出家して間もない主人公が京都に老いた母を残しつつ、東海道を下って鎌倉へ出かけるという内容。単なる紀行文ではなく、虚構の作品。無常観がただよう文章は格調がある。

 昔、採竹翁(たけとりのおきな)ト云フ者アリケリ。女(むすめ)ヲ赫奕姫(かぐやひめ)ト云フ。翁ガ宅(いへ)ノ竹林ニ鶯(うぐひす)ノ卵女形(おんなのかたち)ニカヘリテ巣ノ中ニアリ。翁養ヒテ子トセリ。長(ひととな)リテ好(かほよ)キ事、比(たぐひ)ナシ。光アリテ傍(かたはら)ヲ照ラス。嬋娟(せんけん)タル両鬢(りょうびん)ハ秋ノ蝉(せみ)ノ翼(はね)、苑転(ゑんてん)タル雙娥(そうが)ハ遠山ノ色。一タビ咲(ゑ)メバ百(もも)ノ媚(こび)ナリ、見聞(けんもん)ノ人ハ皆賜(はらわた)ヲ断(た)ツ。此姫ハ先生(せんじやう)ニ人トシテ翁ニ養ハレタリケルガ、天上ニ生レテ後(のち)、宿世(すくせ)ノ恩ヲ報ゼントテ、暫(しばら)ク此ノ翁ガ竹ニ化生(けしやう)セル也(なり)。憐(あはれ)ムベシ、父子ノ契(ちぎり)ノ他生(たしやう)ニモ変ゼザル事ヲ。是(これ)ヨリシテ青竹ノヨノ中ニ黄金(こがね)出来(しゆつたい)シテ、貧翁忽(たちま)チニ富人ト成リニケリ。其ノ間ノ英華ノ家、好色ノ道、月卿(げつけい)光ヲ争ヒ、雲客色ヲ重ネテ、艶言ヲツクシ、懇懐(こんくわい)ヲ抽(ぬきん)ツ。常ニ赫奕姫(かぐやひめ)ガ家屋ニ来会シテ、絃ヲ調(しら)ベ歌ヲ詠ジテ遊ビアヒタリケリ。サレドモ、鶯姫難詞ヲ結ビテウチ解(と)クル心ナシ。時ノ帝(みかど)、此ノ由(よし)ヲ聞(きこ)シ食(め)シテ召シケレドモ、参ラザリケレバ、帝、御狩ノ遊ビノ由ニテ鶯姫ガ竹亭(ちくてい)ニ幸(みゆき)シ給ヒテ、鴛鴦(ゑんあう)ノ契リヲ結ビ、松ノ齢(よはひ)ヲヒキ給フ。鶯姫、思フトコロ有リテ後日ヲ契リ申シケレバ、帝、空(むな)シク帰リ給ヒヌ。諸(かたへ)ノ天、此(これ)ヲ知リテ、玉ノ枕、金ノ釵(かざし)イマダ手ナレザルサキニ、飛車ヲ下(くだ)シテ迎ヘテ天ニ上(のぼ)リヌ。関城ノカタメモ雲路ニ益ナク、猛士ガ力(ちから)モ飛行ニハ由ナシ。時ニ秋ノ半(なかば)、月ノ光陰(くも)リナキ頃、夜半ノ気色、風ノ音信(おとづれ)、物思ハヌ人モ物思フベシ。君ノ思ヒ、臣ノ懐、涙同ジク袖ヲウルホス。彼ノ雲ヲツナグニツナガレズ、雲ノ色惨々トシテ暮(くれ)ノ思ヒフカシ。風ヲ追フトモ追ハレズ、風ノ声札々(さつさつ)トシテ夜ノ恨ミ長シ。華氏ハ奈木(なぼく)ノ孫枝也。薬ノ君子トシテ万人ノ病ヲ癒ス。鶯姫ハ竹林ノ子葉也。毒ノ化女トシテ一心(いちじん)ノ心ヲ悩マス。方士ガ大真院ヲ尋ネシ、貴妃ノ私語(ささめき)、再ビ唐帝ノ思ヒニ還ル。使臣ガ富士ノ峯ニ昇リ、仙女ノ別(わか)レノ書(ふみ)、永ク和君ノ情ヲ焦セリ。鶯姫天ニ上(あが)リケル時、帝ノ御契(ちぎり)、サスガニ覚エテ、不死ノ薬ニ歌ヲ書キテ具シテ留メヲキタリ。其歌ニ曰(い)フ、
     今ハトテ天ノ羽衣キル時ゾ君ヲアハレト思ヒイデヌル
帝是(これ)ヲ御覧ジテ、忘形見(わすれかたみ)ハ見ルモ恨メシトテ怨恋(ゑんれん)ニ堪ヘズ、青鳥ヲ飛バシテ雁札(がんさつ)ヲ書きソヘテ、薬ヲ返ヘシ給ヘリ。其ノ返歌ニ云フ、
     逢フ事ノ涙ニウカブ我身ニハ死ナヌ薬モナニニカハセン
使節、知計ヲ廻ラシテ、天ニ近キ所ハ此ノ山ニ如(し)カジトテ、富士ノ山ニ昇リテ焼キ上ゲケレバ、薬モ書(ふみ)モ煙ニムスボホレテ空ニアガリカケリ。是ヨリ、此ノ嶺ニ恋ノ煙ヲ立テタリ。仍(よ)リテ、此ノ山ヲバ不死ノ峯ト云ヘリ。然而(しかして)、郡(こほり)ノ名ニ付キテ、富士ト書クニヤ。

『古今和歌集』仮名序(紀貫之)

(前略)さざれ石にたとへ筑波山にかけて君をねがひ、よろこび身に過ぎたのしび心にあまり、富士のけぶりによそへて人を恋ひ、松虫の音に友をしのび、(中略)今は富士の山もけぶりたたずなり。長良の橋もつくるなりと聞く人は、歌にのみぞ心をなぐさめける。(後略)

【参孝】
 古今和歌集序聞書 三流祥抄(謡曲はじめ、中世の文学にもっとも大きな影響を与えた注釈)
 日本紀云ふ、天武天皇の御時、駿河の国に作竹翁といふ者あり。竹をそだてて売る人なり。ある時、竹の中に行きて見れば、鶯の卵(かひこ)あまたあり。その中に金色の卵(こ)あり。不思議に思ひて、取りて帰りて家に置く。行きて、七日をへて家に帰るに、家光て見ゆ。行きて見れば美女あり。彼(か)の女、光を放つ。「何人ぞ」と問ふに、答へて言う、「吾は鶯の卵(かひこ)なり」と言ふ。翁、吾(わ)が娘とす。赫奕姫(かぐやひめ)と名ずく。駿河国司金樹宰相、此(こ)の由(よし)を帝に奏す。帝、彼の女を召して御覧ずるに、実(まこと)にうつくしき顔なり。やがて思ひ給ひて、愛し給ふ事、后の如し。三年を経(へ)て、彼の女、王に申さく、「吾(われ)は天女なり。君、昔、契り有りて、今、下界に下る。今は縁すでにつきたり」とて、鏡を形見に奉りて失(う)せぬ。王此の鏡を抱きて寝給ふ。胸にこがるる思ひ、火となりて、鏡につきて、わきかへりわきかへり、すべて消えず。公卿僉議(くぎやうせんぎ)して、土の箱を造りて、其の中に入れて、本(もと)の所なればとて、駿河の国に送り置く。なほ、燃えやまざりければ、人恐れて富士の頂に置きぬ。煙絶えず。是よりて、富士の煙を恋によむなり。

 古今集為家抄(実は為家の著作ではない)
 欽明(きんめい)天皇御宇(ぎよう)、駿河(するが)の国浅間(あさま)の郡(こほり)に竹取の翁と云う老人有り。竹をそだててあきなひにしけり。或時(あるとき)、竹の中を見れば、金色なる鶯(うぐひす)の卵(かひこ)有り。あやしみて家に置く。七日を経(へ)て、うつくしき美女となりにけり。これを養ひて、娘とせり。あたりも輝(かかや)くほどに見えければ、かぐや姫と名づく。世の人乞(こ)うて、「これをいかにも」と、心をつくして言ひけれども、翁、さらに聞き入れず。時の帝、この事をきこしめして、乙見丸といふ者を勅使にて召(め)されければ、参らせけり。美女なれば、やがて思(おぼ)しめして、類(たぐひ)少(すくな)きほどなり。三年(みとせ)を経(へ)て後、この女言ふ、「我は、これ、天女なり。昔、君に契りありて、今、かく妻となれりといへども、縁、既につきたり。下界にあるべきものならず」とて、御鏡を奉りて失(う)せぬ。帝、この鏡を御胸にあてて嘆き給ひければ、思ひ、火となりて鏡につきて燃えけり。この火、すべて消えず。これを見奉りて、公卿僉議(くぎやうせんぎ)して、本所、駿河の国富士の峰に送り置く。この火、煙となるといへり。

『チベット族の竹取物語』(片桐洋一著)
 『竹取物語』の本質をこのように捉える時、気になるのは、昭和四十七年ごろから主唱されはじめた中国四川省西北部の阿ばチベット自治区に伝わる『斑竹(パヌチウ)姑娘』(『斑竹姑娘』は『金玉鳳凰(全部創作)』所収の一話。田海燕氏によって1957年に出版された)が『竹取物語』に影響を与えているという説である。この説は君島久子氏の研究に発し(「チベットの『竹娘説話』と『竹取物語』」『説話文学研究』6号、昭和四十七年三月。「金沙江の竹娘説話ーチベット族の伝承と『竹取物語』」『文学』昭和四十八年三月号)、伊藤清司氏(『かぐや姫の誕生ー古代説話の起源』講談社、現代新書、昭和四十八年)によって広く知られるようになったのだが、要するに、『竹取物語』に酷似し、『竹取物語』の元になったとまで言わぬにしても、その母胎となった作品と深くかかわり、その面影をそのままに伝えているということなのである。
まず、内容を少しくわしく紹介しておこう。
 揚子江の上流に当たる金沙江流域、気候はきわめて温暖で、幾種類もの竹が繁茂している。そこに貧しい母と子が住み、わずかばかりの竹薮をたいせつに守り育てている。ところが、領主はきわめて強欲で、村民の育てている竹を筍(たけのこ)のうちに安価に買いたたき、みずからの権力でそれを村民に世話をさせ、大きくなるまで育てさせて売りさばいてしまう。少年は自分が愛する竹薮の竹が、領主によって売られてしまうことを悲しみ、竹薮へやってきて涙を流すのだが、その涙が美しい斑(まだら)の竹になる不思議が起こる。少年はその斑竹が切られて、運び出される途中にこれを隠し、あとでさがしに来ると、隠しておいた竹の中から泣き声がする。不思議に思って竹を割ると、かわいい女の子がそこにいるではないか。しかも、見ているうちに成長する。ひの娘を家に住まわせ、楽しく過ごしていたが、やがて母子は結婚を申しこむ。娘は三年間待ってほしいとたのむ。
 以上は、竹の中から女の子が生れたという点において、「竹取物語」と類似しているのであるが、これはいわばプロローグに過ぎず、以下につづく求婚譚の酷似ぶりにくらべれば、この程度の類似はまったく物の数ではない。
 ひの竹娘に対して、『竹取物語』と同様に五人の求婚者が登場し、娘はその五人に対して、かぐや姫がしたように難題を提示するという展開の類似にまず驚くのだが、その難題が
  @撞(つ)いても割れない金の鐘
  A打っても砕けぬ玉の樹
  B火に燃えぬ火鼠の皮衣
  C燕(つばくらめ)の巣にある金の卵
  D海龍のあごの下の珠
であってBとDが『竹取物語』の場合とまったく同じであるほか、Aは蓬莱の玉の枝と関係がありそうだし、Cの燕の金の卵は、『竹取物語』の燕の巣にある子安貝とかかわるものであること疑うべくもないのであるが、全体のストーリーの展開においても、両者の近似は、まったくどうしようもないほどなのである。
 まず、第一の求婚者は領主の息子であるが、1はじめから、できそうもないことはしない男である。撞いても割れない金の鐘を、2三年のあいだにさがしてくるように竹娘に要求されて、ビルマの辺境までやってきたが、得ることができずに、3深い山の廟から銅の釣鐘を盗み出して金メッキをほどこす。これを竹娘の前に持参して苦心のほどを語り、その釣鐘をつこうとすると、金箔がはげ落ちて大きな穴があく。男はさすがに恥じて逃げ出してしまうという話だが、太字1の部分は『竹取物語』の第一の求婚者石作皇子が、「心のしたくある人」と記されているのと同じであり、太字2と3の部分は「仏の御石の鉢」など「百千万里のほど行きたりとも」取れるはずがないと思って、「三年ぱかり」「大和の国十市(とをち)の郡(こほり)にある山寺に賓頭廬(びんづる)の前なる鉢のひた黒に墨つきたるを」取ってきたというのに似ている。
 さらに、銅の鐘に金メッキをほどこしたというのも、『竹取物語』で鉢を本物らしく見せるために、「錦の袋に入れて」持参したというのと同じであるし、やっと竹娘の前に持ってきた釣鐘をつくと、金箔がはげ落ちて大きな穴があいたというのも、仏の御石の鉢なら光が見えるはずなのに、まったく光らなかったから贋物であると露見してしまった『竹取物語』の場合と同じである。
 つぎに第二の求婚者は商人の息子、打っても砕けぬ玉の樹を通天河まで取りに行くと嘘をつくのも、玉の枝を取りに行くと思わせて難波から船出する『竹取物語』の車持皇子(くらもちのみこ)と同じである。そして、漢人の名彫刻師数人に依頼して碧緑の宝石を、あたかも通天河に萌える玉の枝であるかのように刻ませて、竹娘の前に持参して、創作した苦労談を自慢たらたらに聞かせるのも、当時一流といわれていた鍛冶匠(かじたくみ)六人を使って玉の枝をつくらせ、蓬莱から苦労して持ち帰ったかのように創作した苦労話をとくとくと語る『竹取物語』の場合と同じである。そしてまた、その苦労話に感じ入って本物かと思うのも、『竹取物語』の「我は皇子に負けぬべし」とかぐや姫が思うのと同じであるし、そのようすを見て「してやったり」と思うのも車持皇子と同じであるが、さらにおどろくべきことは、碧玉を細工した彫刻師たちが商人の息子の前にあらわれ出て、謝礼をくれなかったことを非難するというにおよんでは、鍛冶匠六人が連なってやってきて、「禄いまだ賜はらず」と請求する『竹取物語』り場合とあまりにも合致しすぎていて、どうしようもない感じさえするのである。
 第三の求婚者は役人の息子。三年のうちに燃えない火鼠の皮衣を持参するよう竹娘にいわれたのが『竹取物語』の阿倍右大臣とまったく同じであることにまずおどろくのだが、チベットから四川。さらに北京までさがし求めたすえ
ソンパンの山深い古廟にあることをやっと知り得て、求めて女の前に持参し、本物の皮衣だから火の中に入れても燃えぬはずだと火中に投げ込むと、何とメラメラと全部燃えてしまったというのも、ソンパンの山深い古廟というのが、『竹取物語』では、「西の山寺」となっていてわずかにちがう程度で、他はまったく同じと言いきってよいほど近似しているのである。
 第四の求婚者は傲慢な若者である。燕の巣の中にある金の卵を、三年のうちにさがし出して持ってくるようにと竹娘に難題を出されて、手下とともに燕が軒下にかけた巣を片っぱしからこわしてまわるほどに精を出してさがしたが、金の卵は見つからない。その乱暴を見かねたのか、ある少年が「山上の高楼の上に金の卵がある」と教えるというのも、『竹取物語』において石上中納言が「家に使はるる男ども」を動員して燕の子安貝を強引に探索するが見つからないでいたとき、ある人が、「大炊寮(おほゐのつかさ)の飯炊(いひかし)く屋の棟」にある燕の巣の中に子安貝があると教えるのと同じである。
 さて、百八丈(約324m)もある高楼の梁を利用して吊り上げられた若者は、逃げる燕をつかまえようとして果たさず、まっさかさまに落下して絶命してしまうのだが、これも中納言がみずから粗籠「(あらこ)編み目のあらい籠」に乗って吊り上げられ子安貝を取ろうとしたとき、あやまってのけざまに落ちてしまい、結局は死に至るというのとまったく同じなのである。
第五の求婚者は臆病で法螺吹きの少年であった。三年のあいだに、海龍のあごの下の珠を取ってくるようにと竹娘にいわれて、『竹取物語』の大伴大納言の場合とまったく同様に、家来に金銀槍などを与えて海へ送り出す。しかし、家来たちは要領よく、金銀などをもらっただけで、家族を引きつれてひそかにゆくえをくらましてしまうのだが、この点も『竹取物語』と同じである。さらにいつになっても家来たちの消息がないのにいたたまれなくなって、自分自身で海上に漕ぎ出すのだが、嵐になって船は浪にもまれて、内臓が空になるほど吐くというのも、「青反吐をつきたまふ」と記されていた『竹取物語』の場合と同じであるし、七日目に人影のない南海の孤島にうちあげられたのも、南海の孤島にうちあげられたと思ったら播磨の明石海岸であったという『竹取物語』の大伴大納言の場合と酷似しているのである。
以上見て来たように、第五求婚者と第四求婚者の配列が『竹取物語』の場合と入れかわっているということのほかは、五人の求婚者は、もはやだれも否定することができないかに思われるのである。
 ところで、前述の三氏も、この中国西南部カム地方の民話がそのまま『竹取物語』の典拠になったと言っているわけではない。「斑竹姑娘」の話は、この山奥のオリジナルな伝承ではなく、中国中央部の話だったのだが、それがいっぽうではこのカム地方に伝わり、いっぽうでは日本に伝わって『竹取物語』になったと考えられておられるようである。しかし、そのようにみた場合、この両話があまりにも酷似していることに、むしろ疑問をいだかざるを得ないのである。一つの源から発したものであっても、海を渡り、日本語に書き換えられ、さらに1000年以上も伝承されてきたわが『竹取物語』と、同じ中国とはいえ北京をへだてることあまりにも遠いカム地方、しかも今もチベット族が語っているという民間伝承「斑竹姑娘」が、これほどまでに酷似していてよいのだろうか、疑問をいだかないほうがおかしいと私には思われるのである。第四の求婚者の少年が権力者でないのに金銀や刀槍を与えて次々と家来を派遣するのもおかしいし、海のない地方に海龍を探しに行く話があるのも不思議である。また、六朝時代の神仙思想の書物に見える火鼠の皮衣がこんな地方の民間伝承に用いられているのも不思議である。
 そして、以上に述べて来たように、『竹取物語』の成立を重層的にとらえ、千年以上も前からすこしずつ語り換えられながら伝承されて来たと見る限り、せっかくの興味深い説ながら、否定的にならざるを得ないのである。最近、大橋清秀氏(「斑竹姑娘と竹取物語」『日本文学の重層性』昭和55年、桜楓社)や安藤重和氏(「斑竹姑娘考ー竹取物語との先後をめぐって」『古代文化』34巻7号、昭和57年7月)の反論が出ているように、河口慧海以後、チベット地方へはねかなりの数の日本人が入っているので、これらの人々から伝えられた我が『竹取物語』の求婚譚が、かの地の『斑竹姑娘』の話の後半に加えられたと見るほうが、よほど自然であると私には思われるのである。


※竹取物語は平安時代に作られたが一時代前の藤原時代を背景にしている。(大和国、今の桜井市)

taketorimonogatari1.htmlへのリンク…竹取の翁の紹介とかぐや姫の出生

taketorimonogatari2.htmlへのリンク…五人の求婚者と難題の提示

taketorimonogatari3.htmlへのリンク…石作の皇子と仏の御石の鉢

taketorimonogatari4.htmlへのリンク…くらもちの皇子と蓬莱の玉の枝

taketorimonogatari5.htmlへのリンク…阿部の右大臣と火鼠の皮衣

taketorimonogatari6.htmlへのリンク…大伴の大納言と龍の頸の玉

taketorimonogatari7.htmlへのリンク…石上の中納言と燕の子安貝

taketorimonogatari8.htmlへのリンク…御狩の御幸

taketorimonogatari9.htmlへのリンク…かぐや姫の昇天

taketorimonogatari10.htmlへのリンク…富士の煙の由来